詩音さんがクラス中から攻撃されていて、少し心配だという考えが脳裏に浮かび、足を一歩踏み出す。
しかし、詩音さんは僕を裏切ったという考えも浮かんでどうしても意地を張ってしまい、一歩踏み出した足を引っ込めた。
詩音さんは腰を下ろしたが、その怒りを秘めたような横顔を見れば、僕が意地を張ったことが悔やまれる。
僕が詩音さんの横顔を見ていると、彼女がこちらに視線を移動させた。
一瞬目が合った。
複雑な感情を隠しているであろうその無表情が澄ましているように感じられて、僕は理不尽にも詩音さんに苛立ちを感じてしまう。
だから詩音さんの顔をこれ以上見たくなくて、目を逸らした。
ちょうど同じタイミングでホームルームが始まり、それ以降は詩音さんの存在を元からなかったものとして扱いながら執筆に打ち込んだ。
幸い、先のコンテストで受賞出来なかった悔しさと、参考になる作品がたくさんあることから小説を書くことへのモチベーションは過去最高級に高まっている。
自分を高めるのに他人の干渉は必要ない。
だから僕は独りで小説を書き続ける。
独りでも小説家になるため。
そうやって一度集中してみれば時間が過ぎるのは早くて、集中が途切れても同じクラスにいる詩音さんへの闘争心ですぐに集中力を発揮することが出来た。
小説を書く以外にも、今回の受賞作の中で、詩音さんの作品以外の大半をきりの良いところまで読了し、次の作品に応用できるところを探した。
結果的に、帰りのホームルームが終わるまでに次のコンテストを見据えた新作の構想が大まかに定まった。
帰り道をだらだらと歩きながら詳しいところを詰めていく。
新作の情報が詳しく決まっていけば決まっていくほど、その分執筆が速く進められるという期待感が大きくなっていく。
家に着いた僕はまずパソコンを開き、次にいつもの癖でスマホを開いてメッセージアプリを確認する。
だがその画面を見た瞬間詩音さんをブロックしていることに気づき、ノータイムでスマホを閉じる。
あらかじめ開いておいたパソコンで小説投稿サイトを開き、新規の小説を作成する。
そこからはいつも通り、小説を書くことに没頭する日常。
関わりのないはずのクラスメイトから連絡が届いたり、遊びに誘われたりするイレギュラーが起こることはなく、独りで自分の言葉をキーボードにひたすら叩き込む。
否、それが「自分の言葉」と呼べるものなのかはわからない。
ただ、コンテストの受賞作品を、小説投稿サイトのランキング上位作品を、かき集めて繋ぎ合わせただけ。
これは「自分の言葉」じゃなく、「読者が求めている言葉」だ。
果たして僕は、本当に小説家になりたいのか。
僕の好きなジャンルを書かないようになって、人気のジャンルばかりを書くようになった。
僕の好きなジャンルを読まないようになって、いわゆる人気作ばかりを読み漁るようになった。
本当にこれで僕の望む未来はやってくるのか、自分にもわからなくなっていた。
そこで詩音さんの言葉が思い出される。
『七瀬くんは、純文学要素が強い作品を書くんだと思ってたけど、話を聞く限りでは七瀬くんが書いているのは娯楽小説っぽいと思って』
ああもう、うるさい。
詩音さんのことは忘れると決めたじゃないか。
どうして今になって、求めているわけでもなくむしろ邪魔なのに二カ月以上も昔のことが思い出されるんだ。
忘れようとするほど、詩音さんの笑顔が記憶の中で蘇る。
幸せそうな表情、楽しそうな表情、はにかんだ表情。
次々と思い出されるそれらが鬱陶しくて、だけど――。
「楽しかったなあ」
忘れてしまいたい、そう思ってるのに忘れたくないと思う気持ちもある。
やっぱり人間は、人と繋がる経験を知ってしまったら孤独にはそう簡単には戻れないようにできているのかもしれない。
じゃあ、素直に詩音さんのLINEのブロックを解除して謝って、もう一度仲良くさせてもらうか。
そう思って詩音さんとのトーク画面を開いてブロック解除ボタンをタップしようとする。
手が震える。
今思い返してみれば、僕が詩音さんにしたのは相当ひどい八つ当たりで、あんなことを言われたら並みの人間なら怒ることに間違いない。
かくいう僕もあんなことを言われたら怒る。
ブロックを解除しようとしても、詩音さんに嫌われているかもしれないことが怖い。
詩音さんが僕にどんな感情を抱いてどんな言葉をかけるのか、想像すると恐ろしくてたまらない。
僕はほとんど無意識に、詩音さんの作品を開いていた。何度か目に入ったタイトルが気になったから。
その中に、詩音さんの僕への思いが綴られているかもしれないと、そう期待したから。
そのタイトルは、「弱い私に、君が強さをくれた」。
「君」というのは果たして僕なのか、それとも別の誰かなのか。
試しにその作品目を通すが、最初の数話は「君」が出てくる気配はなかった。
主人公の少女の父親が出ていき、残った母親は少女に不自由させまいと必死に働き、死亡した。
そこまで作品内で語られてやっと気づく。
これは、おそらく詩音さん自身の体験談をもとにして書かれた話。いわばノンフィクションに近いものだ。
その中には詩音さんの心の機微が正確に描かれていて、両親がいなくなった後の詩音さんの心の拠り所は小説になっていたことも示されていた。
僕は、詩音さんが大した努力もせずコンテストで受賞したなどと言ったことがあったが、そんなことはなかった。
詩音さんの母親が亡くなったのは、今から三年前。
それからずっと小説に没頭し続けているらしい。
それなのに大した努力もしていないとは、絶対に言えない。
僕はやっと、事態の深刻さが理解できた。
今問題になっているのは、「僕が」嫌われるとか、「僕が」傷つくとか、そんなことじゃない。
僕のどうでもいい嫉妬で詩音さんを不快な気持ちにさせてしまったことが、この場合大問題なんだ。
僕は無意識のうちにスマホを取り出して、すぐに詩音さんのブロックを解除して電話をかけた。
突然電話をかけたら迷惑かもしれない。
そう思って電話を切るボタンを押そうとするが、その前に詩音さんが電話に出る。
『文也くん?』
詩音さんが僕の名前を呼んだ。
その声の裏にどんな感情が隠れているのか僕にはわからず、なにを話せばいいのやら、頭が真っ白になって返事が出来ない。
でも詩音さんが電話に出てくれたから、僕は得体の知れない焦燥感に駆られてなんとか話す内容を考え、早口で言葉を紡ぐ。
「詩音さん、ごめん。詩音さんのことなにも知らないのに、僕が信頼したのが悪かったとか、僕のことを見下してたとか――」
『待って文也くん、落ち着いて』
詩音さんの優しい声で、僕は落ち着きを取り戻す。
間髪入れずに詩音さんは僕を落ち着ける言葉を続けた。
『文也くん、大丈夫。私はずっと文也くんの味方だから。なにも気にしてないよ』
落ち着いて考えると、これまで詩音さんが僕のことを悪く言ったことは一度もなかった。
これまでのすべて、僕の被害妄想だ。
「不快な気持ちにさせてしまったよね、本当に申し訳ないと思ってる。だから、どんな罰でも受ける覚悟です」
『大丈夫だよ、まったく不快な気持ちになってないし、罰なんて与えようとも思わない。それに、私こそ謝るべきだよ。文也くんが本気で小説家になりたいって思って、長い間努力をしてきたのに、文也くんにも言わず勝手にコンテストに応募したりして』
「努力したかどうかは結果には関係ない。それに、誰にも言わずコンテストに応募する権利くらい、誰にもあるものだ。そこにいちゃもんをつけた僕が全部悪い。なにか罰を受けないと、僕が納得出来ない」
これは一種のけじめだ。
僕は詩音に迷惑をかけてしまった。
だから、それなりに責任を取らなければならない。
だが詩音さんはそう思っていないのか、少しの間黙りこんだ。
『どうしても?』
しばしの静寂ののちに詩音さんは僕に尋ねた。
「どうしても」
ノータイムで応えると、詩音さんは「仕方ない」と言った。僕がしつこく言ったからか、詩音さんは僕に罰を科すつもりになってくれたらしい。
詩音さんは、どんな罰を僕に科すのかしばらく黙って考え込んでいるようで、その間に僕は新作の情報を小説投稿サイトに書き込み始めた。
『じゃあ、文也くんのこれまでの人生を小説にして、私に読ませてほしい。あとコンテストにも出して』
「そんなことでいいの? 僕にとっては罰になってないけど……」
『いいんだよ、私が文也くんのこともっと知りたいから』
詩音さんがいつも通りに僕のことを気にかけてくれて、どうしようもなく嬉しくなった。
「じゃあ、次のコンテストには僕の人生を描いた作品を出すことにするよ。……でも僕はノンフィクション寄りの作品は書いたことが無いから、詩音さんの作品を参考にしてもいいかな」
『もちろん、好きなようにいじくりまわして。文也くんくらい実力がある人なら、なんにしろいい作品に仕上げてくれるだろうから』
快くオーケーしてくれた詩音さんに心の中で感謝しながら、湧き出たモチベーションを逃さぬよう早速新規の小説を作成してあらすじまでメモする。
『……待って文也くん、今どこまで読んだ?』
「詩音さんの作品のこと? それなら今は詩音さんの母親が亡くなって、小説のを書くことに没頭するようになったくらいだよ」
『ごめん、悪いけど高校入学くらいまでで読むのやめておいてくれない?』
詩音さんの作品なので、読んではいけないと言われたところまで読むつもりはさらさらないが、奇妙な質問だ。
「それはもちろん構わないんだけど、どうして?」
『文也くんに読ませるには恥ずかしすぎる内容が書いてあるから。でも文也くんが小説を読む権利を奪う権利は私にはないから、出来れば読まないでほしいとしか言えない……』
僕も詩音さんも、互いに権利は相手にあると考えているらしく、小さな譲り合いが起きていた。
詩音さんによれば選択権は僕にあるらしいが、僕は詩音さんが求めている通り読んで欲しくない部分は読まないことにした。
『文也くん。明日、学校で話しかけてもいい?』
「僕のことを許せないなら、無理に話しかけなくてもいい。でももし許してくれるなら、話しかけてくれると嬉しい」
遠回しな表現になってしまったが、今の僕はもう図々しく「話しかけてもいいよ」なんて偉そうなことは言えない。
だから僕は、選択を詩音さんに委ねた。
『じゃあ、話しかけるね。今日は文也くんと話せなくて辛かったんだよ?』
詩音さんが不満げに言った。
僕の行動がここまで詩音さんに影響を与えるということは、完全に失念していた。
「……ごめん、本当に」
『文也くんと一緒にいることが私にとっての幸せだ。それがわかってくれたなら、いいんだよ』
「そこまで思ってくれていたってことは、知らなかった」
『わかってくれたならもういいから。また明日、楽しみにしてるね』
詩音さんとの電話ももう終わりかと時計を確認すると、詩音さんに電話をかけた頃から一時間近く経っていた。
そんなに多くの内容を話した記憶はないのに、なぜこんなに時間が経ってしまったのだろう。
今日はもうあまり時間がないが、思いつく限りのことを忘れる前に、あらすじ以外も含めてどんどんメモしていく。
僕のこれまでの人生を振り返り、その中から印象的な出来事を抜粋して小説風に書き換える。
その作業に熱中していると、気づけば日付が変わっていた。
「……そろそろ寝ることにしようかな」
明日は詩音さんと話せるし、と心の中でだけ呟き、パソコンを充電器に繋いで電気を消し、暗闇の中を手探りでベッドまで移動してそのままベッドに横になる。
明日は詩音さんと話せる、再びそう考えると少し目が覚めてしまう。
普段なら布団に入ってすぐに寝られるはずなのに、怒りで寝られなかった昨日と、興奮で寝られない今日。
これらも含めて、詩音さんと出会ってから、僕の人生にはイレギュラーが続いている。
それはいい意味でのこともあったり、悪い意味でのイレギュラーもある。でも、総合的に見れば絶対に僕の人生のプラスになっている。
心がぽかぽかと温まる。
幸せって、こういうことなんだろうな。
しかし、詩音さんは僕を裏切ったという考えも浮かんでどうしても意地を張ってしまい、一歩踏み出した足を引っ込めた。
詩音さんは腰を下ろしたが、その怒りを秘めたような横顔を見れば、僕が意地を張ったことが悔やまれる。
僕が詩音さんの横顔を見ていると、彼女がこちらに視線を移動させた。
一瞬目が合った。
複雑な感情を隠しているであろうその無表情が澄ましているように感じられて、僕は理不尽にも詩音さんに苛立ちを感じてしまう。
だから詩音さんの顔をこれ以上見たくなくて、目を逸らした。
ちょうど同じタイミングでホームルームが始まり、それ以降は詩音さんの存在を元からなかったものとして扱いながら執筆に打ち込んだ。
幸い、先のコンテストで受賞出来なかった悔しさと、参考になる作品がたくさんあることから小説を書くことへのモチベーションは過去最高級に高まっている。
自分を高めるのに他人の干渉は必要ない。
だから僕は独りで小説を書き続ける。
独りでも小説家になるため。
そうやって一度集中してみれば時間が過ぎるのは早くて、集中が途切れても同じクラスにいる詩音さんへの闘争心ですぐに集中力を発揮することが出来た。
小説を書く以外にも、今回の受賞作の中で、詩音さんの作品以外の大半をきりの良いところまで読了し、次の作品に応用できるところを探した。
結果的に、帰りのホームルームが終わるまでに次のコンテストを見据えた新作の構想が大まかに定まった。
帰り道をだらだらと歩きながら詳しいところを詰めていく。
新作の情報が詳しく決まっていけば決まっていくほど、その分執筆が速く進められるという期待感が大きくなっていく。
家に着いた僕はまずパソコンを開き、次にいつもの癖でスマホを開いてメッセージアプリを確認する。
だがその画面を見た瞬間詩音さんをブロックしていることに気づき、ノータイムでスマホを閉じる。
あらかじめ開いておいたパソコンで小説投稿サイトを開き、新規の小説を作成する。
そこからはいつも通り、小説を書くことに没頭する日常。
関わりのないはずのクラスメイトから連絡が届いたり、遊びに誘われたりするイレギュラーが起こることはなく、独りで自分の言葉をキーボードにひたすら叩き込む。
否、それが「自分の言葉」と呼べるものなのかはわからない。
ただ、コンテストの受賞作品を、小説投稿サイトのランキング上位作品を、かき集めて繋ぎ合わせただけ。
これは「自分の言葉」じゃなく、「読者が求めている言葉」だ。
果たして僕は、本当に小説家になりたいのか。
僕の好きなジャンルを書かないようになって、人気のジャンルばかりを書くようになった。
僕の好きなジャンルを読まないようになって、いわゆる人気作ばかりを読み漁るようになった。
本当にこれで僕の望む未来はやってくるのか、自分にもわからなくなっていた。
そこで詩音さんの言葉が思い出される。
『七瀬くんは、純文学要素が強い作品を書くんだと思ってたけど、話を聞く限りでは七瀬くんが書いているのは娯楽小説っぽいと思って』
ああもう、うるさい。
詩音さんのことは忘れると決めたじゃないか。
どうして今になって、求めているわけでもなくむしろ邪魔なのに二カ月以上も昔のことが思い出されるんだ。
忘れようとするほど、詩音さんの笑顔が記憶の中で蘇る。
幸せそうな表情、楽しそうな表情、はにかんだ表情。
次々と思い出されるそれらが鬱陶しくて、だけど――。
「楽しかったなあ」
忘れてしまいたい、そう思ってるのに忘れたくないと思う気持ちもある。
やっぱり人間は、人と繋がる経験を知ってしまったら孤独にはそう簡単には戻れないようにできているのかもしれない。
じゃあ、素直に詩音さんのLINEのブロックを解除して謝って、もう一度仲良くさせてもらうか。
そう思って詩音さんとのトーク画面を開いてブロック解除ボタンをタップしようとする。
手が震える。
今思い返してみれば、僕が詩音さんにしたのは相当ひどい八つ当たりで、あんなことを言われたら並みの人間なら怒ることに間違いない。
かくいう僕もあんなことを言われたら怒る。
ブロックを解除しようとしても、詩音さんに嫌われているかもしれないことが怖い。
詩音さんが僕にどんな感情を抱いてどんな言葉をかけるのか、想像すると恐ろしくてたまらない。
僕はほとんど無意識に、詩音さんの作品を開いていた。何度か目に入ったタイトルが気になったから。
その中に、詩音さんの僕への思いが綴られているかもしれないと、そう期待したから。
そのタイトルは、「弱い私に、君が強さをくれた」。
「君」というのは果たして僕なのか、それとも別の誰かなのか。
試しにその作品目を通すが、最初の数話は「君」が出てくる気配はなかった。
主人公の少女の父親が出ていき、残った母親は少女に不自由させまいと必死に働き、死亡した。
そこまで作品内で語られてやっと気づく。
これは、おそらく詩音さん自身の体験談をもとにして書かれた話。いわばノンフィクションに近いものだ。
その中には詩音さんの心の機微が正確に描かれていて、両親がいなくなった後の詩音さんの心の拠り所は小説になっていたことも示されていた。
僕は、詩音さんが大した努力もせずコンテストで受賞したなどと言ったことがあったが、そんなことはなかった。
詩音さんの母親が亡くなったのは、今から三年前。
それからずっと小説に没頭し続けているらしい。
それなのに大した努力もしていないとは、絶対に言えない。
僕はやっと、事態の深刻さが理解できた。
今問題になっているのは、「僕が」嫌われるとか、「僕が」傷つくとか、そんなことじゃない。
僕のどうでもいい嫉妬で詩音さんを不快な気持ちにさせてしまったことが、この場合大問題なんだ。
僕は無意識のうちにスマホを取り出して、すぐに詩音さんのブロックを解除して電話をかけた。
突然電話をかけたら迷惑かもしれない。
そう思って電話を切るボタンを押そうとするが、その前に詩音さんが電話に出る。
『文也くん?』
詩音さんが僕の名前を呼んだ。
その声の裏にどんな感情が隠れているのか僕にはわからず、なにを話せばいいのやら、頭が真っ白になって返事が出来ない。
でも詩音さんが電話に出てくれたから、僕は得体の知れない焦燥感に駆られてなんとか話す内容を考え、早口で言葉を紡ぐ。
「詩音さん、ごめん。詩音さんのことなにも知らないのに、僕が信頼したのが悪かったとか、僕のことを見下してたとか――」
『待って文也くん、落ち着いて』
詩音さんの優しい声で、僕は落ち着きを取り戻す。
間髪入れずに詩音さんは僕を落ち着ける言葉を続けた。
『文也くん、大丈夫。私はずっと文也くんの味方だから。なにも気にしてないよ』
落ち着いて考えると、これまで詩音さんが僕のことを悪く言ったことは一度もなかった。
これまでのすべて、僕の被害妄想だ。
「不快な気持ちにさせてしまったよね、本当に申し訳ないと思ってる。だから、どんな罰でも受ける覚悟です」
『大丈夫だよ、まったく不快な気持ちになってないし、罰なんて与えようとも思わない。それに、私こそ謝るべきだよ。文也くんが本気で小説家になりたいって思って、長い間努力をしてきたのに、文也くんにも言わず勝手にコンテストに応募したりして』
「努力したかどうかは結果には関係ない。それに、誰にも言わずコンテストに応募する権利くらい、誰にもあるものだ。そこにいちゃもんをつけた僕が全部悪い。なにか罰を受けないと、僕が納得出来ない」
これは一種のけじめだ。
僕は詩音に迷惑をかけてしまった。
だから、それなりに責任を取らなければならない。
だが詩音さんはそう思っていないのか、少しの間黙りこんだ。
『どうしても?』
しばしの静寂ののちに詩音さんは僕に尋ねた。
「どうしても」
ノータイムで応えると、詩音さんは「仕方ない」と言った。僕がしつこく言ったからか、詩音さんは僕に罰を科すつもりになってくれたらしい。
詩音さんは、どんな罰を僕に科すのかしばらく黙って考え込んでいるようで、その間に僕は新作の情報を小説投稿サイトに書き込み始めた。
『じゃあ、文也くんのこれまでの人生を小説にして、私に読ませてほしい。あとコンテストにも出して』
「そんなことでいいの? 僕にとっては罰になってないけど……」
『いいんだよ、私が文也くんのこともっと知りたいから』
詩音さんがいつも通りに僕のことを気にかけてくれて、どうしようもなく嬉しくなった。
「じゃあ、次のコンテストには僕の人生を描いた作品を出すことにするよ。……でも僕はノンフィクション寄りの作品は書いたことが無いから、詩音さんの作品を参考にしてもいいかな」
『もちろん、好きなようにいじくりまわして。文也くんくらい実力がある人なら、なんにしろいい作品に仕上げてくれるだろうから』
快くオーケーしてくれた詩音さんに心の中で感謝しながら、湧き出たモチベーションを逃さぬよう早速新規の小説を作成してあらすじまでメモする。
『……待って文也くん、今どこまで読んだ?』
「詩音さんの作品のこと? それなら今は詩音さんの母親が亡くなって、小説のを書くことに没頭するようになったくらいだよ」
『ごめん、悪いけど高校入学くらいまでで読むのやめておいてくれない?』
詩音さんの作品なので、読んではいけないと言われたところまで読むつもりはさらさらないが、奇妙な質問だ。
「それはもちろん構わないんだけど、どうして?」
『文也くんに読ませるには恥ずかしすぎる内容が書いてあるから。でも文也くんが小説を読む権利を奪う権利は私にはないから、出来れば読まないでほしいとしか言えない……』
僕も詩音さんも、互いに権利は相手にあると考えているらしく、小さな譲り合いが起きていた。
詩音さんによれば選択権は僕にあるらしいが、僕は詩音さんが求めている通り読んで欲しくない部分は読まないことにした。
『文也くん。明日、学校で話しかけてもいい?』
「僕のことを許せないなら、無理に話しかけなくてもいい。でももし許してくれるなら、話しかけてくれると嬉しい」
遠回しな表現になってしまったが、今の僕はもう図々しく「話しかけてもいいよ」なんて偉そうなことは言えない。
だから僕は、選択を詩音さんに委ねた。
『じゃあ、話しかけるね。今日は文也くんと話せなくて辛かったんだよ?』
詩音さんが不満げに言った。
僕の行動がここまで詩音さんに影響を与えるということは、完全に失念していた。
「……ごめん、本当に」
『文也くんと一緒にいることが私にとっての幸せだ。それがわかってくれたなら、いいんだよ』
「そこまで思ってくれていたってことは、知らなかった」
『わかってくれたならもういいから。また明日、楽しみにしてるね』
詩音さんとの電話ももう終わりかと時計を確認すると、詩音さんに電話をかけた頃から一時間近く経っていた。
そんなに多くの内容を話した記憶はないのに、なぜこんなに時間が経ってしまったのだろう。
今日はもうあまり時間がないが、思いつく限りのことを忘れる前に、あらすじ以外も含めてどんどんメモしていく。
僕のこれまでの人生を振り返り、その中から印象的な出来事を抜粋して小説風に書き換える。
その作業に熱中していると、気づけば日付が変わっていた。
「……そろそろ寝ることにしようかな」
明日は詩音さんと話せるし、と心の中でだけ呟き、パソコンを充電器に繋いで電気を消し、暗闇の中を手探りでベッドまで移動してそのままベッドに横になる。
明日は詩音さんと話せる、再びそう考えると少し目が覚めてしまう。
普段なら布団に入ってすぐに寝られるはずなのに、怒りで寝られなかった昨日と、興奮で寝られない今日。
これらも含めて、詩音さんと出会ってから、僕の人生にはイレギュラーが続いている。
それはいい意味でのこともあったり、悪い意味でのイレギュラーもある。でも、総合的に見れば絶対に僕の人生のプラスになっている。
心がぽかぽかと温まる。
幸せって、こういうことなんだろうな。