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「……あれ?」
ある日、次の授業の準備をしていた美海はある異変に気付いた。机の中に手を入れて教科書を出そうとするけれど、次の授業で使うはずの教科書が見つからない。リュックの中を見ても、教室の後方にあるロッカーの中を見ても教科書はなかった。忘れてきたのかもしれない、と不安になってくる。病気の症状が出て、使うはずの教科書を持ってくるのを忘れてしまって……しかし、美海はそんな不安を振り払うように首を横に振った。いや、寝る前にしっかりと翌日の時間割と教科書がちゃんと入っているかを確認したはず。それはちゃんと覚えている、なら、教科書はどこに……? もうすぐ次の授業の予鈴が鳴り始めそうだった。困惑してうろうろと自分の席とロッカーを行き来していると、旭が美海の手首を掴んだ。
「美海、どうかした?」
彼女の表情が真っ青になっていることに、旭はすぐに気づいた。
「教科書が見つからなくって……どうしよう、旭」
美海が不安そうに表情を曇らせているのを見て、旭は夏葉のことを思い出していた。彼の病気が進行した姿を……それを振り払うように、美海を勇気づけるように肩を掴んで、まずは美海を自身の席に座らせた。
「今日は俺の貸してやるから」
「でも、それじゃ旭は……」
「俺はどうにかなるよ。はい、美海」
旭は美海に教科書を渡してから、クラスメイトの男子に話しかけに行った。二人は教室の外に出て、戻ってきたとき旭の手には教科書が握られている。
「またなんかあったら頼ってよ、池光」
「ありがとう、助かったよ」
旭が席に戻ってくる。
「どうしたの、それ?」
「あぁ。彼に頼んだんだ。教科書を忘れたから他のクラスで貸してくれる人がいないか、もしいたら紹介してほしいって」
快く貸してくれる人がいて助かった、と笑いながら話す旭。
「俺の方もこれで問題ないだろ? だから、安心して授業受けな」
「う、うん……」
「美海はちゃんと持ってきたんだろ? 次の授業終わったら昼休みだから、一緒に探そう」
心強い旭の言葉に頷く美海。予鈴が鳴り、先生が入ってくる。旭は最後に美海を勇気づけるみたいに、後ろから肩をぽんぽんと叩く。美海は大きな深呼吸を繰り返して、まずは授業に集中することにした。まだ不安はぬぐえない、自分の勘違いであってほしい。そう願っている内に授業は終わっていた。手も止まっていたからノートも真っ白だった。
「美海、俺、先に教科書返してくるからちょっと待ってて」
「うん。あ、ありがとう。旭の教科書はどうしたら……」
「俺のバッグに入れておいて」
言われた通り、旭のバッグに教科書を戻す。教科書を返すために出ていった旭が教室に戻ってくる前に、美海はもう一度リュックの中を漁る。どれだけ探しても、クリアファイルやお弁当、それと薬くらいしか入っていない。ロッカーを見ようと席を立った時、大きな音を立てて美海の近くにある扉が開いた。バンッという強い音が教室中に響き渡り、クラスメイトは驚いて開いたばかりのドアを見ていた。美海もその一人で、席に座りながら呆然と――その音と一緒に現れた旭を見ていた。
「あ、旭?」
どうしたの? と声をかけるより先に、旭が美海の手を掴んで教室の外へと連れていく。美海は困惑したまま、廊下にあるごみ箱の前に立たされた。旭はゴミ箱の中に手を突っ込む。
「何、どうしたの?」
「これ……!」
ゴミ箱の中か一冊の本を取り出した。美海が失くしたと思っていた教科書だ、旭は裏面を確認する。美海の名前が書いてあった、正真正銘、美海の物だ。
「どうして美海の教科書がこんなところにあるんだよ……」
「わかんない……え? なんで……」
「美海は心当たり、ないんだよな?」
困惑したまま、何度も美海は頷く。目にはうっすらと涙が浮かび始めた。間違って自分で捨ててしまったのかもしれない、その記憶がないのかもしれない。美海は震え始める……気づかないうちに病気が進行しているのだと思ったら、怖くて仕方がない。旭は「大丈夫だから」と美海の手を握る。
「どうしたらいいんだろう……? まずは美海のお母さんに連絡するか? それとも、一応担任に連絡してからの方が……」
「どうしよう、旭……私、私の病気……」
「大丈夫だから! 美海は何も心配するな、まず教室に戻ってそれから考えよう」
旭は怯える美海の手を握りながら教室に戻る。旭だって不安だった。脳裏にはずっと、夏葉の姿が蘇っている。それを振り払うように目を強く瞑り、心の中で夏葉に語り掛ける。まだ夏葉の本当の願いを叶えていない、だから美海は連れて行かないで欲しい。それぞれが祈りながら教室に戻る。手を繋いで戻ってきた美海と旭を見て、クラスメイトは少し不思議そうな顔をしてから日常に戻っていく。しかし、その中で一部のグループが美海と旭の2人をじっと見ていることに気付いた。野乃花がいるグループだ。美海を指さして、クスクスと笑っている。その時、旭は彼女たちが美海に対して強い悪意を抱いていることに気付いた。旭は美海の手を放し、ズカズカと大股で歩み寄ってくる。
「お前らだろ?」
旭は野乃花に向かって、捨てられていた美海の教科書を突き付ける。野乃花は一瞬、旭の勢いに怯えるように顎を引いたけれど、すぐに姿勢を正す。
「何のこと? ねえ、知ってる?」
「う、ううん、知らない」
友人に話しかける野乃花。けれど、歯切れが悪いように美海には思えた。
「旭君だって転校してきたばっかりなのに、いちいちあの子の世話焼かなくたっていいんじゃない?」
「……は?」
「うちらが誘ったって一緒に遊んでくれないのに、青崎さんとは休みの日にまで会ってどっか行ってるんでしょ? 私はずっと誘ってるのに」
野乃花は美海を睨む。美海も負けじと強く睨み返そうとするけれど、野乃花の圧に負けてしまった。怯むように旭の影に逃げ込む。
「旭君が優しくするから、青崎さんも調子乗ってんじゃないの? 病気だか体が弱いだか知らないけどさ、優しくされてつけあがって、うちらのこと馬鹿にしてるんじゃないの?」
「そんなこと!」
美海は旭に隠れながら言い返す。でも……旭の厚意に甘えていたのは事実かもしれない。胸のあたりで手をぎゅっと握り合わせる。旭は美海を庇うように背中に隠そうとするけれど、野乃花が先に旭の腕を取った。
「うちらとも仲良くしよーよぉ。そんな、すぐにいなくなっちゃう奴じゃなくってさぁ」
野乃花の言葉を聞いた旭の体が一気に冷たくなっていったと思ったら、すぐに沸騰しそうなくらいの怒りが湧き上がってきた。堪えるように拳を握る、手のひらに爪が強く食い込む。肩が震える、頭に血がのぼって目の前が赤くなっていくような気がしてきた。
「……いなくなるって、どういうつもりで言ってんだよ」
旭の声がとても低く、周りにいた全員が彼が怒りで満ちていることが分かった。野乃花も怯えているけれど、今さら引っ込むこともできず声を張り上げようとする。けれど、その声は変にひっくり返ってしまった。
「だから、噂で聞いてるの! 青崎さん、どうせもうすぐ死ぬって!」
死ぬ。その言葉が聞こえた瞬間、旭は堪えることができなくてその手を大きく振り上げた。美海は叫ぶ。
「旭、ダメ!」
美海が止める声が聞こえてきたけれど、もうその手に込めた怒りを抑えることはできなかった。勢いよく振り下ろし、野乃花の頬を強く叩いていた。
「お前、ふざけたこと言ってんじゃねえぞ! 人が死ぬことを何だと思ってんだよ!」
怒りをむき出しにする旭、野乃花の襟のあたりにつかみかかって行こうとしている。美海は止めようと、何度もその名を叫んだ。
「旭! 旭っ!」
美海に自分の名前を呼ばれて、旭はやっと我に返った。呆然と自分の手を見つめる、手のひらはジンジンと痛み始める。叩かれた勢いで床に転んでしまった野乃花も、怯えたように旭を見つめていた。目には涙が滲み、口元も歪んでいた。教室中がしんと静まりかえり、旭と野乃花、そして美海に注目している。旭は居たたまれなくて、教室から飛び出していった。
「旭!」