「おはよう、文也くん」

 翌朝僕が学校へ歩いて向かっていると、なぜか駅前に立っていた詩音さんが、僕に声をかけてくれた。

「詩音さん、わざわざ駅まで来たの……?」
「迷惑、だったかな」

 僕の訊き方が悪かったのか、詩音さんは申し訳なさげに言う。

「そういうわけじゃなくて、寒い中ここまで、僕のために来たの?」
「うん、出来るだけ早く文也くんと会いたかったから」

 しおらしいその言葉に胸が高鳴るのを感じる。

「僕はあんなに酷いことをしたっていうのに、詩音さんは囚われすぎなんじゃないかな」
「いいのいいの。それは文也くんに私の読みたい小説を書かせるってことで解決したんだから」

 言いながら詩音さんは優しく僕の手を取った。

「ほら、早く行こ。ホームルームに遅れちゃうよ」
「ごめん」
「謝ることじゃないけど、行こ」

 詩音さんの言う通り僕たちはゆっくり歩き始めたが、歩き始めても詩音さんがなかなか僕の手を離さない。

「詩音さん、手……」
「繋いでたら、駄目かな……?」

 不安げに首を傾げた詩音さんに、わざわざ手を離せと告げることは僕には出来ず、無言で首を振ることしか出来なかった。

 そんな僕に、詩音さんは目を爛々と輝かせて僕の手を強く握る。

「もう離さないからね」

 喜びと期待と、ほんの少しの狂気が目に籠っている。

「もう、離したくない……」
「大丈夫、絶対離さないから」

 詩音さんが僕を必要としてくれることが嬉しくて、僕の手を握った詩音さんの手をしっかり確かに握り返す。

 寒い冬でも、手の温もりが心を暖める。

 詩音さんを見ると、彼女は僕に心を許したような表情だった。

「私、辛かった」

 僕に本音を告げる詩音さんの言葉を聞いて、彼女の身にこれまで起こったと聞いていることを思い返し、僕はなにを言うことも出来ない。

「お父さんが出て行ったときは怒った。悲しかった。なんで、って泣いて喚いて、お母さんに苦労もかけた」

 それは詩音さんの小説に綴られていた感情とは少し異なっていて、これが本当の詩音さんの感情なんだと思い現実味も強かった。

「それ以降、お母さんに迷惑をかけないように優等生を演じてきた。小説を書く時間も満足に取れなくて、自分の気持ちを吐き出すことも出来なくなって、いつかしか本当の自分も見失ってた」

 小説に綴るでもなく、誰にも言えず詩音さん自身の胸の内に秘めていた感情が、行き場を見つけて溢れ出したようだった。

 僕はそれと真剣に向き合って受け入れなければならないと思い、詩音さんの言葉にさらに耳を傾ける。

「そんな中でお母さんも過労死して、怒りと嘆きと悲しみと寂しさと、いろいろ入り混じってごっちゃになった感情が溢れだして、抑えられなくて、それで、お葬式で暴れだしちゃって、本当親不孝者だよ、私は」

 詩音さんは自虐して笑った。

「詩音さんは、とても、大人だ。親不孝者なんかじゃないと思う」

 息を吸うかのように自然に、その言葉が湧いてきた。

 詩音さんは親のことを考えて生きていて、自分のことしか考えずに暮らしてきた僕とは比較にならない親孝行者。

 それを前にすれば、他の誰も詩音さんに勝るような親孝行はしていないと、心からそう思った。

「そう言ってもらえると、嬉しいんだけど……」
「詩音さんのお母さんのことはわからないけど、たとえ自分の葬式が滅茶苦茶にされたとしても、きっと詩音さんの気持ちが晴れる方が大事だったと思う」

 僕に、そんなことを偉そうに言う資格は無いし、詩音さんのお母さんとは会ったこともない。

 しかし、なぜかそれが正解なんだと思えた。

「……やっぱり、文也くんと一緒にいると、落ち着けるような気がする」
「それはたぶん僕だからじゃなくて、詩音さん自身の心境の変化だと思う」

 僕にはそんな特別な性質も能力もない。

「最初に文也くんに話しかけたのは、私と同じで小説を書いてたからだった。だけど、今は文也くん自身に魅力を感じてる」

 僕には特別な性質も能力もないけど、人ひとりを惹き付けて、その支えになることくらいは出来たみたいだった。

「ありがとう、としか言えないんだけど……」
「大丈夫だよ、返事を求めて言ったわけじゃないから」

 それから、特に話すこともなくなった僕たちは沈黙を受け入れたが、気まずい沈黙ではなく、心落ち着く沈黙だった。

 黙々と歩く僕らはそれでも手を繋いでいて、それは沈黙というより手と手でわかりあっているという表現の方が正しい。

「……詩音さん、そろそろ学校も見えてきたし、手を離さない?」
「離したくない……」
「でも、この様子を見られたらまたなにか言われるかもしれない」
「それでもいいから、今は」

 僕自身はたとえなにか言われたとしても気にしないので、詩音さんがそれでいいというなら、このままでいいやと詩音さんの手を再び強く握る。

 すると詩音さんも僕の手を握り返してくれて、もう離さないんだと実感する。

 しばらくその状態で歩き、昇降口に着くと、周囲からの好奇の目線が浴びせられる。

 詩音さんは平気かと隣を見ると、堂々とした表情をしていたので、僕は再び正面を向いた。

 教室に入ると、先ほどよりも敵意の割合の多い視線が向けられる。

 普段ならなにか影響を受けている詩音さんは、今日は我関せずと言った表情で僕の手を強く握っていた。

「詩音さん、そろそろ手を離さないと着席出来ないよ」

 詩音さんは少し不服そうな表情をしたが、なにを言うでもなく自分の席へ移動した。

「七瀬、詩音と付き合ったの?」

 嘲りの色を織り交ぜながら、隣の女子生徒は言った。

 僕たちのことを嘲笑するような人にわざわざ答える必要もなかったが、詩音さんに迷惑をかけるのは良くないかと思い、答える。

「そういうわけじゃない」

 敵意という鎧で身を包まなければ、まだまだ他人と話すのは怖い。だから、どうしても刺々しさを隠しきれず、それを感じ取ったのか隣の女子生徒は舌打ちした。

 僕は彼女が少しだけ恐ろしかったが、見渡すとそこには詩音さんの姿があって、すぐに恐怖心は収まる。