「文也くんに名前で呼ばれた!」

 疲労感が詩音の心身に襲い掛かる中、それでも詩音は今日を振り返って喜びに身を浸した。

「せっかくだから、このことも小説にしてみようかな」

 疲労感はなんとか押し殺してパソコンを開けば、先ほどまで感じていた疲労感は霧散して、手がこれまでないほどのスピードで動き出す。

 文也が感じていた興奮と同等以上の興奮を、詩音は感じていた。

 詩音にとって、素の自分を晒せたのは身内以外では文也が初めてだった。

 きっかけはほんの些細なことだったのに、文也のことを知る度に詩音は彼に惹かれていく。

「執筆に真剣なところとか、優しいところとか、可愛いところとか、好きだなあ……」

 詩音は次々と文也の好きなところを挙げていく。

 多少議論の余地が残るようなところもあるが、詩音は文也が可愛く見えていた。

「思ったより軽くて、びっくりしちゃった……」

 お化け屋敷で文也を持ち上げたときのことを思い出して、文也の確かながらも決して重くはない重さを体感する。

 重さとしては、詩音と同じくらいだろうか。執筆ばかりしてきた人の重みとしては違和感のないものだ。

 それから詩音は今日のことを端から端まで思い出す。

 少なくとも表では友好関係が広い詩音にとって、遊園地に行くなど珍しいことではなさそうだが、そうではない。

 そもそも彼女の貯金は「節約すればなんとか生活できる程度」の量であり、高頻度で遊園地に行くなんて贅沢な生活は断じて出来ない。

 そんな中で、文也と一緒に遊園地へ行ったのは、これまで見せられなかった素の自分を見せられそうな、素朴な性格をしていたのが文也だったからだ。

 創作に真っすぐなその性格、目標を馬鹿にされただけで傷ついてしまった、その素直で純粋な性格、そんな性格の文也になら、詩音も”優等生”としてではない自分を曝け出すことが出来た。

 問題は、これまで出会った他の人間には”素の自分”を曝け出すことが出来ず、その反動が今訪れていることだ。

 最後に詩音が他人と”素の自分”を共有したのは、彼女が葬式で暴れたとき。それからはもう二年近く経っていて、誰とも素の自分を共有せずにいられるほぼ限界の時間を詩音は独りで過ごしていた。

 それならば、反動が文也にぶつけられるのは自然だ。

 しかし、それが文也への依存という形で表れてしまうと、詩音の精神性に強い影響を与えてしまいかねない。適切な距離を取って接するべきだ。

 だが、今の詩音にそんなことを配慮する余裕はない。

「文也くん……!」

 リラックスする暇の少しもなく引き離されるというのも酷な話なので、今くらいはこうしているのも正しいかもしれない。