「文也くん、大丈夫!? めっちゃ言われてたけど……」
「そう言われても、僕はたぶんクラスラインに入っていないと思う」
「あ、そう言えばそうだったね……。私の画面見る?」
「せっかくだし、見ようかな」

 詩音さんが僕に見せてくれた画面には、一般人が考えつきそうな悪口が一通りずらりと並んでいて、予期できていたことだけど胸を衝かれてしまう。

 ああ、やっぱり僕は「徹底的に潰される」んだな。

「文也くん!」
「ごめん。なんだって?」
「大丈夫? ちょっと暗い顔してるけど……」

 僕は大丈夫だ。そう言いたいのに、言葉が出てこない。

 喉が掠れて、目が熱い。

「……文也くん、泣いてる、の?」

 そうか、僕は今泣いているのか。

 その事実を、僕は案外すんなりと受け止めた。

 くすくすと周りのクラスメイトたちが笑う声に交じって、詩音さんが僕を心配する声が聞こえる。

「文也くん、ちょっと場所移動しようか」

 僕はクラスメイトたちにいじめられて泣いているのだろうか。

 それとも、詩音さんの優しさに包まれたから泣いているのだろうか。

 俯いて考えながら詩音さんに背中を押されて教室を出る。

「文也くん、辛い?」
「まあ、辛くないわけじゃないんだけど……その所為で泣いてるかって言われたら、たぶんそうじゃない」

 僕の想像よりも随分冷静な声が出た。

 冷静さは涙とは違って流れて落ちていなかったらしい。

「じゃあ、どうして?」
「詩音さんが、ここまで優しくしてくれるのが嬉しいんだ。これまでの僕は、家族ですら自分の味方だと思うことができなかったけど、詩音さんはそうじゃない。詩音さんは、明確に味方だって認識できる」

 詩音さんは面食らったような表情をした。

 僕の初めての味方だというのがそれほど意外だったのだろうか。

「そっか。ごめんね。ありがとう」
「詩音さんが謝る必要はないよ。もとはといえばクラスメイトたちが悪いんだから」

 涙は既に収まっていた。というよりも詩音さんが収めてくれたというのが正しいだろう。

 詩音さんがいなければこんな状況に陥ることは無かったかもしれない。

 しかし、それでは一歩たりとも前に進めなかっただろうし、小説も今ほど良いものにはならなかったかもしれない。

 そこまで考えると、詩音さんと出会えて本当に良かった。

 クラスラインでは、春香さんを筆頭に「詩音と出会わなければ良かったのに」なんて言葉を見かけたが、全然そんなことはない。

 僕のことを中傷しているのは僕のことなんて欠片もわかっていない人なんだと思うと、少し気分が軽くなる。

「本当にごめんね、そもそもあの人たちと文也くんの間に繋がりを作ったのは私だから、全部私の所為だよ」
「詩音さんを拒絶しないことを選んだのは僕だ。詩音さんに責任があるとするなら、僕にも責任があって然るべきだと思う」

 僕はこんな風に責任を互いに自分に求めあうというのはあまり好きでないのだが、詩音さんの所為にするのはもっと嫌だ。

 だから、僕は責任を自らに着せる。

「でも――」
「僕は平気だ。それに、詩音さんと会えて幸せだと思ってる。僕が変わろうと思えたのも詩音さんのおかげだ。そのことを、詩音さんには知っておいてほしい」

 詩音さんはぱっと顔を明るくした。

 僕の言葉がそれほど嬉しかったのなら、それだけで僕も嬉しい。

「私も、文也くんと出会えて幸せだよ」

 その事実は薄々予想がついていたが、半信半疑でもあった。

 詩音さんは僕と出会うよりも前から多くのクラスメイトたちと仲良くしていて、僕のことなんて数多くいる友人の一人としか数えられていないんだと思っていた。

「文也くんのおかげで、私もちょっとだけ変われた。文也くんのおかげで、気づけたこともある」

 そんなことないんじゃないか。

 詩音さんがはっきりと言葉にしてくれているのに、僕の自信が無くてそう思う気持ちが拭い切れない。

 そんな僕の様子を見かねたのか、詩音さんはこちらに一歩踏み出した。

「文也くん」

 詩音さんの両手が僕の両頬を捉える。

 そのままむにーっと僕の頬を押しつぶした。

 しばらくして詩音さんは手を放す。

「詩音さん、なにしてるの?」
「文也くんがわかってない顔をしてたから、無理やりわからせようかと思って」

 無邪気な表情で笑う。

 無理やりわからせよう、という意図は春香さんたちとほとんど変わらないが、やっている手段に春香さんたちと詩音さんでは天と地ほどの差がある。

 そして、詩音さんが僕に触れてくれたことで少し安心して、ほっと息を吐いた。

 どうやら僕は知らぬ間に緊張していたらしい。

 それで、詩音さんが僕に触れてくれたことで普段よりも緊張の糸が解けたのか、普段なら絶対口にしないようなことを言ってしまう。

「詩音さんは……僕の傍にいてくれる?」

 実際のところ、物語の中でしか見聞きしたことが無かった「いじめ」というものの渦中にいるというのは少し恐ろしく、これから先が不安だったのかもしれない。

 そんな僕の言葉を聞いた詩音さんは、いつも通り、もしくはいつも以上に笑う。

「もちろん。文也くんが一番だよ」

 詩音さんの優しさが心地良くて、嬉しくてたまらなくて、僕はまた目が熱くなるのを感じる。

 この場には誰も僕のことを嗤うような人間はいない。僕のことを冷たい目で見るような人間はいない。

 詩音さんは優しい目でこちらを見ている。

 その目には、涙が滲んでいるようにも見える。

「文也くん、泣いちゃってるじゃん……」
「詩音さんの方こそ」

 僕と詩音さんが一通り涙を流し終わって教室に戻ると、教科担当の先生はもう教室に来て春香さんたちと談笑していて、時計を見ると授業はもうすぐ始まろうとしていた。

「あれ、七瀬はどうして上靴を履いていないんだ? 忘れたなら保健室に借りに行け」

 教科担当の言葉を聞いて春香さんを筆頭にクラスメイトたちのほとんどがひそひそと話をし始める。

 その様子を見た教科担当は少し眉を顰めたが、特に声をかけることもなく授業を始める。

「七瀬は今から上靴を取りに行け。望月と山咲はすぐ着席しろ」

 教科担当は詩音さんと春香さんに言った。

 春香さんの苗字はどうやら「山咲」だったらしい。

 教科担当に言われて堂々と無視しても面倒くさいことになるので、授業が潰れるならいいやと僕は一礼して廊下に出た。

 春香さんたちの笑い声が、廊下にまで反響していた。

 少しだけ惨めな気持ちになりながら、独り廊下を歩く。

 上靴を履いていないので、足音が鳴ったりはしない。

 窓から校舎裏を見ると、雨が降っている。

「あれ僕の上靴かも」

 よく見ると、自然溢れる草むらの中に明らかな人工物が埋まっているのが見える。

 それは僕の上靴と、僕の外靴だった。

 外靴まで捨てるとは、大した徹底ぶりだ。

 雨に濡れた靴は自然に馴染んでいるが、鑑賞している場合ではない。

 いくら僕といえども靴下で雨の中庭に出るのは少し不快なので、授業が終わったら詩音さんに取ってきてもらおう。

 そこでふと迷う。

 上靴が見つかったので、一時間の授業だけのために保健室へ上靴を借りに行くのは少し迷惑な気がする。それに面倒くさい。

 だが、このまま戻って教科担当に絡まれるのも厄介だ。

 まあいいや、教科担当にはちゃんと説明しよう。

 僕はのんびりと教室に戻る。

「七瀬、戻ってきたか……おい、上靴履いてないじゃないか」

 想像通り教科担当は僕が上靴を履いていないことを指摘し、その言葉を聞いたクラスメイトたちはまた笑い声をあげ、教科担当はまた眉を顰めた。

 僕は想定していた通りの問いに想定していた通りに回答する。

「上靴見つかったんで大丈夫です」
「見つかったなら履け」
「次に時間に取ってきます」

 物わかりの良い教師か、生徒に無関心な教師ならここで諦めてくれるだろうと思ったが、教科担当はその類の教師ではなかったようだった。

「今履いてなかったら意味ないだろう。授業の迷惑なので、今すぐに取って来い」
「じゃあ詩音さんを借りても良いですか」

 僕一人で冬の雨の中に上靴を取りに行くのはさすがに厳しいので、詩音さんを呼ぶ。

 詩音さんの方をちらりと見ると、突然呼ばれたことに驚いたのか、目を丸くしていた。

「一人で行けばいいだろう」
「雨の中、靴下で自然豊かな校舎裏を歩くのは嫌です」
「……外靴は?」
「外靴も校舎裏に落ちてたんで履けません」
「……望月、行ってやれ」

 どうやら教科担当はいじめについて関与するつもりはないらしかった。

 僕が同じ立場でもきっとそうするので、教科担当を責めることはできない。

 僕は詩音さんがこちらに歩いてくるのを見て、歩幅を合わせて教室を出た。

「いきなり呼ばれてびっくりしちゃったよ」

 足音を鳴らしながら隣を歩く詩音さんが言った。

「ごめん。このクラスで僕が話しかけられるのは詩音さんしかいないから、詩音さんに頼るしかなかった」
「頼られるのは単純に嬉しいんだけどね」
「これから詩音さんに、嬉しくないことを頼むかもしれない」

 雨が降ってどろどろになった地面を歩いて他人の靴と上靴を取りに行く、なんて僕には絶対にできない。

 だからこそ、他人に僕の上靴を取ってくれと頼むことは気が引ける。

「私にできることならなんでも頼っていいよ!」
「頼もしい。できればでいいんだけど、校舎裏に落ちているであろう僕の上靴と外靴を持ってきてほしいんだ」
「そのくらいなら、行くよ」

 彼女は僕が思っている何倍も優しいのかもしれない。

 もしくは、僕が思っている何倍も僕のことが好きか――考えかけてやめる。

 詩音さんの優しさが僕に向けたものだけだとは思わない。

「雨で地面がぬかるんでると思うけど、それでも行ってくれる?」
「もちろん。今から取ってくるからちょっと待ってね」

 昇降口に着いた僕たちは一旦立ち止まる。

 対して詩音さんは自分の白い靴を履いて傘を持って昇降口から出ていき、僕はその場で棒立ちする。

 詩音さんがいなくなると、雨を直接見に受けているわけでもないのに寒雨の冷たさが引き立って感じられる。

 こんな雨の中詩音さんを一人で外に行かせた僕は最低な人間なのかもしれない。僕は自己嫌悪した。

 冬の寒さが体温を奪い、無音の廊下が寂しく、詩音さんが帰ってくるのを待っている時間が永遠のように感じられる。

「文也くん、取ってきたよ!」
「詩音さん。ありがとう」
「でもこれ、泥だらけだから履くのはきつくない……?」

 詩音さんが差し出した現物を見ると、確かに上靴も外靴も中敷きまでぐしょぐしょに濡れていて、これを履くというのはさすがに不快だ。

「申し訳ないけど、僕は保健室に上靴を借りに行くから詩音さんは先に教室に戻っていいよ」
「いや、私も付き合うよ。教室の居心地あんまり良くないし」

 詩音さんも教室の居心地は良くないと感じていたらしい。

「皆して文也くんを嗤って、恥ずかしくないのかな」
「たぶん、あの人たちはマジョリティだから自分たちが正しいと思ってるんだよ」
「先生も、明らかにいじめなのに関わりたくないみたいな顔をして。いじめを止めるのも先生の仕事だと思うんだけど」
「仕方ない。僕だって、目の前でいじめが起きていたとして、止めようと踏み出せる自信はない」

 詩音さんは憤慨するが、僕は世の中がそんなに簡単なものではないとわかっているから、反論する。

 詩音さんは不服そうな表情にこそなったがそれ以上なにか言うことは無かった。

 心当たりがあったのか、どうやら僕の言葉に納得したらしかった。

 普段は僕が納得させられる側なのに、嫌なところで詩音さんを納得させてしまった、と思う。

 こんなことではなくて、前向きなことで詩音さんを納得させたかった。

 だがそんな僕の内心に触れることは無く、詩音さんは口を開く。

「もっと幸せな世界になればいいのに」

 それは無理だと思う一方で、詩音さんの考えに賛同してしまう僕もいる。

 僕だって下手に他人に気を遣って生きるのは嫌だ。

 自分が傷つかないために、「小説家になりたい」という夢を隠さなくちゃいけない世界に、できれば生まれたくはなかった。

「だからって、世界が変わるわけじゃない。だから、僕たちが変わるしかない」

 それは大げさな事実。

「そう、だよね……」

 彼女は悲しげな顔をした。

 あまりにも哲学的な問いと向き合っているうちに、僕と詩音さんは保健室に到着した。

 僕は少し無愛想ながらも保健室の先生から問題なく上靴を借りて履き、二人並んで教室へ歩いた。

 詩音さんの足から、そして僕の足からも足音が響いていた。