美海も教室を飛び出す。廊下を駆け抜ける旭の姿はみるみるうちに小さくなっていて、美海も急いで彼の背中を追った。旭は走って走って……初めて美海に夏葉の話をした裏庭まで来ていた。苦しいのか胸元を押さえてうずくまる。
「旭!」
美海も息が切れていたけれど、それに構わず旭に駆け寄る。旭の呼吸はとても苦しそうで、尋常じゃない汗が流れている。美海がどうしようと戸惑っていると、旭は美海の手を取った。汗ばんでいるのに指先はとても冷たい。まるで血が通っていないみたいだった。
「ご、ごめん……」
息も絶え絶えで、何を話しているか耳を澄まさないと聞き取れなかった。小さく短い言葉で彼は何度も謝っている。美海はポケットからハンカチを取り出して、旭のおでこを伝う汗をぬぐった。
「……旭は、私の代わりに怒ってくれたんだよね?」
美海は旭の背中に手を添えて、早く落ち着くようにと願いを込めるように背中を撫でる。胸を押さえて、時折うめくような声を上げる旭。
「ちがう、違うよ……美海。俺は……美海のために怒ったんじゃない」
旭は大きく息を吐きだす。
「ただ、俺がイライラしすぎただけなんだ。あんな戯言、無視しておけば良かったのに……」
「どうして……?」
どうして旭が、野乃花のあの言葉に苛立ったのか。美海は聞こうかどうか迷って、口を閉ざしてしまった。彼が言いたくないなら、無理に聞き出すのは申し訳ないと思ったのか背中を撫でる手が止まる。美海の迷いに気付いた旭。今は自分の話をしなきゃだめだと震える口で言葉を紡ぐ。
「俺もさ、入院してたんだ。美海と夏葉とは違う病気だったけど、ずっと病院で過ごしてた」
「……え」
なんとなく、そんな気がしていた。けれど、旭が今話してくれるとは思わなかった美海。心の準備ができていなくて、相槌を打つことしかできなかった。
「……治療することもままならなくって。そこで転院してきた夏葉と会って、俺らは友達になってさ……」
旭は目を閉じる。初めて夏葉に会ったときのことを思い出そうとしていた。ふさぎ込んでいた自分の心の扉をいとも簡単に開いた夏葉。初めてできた同い年の友達、明日も知れぬ生活を送っていた二人。
「でも、夏葉は死んで……俺は病気を治すことができた。でも、心にぽっかり穴が開いたままなんだよな、夏葉がいなくなったってこと、俺だってまだ受け止めきれていない」
美海も同じだった。溜まらなくなって、旭の背中に飛びついた。彼のお腹に手を回して、ぎゅっと抱きしめる。旭は美海の白い手に大きな手のひらを乗せた。美海の手は温かくて、心まで凍えていた旭を温めてくれる。
「みんな、大切な人を失ったことがないんだ。だから、簡単に『死ね』とか『死ぬ』とかいうけれど、俺……そういう奴、大嫌いだ」
「……うん」
「命って、想像している以上に重たくって……。残される方だってしんどいんだ、どうして夏葉が死んで、俺は生きていて……美海だって……」
「うん、旭、大丈夫だよ」
美海は震える旭の背中に何度も「大丈夫」と語り掛けた。何が大丈夫なのか、美海にも分かっていない。彼が言っている通り、美海だってそう遠くない未来、夏葉の元へ旅立つことが分かっている。旭をこの世界に置き去りにして。その時旭が感じるであろう痛みを少しでも軽くしてあげたくて、さらに強く抱きしめた。
けれど、美海は気づいていない。彼女が寄り添えば寄り添うほど、彼の中の美海の存在が大きく膨らんでいってしまうことに。旭は美海の手に触れて、この体温が失われる日のことを想像してしまう。旭にとっての大切な存在は、夏葉だけじゃない。美海のことだって夏葉と同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上にかけがえのない存在だった。夏葉と美海の願いを叶えることが旭の生きがいだったのだから。ぎゅっと目を閉じると、涙がふたつ、まるで隕石みたいに地面に落ちていった。涙は足もとを濡らしていく。
「でも、私は……嬉しかったよ。旭が佐原さんに言い返してくれて。ビンタは少しやりすぎかなって思ったけど。でも、旭が私のために怒ってくれたこと、私は絶対に忘れないよ」
どうして彼はここまで自分のためにいろいろと尽くしてくれるのだろう? ほんの少しだけ彼の過去を知ることはできたけれど、彼が自分の生活を全て使ってまで美海に寄り添ってくれる理由は分からないまま。でも、それでもいいと美海は思った。今、彼と一緒にいる時間が何よりも大切なのだから。美海は旭の背中に頬を付ける。心臓の音が聞こえる。秒針のように早く脈打っていた心臓は、少しずつ凪いでいく。その音を聞いていると、美海は不思議と穏やかになっていった。