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「美海―! 旭君来たわよ、早くしなさい」
「ちょっと待って!」
学校に行くときは、旭が美海の自宅まで迎えに来るようになった。この前の海の帰り、美海を家まで送ったときに覚えたらしい。すっかり美海の両親、特に母親からの信頼を得ている。
「旭君、昨日の写真、私にも送ってくれてありがとうね」
「いえいえ。俺、これくらいしかできないですし」
いつの間にやら、旭は美海の母と連絡先の交換していた。メッセージだけではなく、写真のやり取りまでしているらしい。美海はやれやれと肩を落としながら制服に身を包む。部屋の外からは二人の楽しそうな声が聞こえてきた。
「美海ってば、水族館に行くなんて一言も言ってなかったから。旭君に写真送ってもらって助かっちゃった」
美海は二人の話を遮るみたいに部屋から飛び出した。
「お母さんもいいから! ほら、早く行こう、旭」
「はいはい。それじゃ、美海のお母さん、また何かあったら連絡するんで」
「美海のこと、よろしくね。二人ともいってらっしゃい」
美海の母親に手を振る旭の脇腹のあたりを小突く。
「美海にも後で送っておくから、昨日の写真」
以前のようなよそよそしさや怯えはすっかり消え、美海と旭の距離はどんどん近くなっていった。夏葉のやりたいことリストを叶えるために、放課後や休みの日まで一緒に過ごしているのだから当然かもしれない。美海は昨日訪れた水族館を思い出そうとする。旭は「初めて来た」と、まるで海に行ったときのようにはしゃいでいた。夏葉が一緒に写真を撮りたいと話していた大きな魚の水槽の前、旭が美海にそこに立つように言い出した。
「やだよ、旭が撮ればいいじゃん」
「何恥ずかしがってるんだよ、美海」
「別に! 恥ずかしがってるわけじゃないです! でも、こんなところで一人で写真撮ってたら目立つじゃん」
「じゃあ、二人で撮ろうよ」
「え?」
旭はスマホのカメラをインカメラモードに切り替える。カメラを持った右腕を伸ばして、左手では美海の肩を抱き寄せる。まるで付き合っているカップルみたいな距離感、そっちの方が恥ずかしくて離れようとするけれど旭は拒む。
「ほら――の前で写真を撮る。夏葉のやりたいことなんだからじっとして」
スマホの画面を見る、シャッターの音が聞こえて……美海はふっと意識を現実に戻した。学校に向かう電車に揺られている自分、隣にはスマホをいじっている旭。
「あの、旭……」
「ん?」
「昨日の写真って……」
「あぁ。トークアプリでアルバム作っておいたから」
「あ、ありがとう……」
美海は慌てて写真を確認しようとする。だって、まさか、昨日の事なのに……どこで自分が写真を撮ったのか、思い出せなくなってしまった。ただの度忘れではない気がする、これは病気の症状だ。すっぽりとなくなった記憶を埋めるために早く写真を見ようとするけれど、指先が震えて上手く操作ができない。幸いなことに美海が動揺していることに旭はまだ気づいていない。彼を心配させる前に、早く――。
「いい写真だよな、それ」
「え? あ、うん、そうだね」
満面の笑みの旭、ぎこちなく笑っている美海。背後には、まるで空に飛んでいくみたいに上を見るマンボウの姿。そうだ、夏葉はマンボウと写真が撮りたいって書き残していたんだ。
「美海?」
じっとスマホを見つめている美海の異変に、旭が気づいた。美海は取り繕うようにまたぎこちなく笑った。
「今度の休みはどこに行こうか? あ! 夏葉が食べたいって言っていた季節限定のパフェ、もしかしたら始まってるかも」
「そうなの? じゃあ、早めに行っておいた方がいいな。いつにする」
二人はスケジュールを見合わせながら次の予定を立て始めた。よかった、彼にはまだ気づかれていない。昨日の出来事を忘れてしまったこと……症状が出始めていることに。美海はできる限り、そのことを隠そうと心に決めた。美海は今までに旭が撮ってくれた写真を見返す。初めは無表情だったのに、次第に笑顔になっていく自分の写真。旭と一緒に夏葉のやりたかったことを代わりに叶えていくこの時間が、美海にとってかけがえのないものになり始めていた。夏葉のためという名目で、今は美海自身が楽しんでいる。もし、美海の病状が進行していると誰かにバレたら、きっと心配性の両親によって病院に入院させられるに違いない。そうなったら、もう気軽に旭と一緒に出掛けることはなくなるだろう。カレンダーを見ながらあれこれと呟いている旭を見て、心の中で「どうかバレませんように」と繰り返し祈り続けた。
教室に着くと野乃花が旭に声をかけてくる。美海ではなく、旭に。美海は最初っから視界に入っていないみたいに、ぐっと押しのけられた。
「旭君、今日の放課後って暇だったりしない?」
旭の隣に立っている美海に、野乃花は背中を向けていた。彼女から嫌われていることをすでに感じ取っていた美海は、二人からそっと離れていく。余計な火の粉を浴びたくない。
「いつも誘ってくれてありがとう。でも、俺は美海と帰る約束してるし。なあ、美海」
「えぇ?!」
巻き込まないでよ! と心の中で叫ぶ美海。野乃花は美海を見て顔をしかめた。
「別に約束してるわけじゃ……」
「まあ、そういうことだから。ごめんね」
旭は当たり障りなく断っているつもりなのだろう。けれど、ずっと女子からの視線がちくちくと痛いくらいに刺さってくる。美海は小さな声で旭に話しかける。
「いいんだよ、私の事なんて。たまには別の子と遊んで来たらいいじゃん、せっかく誘ってくれているんだから」
「俺は夏葉の代わりに、美海のそばにいるって決めているから」
旭の頑なな態度に美海は盛大なため息をついた。そしてチラリと時間割を確認する。今日は体育がある日、この前のような嫌がらせをされたら……美海はがっくりと肩を落としていた。
体育の時間。今日は屋外でランニングをするということなので、美海は木陰で見学をしていた。準備体操を終えて、それぞれがグラウンドをゆっくり走り始めている。同じ動きをじっと見ているとなんだか眠くなってきた、あくびを噛み殺しながら体育の様子を見ていると……気づけば旭が近づいてきていた。
「サボり?」
「ん-、まあ、そんなところ」
「先生にすぐバレるよ」
旭は「その時は適当に謝るよ」と言いながら隣に座った。
「そういえば、この前もサボってたよね。あれは……バスケの試合のときだっけ?」
いや、それだけじゃない。美海はあることに気付く。体操や軽めな運動の時は張り切っている旭が、サッカーやバスケの試合、ジョギングのような持久力が必要になる運動になった瞬間休み始める。初めて会ったとき、美海を追いかけてきた旭は息を切らしていて、とても苦しそうに胸を押さえていた。
「もしかして、どっか悪いとか?」
「……えっ?」
「ほら、旭って体力ないっていうか……すぐ息を切らしてるイメージがあるっていうか」
「なんだよ、それ。気のせいだって」
旭ははぐらかすように「今日、寄り道して夏葉のやりたいことやっていこうよ」なんて違う話題を持ち出す。頭をよぎるある仮説、次第にそれを裏付けるような証拠が溜まっていくような気がした。すぐ息が切れて、持久力が必要な運動が苦手……そして、夏葉と旭はどこで出会ったのか。もう少しで、旭の正体に迫れそうな気がしてきた。もっと知りたい、その思いを加速させるように美海は頷く。
「じゃあ『ゲームセンターで散財してみたい』っていうのはどう?」
「あー、俺もそれ考えた。そうしようよ」
笑いながら放課後の予定を立てる二人。
それを見て、野乃花は足を止めてしまっていた。彼女の頭には「ずるい」という妬みの感情が渦巻く。しんどい体育をさぼっていてずるい、旭と仲良くてずるい、そんな風に一緒に笑っているのが自分だったらよかったのに……。一度渦巻いた真っ黒な気持ちは止まることなく、野乃花の心の中を同じように黒く染めていった。
放課後。美海と旭は家とは反対方向にあるショッピングモールに向かう。二人ともATMでお金を降ろしてからゲームセンターに向かった。
「何やる? 俺、こういう所来るの初めて」
「そういえば、旭と一緒にいろんなところに行ったけど、行くたびに『初めて』っていうこと多いよね」
海も、水族館も、ゲームセンターも。病院で過ごすことが多かった美海ですら行っているのに。
「まあ、俺のことはどうだっていいから。ほら、せっかく来たんだし二人でプリでも撮る?」
「それは絶対に嫌!」
プリントシール機を回避する美海。リズムゲームやクイズゲームもやってみたけれど、旭が一番ハマっていたのはUFOキャッチャーだった。あと一歩で手に入りそうなのに捕まえたぬいぐるみがアームからスルリと落ちて行ってしまうたびに、旭は頭を抱えて悔しがっていた。
「……だから、こんなに取らなくたって」
何度も悔しい思いをした旭は、いつの間にかすっかりUFOキャッチャーにハマった。その結果、美海の両手にはたくさんのぬいぐるみが抱えられていた。
「コツ掴めば簡単にゲットできるんだな」
幾度もプレイしている内に、ぬいぐるみを手に入れるコツを掴んだらしい旭。捕まえたぬいぐるみは全部美海に押し付けて、はしゃぎすぎて疲れたのか壁に寄り掛かった。少し旭の息が荒いことに気付く。
「ねえ、どっかで休んでいかない? 喉乾いちゃった」
旭、なんか辛そうだし、顔色悪いし。それは思ったけれど、口には出さないでいた。心配していることが彼にバレたら、平気な振りを装って彼が無理をするかもしれない。美海自身も似たような嘘をつくことがよくあるから、あえて心配していない振りをする。
「賛成」
ゲームセンターを離れて、近くにあったフルーツジュースのドリンクスタンドに向かう。平日だけど、そこは少し列ができていた。美海は並びながら、ドリンクスタンドの向かいにあるブライダル専門店が目に入った。
「美海、ほら、列進んでるよ」
「あ、ごめん」
ジュースよりも、何だかそちらのお店に意識が向いてしまう。ジュースを買った二人は、そのまま近くにあったベンチに座ってジュースを飲む。美海はさっさと飲み終えて、足がふらりと、ブライダル専門店の店頭に並んでいる指輪コーナーに向かっていた。
(……きれいだなぁ)
細い銀色の指輪、それにくっついているダイヤはまるで星みたいに輝いていた。美海は夏葉宛ての手紙に書いたことを思い出し、カァッと顔を熱くさせた。恥ずかしいけれど……大好きな人からこんなにキレイな指輪を送ってもらえる人生だったら良かったな。美海は深く息を吐く。美海が大好きだった夏葉はもういないし、これからの美海の人生で、こんな指輪を贈ってくれる人が現れるチャンスももうないだろう。ため息をついた後で、小さく笑う。
「美海、荷物置きっぱなしでどっか行くなよ。危ないだろ」
ぬいぐるみがたくさん詰め込まれた袋とリュックを持って旭が追いかけてきた。
「ごめん、ありがとう」
さっきと比べて、旭の顔色はとても良くなっていた。休憩して良かった、と美海は思う。
「何、指輪欲しいの?」
「……見てただけ」
「美海は、こういうのプレゼントされたら嬉しい?」
旭は美海が一番きれいだと思っていた指輪を指さす。美海はプイッと横を向いた。
「知らない」
「……俺がプレゼントしてあげたら、美海は喜ぶ?」
「はぁ? 急に何言ってんの? 誰がアンタになんか! それに、すっごい高いんだよ、こういう指輪は! こういうのは、とても大切なものだし……」
美海が使うあてもなく貯金してきたお年玉の総額でも買えなさそうな金額だ。それに、これはカジュアルなファッションリングとは違う。これは、かけがえのない相手と共に死ぬまで生きていくと誓った証。軽々しく「プレゼントしてあげたら」なんて言われると無性に腹が立ってくる。美海がぷりぷりと怒っている横で、旭はじっと指輪を見つめていた。