僕たちは、引き続き詩音さんの家で作業を続けた。

 互いに知っての通り、詩音さんの父親はどこかに出て行ってしまい、母親は過労死してしまったらしく、現在詩音さんの家に住んでいるのは詩音さん一人だ。

 明日が休日なこともあって今日は詩音さんの家に泊まり込みで作業だ。

 友達の家に泊まるという連絡を母に入れており、準備は既に万端。

「僕の人生はうっすいから、内容に厚みを持たせるためには山咲さんたちとの敵対も描くことは必要だと思ってる。だけど僕は、山咲さんを完全な悪役として描きたくはない。彼女が悪だとは思ってもいない」

 これまで僕たちに嫌がらせをしてきたという事実は間違いなく存在している。

 内心彼女たちを軽蔑しているような部分もあるが、なにかやむを得ない事情があったのではないかと、そう信じたいと思っている部分もある。

 このことを詩音さんに話すと、いつも「お人好しだね」と笑われ、「そこも文也くんの魅力なんだけど」と褒められ(?)、「でも、私はそう思えないな」と諭される。

 今回もそうなのかと思ったが、そうではないようだった。

「文也くんが何回かそう言ったから気を付けて観察してみたんだけど、私も確かにそんな気がしてきてる。だから、来週本人に直接訊いてみようと思う」
「でも、詩音さんは苦手なんじゃないの?」

 山咲さんが詩音さんのことを片親だと言って嗤ったあの日から、詩音さんは山咲さんやクラスメイトたちに強い恐怖心を抱いているらしかった。

 その気持ちは、僕にも痛いほどわかる。

 人間が怖かった時期は僕にもあった。

 最近は、詩音さんの影響と、いじめられるという形とはいえ人間との関わりが生まれたことで、その気持ちが目立つ機会は以前よりも少なくなった。

 だけど、詩音さんと出会う前までは、人間はなにか得体の知れない怪物みたいなものだと思っていた。

「大丈夫……ではないけど、私も少しずつ成長しないといけないから。でも、なにかあったら文也くんに助けを求めるね」
「それは構わないけど、無理はし過ぎないでね」

 人間を恐れる気持ちがわかるからこそ、それを理性で抑えて克服しようとする詩音さんの強さは、僕の目には眩い光のように見えた。

「それで、ええとなんだっけ。ああそうだ、いじめ役の人を完全な悪役にはしたくないってことだよね。だったら、裏の事情をどこかで語るっていうのがいいんじゃないかな」
「裏の事情?」
「例えば、周囲からの同調圧力とか」

 なるほど、グループの中で仲間外れにされたくなくて仕方なくいじめに加担するというのは現実でもよくあることだと聞く。

 僕はそういう経験がないので、それが本当なのかはわからないけど。

 実際の僕の人生に当てはめるのなら、先にいじめられるのは僕ということになる。

 グループの中で詩音さんにいつもくっついている邪魔者である僕を潰そうという意見が強いということになり、詩音さんが大好きということになるが――。
 
 そんな僕の疑問を、心を読んだかのように詩音さんが先回りして潰す。

「そこはほら、親に歪んだ愛情を注がれて、それで物語の中の『私』にも歪んだ愛情を向けるようになっちゃったとか」
「なるほど、詩音さんはなかなか上手くやるね。この手腕の差も、受賞の決め手になったのかもしれない」

 僕にはこんなに素早く上手く辻褄を合わせることは出来ないだろう。

「まあ、慣れだよ。積極的に辻褄を合わせようとしてるうちに身に付くから。おすすめは、日常で見かけるなにかにストーリーを見出してみたりとか」
「わかった、意識してみる」

 詩音さんと一緒に作業をすると、自分だけでは見つけられなかったことを見つけることが出来て、過去最高に有意義な時間を過ごせる。

 詩音さんが受賞したときは烈火の如く怒ったのに、今となっては詩音さんが小説を書いていることに感謝までする始末だ。

 そこで重要な事実を思い出す。

「そういえば、詩音さんの受賞、まだ祝ってない……。本当ごめん、受賞おめでとう」
「謝るようなことじゃないよ。でも、ありがとう」

 そう答えた詩音さんは、謝るようなことじゃないと言いながらも、少し目を潤ませる。

「ごめん、本当に」
「いや、違う、違うの……。ただ、文也くんが祝ってくれたのが嬉しくて」

 言う度、目に涙が溜まっていき、ついには溢れた涙がゆっくり詩音さんの頬を伝う。

「頑張って良かった……! 小説を書いてて良かった……」
「え、僕、え」

 僕はなにがなんだかわからない。

 僕が祝っただけでこうなるとは思えないが、かといって他に要因は見つからず……。

 おどおどと挙動不審に陥る僕の様子を見兼ねてか、詩音さんは口を開く。

「文也くんに祝ってもらえて、これまでの頑張りが全部、報われたような気がして、嬉しくて……」

 その表情は、涙を流しながらも笑っていた。

「嬉し涙、って実在したんだ」
「サイコパスみたいなこと言うね……」

 詩音さんは冗談めいた風に言った。

 しかし、もしかしたら、僕がサイコパスだというのもあながち間違いではないのかもしれない。

 小学校を卒業してから詩音さんに出会うまで、ずっと人を避け続けた僕は、当然人の気持ちの機微なんて上手く読み取ることが出来ない。

 なぜそんな感情に陥るのかもわからない。

 この、感情への理解の浅さはもしかしたら――。

「でも、文也くんは優しい。だからきっと、サイコパスとかじゃないとも思うんだけど」

 詩音さんはまた、いつもと同じように僕の自己嫌悪を潰してくれる。

「そうだといいと、思ってる」

 詩音さんは静かに頷いて、執筆作業に戻った。

 ひたすら作業に取り組む詩音さんの姿に感化され、僕もパソコンの画面を睨んだ。