『七瀬くん、おはよー!』
『望月さん、おはよう。今日はやけにテンションが高いな』

 休日の朝突然かかってきた電話に僕は言葉少なに言って、心の中では休日で、しかも朝なのにと付け足す。

『そうかな? ところで七瀬くん、今日にしよ!』
『遊園地に行く約束のこと?』

 些かの説明不足を感じたので彼女に確認を取ると、電話越しの元気な声が返ってくる。

『そう! この辺あんまり遊園地多くないけど、それほど遠くないところに良さげな遊園地見つけたんだよね!』
『このためだけに調べたのか?』
『うん、そうだよ! 私この日を楽しみにしてたんだからね!』

 なるほど、彼女の中では今日遊園地に行くという予定だからテンションが高いのか。

 どうして僕と遊園地に行くということでテンションが上がるのか、少し疑問が残るがそれに関しては望月さんが重度の遊園地好きだということで一先ず自分を納得させる。

『それで、僕はどこに行けばいい? 最寄り駅に行けばいい?』
『えっと、せっかくだし一回集合してから一緒に行かない?』

 それから二人で協議した結果、学校の最寄り駅で集合して電車に乗り、遊園地に向かうということに決定した。

 それに、昼食や夕食の計画まで話されて、僕はどうやら今日一日が潰れるらしいことを悟ったので、母親に報告だけしておく。

 僕が母親に今日は夜まで帰ってこないことを告げると母は、

「あら、文也にもやっと友達ができたの。それなら泊まりでもなんでも遊んできなさい!」

 と僕を舐め腐ったことを言ったが、実際にこれまで友達がいなかったのは事実なので反論のしようがなかった。

 僕は仕方なく母に適当な言葉を返し、外へ足を踏み出した。



「え、制服で来たの?」
「本当は制服で来るべきではないってことはわかってたけど、制服以外に服を持ってなかったから仕方なく」

 僕の発言に苦笑しながら、僕を見下す意図の欠片もなく彼女は言った。

「まあでも、その方が七瀬くんらしいか」
「僕らしいってどういうことなんだ……」

 まだ出会ってからは一カ月も経っていないのに。

 そう思うが、確かに詩音さんなら既に僕について知り尽くしていても納得がいく。

「いいんだよそのことは。とりあえず、電車そろそろ来ちゃうから改札通ろう」

 そう言われて、僕は定期の入ったSuicaを取り出す。

 制服で電車に乗ろうとしているその姿は――

「……僕、今から登校するみたいだな」
「これが、制服で来ない方が良い理由だよ」
「なるほど、今日も僕の学びがまた一つ増えたというわけだ」
「ポジティブだね……。でもそういう考え方、私は結構好きだよ」

 望月さんはにこりと笑った。

 そこで大きな音を立てながら電車がホームにやってきて、ゆっくりと扉が開く。

 車内を見渡すと、休日とはいえ朝早いのでさほど混んではいなかった。

 僕は無言で端の席に座り、望月さんは笑顔で僕の隣に座った。

 僕が少しだけ顔を顰めると、望月さんはそれを汲み取ったのか僕から少し遠ざかった。

「それで、遊園地はどういうシーンで出てくるの?」

 僕たち二人が無事に着席すると、会話の流れは今から行く遊園地に関する話へとシフトした。

「えっと、僕は今度小説投稿サイトで行われる大きなコンテストに向けた恋愛作品を書いているんだけど、その中で主人公がヒロインと出会って変わる、その一場面に出てくるんだ」
「へえ、なんか意外」

 相変わらず笑顔を絶やさない望月さんは、僕の言葉に意外だと言った。

 僕はその意図がわからなくて、訊き返す。

「なにが意外だと思った?」
「七瀬くんは、純文学要素が強い作品を書くんだと思ってたけど、話を聞く限りでは七瀬くんが書いているのは娯楽小説っぽいと思って」

 僕は少し悩む。

 元々僕は純文学ばかりを読んで、そして書いていた。

 しかし、あまりにも純文学の要素が強すぎたために、商業化への道がやけに遠く感じて、娯楽小説に転身したのだった。

「僕の目標のためには、その方が良いかと思って」
「七瀬くんの目標?」

 僕の目標は、「小説家になる」こと。でも、目の前にいる少女にこのことを直接告げるとなると、頭がくらくらして軽く眩暈がする。

 いくら望月さんへは恐怖の感情が薄れているといえども、全く怖くないわけではないし、もし嗤われてしまったら、そう考えると「小説家になりたい」なんて口に出すのは恐ろしい。

 だから、理性では望月さんは僕の目標を嗤ったりしないと理性ではわかっていても、言葉にしようとすると難しい。

 困惑する僕の態度を読み取ったのか、望月さんは慌てて言葉を取り消す。

「ご、ごめん。無理に答えなくても大丈夫。でもそっか、コンテストに七瀬くんが応募するのか……」
「そうだよ。受賞したら商業化出来る」
「頑張って受賞してね! それで、応募期間って決まってるの?」

 そのコンテストに関することなら、僕は大方の内容を覚えていた。

 なぜなら、僕にとってそのコンテストは商業化を賭けた大勝負だからだ。

「応募期間は、来月の初めから二カ月間。応募するのに必要な最低文字数があるんだけど、その八割はもう書けてて、あとは遊園地の資料集めをすればほぼ完成」
「そうなんだね……。じゃあ、あと少しってことだよね?」

 その通りだと言葉にせず首肯する。

 それを見た望月さんは普段よりも嬉しそうな顔つきになって、言う。

「頑張ってね!」

 望月さんといると、僕が認められているような気分になる。

 「小説家になりたい」という目標を否定されて、それから人と関わっていなかったが、果たして人間とはこれほどまでに温かいものなのだろうか。それとも、望月さんが特別なだけか。

 薄れに薄れてほとんど感じなくなっていた望月さんへの恐怖が、今この瞬間完全に氷解した。そして、これまでよりも少しだけ、距離が近づいた。

 僕は、少しだけ望月さんの方に詰めた。

 望月さんは大層嬉しそうな顔をした。

 その表情を見て、決断した。

 望月さんに直接言おう。

 僕は今も、小説家になりたいと思っているんだ。

 僕は息を吸った。

 望月さんは、僕の方をじっと見つめた。

 僕の声は、電車の車内アナウンスに搔き消された。

「えっと、七瀬くん。今なんて言った?」
「ごめん、なんでもない。次の駅だから、降りる準備をしよう」

 少し決まりが悪くなって、どうせ一日中一緒にいるんだからすぐにチャンスは訪れる、と誤魔化した。

「そっか」

 少し、気まずい。

 しばらくの静寂を破ったのは、やはり望月さんの言葉だった。

「ねえねえ、遊園地に着いたらなに乗る? やっぱりジェットコースター?」
「僕はジェットコースターが苦手そうに見えないか?」
「見える」
「まあ乗ったことはないんだけどね」

 小学生のうちも僕はあまり積極的な人間ではなかったから、遊園地に来たのも何年振りかわからないし、最後に遊園地に来たときは身長不足でジェットコースターに乗れなかった。

 しかも、僕が書きたいのはジェットコースターのシーンではなく、もう少し全体的な視点から遊園地を見たかっただけなので、ジェットコースターに乗る必要はない。

 そう望月さんに告げたのだが――

「今日一日あるんだし、ジェットコースターも乗ろうよ! 他の乗り物も乗ればいいからさ」

 どうやら望月さんは僕を納得させる能力に長けているらしかった。

 最終的に僕はなんの異論もない全面肯定でジェットコースターに乗ることとなった。

「でも、覚悟を決めたはいいけど、列に並んでいるうちに緊張してくるよね……」
「ふーん、弱っちいね」
「ああ、それでいいよ。僕はメンタル鍛える方向に特化してない」

 やはり苦手なことは苦手と言い切った方が話は早い。

「あーごめん、ただ悪口言っただけの人になっちゃった」
「?」
「そうだよね、七瀬くんに冗談はさすがに通じないよね……」

 なにを言っているのかはっきりと理解することは出来ないが、たぶん舐められているということはわかる。

「それ、馬鹿にしてるよね?」
「あ、そろそろ番だよ。乗ろう乗ろう」

 僕の追及を、列の先頭にやってきたということで華麗に躱す望月さん。

 きっと、コミュニケーション能力とはこういうことを言うのだろう。

「それでは手を上げて、ベルトを下ろしまーす!」

 こうやって改めて指示されると、緊張はさらに高まっていく。

「私、吊り橋効果狙ってみようかな」
「え、それはどういう……」

 僕が尋ねようとしたとき、がらがらと音を立ててジェットコースターが動き出した。

 またうまく躱された。

 そう考える間もなく、上向きの力が僕を襲った。

 とんでもない浮遊感。

「きゃあああああ!!」

 予想以上の大きな声に隣を除くと、望月さんは満面の笑みを浮かべていた。

 どうして望月さんはこれほど気持ち良さげな絶叫を上げることが出来るのだろうか。

 僕は恐怖で喉が掠れて声も出ないし、体も動かないというのに。

 ジェットコースターが動いている間、僕は冗談抜きで走馬灯を見続けた。

 僕の人生は薄いので目標を馬鹿にされたことと望月さんと出会ったことばかり浮かんでくるが、そんなことを気に掛ける余裕はない。

 ジェットコースターが一周したころには、僕の心は既に失われていた。

「七瀬くん、どうだった? ……ああ、言うまでもないかあ」

 望月さんは僕に声をかけたが、グロッキーに陥った僕の姿を確認して自己完結する。

「ごめん、休ませてくれる……? ポップコーンを食べたい……」

 我ながら、どうして今この瞬間のチョイスがポップコーンなのかわからないが、どうしてかポップコーンの味が懐かしくて食べたいと感じられた。

 僕がお金を渡すと、望月さんは文句ひとつも言わずポップコーンキャラメル味を購入してきてくれた。

「望月さんは……キャラメル味が好みなの……?」

 これまでは強めの言葉で取り繕ってきた外側が剥がれ落ちる。

 だけど、なにも喋らないのは望月さんに失礼になりそうで、無理を押して喋る。

「えっと七瀬くん、無理に喋らなくてもいいよ……」

 望月さんが優しく言ってくれたので、なにも喋らず深呼吸して心を落ち着ける。

 望月さんは「楽しさを共有することで仲良くなる」とか言っていたが、僕は今全然楽しくないので望月さんと仲良くはなれないのかもしれない。

「落ち着いてきた?」
「ああ、もう立てるし歩ける。次はどこに行こうか?」
「私、コーヒーカップ乗りたい!」
「それは、グロッキーから現世に帰ってきたばかりの人に言うことか?」

 望月さんのことが怖くなくなったと思っていたが、実はそうではなかったのかもしれない。

 目の前に立っている望月さんに純粋な恐怖を覚えた。

「冗談だよ。ゆっくり出来るところに行こうか。人気キャラとの握手会があるらしいし、そことかは?」

 どうやら冗談だったらしい。大衆小説を書くのであればユーモアも必要だし、その点で僕はまだまだ足りないと猛省する。

 そして握手会とのことだが、僕はそのキャラがあまり好きではない。

「望月さんが行きたいなら付き合うけど、僕はそのキャラのことがあまり好きじゃない」

 具体的には、明確な理由付けもなく他のキャラたちとちやほやされ仲良くしているところとか、いつも楽しそうなところとか人生楽してそうで気に食わない。

 しかもそのキャラの笑顔にはなにか闇が隠れているように思えて、人間の闇が垣間見えて直視するのも恐ろしい。人間ではなく鼠なんだけど。

「七瀬くんが行きたくないって思わないなら、無理に連れて行きたくはないよね……。あ、そうだ。観覧車でゆっくり休む?」
「そうしよう。ありがとう望月さん」
「私も観覧車乗りたかったし、一緒に乗ろう!」

 望月さんの優し気な笑顔に惹かれて、僕は観覧車の列に並ぶこととなった。

「やっぱり、観覧車といえばてっぺんでキスだよね? そういうシーンを書くの?」
「僕は観覧車を小説に出すとは一言も言ってないんだけど……。まあそうだね、ストーリーもだいぶ後半のことだし、流れ次第では書くのかもしれない」
「あれ、プロットとかはあんまり考えないタイプ?」

 どうして小説など読む暇があったら友達とコミュニケーションを取りそうに見える望月さんが、プロットなんて言葉を知っているのだろう。

 その疑問は、僕の常識に対する認識の誤り、もしくは望月さんの博識の故だと片付けられた。

「僕は、細部までは考えないかも。大まかな流れと、その流れの中でのプロットを二重構造で一つか二つくらいしか考えないタイプだから」
「そっか、いろいろなタイプがあるんだね」

 望月さんは自分の中で納得したいように一人で頷いた。

 僕の勝手な憶測にはなるが、もしかしたら望月さんは新たな知識を取り入れることに喜びを感じるタイプなのかもしれない。だから珍しいタイプである小説家志望の僕は新たな知識の源として良くしてもらえてるのかもしれない、と予測を立てた。

「七瀬くんは、観覧車の待ち時間はどうしてるっていう風に書くつもりなの?」
「今の予定だと、ヒロインと他愛もない話をしていて、その間に……ほら、こんな風に番が回ってくる」

 僕が言ったのに合わせたのかと疑うほどちょうどいいタイミングで、従業員が僕たちを観覧車の乗車を案内した。

「今の感じは参考になったかな?」
「大いに、小説内のご都合主義の参考になったよ」

 そう言いながら僕は観覧車の中に腰掛ける。

「嫌な言い方するね」

 言って彼女は僕の向かい側に向かい合って腰掛けた。

「ずっと小説書き続けた表現力の賜物だな」
「嫌な表現力だね」

 自分でもそう思う。

 少し自分が嫌になって観覧車の外を見ると、ちくちくと会話を続けているうちに、ゆらゆらと上っていった観覧車はほとんど頂点へ達していた。

「てっぺん、来たな」
「高いね、ここ」
「ちょっと高すぎる。下手に小さい規模の観覧車よりもいいとは思うけど、高いところは少し苦手だ。観覧車には締めに乗ろうと思ってたけど、そうしなくて良かった……」
「そっか。じゃあ、次はあまり高いところには行かないアトラクションを選ぼうか。そろそろ落ち着いてきた?」

 望月さんの気遣いに満ち溢れた言葉がありがたくて、でも言葉にするのは少し気恥ずかしくて黙って頷くことで首肯する。

 望月さんはいつもと同じように僕の感情を容易く読み取り、僕を「次」へ導いてくれる。

「じゃあ、あんまり酔ったりしなくて、高いところにもない……お化け屋敷とか、行く?」
「そうしよう。僕、お化けみたいな非科学的なことはあまり信じてないから、お化け屋敷はたぶん平気だ」

 まだまだ日が高い中、観覧車はゆっくりと降りていく。



「うわあああ!?」
「七瀬くん、びっくりしすぎだよ。手繋ぐ?」
「そう言われてもなんて返せば良いかわからないよ……?」

 僕は完全に恐怖心に囚われていた。

 僕は非科学的なことこそ信じていなくても、恐怖心は人一倍強いんだった。

 完全に失念していた、自分が情けない。

「繋いでほしいなら「繋いで」って言えば良いし、繋いでほしくないなら断れば良いと思う」
「じゃあ、まだ良いかな。本気で怖くなったら望月さんを頼ることにする」

 言った僕を脅かそうと、どこからか死に装束で青白い顔をした女性が現れ、恐ろしい声を上げた。

「きゃああああ!?」
「七瀬くん!?」
「手、繋いで……」

 僕が手を差し出すと、望月さんは嫌な顔一つもせずに僕の手を握ってくれた。

 なるほど、自分一人では思いつかなかっただろうが、お化け屋敷を小説に出すというのも良いかもしれない。文字数は増えてしまうが、幸いまだまだ上限まで文字数の余裕はある。

 そこで手を繋げば主人公とヒロインの関係をより深めることが出来るだろうし――。

 思考する僕が顔を上げると、その視線の先には恐ろしい骸骨の姿が。

「うわおおお!?」

 僕は繋いだままの望月さんの手を引っ張って思いきりあとずさる。

「ちょ、七瀬くん大丈夫!?」

 僕に手を引かれて不安定な姿勢になった望月さんはそのまま僕に向かって転倒、自業自得ながら僕も倒れることとなった。

「ごめん七瀬くん、平気?」
「平気だよ。望月さんは悪くない。望月さんの方は、平気?」
「うん、こっちは平気。ごめんね、本当に」
「望月さんはなにも悪くない。僕が望月さんの手を無理やり引っ張ったのが悪いんだ」

 望月さんは、自分はなにも悪くないというのにやけに責任を自分に押し付ける――自責思考を持っている。

 それほどまでの善人なのか、僕は心の底からそう思った。

「ごめんね、ゆっくり歩く?」

 先に立ち上がった望月さんが僕に手を差し出しながら提案した。

「その方が助かるよ」

 望月さんの手を取った僕は、望月さんの背後に皮膚の爛れたような人影を見て、絶叫した。

 僕は足がぶるぶる震えて使い物にならなくなった。

「七瀬くん、本当に大丈夫……?」

 僕は口を開いて息を通しても言葉にならず、ふるふると首を横に振るしかない。

「えっと、じゃあ抱えてゴールまで運ぼうかな……?」

 僕は出来るだけわかりやすいように目を輝かせる。

 望月さんはその感情を読み取ったのか、あまり身長が高くない僕の身体をゆっくりと抱え上げる。

「七瀬くん……」
「え? なに?」
「いや、なんでもない……」

 彼女は少し複雑そうな表情をしていた。一体なにを思っていたのだろうか、僕にはわからない。

 でも、周りのお化け役の人たちが少し遠慮していたことだけは感じ取れた。



「いやあ、楽しかったねえ、遊園地! 久しぶりだったから心からエンジョイした!」
「僕は受難の連続だった」

 結局あの後、僕が楽なアトラクションも挟みつつ乗ったら詩に書けるようなアトラクションにも複数参戦し、何度か心を失ってぎりぎり生きて帰ってこられた。

「じゃあ、楽しくなかったかな……?」
「いいや、そういうわけでもない。普通に楽しかったから、また一緒にどこか行かないか?」
「そうだね、いつ行こうか!?」
「僕はいつでも構わないから、また今回みたいに望月さんが空いてるときで良い」

 僕の言葉を聞いた望月さんは、また優しく笑った。

 望月さんと話すと、いつもこうだ。胸が温かくなって、でも少しの間会えないことが寂しい。

 もしかしたら、人はこれを恋と呼ぶのかもしれない。だったら僕はどれだけチョロいのだろうか。

 だけど僕は、チョロくてもいいから、少しでも望月さんとの関係を深めたくて。

「それじゃあね、七瀬くん」

 望月さんはただ挨拶をしただけだけど。

 すう、と緊張する胸に空気を取り入れる。

「じゃあまたね、詩音さん」

 言ってすぐ、急に名前で呼ぶのは気持ち悪かっただろうか、嫌われるだろうか、と頭の中を不安が覆い隠す。

 不安と緊張でまともな思考も出来ない中僕の意識に入り込んだ声は。

「またね、文也くん」

 詩音さんの方を見ると、ありたっけの笑みを顔に浮かべていた。

 いつも教室で見ているものとは明確に違い、いつも僕に向けられているものの上位互換みたいな笑顔を浮かべていた。

 僕の口角も自然に上がり、胸が苦しくなった。