僕が集合場所に到着すると、詩音さんは既に来ていて、待たせてしまったかと一瞬焦る。

「ごめん詩音さん、待たせちゃった?」
「ううん、今来たところ」

 彼女はお決まりのセリフを言ったが、実際詩音さんはさほど寒そうにはしていなかったので、本当に今来たところなのかもしれない。もしかしたら必死に取り繕っている可能性もあるかもしれないけど。

「それじゃあお昼ご飯行こうか」

 僕たちがこれから行くのは、お財布に優しく学生からの人気も高い、イタリアンチェーン店だ。

 デートで行くのなら物議を醸す場合もあるらしいが、詩音さんはあまり気にしている様子ではなかったし、そもそもこれはデートだという認識なのかわからない。

「そうだね、あの店はメニューの幅が広すぎて迷ってしまうから、先になにを頼むか考えておこうかな」
「あ、私もそうしよう。あの店、魅力的すぎるんだよね……!」

 昨今の物価高騰ムードの中、大した値上げも行わずにいる店はあのイタリアンチェーン店くらいだ。

 一般的に学生は常に財布の中身がかつかつなので、その店の存在にとても助けられている。

 僕はあまり外出することがなければお金を使うこともないので、そのことを実感する機会は少ないが。

「文也くんなに頼む?」
「僕が行くときはドリアを注文することが多いな」
「あれ確か注文数一位だよね? 税込み三百円だっけ、安いよね」

 もちろん自分が働いて三百円稼ぐことを考えると高いともいえるのだが、昨今の情勢と他店との相対によって判断するととんでもなく安いと判断される。

「半熟卵載せたいけど、五十円上がるんだよね……」

 五十円くらいならいいのではないかと一瞬思ったが、彼女はよく友達と遊びに行っていたし、他にもなにか事情があるかもしれないので、詳しく言及することは避けた。

 悩んだ末彼女が半熟卵を載せないことを決断すると、目的の店はすぐ目の前にあった。

「じゃあ、入ろうか」

 僕は彼女をリードするように扉を開いた。

「いらっしゃいませ。二名様でよろしいでしょうか」

 こなれた接客で出迎えを受けると、二人で座れるテーブル席に案内される。

 幸い、少し早い時間帯だからすぐに案内してもらえて、僕らは窓際のテーブル席に落ち着いた。

「外が見えると、なんかちょっと落ち着く。それに、人が少ないし」
「外が落ち着くのはわかるけど、文也くん本当に人が苦手なんだね。これから場所選ぶときは気をつけなくちゃ」
「気を遣わせてしまって申し訳ない。頑張って克服するから、しばらくは見守ってくれる?」
「うん、いつまででも見守ってる」

 僕は詩音さんの言葉にほっと胸を撫で下ろした。それを横目に詩音さんが店員を呼んだので、注文する準備をする。

 僕と詩音さんがそれぞれドリアを注文するので、一人三百円。

 店側からすればただ客の回転率を悪くする金払いの良くない客に席を取られているということになるのだろうが、そんなことを客に伝えられるはずもない。

 店員さんがやってきて注文を終えると、料理が運ばれてくるまではしばらく暇な時間ができる。

「それにしても、ごめんね。私がお金を持ってないばっかりに」
「別に昼食が高かろうが安かろうが僕はあんまり気にしないから。詩音さんもあんまり気にしないで」

 詩音さんはぱっと顔を明るくした。

「じゃあ遠慮なく、お金がかからないところばっかり回ろうか」
「僕はそれで構わない」

 話しているうちに料理が到着する。

 相変わらず美味しそうな見た目をしていて、安心感さえ覚える。

「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」

 僕らはそれが荘厳な儀式であるかのように手を合わせ、双方ドリアを食べた。

「やっぱりこの味だよね……!」

 詩音さんは目を輝かせて本当に美味しそうにドリアを食べる。

 かくいう僕も、久しぶりに食べるこの店のドリアが想像よりも美味しくて軽く感銘を受けている。

「浅い感想しか出てこないけど、美味しい」

 精一杯ドリアを堪能してそれぞれ支払いを済ませると、各々自分の自転車を取りに駐輪場へ寄り、再び集合する。

「海、調べてきたよ。自転車だったら片道四十分くらいなんだよね?」
「そうだね。だから、かなり時間がかかる。だけど、平坦な道だから喋りながら行ってもそんなに危険にはならないだろうから、問題にはならないんじゃないかな」
「そうだね、じゃあ出発しようか!」

 僕たちは自転車を走らせた。

 いつも通り平坦な道だけあって見応えのない景色だが、隣で詩音さんが自転車を漕いでいるだけでいつもとは違った景色に見える。

「文也くんは、よく海行くんだよね?」
「うん、思い出の場所だ。詩音さんと出会う前、人間関係とか受験勉強とか、苦労したときはいつも見に行ってた」
「最近は行ってないの?」
「執筆漬けだから、最近は家から出てなかったんだよね」

 それも詩音さんと出会う前までの話で、ごく最近の僕は詩音さんといろいろな場所を巡っているので、家から出ていないとは言い難い活動量だ。

「やっぱり、受験勉強は辛かった?」
「辛かった。諦めようと思うことも、なんで勉強してるのかわからなくなることもあった。本気で小説家になりたいから、勉強なんて必要ないとも思った。だけど、この高校に入れたから詩音さんと出会うことが出来た。だから、今は受かって良かったと思ってる」
「私と出会えたから、かあ……。そう言われると、照れちゃうね」

 よく見ると、詩音さんの頬が珍しく紅潮していた。

 本人も言っている通り、照れているのだろう。

 僕は詩音さんのそういう姿をあまり見たことが無かったので、ちょっとラッキーだという気分になる。

 そんな詩音さんに可愛いという言葉が漏れそうになるが、僕は本能的にそれをせき止めた。

 僕がそんなことを言ったら、詩音さんに鬱陶しがられるかもしれない。

 そんなことは絶対にありえないと理性ではわかっていても、何年も相手に対しての感情を口に出すということをしていなかったから、言おうとする声が震える。

 変わりたいって思って、詩音さんにも手伝ってもらってるのに、結局僕は変われない。

 落胆して、自己嫌悪した。

「文也くん」
「ごめん詩音さん、聞いてなかった」

 自分のことなんてどうでもいいから、詩音さんにだけは迷惑をかけないようにしないといけない。

 僕は思考を断ち切った。

「大したことじゃないんだけど、曇ってきたし海が綺麗に見えないかもしれないと思って」

 詩音さんが空を見たので僕も同じように上を向くと、そこに見えたのは満天の雲だった。

「かなり曇ってるね……。海、綺麗に見えるといいな」
「ちょっと不安だね。まあ、綺麗じゃなくても文也くんがいればそれでいいや」

 さっきは詩音さんが頬を紅潮させて照れていたが、今度は僕が頬を紅潮させて照れる番になってしまった。

 僕がいれば、それでいい。

「さすがに言いすぎじゃない? 僕にそこまでの影響力は無いよ」
「そんなことはないよ。文也くんがいるおかげで私の人生が変わったの」

 僕が詩音さんの人生を変えたという実感は全くないが、詩音さん本人がそう言っているのならそうなのかもしれないと思えてくる。

「そう言ってくれると、僕も嬉しい」
「私も、文也くんと会えて心から嬉しい」

 二人きりのこの時間が終わってほしくないと思って、明日のことを考えて憂鬱になる。

「ちょっと変な空気になっちゃったね……。文也くんはこの海の景色を使って小説を書いたこととかあるの?」
「僕はあまり登場人物を海に行かせたりはしないから、まだ出てきたことないよ」
「そっかあ。いつか出す予定はある?」
「どうだろ。今から見る海の景色が印象的だったら、もしかしたら」
「私が印象的にしてやる!」

 彼女は気合を入れるように言う。

 自転車を漕いでいるので実際には出来ないが、胸の前で両拳を拳を掲げる詩音さんの姿が目に浮かぶようだ。

「ありがとう。期待してる」

 思わず微笑みながら僕は言った。

 詩音さんのは目に闘志を込めていて、そこまでするものでもないだろうにと思う気持ちもあれば、そこまでしてくれるのが嬉しいという気持ちもある。

 それから僕は明日のことなんて忘れて詩音さんと雑談しながら自転車を漕ぎ続けた。

 無我夢中で喋っていると、気づけば海まであと少しになっていた。

 海の近くまで来ると、自然と道路だけが周囲にある。

「かなり田舎だけど、本当にこっちであってる?」
「あってる。ここからしばらく行くと、野球場とか大きなショッピングセンターとかいろいろあるから。それが見えてから五分経たないくらいで着くよ」

 この辺りではほとんど最大規模のショッピングセンターだ。帰りにでも寄るのも悪くないかもしれない。

「あれのこと?」
「そうそう」

 ショッピングセンターが見えるくらいの距離までやってきて、詩音さんもその存在に気づいたらしかった。

「あそこはよく春香たちと一緒に行ってたなあ……」
「ごめん、嫌な思い出だった?」
「ううん、大丈夫。いつか文也くんと一緒に行って良い思い出にしたいな」

 詩音さんの言葉に、僕は再び言葉を失う。

 僕はそんなに詩音さんに好かれていたんだ、と何度目かわからない実感をする。

「あ、そこ曲がるよ」
「わかった」

 二人で話していると片道四十分なんて一瞬で、気づけば目的地のすぐ目の前までやってきていた。

「ここ、海っていうより森って感じがするんだけど……」

 暗くて冷たい雰囲気の木々が立ち並ぶその場所だが、木々の間に道路が作ってある。

 薄暗い森のその奥に行くと整備された砂浜があり、海が広がっているはずだ。

「ちょっと行けば海だから」

 言っているうちに僕たちは森を抜け、目の前には砂浜が広がっていた。

 視界の両端は小さな丘によって遮られているが、海と道の間を取り持つガードレールの向こうから溢れ出した砂が整備されたコンクリートを埋め尽くして海を感じさせる。

「砂浜だあ!」

 休日の海には、冬だというのに思ったより多く人がいた。

 砂浜を走り回る人々の後ろに見える海が、雲の隙間から射し込むスポットライトのような淡い光に照らされて金色に輝いている。

「これは、曇ってて良かったかも……!」
「そうだね、晴れてたらこの光景は見られないだろうから」

 走り回っていた人たちも足を止めて、金色の光に正対した。

「皆あの光を見てるね……。来てよかった。本当に、綺麗」

 詩音さんの言葉を聞いて、「詩音さんの方が綺麗だよ」という月並みな言葉が脳裏に浮かんだ。

 でもやっぱりそれを口に出すことは怖くて出来ない。

 そんな僕の姿を見たのか、詩音さんが話しかける。

「ほら、景色を目に焼き付けよう」

 促された通りに海を見る。

 普段はもっと荒れている海が、今日は信じられないほど静かだった。

 普段は藍色の海が、今日は透き通った青だった。

 普段はモノクロの砂浜が、今日は日光を反射してきらきらと輝いていた。

 詩音さんに言われなければ気づかなかった景色が、そこには広がっていた。

「綺麗だ」

 下手な言葉は無用に思えて、ただそれだけ呟いた。

 詩音さんは満足そうに笑っていた。