朝が来た。
憂鬱だ。
今日からクラスメイトたちに「徹底的に潰される」のだということを考えると、どうしてもベッドから出ようと思えない。
しかも、冬の早朝と言うことで寒さがベッドから出たくないという気持ちを助長する。
だが、これも僕が成長のに必要な一歩なんだと自分に言い聞かせて重い体を起こす。
なんとか起き上がった僕は、昨晩から机の上に出しっぱなしのパソコンに手を伸ばす。
それを通学鞄にしまい、嫌々ながら制服に着替えて部屋を出る。
「あら文也、今日はちょっと遅いわね。なにかあった?」
「いや、なにもない」
「ご飯できてるから食べたらもう家出ないと遅れるわよ」
「わかった」
母は僕を心配するが、僕はいつも通り素っ気ない返事をして机に向かう。
普段なら起きてすぐに食事をすることはなく、部屋にこもって朝の新鮮な気持ちでしばらく小説を書いてから家を出る。
しかし、今日はベッドでだらだらしすぎて、そんな時間はもうないらしかった。
だから、食事をかき込むように急いで食べて通学鞄を持ち、玄関に向かう。
「いってらっしゃい」
玄関までわざわざ出迎えに来てくれた母の言葉に無言で頷いて扉の鍵を開け、外に出る。
冬特有の寒さが僕の憂鬱な気持ちを膨れ上がらせる。
僕は「はあっ」と白い溜息を吐いた。
詩音さんと歩いていたときはこんな寒さも感じなかったのに、と思う。
果たしてこれは気温の問題なのか隣に詩音さんがいるかどうかの問題なのか、僕には判断がつかない。
詩音さんと別れてから家に帰るときの速さが嘘だったかのようにとぼとぼとゆっくり通学路を歩いて、駅で束の間の暖かさを味わう。
通り抜けが出来る駅構内を歩いて学校側に向かい、外へ一歩踏み出す。
「遅いよ、文也くん」
駅から外へ出た先にいたのは、僕の予想外の人物だった。
「どうして詩音さんがわざわざここまで?」
詩音さんの家は駅よりも学校側にあるので、ここまで来ようとすれば必然的に学校からは少し遠ざかることになる。
「そりゃあ、文也くんがちょっと心配だったから」
「一体僕のなにを心配したの?」
単純な疑問だった。
僕は詩音さんに「苦労している」とか「辛い」みたいな内容の話をしたことが無いはず。
それなら、どこから僕の感情を読み取ったのだろうか。
「顔見てればわかるよ。昨日教室の私に気づいてなかったときの文也くん、とんでもない表情してたよ。顔面蒼白なんて言葉じゃ言い足りないくらい」
「そ、そんなに?」
自分ではそんな表情をしているつもりは全くなかったのだが、そう簡単に表情とは変化するものなのだろうか。
「ちょっと前の文也くんは全然なに考えてるかわからなかったけど、最近の文也くんはもう全部お見通し。表情豊かになったよ、本当」
「なんて反応したらいいのかわかりづらいね、喜べばいいのかな?」
取るに足らない話題を、二人でうんうんと頭を捻りながら考える。
僕はそれが、ありふれたことだけど嬉しくてたまらなくて――。
だけどその時間が長く続くことはない。
僕たちは話しながら学校に着き、話しながら昇降口へ向かう。
「あ、上靴がない」
「え? 文也くん靴失くしたの?」
「そんなわけないよ」
さあ一体どうしてだろう、と考え込むふりをする。
実のところ、これはどうせ春香さん率いるクラスメイトたちの仕業に間違いないだろう。
幸い僕は、上靴がない程度で困るような人生は送っていないので、靴下のまま廊下に上がった。
「ちょっと文也くん!?」
「なに?」
「『なに?』じゃないよ! 上靴が無いなら保健室に寄るなりして借りた方が良いと思うけど……」
「いや、まあ無くても大丈夫でしょ」
これまでの長い学校生活の中で、僕は上靴が必要だと思ったことは無かった。
だが詩音さんの意見はどうやら違ったらしい。
「画鋲とか危ないもの踏んだらどうするの?」
「その質問は僕にとっては、『外出して車に轢かれたらどうするの?』という質問と同義に聞こえる」
人間の心配事が実際に起こる確率は、ある研究によればたった十三パーセントらしい。
この研究を完全に信じるわけではないが、この研究結果に則って考えるのであれば、僕が画鋲を踏む確率は決して高くないということになる。
まあ、今日から「徹底的に潰される」という心配に関しては、その十三パーセントを見事に引いてしまった所為でこんな状況に陥ってるんだけど。
「うーん、まあ無理強いするのも良くない……のかな? 足元には十分気を付けてね」
「うん、そうするよ」
わざわざ心配してくれたのに言い返す意味はないので、大人しく受け入れる。
詩音さんといたから、上靴が無くなったことはさして大事に感じられない。
これなら、耐えられるかもしれない。
この先なにが待ち受けているのか、いじめた経験もいじめられた経験も無い僕にはわからないが、詩音さんといればなんでも耐えられるんじゃないか。
そう思うほどに、僕は詩音さんに心を許していた。詩音さんを心の拠り所にしていた。
「皆おはよー!」
詩音さんは元気そうに挨拶をした。
春香さんは既に教室にいて、僕とは一瞬だけ目が合ったがすぐに逸らされた。
「詩音おはよ!」
詩音さんだけに挨拶をした春香さんを見て、詩音さんは言った。
「文也くんにも挨拶したら?」
もしかしたら春香さんは僕の存在を認識するつもりもないのかもしれないので、そんな言葉は無意味だと内心で思った。
「え? なんで七瀬?」
僕の予想とは違って、どうやら一応存在は認識されているらしかった。
しかし、詩音さんの言葉が無意味だったことに変わりはなかった。
「いや、一緒にいるのに挨拶しないのは失礼じゃない?」
「詩音さん、いいよ。僕は気にしてない」
詩音さんが僕のために無意味なことをするのは気分が良くなかったから、庇ってくれる気持ちは嬉しいが無理に庇うのは止める。
万が一にも詩音さんに標的が移ってしまいでもしたら、僕は悔やんでも悔やみきれないだろう。
「でも、これだと文也くんが無視されてるみたいで納得いかない……!」
「詩音さんの気遣いには感謝するけど、本当に大丈夫だから」
僕の言葉に、詩音さんは納得していない様子ながらも渋々と頷いた。
僕は自分の席に座る。隣の生徒から厳しい視線が送られるが、僕に関係のあることではないので気にせずいつも通りパソコンを開く。
隣の席のクラスメイトは、怪訝そうな顔で僕を見た。
この手法で行動が変化しなかった人はこれまで決して多くなかったのかもしれないが、僕はその程度のことに引っ張られるつもりはない。
パソコンを立ち上げているうちに詩音さんの方を見てみると、少し険しい顔つきをしながら楽しそうな春香さんたちと話していた。
パソコンが開いたのですぐにそちらへ視線を落とすが、ちらちらと詩音さんの方を見てしまう。
そして時々、こちらを見ている詩音さんと目が合う。
僕はその度に目を逸らして、執筆作業に戻る。
そんなことを繰り返しているうちに――。
「それじゃあ授業を始めるぞ。教科書開け」
僕は机の中を探る。
あー、無いなこれ。
教科書、机の中に入れといたのに。
ふとスマホを取り出している春香さんの姿が目に入る。
なにか打ち込んでいる様子だから、可能性としてはグループトークで僕について話している可能性を捨てきれない。
ここで僕について話されていると思い込むのは少し自意識過剰に思えるが、だからといって僕に「徹底的に潰す」なんて言っておいてなにもしないというのも想像がし難い。
そこで僕は、ちらりと詩音さんの方を見た。
詩音さんは不安げな表情でスマホに視線を落としていた。
先生は、そんな僕らにも気づかず普段通りに授業をしている。
憂鬱だ。
今日からクラスメイトたちに「徹底的に潰される」のだということを考えると、どうしてもベッドから出ようと思えない。
しかも、冬の早朝と言うことで寒さがベッドから出たくないという気持ちを助長する。
だが、これも僕が成長のに必要な一歩なんだと自分に言い聞かせて重い体を起こす。
なんとか起き上がった僕は、昨晩から机の上に出しっぱなしのパソコンに手を伸ばす。
それを通学鞄にしまい、嫌々ながら制服に着替えて部屋を出る。
「あら文也、今日はちょっと遅いわね。なにかあった?」
「いや、なにもない」
「ご飯できてるから食べたらもう家出ないと遅れるわよ」
「わかった」
母は僕を心配するが、僕はいつも通り素っ気ない返事をして机に向かう。
普段なら起きてすぐに食事をすることはなく、部屋にこもって朝の新鮮な気持ちでしばらく小説を書いてから家を出る。
しかし、今日はベッドでだらだらしすぎて、そんな時間はもうないらしかった。
だから、食事をかき込むように急いで食べて通学鞄を持ち、玄関に向かう。
「いってらっしゃい」
玄関までわざわざ出迎えに来てくれた母の言葉に無言で頷いて扉の鍵を開け、外に出る。
冬特有の寒さが僕の憂鬱な気持ちを膨れ上がらせる。
僕は「はあっ」と白い溜息を吐いた。
詩音さんと歩いていたときはこんな寒さも感じなかったのに、と思う。
果たしてこれは気温の問題なのか隣に詩音さんがいるかどうかの問題なのか、僕には判断がつかない。
詩音さんと別れてから家に帰るときの速さが嘘だったかのようにとぼとぼとゆっくり通学路を歩いて、駅で束の間の暖かさを味わう。
通り抜けが出来る駅構内を歩いて学校側に向かい、外へ一歩踏み出す。
「遅いよ、文也くん」
駅から外へ出た先にいたのは、僕の予想外の人物だった。
「どうして詩音さんがわざわざここまで?」
詩音さんの家は駅よりも学校側にあるので、ここまで来ようとすれば必然的に学校からは少し遠ざかることになる。
「そりゃあ、文也くんがちょっと心配だったから」
「一体僕のなにを心配したの?」
単純な疑問だった。
僕は詩音さんに「苦労している」とか「辛い」みたいな内容の話をしたことが無いはず。
それなら、どこから僕の感情を読み取ったのだろうか。
「顔見てればわかるよ。昨日教室の私に気づいてなかったときの文也くん、とんでもない表情してたよ。顔面蒼白なんて言葉じゃ言い足りないくらい」
「そ、そんなに?」
自分ではそんな表情をしているつもりは全くなかったのだが、そう簡単に表情とは変化するものなのだろうか。
「ちょっと前の文也くんは全然なに考えてるかわからなかったけど、最近の文也くんはもう全部お見通し。表情豊かになったよ、本当」
「なんて反応したらいいのかわかりづらいね、喜べばいいのかな?」
取るに足らない話題を、二人でうんうんと頭を捻りながら考える。
僕はそれが、ありふれたことだけど嬉しくてたまらなくて――。
だけどその時間が長く続くことはない。
僕たちは話しながら学校に着き、話しながら昇降口へ向かう。
「あ、上靴がない」
「え? 文也くん靴失くしたの?」
「そんなわけないよ」
さあ一体どうしてだろう、と考え込むふりをする。
実のところ、これはどうせ春香さん率いるクラスメイトたちの仕業に間違いないだろう。
幸い僕は、上靴がない程度で困るような人生は送っていないので、靴下のまま廊下に上がった。
「ちょっと文也くん!?」
「なに?」
「『なに?』じゃないよ! 上靴が無いなら保健室に寄るなりして借りた方が良いと思うけど……」
「いや、まあ無くても大丈夫でしょ」
これまでの長い学校生活の中で、僕は上靴が必要だと思ったことは無かった。
だが詩音さんの意見はどうやら違ったらしい。
「画鋲とか危ないもの踏んだらどうするの?」
「その質問は僕にとっては、『外出して車に轢かれたらどうするの?』という質問と同義に聞こえる」
人間の心配事が実際に起こる確率は、ある研究によればたった十三パーセントらしい。
この研究を完全に信じるわけではないが、この研究結果に則って考えるのであれば、僕が画鋲を踏む確率は決して高くないということになる。
まあ、今日から「徹底的に潰される」という心配に関しては、その十三パーセントを見事に引いてしまった所為でこんな状況に陥ってるんだけど。
「うーん、まあ無理強いするのも良くない……のかな? 足元には十分気を付けてね」
「うん、そうするよ」
わざわざ心配してくれたのに言い返す意味はないので、大人しく受け入れる。
詩音さんといたから、上靴が無くなったことはさして大事に感じられない。
これなら、耐えられるかもしれない。
この先なにが待ち受けているのか、いじめた経験もいじめられた経験も無い僕にはわからないが、詩音さんといればなんでも耐えられるんじゃないか。
そう思うほどに、僕は詩音さんに心を許していた。詩音さんを心の拠り所にしていた。
「皆おはよー!」
詩音さんは元気そうに挨拶をした。
春香さんは既に教室にいて、僕とは一瞬だけ目が合ったがすぐに逸らされた。
「詩音おはよ!」
詩音さんだけに挨拶をした春香さんを見て、詩音さんは言った。
「文也くんにも挨拶したら?」
もしかしたら春香さんは僕の存在を認識するつもりもないのかもしれないので、そんな言葉は無意味だと内心で思った。
「え? なんで七瀬?」
僕の予想とは違って、どうやら一応存在は認識されているらしかった。
しかし、詩音さんの言葉が無意味だったことに変わりはなかった。
「いや、一緒にいるのに挨拶しないのは失礼じゃない?」
「詩音さん、いいよ。僕は気にしてない」
詩音さんが僕のために無意味なことをするのは気分が良くなかったから、庇ってくれる気持ちは嬉しいが無理に庇うのは止める。
万が一にも詩音さんに標的が移ってしまいでもしたら、僕は悔やんでも悔やみきれないだろう。
「でも、これだと文也くんが無視されてるみたいで納得いかない……!」
「詩音さんの気遣いには感謝するけど、本当に大丈夫だから」
僕の言葉に、詩音さんは納得していない様子ながらも渋々と頷いた。
僕は自分の席に座る。隣の生徒から厳しい視線が送られるが、僕に関係のあることではないので気にせずいつも通りパソコンを開く。
隣の席のクラスメイトは、怪訝そうな顔で僕を見た。
この手法で行動が変化しなかった人はこれまで決して多くなかったのかもしれないが、僕はその程度のことに引っ張られるつもりはない。
パソコンを立ち上げているうちに詩音さんの方を見てみると、少し険しい顔つきをしながら楽しそうな春香さんたちと話していた。
パソコンが開いたのですぐにそちらへ視線を落とすが、ちらちらと詩音さんの方を見てしまう。
そして時々、こちらを見ている詩音さんと目が合う。
僕はその度に目を逸らして、執筆作業に戻る。
そんなことを繰り返しているうちに――。
「それじゃあ授業を始めるぞ。教科書開け」
僕は机の中を探る。
あー、無いなこれ。
教科書、机の中に入れといたのに。
ふとスマホを取り出している春香さんの姿が目に入る。
なにか打ち込んでいる様子だから、可能性としてはグループトークで僕について話している可能性を捨てきれない。
ここで僕について話されていると思い込むのは少し自意識過剰に思えるが、だからといって僕に「徹底的に潰す」なんて言っておいてなにもしないというのも想像がし難い。
そこで僕は、ちらりと詩音さんの方を見た。
詩音さんは不安げな表情でスマホに視線を落としていた。
先生は、そんな僕らにも気づかず普段通りに授業をしている。