僕が目を覚ますと、後頭部に柔らかい感触が伝わってくる。

 こんな感触は初めてで、その感触が心地良くてつい二度寝を――。

「文也くん、降りるよ。起きて」

 優しい声を受けて上を見ると、詩音さんが笑顔で僕の顔を覗き込んでいた。

「……膝枕って、膝使わないよね」
「その話は降りてからしよう?」

 同様のあまりか、意味不明なことを詩音さんに話す。

 そして僕は優しく諭されて体を起こした。

 車内から向けられる好奇の視線に耐え切れず、僕は身を縮めてそそくさと電車を降りる。

 なんとなく気まずくて自分から詩音さんに話しかけることをしないで、詩音さんが話しかけてくることもなく改札を出ると、そこでやっと詩音さんが口を開いた。

「古い日本語では膝関節から太もも前面部のことを膝と呼んでいた、とかいろいろ説があるらしいけど……。でもやっぱり、言葉から絵面は想像しづらいよね」
「え?」

 なんのことかと思ったら、膝枕の語源の話だった。

「それはともかく、文也くん熟睡だったね……!」

 なぜか詩音さんの目が光っている。

「ごめん、膝枕なんてさせちゃって」
「いやいや、私がしたかったからやったの」

 そろそろ詩音さんのやばさが露呈してきた気がする。

 詩音さんは、僕にとって都合よく動きすぎではないか。

「膝枕したいってどういうこと……?」
「文也くんが可愛くて、こう、母性が」
「母性?」

 なぜこのタイミングで出てきたのかよくわからない言葉はとりあえず無視する。

 そして、華麗に話題を転換。

「それで、水族館までは確か徒歩十五分だよね?」
「そうだね、駅から結構遠いよね」

 僕たちはゆっくり歩いた。

「そう言えば、詩音さんは好きな魚とかいるの?」
「魚類じゃないけどイルカとか、魚類じゃないけどペンギンとか?」

 こういうのを女性らしい趣味というんだろうか。

 現実はどうなのかわからないが、イルカやペンギンが好きなキャラを見かけることは多い。

 しかしイルカは哺乳類、ペンギンは鳥類なので、水族館に詩音さんの言う通りどちらも魚類ではない。

「じゃあ魚類は好きじゃないの?」

 詩音さんが魚類を一種類も答えなかったので、尋ねる。

「マグロとサーモンは美味しいから好きだなあ」

 ならば泳いでる魚は好きでないというのか。

「美味しいからってそれ寿司じゃん」
「お寿司の話してたら食べたくなってきたな。帰り寿司屋寄らない?」
「よく魚を見た後に寿司を食べようって精神になるね……」

 つい直前まで水槽で泳ぎ回っていたのと同じような種類の生物を食べるということだろう。

 僕はそういうのがあまり得意ではない。

「ははっ、冗談だよ。文也くん相変わらず冗談に弱いね」
「なんだ、そういうことか」

 ふう、と長く息を吐く。

 冗談を言われても馬鹿にされているわけではないということがわかるので、全く腹が立ったりはしなかった。

 なんて不思議な感覚だ、次のコンテストに応募する作品にはこの要素を取り入れても良いのかもしれない、と思う。

「じゃあお昼はどこ行く?」
「私はどこでもいいけど……あ、でも普通に寿司食べたくなってきたなあ」
「そう言われると僕も寿司を食べたくなってきた」

 双方の合意により、今日のお昼ご飯は寿司で決定した。

 水族館で見る魚たちと寿司の関連性については、考えないことにしよう。

「それで、お昼食べたらどうしようか。再入場は出来ないみたいなんだけど……」
「どうしようと言われても、解散じゃないの?」
「いやでも、それだとちょっと寂しくない?」
「そっか……。とりあえずはそろそろ水族館に着くから、見ながら考えようか」

 しばらく歩いて気がつくと、目の前には名前に「水族館」を冠さない、おしゃれで創作に活用できそうな名前の水族館のロゴが設置された建造物があった。

 ロゴからしてこれは明らかに水族館だ。

「そうだね。とりあえず昼までは水族館にいるから、その間に考えとこ」

 僕たちはなかなか高額な水族館のチケットを購入し、水生生物たちが待つ水族館へ入館した。

 水族館の中は少し暗く静かで、だからこそ僕は少し落ち着いた。

 休日の水族館だから、当然人は多くいる。

 だが、暗くて静かな水族館は人の気配を忘れられて、隣を歩く詩音さんだけに集中できるような気がして、落ち着く。

「文也くん、大丈夫?」

 詩音さんが脈絡なく心配の言葉をかけてくれる。

 たぶん、人が苦手な僕のことを気遣ってくれたのだろう。

「思ったよりも混んでるけど、気分が悪くなったりしたらすぐ言ってね」
「いや、暗くて静かだから大丈夫」

 暗くて表情は見えないが、詩音さんの雰囲気は和らいだような気がした。

「そっか、それなら良かったなあ」
「ああ、だから僕のことは気にせず、二人でゆっくり魚を見よう」

 僕が言うと、詩音さんは明るい声を出した。

「魚!」

 淡い光を放つ水槽が幻想的で神秘的で、それを背にした詩音さんの姿がやけに綺麗に見えて僕は絶句した。

 その様子に気づいたのか、詩音さんがこちらに駆け寄ってくる。

「文也くん、どうかした?」
「いや、ちょっと……見惚れてただけ」

 馬鹿正直に言ってしまって少し後悔するが、詩音さんは気づかなかったらしい。

「魚? 可愛いよね~!」

 好きな魚の話ではあれほど魚を避けていたのに、実際目の前にしてみれば虜になるあたり、クラスの人気者の器といったところだろうか。

「僕には魚が可愛いって感覚はよくわからないけどね」
「見て文也くん、オジサンだって。面白い名前だね」

 オジサンと言われて納得できるような外見の、赤茶色の魚が複数水槽の中を泳いでいた。

 水槽の目の前に魚の解説が載っている。

「名前の由来は、髭があることと人間のおじさんに見えること、なんだって」
「確かに、おじさんっぽいね」

 嬉しそうに魚を見る詩音さんの姿を見て、僕も嬉しくなる。

「あ、見て。あれエイだよね!」
「本当だ。不思議というか神秘的というか、興味深い魚だね」

 大水槽を泳ぐエイが、水槽の上から入ってくるスポットライトのような光に照らされて美しい光景を形作っている。

 こんな光景を見てしまった以上、今のところ魚の中でエイが最も魅力的に見える。

「エイってサメの仲間なんだって。サメの進化の過程で、海底での生活に適応した姿らしい」

 僕は再び、水槽の目の前に掲げられているエイの解説を読み上げる。

「よく見るとサメっぽいかも……!」
「地域によっては食べてる地域もあるって書いてある」
「へえ、食べれるんだ。勉強になるね」
「エイを食べられるって知識を使うことは少なそうだけどね」

 僕と詩音さんはそう言って笑い合った。

 だが、リラックスしている中で僕と向かい合った詩音さんの背後にクラスメイトの一人がいることに気づく。

「どうしてここに……?」

 呟いた僕の顔を詩音さんはじっと見た。

「なにかあった?」
「あそこにクラスメイトの人が」

 詩音さんが彼を確認すると、確かにその姿を認めたようで、小さく顔を歪めた。

「せっかく文也くんと水族館まで来たのに、ここまで来るなんて」
「どうしてここに来られたんだろう」
「たぶん、教室での私たちの会話を聞いてたんだよ」

 思い返してみれば、僕たちがクラスメイトたちのいじめの対象にされる前、堂々と教室で話していた。

 それが悪影響となってしまったということだろう。

「まあ、下手に気にしても仕方がないだろうし、ゆっくり回ろうか」

 暗く落ち着いた空間にカメラのフラッシュのような光が瞬いたように思えるが、気にしても仕方ない。

「詩音さんは確かイルカが好きって言ってたよね?」
「うん」
「一回屋外に出ればイルカがいるあたりに行けるらしい。行く?」
「そうだね、行こう」

 背後をつけてくるクラスメイトの気配が気になるので、詩音さんに話しかけて気を紛らす。

「イルカのどこが好きなの?」
「可愛いんだよね、表情とか」

 そう語る詩音さんの表情が先ほどまでよりも浮かない表情になっているように見えて不安になるが、僕にはどうすることも出来ず、苦し紛れながらも話を繋ぐことにした。

「僕はあんまりわからないな、その感覚。ゆっくりイルカを見ながら教えてよ」
「そうだね。イルカ、楽しみだなあ……!」

 館内を歩くうちに、扉から差し込む光が見えてくる。

「ここが屋外エリアへの出口っぽいね」
「久しぶりの外、明るい!」

 ふと気になって後ろを振り向いてみると、未だにクラスメイトがスマホをこちらに向けていた。

 扉から差し込む外の光でちらりと見えたクラスメイトの表情が悪意を感じる歪んだ笑顔で、僕は少し恐ろしく感じた。

 でも、詩音さんに心配をかけたくなくて、話さないことにする。

「外だあ」
「外でイルカっていうのは少し珍しいような気がするな」

 僕のイメージだと、外にはイルカショーを見るスタジアムみたいな建造物があって、その中心にある水槽の中にイルカがいる水族館ばかりだと思っていた。

 対してこの水族館にスタジアムみたいな建造物はなく、トドとかと同じようにイルカが展示されていた。

「イルカ、可愛いなあ」
「そっか。良かった」

 たぶん、未だにつけてきているクラスメイトに気づいていないのだろう。詩音さんの表情は先ほどより柔らかくなっていた。

 クラスメイトを警戒している緊張感も、詩音さんの楽しそうな表情によって癒される。

「ほら見て、私たちの方見てるよ。可愛くない?」

 水槽のガラスに頬ずりするような姿勢で、イルカがこちらにやってきた。

 その人懐こさが詩音さんの言う通りとても愛しく感じられる。

「そうだね、可愛い」

 これほどまでに可愛い生物がいるというのだから、水族館で癒されるという人の気持ちも理解できる。

 それから、僕たちは水族館の動物を見て回った。

「ペンギンって歩き方がなんか拙くて可愛いよね」
「わかる。よちよち歩きみたいだよね」

 ペンギンの歩き方に癒されたり。

「シャチめっちゃ大きいじゃん」
「イルカの大きいものがシャチっていうらしいから、その大きさにも納得だよね。体長四から八メートルだって」
「うおっ、思ったより大きい」

 シャチの大きさに驚いたり。

「楽しかったね」
「そうだね。じゃあ、お昼は寿司だっけ?」
「文也くん好きなネタある?」

 好きなネタと言われてぱっとは思いつかなかったが、脳内で記憶にある寿司を咀嚼して味を思い出す。

「……サーモンとか結構好きかも。詩音さんはなにかある?」
「私は卵とか好きだよ」
「魚じゃないじゃん」

 笑いあいながら寿司屋へ到着する。

 さすがのクラスメイトも寿司屋までは追ってこなくて、それに気づいた僕はこれまでにないほどリラックスした時間で詩音さんと笑い合う。

「魚で言えば、はまちとかよく食べるよ」
「はまち、僕も結構好きだ」

 回ってくる寿司を机にとりながら喋る。

「そう言えば、私たちについて来てたクラスメイトの人はどうなったの?」
「彼は僕らが水族館を出てからはついて来てないね。ちょっと怖かったから、安心した」

 目の前の詩音さんはほっと胸を撫で下ろした。

「良かった……。でも文也くんはちょっと臆病だよね」

 もしかしたら詩音さんは僕みたいに臆病な人間のことはあまり好きでないのかもしれない。

 一瞬そう思ったが、声のトーンに嫌悪感を欠片も感じないため、そうではないと気づく。

 そこで顔を上げて詩音さんの表情を見ると、どこかで見覚えがある表情をしていて、僕は記憶を探る。

「文也くんはそんなところも魅力的だとは思うけどね」

 そこで満面の笑顔の詩音さんが目に入って、先ほどの表情がどんなものなのか思い出す。

 あれは、水族館でイルカに向けていた表情だ。

 その感情を言語化するのであれば、「愛おしい」。

 詩音さんにとっての僕が可愛がるべき存在であるということが垣間見えて、少し悔しい。

「僕は少しずつ克服したいと思ってる」
「無理に変えようとしなくても良いとは思うけど、変わりたいと思うなら、手伝う」

 詩音さんの言葉を聞いた僕が「臆病さを克服する」と考えて真っ先に思い浮かんだのは、「小説家になりたい」という目標を他人に話すということだ。

 僕が「小説家になりたい」と他人に言えないのは、他人に言って嗤われるのが怖いから。

 でも、詩音さんになら言えるような気がして、それは僕にとって大きな一歩になると思うから。

「僕、ずっと言えなかったことがある」
「なに? なんでも聞くよ」
「もしかしたら詩音さんは気づいてるのかもしれないけど、僕は――」

 詩音さんになら言えるような気がしていた。

 だけど、長年それを他人に言うことが禁忌だと自分の中で封じ込めていた思いを言葉にするのは想像よりも難しくて、喉が引き攣る。

 上手く息が吸えない。

「ゆっくりでいいから、息吸って」

 詩音さんが優しい言葉をかけてくれる。

 その声にふと顔を上げると、詩音さんが聖女のような笑みを湛えている姿が目に入って、異常を感じていた脳が少しずつ平常を取り戻し、呼吸も落ち着いてくる。

「僕は、小説家になりたい」

 詩音さんは満足そうに頷く。

「人に嗤われるのが怖くて、誰にも言ってなかった。母にも言ってない。だけど、独りでも小説家になりたかった」
「そうだね。私に出来ることはある?」

 詩音さんは優しく告げた。

「僕は詩音さんと出会って、僕にも味方がいることを知った。僕はもう、独りで生きることは出来ない。――だから詩音さん。僕が小説家を目指すのを、手伝ってほしい」

 彼女は幸せそうに笑った。

 詩音さんの正の感情の表情を見ると、僕も笑顔になれる。

 それはきっと、詩音さんがいれば詩音さんと出会う前の僕よりも成長できている証拠。

「もちろん。私に出来ることならなんでもするよ。だから、文也くんも頑張ろう」

 詩音さんはにこりと僕に笑いかけた。

 例えなにがあっても、詩音さんだけは僕の味方でいてくれる。その笑顔は、そう思わせるだけの力を持っていた。

「ありがとう。詩音さんのおかげで吹っ切れた」
「いやいや、それは文也くん自身が成長したからだよ。あと、お昼で店内混んできてるからそろそろ会計しよう」

 僕が成長するきっかけをくれたのは詩音さんなのに、と言い返そうとしていたのに見事に話を逸らされたような気がして、僕は少し不服げな表情をしながらタッチパネルを操作した。

「えっと、僕の分が千六百円、詩音さんは二千二百円だね」
「え、私文也くんより食べたんだ……。結構高いなあ」

 詩音さんは不安そうに財布を覗き込む。

「ごめん文也くん。その、頼みづらいことなんだけど……」
「もしかして足りない?」
「……二百円だけ」

 僕はなにも言わずに百円玉を二枚取り出した。

 詩音さんが僕の味方でいてくれるというのなら、僕も詩音さんの味方である必要があるだろう。

「ありがとう。絶対すぐ返すから」
「まあ、二百円ならちょっとくらい遅れても大丈夫だよ。僕はお金の使い道が無くてお金に困ってないから」
「悲しいこと言うね……。でも、本当にありがとう」

 詩音さんが心から申し訳なさそうにしているのが居た堪れなくて、僕は話題を転換しようとする。

「ごめん、LINE来たから見ていい?」

 話題を転換しようとしたが、詩音さんがLINEを受け取ったらしく少し待つことにする。

「クラスラインだ。……私と文也くんの写真が送られてる」

 そう言って詩音さんはスマホの画面をこちらに向ける。

 画面には、僕たちが水族館を一緒に回っている写真と共に、「こいつら付き合ってんのかなww」というメッセージが表示されていた。

「ああ、さっき撮ってたやつだね」
「え、文也くん気づいてたの?」
「うん。僕らが彼に気づいた後、スマホをこっちに向けて構えてたから」

 僕の言葉を聞いた詩音さんはひどく恐れたような表情をする。

「そっか……。明後日、憂鬱だな……」
「せっかくだし、明日会わない? その方が、詩音さんのためになるような気がする」
「本当っ!?」

 僕の提案に、詩音さんは想像よりも異様な食いつきを見せた。

 少しくらいは喜んでくれるかもしれないと思って提案したが、まさかこれほど喜んでくれるとは思っていなくて、胸が少し暖かくなる。

「詩音さんがそうしたいなら」

 詩音さんはさっきの恐れたような表情をすぐに引っ込め、満面の笑みで頷く。

 ああ、やっぱり、詩音さんは笑顔が一番魅力的だ。

 幸せそうな笑顔、楽しげな笑顔、優しげな笑顔。

 脳裏に浮かぶすべての笑顔に、詩音さんの魅力が着色されている。

「そっか、じゃあ明日はどこに行く? ……出来れば、あんまりお金かからないところが良いんだけど……」
「確かこの近くに海ってなかったっけ。冬だし泳げないけど。無料だしちょっと時間はかかるけど自転車で行けるし、どう?」
「そこにしよう」

 僕はといえば、冬の海の微妙な暗さと寂しさが好きで、たまに一人で見に行っているくらいだ。

 それを詩音さんと共有したくて、僕はそこに詩音さんを誘った。

「それじゃあ、そろそろ帰ろうか。駅はあっちだよね?」
「うん」

 まだまだ高い太陽を背に、僕たちは駅へ歩いた。