それからも、二人は地道に夏葉のやりたかったことを叶えていく。徐々に季節は移ろい、気温も上がって半袖の制服を着る日が急に増えてきた。

 夏葉が食べてみたいと言っていた季節限定のパフェも食べたし、行ってみたいと書いてあった立ち入り禁止の学校の屋上にも忍び込んだ。そのあと、二人で先生にこっぴどく叱られたけれど、それだっていい思い出になるのかもしれない。夏葉の願いを通して、美海と旭、二人だけの思い出がどんどん増えていく。トークアプリのアルバムには二人の写真も多くなっていった。夏葉のやりたかったことを叶えている時じゃなくて、日常の些細な写真も。登校している美海の後ろ姿、旭がお弁当を食べているところ、電車で転寝をしている美海、子供みたいにはしゃぐ旭。二人で冗談を言い合いながら思い出を積み重ねる。一緒に過ごして、楽しいと思える時間が増えていく。

 美海は寝る前、それらの写真を振り返るのが日課になっていった。初めはぎこちなかった笑顔が、どんどん柔らかなものに変わっていく。自分はこんな風に笑っていたんだ、と新たな発見もある。そして、写真を見返すたびに旭に会うのが楽しみになっていく。早く会って、また夏葉のやりたかったことを叶えて、そしてまた二人で楽しいことをしていきたい。そう思いながら、美海は持っていたスマートフォンの電源を落とした。そして、ベッドサイドに置かれている夏葉のノートの上に乗せる。もう寝ようかとリモコンで部屋の電気を消してベッドの上で体の力を抜いたとき――まるで強く殴られたような痛みが急に現れて、美海の頭を襲った。

「――っ!」

 あまりの痛みに叫ぶこともできない。美海は頭を抑え、苦しむように藻掻いた。呼吸がどんどん浅くなっていき、目尻から涙が溢れだした。けれど、美海はあまりの痛みにそれらに気付いていない。まずは薬を……とリュックに手を伸ばそうとする。しかしベッドから手を伸ばしてもデスクに置きっぱなしのリュックには届かず、美海はベッドから落ちてしまう。真っ暗闇の中床にうずくまって痛みに耐えていると、遠くから騒々しい音が聞こえてきた。

「美海! 美海!」

 両親が美海の部屋に駆け込んできた。きっとベッドから落ちた音で気が付いてくれたのだろう。部屋の電気が付くのを見て「助かった」と美海は体の力を抜いた。父が倒れ込んだ美海の体を抱き起し、一度部屋から出て行った母は水と薬を持って戻ってきてくれた。

「ゆっくり飲むのよ、ゆっくりね」

 言われた通りゆっくりと、でも早く効いてほしいからなるべく早く。痛み止めの薬と一緒にコップ一杯分の水を飲む。痛みはすぐ消えるわけじゃないし、最近はなんだか薬の効きが悪い気がする。痛みがなくなるまでの間、お父さんは美海を抱きしめてくれていたし、お母さんはずっと美海の手を握ってくれていた。ふたりのぬくもりのおかげか、先ほどに比べると体は少しだけ楽になった。

「ありがとう、お母さん、お父さん」

 どれほどの時間が経っただろう? ようやっと喋ることができるくらい痛みが減ってきた。それでもまだ痛くて、美海はおでこのあたりを押さえる。父は美海の体を支えながら、ゆっくりとベッドに寝かせた。

「大丈夫かしら……これ、一番強い鎮痛剤のはずなのに、ちゃんと効いているの?」
「美海が不安になるようなことは言うな。美海、もう少し水、飲むか?」
「……うん」

 今度は父がキッチンに向かう。美海はまだ母に手を握られたままだった。心配そうに美海の顔を覗き込む。

「……大丈夫よ、すぐに良くなるから。今度病院に行ったとき、もっとすぐ効く薬がないか、先生に聞いてみるからね」
「うん」
「学校用の薬、まだある? ちょっと見せてね」

 学校でも何度か薬を飲んだことを思い出す。旭にバレないようにこっそり痛みに耐えようとしても、彼はすぐに気づいて美海に薬を差し出してくれた。母は鎮痛剤の数が好くなっていることに気付き、美海のポーチに薬を追加してくれた。それを見ながら、美海はため息をついた。薬の効きが悪くなっていることにお母さんも気づいているだろう。どうしてこんなに頭痛が頻発するのか、薬が効かなくなってきたのか。現実が少しずつ、美海を打ちのめそうと近づいてくる。
 旭との楽しい時間を過ごすたびに、頭が痛いと思う回数も増えてきた。初めの頃は薬を飲んで少し休めばすぐに良くなったのに、最近では薬の効果を実感するまで時間がかかるようになっていった。美海が頭を抑えるたびに、両親だけじゃなくて旭もとても心配する。不安そうに眉をしかめて、何度も名前を呼ぶ。その表情を見ていると心までも痛みを感じるようになっていった。あまりみんなに迷惑をかけたくないのに……心配ばかりかけて、申し訳ないという気持ちが先立つ。

「美海、水だよ」
「起き上がれる? 大丈夫?」
「うん、ありがとう」

 勢いよく水を飲み干すと、少しだけ気分が良くなっていく気がした。

「今日はもう寝ましょう。心配だから、お母さんも美海の部屋で寝ていい?」
「うん」
「布団、持ってきてあげよう。水と薬も」
「あ、お父さん。スマホの充電器も取って欲しいんだけど」
「スマホ? 分かったよ。……美海、このノートも仕舞っておいたほうがいいんじゃないか? 大事な物なんだろう?」
「ノート……」

 父から渡されるノート。美海はそれを開いてぼんやりとした眼差しで見つめた。頭の中がなんだかはっきりしなくて、目の前の情報を上手く頭が処理してくれない。けれど、今の美海にも一つだけわかることがあった。

「これ、誰のやりたいことリスト? 私のじゃない……間違って持ってきちゃったのかな?」

 美海のその言葉を聞いた両親の顔が、一気に青ざめていった。

「美海! これは夏葉君のノートでしょ!?」

 母の声はもはや叫び声だった。父もショックを受けたように、口元を手で押さえている。美海は初め、母が何を言っているのかもどうして父がそんなに震えているのかもわからなかった。慌ててもう一度ノートを見ると、頭の中に広がっていた靄のようなものが一気に晴れていくような気がした。

「……これ、夏葉の字……?」
「そう、夏葉君の! 旭君がくれたって、前に美海が教えてくれたじゃない……どうして、どうしてわからなくなっちゃうの……」

 母にはそのつもりがなくても、美海は自分が責められているような気がしてならなかった。主治医の話を思い出す。症状が進むにつれて、忘れっぽくなったり記憶が無くなってしまうこともある……そんな説明をしていたっけ。美海はゆっくりと起き上がった。顔を手で覆って泣いている母と、狼狽えている父に向かって、ノートを抱きしめながら美海は口を開いた。

「ねえ……病院、行った方がいいよね。すぐにでも」

 今、自分はどんな状態なのか。これからどうなっていくのか……それを知るのは震えあがるくらい怖い。けれど、どれだけ自分に時間が残されているのか。夏葉の願いを全て叶えることができるのか。少しでもいいからそれを知りたい。両親は顔を見合わせて頷いた。

「明日の朝、病院があいたらすぐに受診しましょう。お母さん、電話しておくから」
「うん」
「お父さんも仕事休むよ。車で行こう」
「……学校にも休むって連絡しておかないとね。旭にも」

 旭には明日の朝にでもメッセージを送っておこう。美海はまたベッドに横になって、今度こそ眠ろうと目を閉じた。