かたかた、と詩音の部屋中にキーボードを叩く音だけが響く。

 手こそ執筆のためにしか動かしていない詩音だが、心の中では文也のことや文也との思い出ばかりを考えていた。

 だからといって執筆に集中していないというわけでもない。文也への思いや文也との思い出を時には少し変え、時にはそのまま綴る。

 詩音の両親が離婚したこと。詩音を引き取った詩音の母親が死んだこと。優等生を演じるしかなかったこと。そんな中、文也と出会ったこと。文也になら素の自分を晒せたこと。文也と遊園地に行ったこと。詩音が思いつく限りのことを作品に混ぜ込む。

 結果的に詩音の作品はどのジャンルに分類すれば良いのかわからない、いわば「人生」とでも言うべきジャンルになってしまった。

 しかしそこは長年執筆し続けた詩音の経験により、まとまった作品に仕上がっていく。

「文也くん、大丈夫かな……」

 文也がきっかけで知ったコンテストの締め切りまでは、既に二カ月を切っている。

 早めのペースで執筆をしないと間に合わないため、勉強も友達との遊びも、果てには文也との連絡さえも放り出して執筆に集中している。

 しかし、文也を主なネタとして小説を書いているため、文也に対する感情は絶えることを知らない。

 特に、心配の感情。

 今日の最後の授業が終わった後の文也は緊張を感じる表情をしていたし、一緒に帰ったときの文也は憂鬱と悩みが入り混じったような表情をしていた。

 「緊張」は文也が一歩進むために必要な副作用のようなものだと思って応援するだけで済ませていたが、憂鬱と悩みとなればそういうわけにはいかない。

 詩音は執筆もしなければならないので今それについて考えるわけにもいかないが、どうしても気になってしまって仕方がない。

「こんな状態で執筆してもたぶん進まないよね……」

 自分への言い訳をして、詩音はついスマホを手に取って、文也にLINEを送信してしまう。

 文也も執筆活動その他もろもろで忙しいはずで、返信が返ってこなくてもおかしくない。

 でも、詩音の頭の中にそういう発想は存在しない。

 文也へメッセージを送った詩音は、スマホを大事そうに自分の胸に抱えた。



「不安そうな顔してたけど、大丈夫?」
「なるほど、お見通しっていうことか。でも詩音さんには相談できないことなんだよなあ」

 執筆がひと段落ついて夕食を食べ、ゆっくりと推敲を始めていた僕がスマホを開くと、LINEは詩音さんからのメッセージを受け取っていた。

 僕はそのメッセージを見てひとり呟く。

 その内容は僕を心配するものだったが、クラスメイトたちの代表格さん――確か名前は春香さん――に口止めされているということ、そして自分自身が成長しなければならないことから、僕はなぜこうなっているのか詩音さんに話すことが出来ない。

 じゃあ一体どう返そうかと考える。

 思考に集中したいので、一旦スマホを閉じる。

 一般的には、心配しなくていいという旨のメッセージを返すのが最善手であるように思うけど、わざわざ心配してくれた詩音さんにそういう返しをするのは少し冷たいように感じて、他の選択肢を考える。

 まず、心配してくれたことへの感謝と、詳しくは話せないという内容を入れる必要があり、さらにその上で冷たくなりすぎない内容を考える必要がある。

 僕はさらに詳しく構成を決めて、再びスマホを開いた。



 詩音のスマホが震えて通知が来たことを告げる。

 詩音が執筆を中断してこれまでにないほどの速さでスマホを開いてみると、通知の内容は文也からメッセージを受け取ったというものだった。詩音はすぐに通知をタップしてトーク画面を開く。

「心配してくれてありがとう。だけど、諸事情により詩音さんに詳細を話せない。気持ちはとても嬉しいので、応援をしてくれると嬉しい」

 詩音がそのメッセージを見て第一に、文也くんらしい誰にも気づかれない優しさに溢れたメッセージだ、という感想を抱いた。

 私以外の誰が読んだって文也くんの気遣いには気がつかないんだろうな、と考える。

 そして次に、応援するだけではまずいかも、とも思う。

 詩音は文也の思い詰めたような表情を直接見ていたから、これだけでは納得が出来ない。

 でも、下手に文也の決意を濁らせるのも違うと思い、最大限に配慮したメッセージを送信する。

「もし詳しく話せるようになったり、本当に大変だと思ったら、遠慮なく私に話してね。応援してる!」

 これで解決、と自分に言い聞かせた詩音は、ここで執筆を中断すると間に合わない可能性を恐れた。

 そして、たとえどんな返信が来たとしてもスマホを開かないことを誓った。

 そうしてスマホではなく、ネタのメモに使っているブラウザ向けサイトを開き、先ほど文也が送ったメッセージを思い出しつつ書き込む。

 完全にコピペするわけではないが、これを参考に小説を書くために、要点を抜き出す。

 詩音は、文也と出会ってから執筆の手が全然止まらなくなった。

 文也も執筆速度は速まったが、詩音はその比ではないような速度で筆が進むようになった。

 文也との出会いは詩音に良い影響を与えた一方で、詩音は文也に対しての依存に近い関係性を構築していた。

 文也に拒絶されてしまったら、彼女は一体どうなってしまうのか。

 そんな不吉な妄想は、難しく考えるのではなく今ちょうど抱えている不安として小説にぶつける。

 悩んでいても仕方がない、前に進もう。

 詩音は拳を握って側頭部をこつんと叩いた。