「七瀬、放課後校舎裏に来やがれ」
名前も知らないクラスメイトたちの代表格が、僕に突然話しかけてきた。
口も悪く、明らかな敵意も感じられることから、たぶん好意的な内容ではないことを感じ取って、僕は恐怖に慄く。
「……え」
予想外の出来事に僕は的確な対応が出来ず、間の抜けた声を出すしかない。
「十分わかってると思うけど、詩音には言うなよ」
頼みの綱である詩音さんまで絶たれた僕は、抵抗する手段をすべて失い、クラスメイトたちの代表格さんの言うことに従うしか出来なくなった。
自分でも情けないと思うが、自分一人で他人と関わるのはまだ厳しい。それが、他人の言ったことに逆らうともなれば不可能に近い。
僕は「一抹」とは呼べないくらいのかなりの不安と恐怖を抱えながら一日を過ごした。
詩音さんがこちらをちらちらと気にしている様子が見えたが、クラスメイトたちの代表格さんが詩音さんに言ってはいけないと言っていたので、なにも言うわけにはいかない。そう思うだけで緊張感が高まり、呼吸が苦しくなる。
そして、緊張感は時間をゆっくりと流した。
放課後が来てほしくないと願えば願うほど時間はゆっくり流れるように感じられて、じわじわと苦しめられているような気分に陥る。
それでも、最後の授業は終わった。
すると詩音さんがすぐに僕の元にやってきた。
「文也くん、今日ちょっと調子悪い? 大丈夫?」
「心配してくれてありがとう。僕は大丈夫だよ」
心配してくれた詩音さんに嘘を吐くのは少し気が引けるが、詩音さんに迷惑をかけるのはもっと嫌だったから、なんでもないと答える。
それでも詩音さんは心配そうな表情で僕の顔を覗き込んだが、僕はなにも言わない。
「文也くん」
「な、なに?」
「頑張ってね」
詩音さんはどういう意図でその言葉をかけたのか、僕にはわからなかった。
でも詩音さんに否定されているような気分はしなくて、もしかしたら僕が陥っている状況を把握して応援してくれているのかもしれないと思う。
その考えが浮かんだとき、上手くできなくなっていた呼吸が楽になったのを感じた。
心の中が感謝の気持ちで溢れるが、クラスメイトたちの代表格さんに止められている以上、感謝の言葉を言ってしまえば、詩音さんに言っていると見做されているかもしれない。
だから僕は、知らないふりをするしかない。
「な、なんのこと?」
せっかく心配してくれたのに、とぼける。
失望されてしまっただろうか。
そう思ったが、彼女は優しげに微笑む。
「なんのことだろうね……?」
彼女のにこにことした笑顔が、僕のクラスメイトたちの代表格さんへの恐怖は薄めた。
これならなんとかなりそうだ。
「それじゃあ、私はこれで失礼するね」
「ああ、また明日にでも。その次の日は水族館だな」
「そうだね、楽しみにしとく」
そうして詩音さんに別れを告げた僕は、ついに覚悟を決めて、呼び出された校舎裏の方へ歩みを進める。
僕らのクラスから校舎裏まではかなり距離があって、せっかく決めた覚悟も、詩音さんが行ってくれたサポートも、校舎裏に着くころにはとうに消えてしまった。
校舎裏には、土で地面が固められ、草が生い茂る、暗鬱とした風景が広がっていた。
少し恐ろしくなって校舎の陰に隠れてちらりと校舎裏の様子を疑うと、そこにいたのはクラスメイトたちの代表格さんだけではなかった。
数えるのも億劫に感じられるほどの数のクラスメイトたちは、そのほとんどが高い頻度で詩音さんと話していた人たちだ。
その中に僕がずかずかと歩み寄るのも少し違うような気がして、身を縮めた姿を彼ら彼女らに晒す。
覚悟は消えてしまって、心臓がどきどきと速く強い脈を打つ。
「やっと来たか。君のことは春香から聞いたよ」
目の前に立った複数のクラスメイトたちの、恐らく代表格と思しき男子生徒が、クラスメイトたちの代表格さん――春香さんを見ながら言った。
春香さんは男子生徒の声を受けて、こちらに向けていた厳しい視線にさらに憎しみを込める。
明らかな敵意に、僕は一歩退きそうになるが、なんとか食い止めて、勇気を振り絞って口を開く。
「僕がどうかしたのか?」
勇気を振り絞って紡いだ言葉は、しかし男子生徒に好意的に受け入れられることはなく、僕の疑問が解決されることもなかった。
「まず、その『僕』って一人称をやめろ。気持ち悪い」
僕が敵意だと思っていた感情は、もしかしたら悪意だったのかもしれない。
その言葉は、ただ僕を苦しませるためだけに放たれたような気がする。
周りの視線が酷く恐ろしく、身体が震え始める。
なるほど、人格から否定するタイプか、と冷静に分析して心を落ち着かせようとしても思考がまとまらない。
「まあいい。そのことは後で思い知らせてやる。春香、言ってやれ」
男子生徒の言葉を受けて春香さんが一歩前に出た。
同時に、周りの人たちからの視線はより厳しく鋭いものに変わる。
「七瀬。詩音と関わりすぎなんだよ。これ以上私たちと詩音が一緒にいる時間を奪うつもりなら、徹底的に潰すぞ」
僕と詩音さんが関わり始めたせいで、今こんな状況に陥ってしまったというわけか。
「徹底的に潰すぞ」などという暴言めいた言葉をかけられて、普段ならもっと混乱しているはずなのに、頭がやけにクリアに思考を回す。
そして出した結論は――。
「僕は、詩音さんと関わるのをやめるつもりはない」
僕は、一歩前に進んだ。
言い返すことが出来たのも、前は他人の前では「望月さん」と呼んでいた詩音さんのことを「詩音さん」と呼ぶようになったのも、間違いなく詩音さんのおかげだ。
「はあ? 徹底的に潰すって、言ってるよね? 私は手加減しないからね?」
そんな脅し文句に、少し後ろ向きな気持ちも芽生えるが、その芽をすぐに自分で摘み取って言い返す。
「だからといって、僕は詩音さんと関わるのをやめる気はない」
言ってから、クラスメイトたちへの恐怖が薄れていることに気づく。
完全になくなったわけではないが、恐怖心の大半が「クラスメイトたちの言う通りにするつもりはない」という敵愾心や反抗心に変化していた。
「そ。それなら勝手にすれば」
春香さんが歩き出す。
僕の横を通り抜けたとき、彼女は低い声で呟いた。
「覚悟しろよ」
僕が面食らった顔になるが、彼女はなにも気にしていないかのように平然と歩いて行く。
クラスメイトたちが、先ほどのリーダー格の男子生徒を筆頭として、彼女の後に続いた。
僕は呆然とその場所に立ち尽くす。
僕の胸のうちに残ったのは、恐怖ではない。驚きだろうか。
さあ、どうしようか。
堂々と宣言されてしまったくらいだから、僕は今日もしくは明日から嫌がらせに遭うのだろうか。そう考えると気が滅入る。
だが、それですぐに詩音さんを頼ってしまってはこれまでの僕となにかが変わることはない。自分で解決するべき問題だ。
じゃあどうしようか。これから卒業まで、ずっと耐え抜く?
絶対に取れない手というわけではない。春香さんたちの様子を見る限りでは、詩音さんに流れ弾が飛んでいく可能性は限りなく低いだろう。
しかし、出来れば避けたい手だ。ただただサンドバッグにされるのを受け入れても、僕の中でこれまでの僕となにか変わっているとは言えない。
それなら、春香さんたちと話し合いをして平和的な解決を目指すのが良いだろうか。
否、難しいだろう。話して聞いてくれるのであればそれが一番だ。でも、これはあくまで推測だが、話しても聞いてくれないだろう。だから、たぶん無意味になる。
では、やはり耐え抜くというのが最善なんだろうか。
「いや、まだなにも始まってないし、始まってから考えよう」
呟いた声は夕暮れの空に虚しく溶けていった。
いつも話を聞いてくれる詩音さんに頼ることは、今回ばかりは出来ない。
それがどうしようもなく悲しくて、僕はいつもよりゆっくり教室へ足を動かした。
昇降口に靴を置いて上靴に履き替え、誰もいない廊下で足音を響かせ、階段を登る。
窓から差し込んだ夕日が廊下をオレンジ色に染めていて、僕の密かな悲しみを助長する。
閑かな廊下に僕ががらがらと教室の扉を開ける音が響き渡る。
敷居を跨いで教室に一歩、足を踏み入れる。
「待ってよ、文也くん」
そこに詩音さんがいることを、僕は知らなかった。
「詩音さん、まだ残ってたの?」
僕は詩音さんがここにいるとは予想もしていなかったため驚いて少し失礼な口調になってしまった。
しかし、詩音さんは気にすることなく言葉を返してくれる。
「ちょっと文也くんが心配になっちゃってね。文也くんの家はどこ?」
「僕は、あの超でかい駅の方だよ」
「お、私も方向一緒だよ。今日は一緒に帰ろ?」
先ほどの出来事と将来の悩みによって荒んだ心を癒すのに、詩音さんと一緒に帰るという提案は魅力的すぎた。
詩音さんも徒歩で登校していたのか、と本筋ではないところに思考を逸らす。
でもよく考えると、一緒に帰るという行為はとても大きな火種になると気づきそうなものだ。しかし疲れ果てていた僕は無意識下で頷く。
「そっか。どこまで一緒かな……」
「僕の家はちょうど駅を越えたあたり」
「私の家は駅を越えないから、距離感はちょっと遠いかも」
詩音さんは少し遠いと言ったが、僕の家から駅までは十分徒歩圏内であるため、詩音さんの家が駅の近くにあると仮定した場合は決して遠いという表現にはならない。
つまり、詩音さんは辛いときにいつでも頼れる距離にいる。僕はそれが少し嬉しかった。
「そうかな……。でも、詩音さんの家のあたりまでは一緒に帰れるんだよね?」
「うん、そうだよ! じゃ、帰ろっか」
詩音さんといると、先ほどまでの嫌な空気感とかこれから起こるであろう嫌なこととかをすべて忘れられるような気がして、心地いい。
その信頼感から、僕の口調もあえて強く着飾ったものではなく、自然なものになる。
それが嬉しくて空を見ると、さっきまで悲しげに感じられたオレンジの光が、さっきと変わらないのに希望を表すように明るい光に見える。
「執筆は進んでる?」
駅への街並みを歩いているとき、詩音さんは訊いた。
「うん、もう作品はほとんど完成した。あとは細かいところを修正と修整するだけだよ」
「そっか、私にしてあげられることはもう多くないかもしれないけど、一緒に頑張ろ!」
彼女はそう言ったが、実のところ詩音さんに協力をお願いしたいところは数えられないくらいにはある。
詩音さんはコミュ力が高くてしかも女性なので、参考にしたいところが多いと思っていたのだが、毎回電話をするのも失礼かと思って訊けていなかった。
そこでとりあえずスマホにLINEを入れたのだが、僕は詩音さんのLINEを持っていないので、連絡出来ずにいた。
「詩音さん、僕LINEを入れたんだけど、交換しない?」
詩音さんと出会う前とか出会ってすぐの僕なら絶対に言えないように言葉を、僕は俯き加減に吐き出した。
そんな僕の言葉を聞いて、詩音さんはどう思っただろうと僕が顔を上げると、彼女は目を輝かせて口角を上げてこちらを見ていた。
「する!」
喜ぶ様子が犬とか子供みたいに無邪気で、普段感じる敬意などとはまた別の魅力――いわゆる可愛い、という感情を感じる。
「じゃあ交換しようか」
僕が一度立ち止まって鞄を開いてスマホを取り出すのと同時に、詩音さんも立ち止まってポケットからスマホを取り出す。
「そっかあ、文也くんのLINE……!」
僕のLINEを手に入れられるのがそんなに嬉しいのか。はたまたここで嫌がらせにシフトするつもりか――いや、詩音さんはそんなことしないか。
交換をし終わると、早速詩音さんがメッセージを送ったらしかった。
「でも僕、外じゃWi-Fi使えないんだよね」
「え、そうなの?」
「僕が外出することはほとんどないから。だから詩音さんは今メッセージを送ってくれたみたいだけど、家に帰るまで見られない」
詩音さんは少し落胆したような表情になったが、すぐ笑顔に戻る。
「じゃあ、家帰ったらチェックしてね!」
「うん、わかった」
「楽しみだあ……」
彼女は心から嬉しそうな声色と表情で言う。
もしこれが本音ではないとしても、これほど完璧に演じられているのならばある意味尊敬出来るな、と思う。その一方で、僕はこれが本音ではないということは考えられなかった。
考えながら詩音さんと喋っていると、気づくと周りの風景は見慣れた駅の近くになっていた。
「あ、残念だけどうちこの辺だから」
「そっか。僕は駅を通り越すから、この辺で解散?」
「そうだね。文也くん、また明日」
「ああ。また明日、詩音さん」
詩音さんの背を見送った僕は、駅の方へ足を速める。
詩音さんと一緒に帰るという目的がなくなった今、だらだらとこの場所にいるよりも作品の推敲作業をした方が有意義だ。
その考えを持ったうえで、さらに足を速める。
一人で歩くのがなぜか寂しくて、これまでにないくらい速く歩く。
速く歩けば、家まで長い時間はかからなかった。
過去にないほど速く歩いたものだから、それも無理ないことだ。
「ただいま」
「おかえり。今日も先に部屋行く?」
「ああ、ご飯は七時ごろに作ってくれ」
「はーい」
母に軽く声をかけて部屋に入る。
詩音さんと別れた後に母と話すと、自然に母よりも詩音さんのことを信頼しているんだということがわかる。
詩音さんには時折素の口調で話すが、母に対して素の口調で話すことはなく、「強さ」で取り繕った口調ばかり見せる。
自分を生んで育ててくれた親よりもなんの接点もなかったはずの友人を信頼しているなんて、親不孝だとも思うが、反抗期とはこういうものなのかもしれないと一人納得する。
僕は頑張ればいつかは小説のテーマになりそうなことを考えながら鞄から取り出したパソコンを開き、パスワードを入力し、ブラウザを開き、読み込んでいるうちに着替える。
「これも結構年季が入ってきたなあ……」
使っていて不便だと感じることはないのでまだ使えるが、あと半年もしたら買い換えたいとも思う。
着替え終わって椅子に座り机に向き合うと、ブラウザは既に開かれていて、僕はブックマークに登録してある小説投稿サイトを開く。
一件のメッセージを受信していた。そこで詩音さんとのメッセージを思い出し、スマホでLINEを開くのと同時に小説投稿サイトで受信したメッセージを開く。
小説投稿サイトで受信したメッセージに軽く目を通すと、それは応援の内容だった。
どうやらメッセージの送り主は、ひっそりと活動している僕のファンだったらしく、僕はやる気を引き出される。
パソコンではメッセージを開いたまま、スマホでLINEを開くと、通知が一件だけ来ていた。
そもそも登録されている友達が一人もいない中、僕にメッセージを送信した「Shion」というアカウントを友達登録し、ついでにトーク画面を開く。
「詩音です! よろしく!」
短くもわかりやすいメッセージで、僕の好きなタイプのメッセージだった。
僕は「よろしく」とだけ送信してスマホを閉じ、パソコンでは小説作成フォームを開いてキーボードに手を乗せた。
キーボードを叩けば叩くほど、詩音さんのことが思い出されてならない。
そして、詩音さんのことを思い出せば思い出すほど今の孤独が惨めで虚しいものに思えてならない。
これまでずっと独りで、孤独だとしても気にせず小説を書いてきた。
周りに嗤われてもなにがあっても止まらずに執筆してきたのに、どうして今になって。
軽い混乱状態に陥ったが、脳内の詩音さんが言う。
「人と繋がる経験を知ったからこそ、孤独の恐ろしさを知ったんだよ」
詩音さんが実際に言ったことではないのにも関わらず、僕はそれに納得した。
つまり、人と繋がる経験を知らなかったからこそ僕は孤独を恐ろしいとか寂しいとか思わなかったのだから、詩音さんと関わりあって一緒の時間を過ごしてきたから、孤独を恐れてしまう――孤独を恐れることが出来るというわけだ。
孤独の対義語は無知と誰かが言っていたが、信じてみようと思った。
これも小説に活かそう、と僕はキーボードに手を乗せる。
名前も知らないクラスメイトたちの代表格が、僕に突然話しかけてきた。
口も悪く、明らかな敵意も感じられることから、たぶん好意的な内容ではないことを感じ取って、僕は恐怖に慄く。
「……え」
予想外の出来事に僕は的確な対応が出来ず、間の抜けた声を出すしかない。
「十分わかってると思うけど、詩音には言うなよ」
頼みの綱である詩音さんまで絶たれた僕は、抵抗する手段をすべて失い、クラスメイトたちの代表格さんの言うことに従うしか出来なくなった。
自分でも情けないと思うが、自分一人で他人と関わるのはまだ厳しい。それが、他人の言ったことに逆らうともなれば不可能に近い。
僕は「一抹」とは呼べないくらいのかなりの不安と恐怖を抱えながら一日を過ごした。
詩音さんがこちらをちらちらと気にしている様子が見えたが、クラスメイトたちの代表格さんが詩音さんに言ってはいけないと言っていたので、なにも言うわけにはいかない。そう思うだけで緊張感が高まり、呼吸が苦しくなる。
そして、緊張感は時間をゆっくりと流した。
放課後が来てほしくないと願えば願うほど時間はゆっくり流れるように感じられて、じわじわと苦しめられているような気分に陥る。
それでも、最後の授業は終わった。
すると詩音さんがすぐに僕の元にやってきた。
「文也くん、今日ちょっと調子悪い? 大丈夫?」
「心配してくれてありがとう。僕は大丈夫だよ」
心配してくれた詩音さんに嘘を吐くのは少し気が引けるが、詩音さんに迷惑をかけるのはもっと嫌だったから、なんでもないと答える。
それでも詩音さんは心配そうな表情で僕の顔を覗き込んだが、僕はなにも言わない。
「文也くん」
「な、なに?」
「頑張ってね」
詩音さんはどういう意図でその言葉をかけたのか、僕にはわからなかった。
でも詩音さんに否定されているような気分はしなくて、もしかしたら僕が陥っている状況を把握して応援してくれているのかもしれないと思う。
その考えが浮かんだとき、上手くできなくなっていた呼吸が楽になったのを感じた。
心の中が感謝の気持ちで溢れるが、クラスメイトたちの代表格さんに止められている以上、感謝の言葉を言ってしまえば、詩音さんに言っていると見做されているかもしれない。
だから僕は、知らないふりをするしかない。
「な、なんのこと?」
せっかく心配してくれたのに、とぼける。
失望されてしまっただろうか。
そう思ったが、彼女は優しげに微笑む。
「なんのことだろうね……?」
彼女のにこにことした笑顔が、僕のクラスメイトたちの代表格さんへの恐怖は薄めた。
これならなんとかなりそうだ。
「それじゃあ、私はこれで失礼するね」
「ああ、また明日にでも。その次の日は水族館だな」
「そうだね、楽しみにしとく」
そうして詩音さんに別れを告げた僕は、ついに覚悟を決めて、呼び出された校舎裏の方へ歩みを進める。
僕らのクラスから校舎裏まではかなり距離があって、せっかく決めた覚悟も、詩音さんが行ってくれたサポートも、校舎裏に着くころにはとうに消えてしまった。
校舎裏には、土で地面が固められ、草が生い茂る、暗鬱とした風景が広がっていた。
少し恐ろしくなって校舎の陰に隠れてちらりと校舎裏の様子を疑うと、そこにいたのはクラスメイトたちの代表格さんだけではなかった。
数えるのも億劫に感じられるほどの数のクラスメイトたちは、そのほとんどが高い頻度で詩音さんと話していた人たちだ。
その中に僕がずかずかと歩み寄るのも少し違うような気がして、身を縮めた姿を彼ら彼女らに晒す。
覚悟は消えてしまって、心臓がどきどきと速く強い脈を打つ。
「やっと来たか。君のことは春香から聞いたよ」
目の前に立った複数のクラスメイトたちの、恐らく代表格と思しき男子生徒が、クラスメイトたちの代表格さん――春香さんを見ながら言った。
春香さんは男子生徒の声を受けて、こちらに向けていた厳しい視線にさらに憎しみを込める。
明らかな敵意に、僕は一歩退きそうになるが、なんとか食い止めて、勇気を振り絞って口を開く。
「僕がどうかしたのか?」
勇気を振り絞って紡いだ言葉は、しかし男子生徒に好意的に受け入れられることはなく、僕の疑問が解決されることもなかった。
「まず、その『僕』って一人称をやめろ。気持ち悪い」
僕が敵意だと思っていた感情は、もしかしたら悪意だったのかもしれない。
その言葉は、ただ僕を苦しませるためだけに放たれたような気がする。
周りの視線が酷く恐ろしく、身体が震え始める。
なるほど、人格から否定するタイプか、と冷静に分析して心を落ち着かせようとしても思考がまとまらない。
「まあいい。そのことは後で思い知らせてやる。春香、言ってやれ」
男子生徒の言葉を受けて春香さんが一歩前に出た。
同時に、周りの人たちからの視線はより厳しく鋭いものに変わる。
「七瀬。詩音と関わりすぎなんだよ。これ以上私たちと詩音が一緒にいる時間を奪うつもりなら、徹底的に潰すぞ」
僕と詩音さんが関わり始めたせいで、今こんな状況に陥ってしまったというわけか。
「徹底的に潰すぞ」などという暴言めいた言葉をかけられて、普段ならもっと混乱しているはずなのに、頭がやけにクリアに思考を回す。
そして出した結論は――。
「僕は、詩音さんと関わるのをやめるつもりはない」
僕は、一歩前に進んだ。
言い返すことが出来たのも、前は他人の前では「望月さん」と呼んでいた詩音さんのことを「詩音さん」と呼ぶようになったのも、間違いなく詩音さんのおかげだ。
「はあ? 徹底的に潰すって、言ってるよね? 私は手加減しないからね?」
そんな脅し文句に、少し後ろ向きな気持ちも芽生えるが、その芽をすぐに自分で摘み取って言い返す。
「だからといって、僕は詩音さんと関わるのをやめる気はない」
言ってから、クラスメイトたちへの恐怖が薄れていることに気づく。
完全になくなったわけではないが、恐怖心の大半が「クラスメイトたちの言う通りにするつもりはない」という敵愾心や反抗心に変化していた。
「そ。それなら勝手にすれば」
春香さんが歩き出す。
僕の横を通り抜けたとき、彼女は低い声で呟いた。
「覚悟しろよ」
僕が面食らった顔になるが、彼女はなにも気にしていないかのように平然と歩いて行く。
クラスメイトたちが、先ほどのリーダー格の男子生徒を筆頭として、彼女の後に続いた。
僕は呆然とその場所に立ち尽くす。
僕の胸のうちに残ったのは、恐怖ではない。驚きだろうか。
さあ、どうしようか。
堂々と宣言されてしまったくらいだから、僕は今日もしくは明日から嫌がらせに遭うのだろうか。そう考えると気が滅入る。
だが、それですぐに詩音さんを頼ってしまってはこれまでの僕となにかが変わることはない。自分で解決するべき問題だ。
じゃあどうしようか。これから卒業まで、ずっと耐え抜く?
絶対に取れない手というわけではない。春香さんたちの様子を見る限りでは、詩音さんに流れ弾が飛んでいく可能性は限りなく低いだろう。
しかし、出来れば避けたい手だ。ただただサンドバッグにされるのを受け入れても、僕の中でこれまでの僕となにか変わっているとは言えない。
それなら、春香さんたちと話し合いをして平和的な解決を目指すのが良いだろうか。
否、難しいだろう。話して聞いてくれるのであればそれが一番だ。でも、これはあくまで推測だが、話しても聞いてくれないだろう。だから、たぶん無意味になる。
では、やはり耐え抜くというのが最善なんだろうか。
「いや、まだなにも始まってないし、始まってから考えよう」
呟いた声は夕暮れの空に虚しく溶けていった。
いつも話を聞いてくれる詩音さんに頼ることは、今回ばかりは出来ない。
それがどうしようもなく悲しくて、僕はいつもよりゆっくり教室へ足を動かした。
昇降口に靴を置いて上靴に履き替え、誰もいない廊下で足音を響かせ、階段を登る。
窓から差し込んだ夕日が廊下をオレンジ色に染めていて、僕の密かな悲しみを助長する。
閑かな廊下に僕ががらがらと教室の扉を開ける音が響き渡る。
敷居を跨いで教室に一歩、足を踏み入れる。
「待ってよ、文也くん」
そこに詩音さんがいることを、僕は知らなかった。
「詩音さん、まだ残ってたの?」
僕は詩音さんがここにいるとは予想もしていなかったため驚いて少し失礼な口調になってしまった。
しかし、詩音さんは気にすることなく言葉を返してくれる。
「ちょっと文也くんが心配になっちゃってね。文也くんの家はどこ?」
「僕は、あの超でかい駅の方だよ」
「お、私も方向一緒だよ。今日は一緒に帰ろ?」
先ほどの出来事と将来の悩みによって荒んだ心を癒すのに、詩音さんと一緒に帰るという提案は魅力的すぎた。
詩音さんも徒歩で登校していたのか、と本筋ではないところに思考を逸らす。
でもよく考えると、一緒に帰るという行為はとても大きな火種になると気づきそうなものだ。しかし疲れ果てていた僕は無意識下で頷く。
「そっか。どこまで一緒かな……」
「僕の家はちょうど駅を越えたあたり」
「私の家は駅を越えないから、距離感はちょっと遠いかも」
詩音さんは少し遠いと言ったが、僕の家から駅までは十分徒歩圏内であるため、詩音さんの家が駅の近くにあると仮定した場合は決して遠いという表現にはならない。
つまり、詩音さんは辛いときにいつでも頼れる距離にいる。僕はそれが少し嬉しかった。
「そうかな……。でも、詩音さんの家のあたりまでは一緒に帰れるんだよね?」
「うん、そうだよ! じゃ、帰ろっか」
詩音さんといると、先ほどまでの嫌な空気感とかこれから起こるであろう嫌なこととかをすべて忘れられるような気がして、心地いい。
その信頼感から、僕の口調もあえて強く着飾ったものではなく、自然なものになる。
それが嬉しくて空を見ると、さっきまで悲しげに感じられたオレンジの光が、さっきと変わらないのに希望を表すように明るい光に見える。
「執筆は進んでる?」
駅への街並みを歩いているとき、詩音さんは訊いた。
「うん、もう作品はほとんど完成した。あとは細かいところを修正と修整するだけだよ」
「そっか、私にしてあげられることはもう多くないかもしれないけど、一緒に頑張ろ!」
彼女はそう言ったが、実のところ詩音さんに協力をお願いしたいところは数えられないくらいにはある。
詩音さんはコミュ力が高くてしかも女性なので、参考にしたいところが多いと思っていたのだが、毎回電話をするのも失礼かと思って訊けていなかった。
そこでとりあえずスマホにLINEを入れたのだが、僕は詩音さんのLINEを持っていないので、連絡出来ずにいた。
「詩音さん、僕LINEを入れたんだけど、交換しない?」
詩音さんと出会う前とか出会ってすぐの僕なら絶対に言えないように言葉を、僕は俯き加減に吐き出した。
そんな僕の言葉を聞いて、詩音さんはどう思っただろうと僕が顔を上げると、彼女は目を輝かせて口角を上げてこちらを見ていた。
「する!」
喜ぶ様子が犬とか子供みたいに無邪気で、普段感じる敬意などとはまた別の魅力――いわゆる可愛い、という感情を感じる。
「じゃあ交換しようか」
僕が一度立ち止まって鞄を開いてスマホを取り出すのと同時に、詩音さんも立ち止まってポケットからスマホを取り出す。
「そっかあ、文也くんのLINE……!」
僕のLINEを手に入れられるのがそんなに嬉しいのか。はたまたここで嫌がらせにシフトするつもりか――いや、詩音さんはそんなことしないか。
交換をし終わると、早速詩音さんがメッセージを送ったらしかった。
「でも僕、外じゃWi-Fi使えないんだよね」
「え、そうなの?」
「僕が外出することはほとんどないから。だから詩音さんは今メッセージを送ってくれたみたいだけど、家に帰るまで見られない」
詩音さんは少し落胆したような表情になったが、すぐ笑顔に戻る。
「じゃあ、家帰ったらチェックしてね!」
「うん、わかった」
「楽しみだあ……」
彼女は心から嬉しそうな声色と表情で言う。
もしこれが本音ではないとしても、これほど完璧に演じられているのならばある意味尊敬出来るな、と思う。その一方で、僕はこれが本音ではないということは考えられなかった。
考えながら詩音さんと喋っていると、気づくと周りの風景は見慣れた駅の近くになっていた。
「あ、残念だけどうちこの辺だから」
「そっか。僕は駅を通り越すから、この辺で解散?」
「そうだね。文也くん、また明日」
「ああ。また明日、詩音さん」
詩音さんの背を見送った僕は、駅の方へ足を速める。
詩音さんと一緒に帰るという目的がなくなった今、だらだらとこの場所にいるよりも作品の推敲作業をした方が有意義だ。
その考えを持ったうえで、さらに足を速める。
一人で歩くのがなぜか寂しくて、これまでにないくらい速く歩く。
速く歩けば、家まで長い時間はかからなかった。
過去にないほど速く歩いたものだから、それも無理ないことだ。
「ただいま」
「おかえり。今日も先に部屋行く?」
「ああ、ご飯は七時ごろに作ってくれ」
「はーい」
母に軽く声をかけて部屋に入る。
詩音さんと別れた後に母と話すと、自然に母よりも詩音さんのことを信頼しているんだということがわかる。
詩音さんには時折素の口調で話すが、母に対して素の口調で話すことはなく、「強さ」で取り繕った口調ばかり見せる。
自分を生んで育ててくれた親よりもなんの接点もなかったはずの友人を信頼しているなんて、親不孝だとも思うが、反抗期とはこういうものなのかもしれないと一人納得する。
僕は頑張ればいつかは小説のテーマになりそうなことを考えながら鞄から取り出したパソコンを開き、パスワードを入力し、ブラウザを開き、読み込んでいるうちに着替える。
「これも結構年季が入ってきたなあ……」
使っていて不便だと感じることはないのでまだ使えるが、あと半年もしたら買い換えたいとも思う。
着替え終わって椅子に座り机に向き合うと、ブラウザは既に開かれていて、僕はブックマークに登録してある小説投稿サイトを開く。
一件のメッセージを受信していた。そこで詩音さんとのメッセージを思い出し、スマホでLINEを開くのと同時に小説投稿サイトで受信したメッセージを開く。
小説投稿サイトで受信したメッセージに軽く目を通すと、それは応援の内容だった。
どうやらメッセージの送り主は、ひっそりと活動している僕のファンだったらしく、僕はやる気を引き出される。
パソコンではメッセージを開いたまま、スマホでLINEを開くと、通知が一件だけ来ていた。
そもそも登録されている友達が一人もいない中、僕にメッセージを送信した「Shion」というアカウントを友達登録し、ついでにトーク画面を開く。
「詩音です! よろしく!」
短くもわかりやすいメッセージで、僕の好きなタイプのメッセージだった。
僕は「よろしく」とだけ送信してスマホを閉じ、パソコンでは小説作成フォームを開いてキーボードに手を乗せた。
キーボードを叩けば叩くほど、詩音さんのことが思い出されてならない。
そして、詩音さんのことを思い出せば思い出すほど今の孤独が惨めで虚しいものに思えてならない。
これまでずっと独りで、孤独だとしても気にせず小説を書いてきた。
周りに嗤われてもなにがあっても止まらずに執筆してきたのに、どうして今になって。
軽い混乱状態に陥ったが、脳内の詩音さんが言う。
「人と繋がる経験を知ったからこそ、孤独の恐ろしさを知ったんだよ」
詩音さんが実際に言ったことではないのにも関わらず、僕はそれに納得した。
つまり、人と繋がる経験を知らなかったからこそ僕は孤独を恐ろしいとか寂しいとか思わなかったのだから、詩音さんと関わりあって一緒の時間を過ごしてきたから、孤独を恐れてしまう――孤独を恐れることが出来るというわけだ。
孤独の対義語は無知と誰かが言っていたが、信じてみようと思った。
これも小説に活かそう、と僕はキーボードに手を乗せる。