僕は、小説家になりたい。

 だけど、それを他人に言うことは金輪際ないだろう。

 その原因は僕がまだ小学生だったときの出来事だった。その頃クラスには、公務員や会社員になりたいと言う人もいれば、スポーツ選手や漫画家になりたいと言う人もいた。

 皆がそれぞれ自分の夢をさらけ出していて、それが羨ましくて、「それなら僕も」と小説家になりたいと告げると、教室は静まり返った。

 その中で最初に放たれた言葉が、僕は今でも怖くて仕方ない。

『――地味だね』

 小説家は地味な夢じゃない。あのときそう言えたら、どれほど良かっただろうか。

 他人に夢を打ち明けることが、他人に自分を晒すことが心から怖くなって、誰にも自分の殻を開かず、孤独な環境で夢を追うことが、どれほど辛いか、当時の僕にはわからなかった。

 そういう状況に陥ることも、当時の僕には予知できなかった。

 でも過ぎてしまったことは仕方ないから、僕は今日も教室の隅で孤独に言葉を綴る。誰も見ていない場所で、文字を打ち込む。自分を高めるのに他人の干渉は必要ないから。だから僕は、今日も独りで――

「七瀬くん、なにしてるの?」

 久々に聞く、自分に向けられた声。僕はびくりと肩を跳ね上げ、硬直する。その隙を突いて、彼女は僕が開いたパソコンを覗き込んだ。

「これは……小説投稿サイト、だよね」

 彼女の声を聞いた僕は、思わず彼女から身を避けた。

 小説投稿サイト。その響きが、なにもしていないはずの彼女を、鬼だか悪魔だかに喩えられる恐ろしいもののように仕立て上げる。

 過去に僕を嗤った響きが僕の脳内に蘇る。

「大丈夫? 私のことが、怖い?」
「……」

 僕はなにも言うことが出来なかった。

 身体が震えて、他人との会話に拒否反応を示す。自然と、彼女に近づかれすぎないよう距離を取る。

 彼女の言う通り、僕は彼女のことが怖かった。

「近づきすぎちゃったね、ごめん。どうして私のことが怖いのか、訊いても良いかな?」

 そう言った彼女は一歩後ろに下がったが、精神的な距離は二歩も三歩も詰めてきた。少し、怖い。

 だからといって、答えることを拒否すると怒られてしまいそうで、僕はそれが怖くて彼女に僕の過去を話すことにした。

「……昔、馬鹿にされたことがあるんだ」
「馬鹿に? どうして?」
「皆、自分の夢を語っていた。状況は思い出せないけど。そんな中で僕が小説家になりたい、そう言ったときに皆して僕を嗤った」

 彼女は納得したような表情で、僕の辛さがわかっているような表情で、僕を優しく見つめた。

「そっか、馬鹿にされて辛かったんだね……」
「君は、僕を嗤わないのか? 馬鹿にしないのか? 見下さないのか?」

 僕は、彼女の優しい視線を押し返すように厳しく睨みつけた。

「嗤わないし、馬鹿にしないし、見下さないよ。だって、小説家だって七瀬くんの大切な目標だから」

 「目標だから」。安易に「夢」と言わないその言葉選びが、深く考えられてはいないとわかっていても、夢物語ではないと僕に言ってくれるようだ。

 それは彼女だからこそのように思えて、距離を詰めることこそできなくても彼女への恐怖は少し和らいだ。

「ねえ、七瀬くん」

 僕は返事をしなかったが、それを無言の肯定と受け取ってくれたのか、彼女は話を進めた。

「私に、七瀬くんが小説を書くのを手伝わせてくれないかな?」

 それは予想外だったが、僕にとっては願ってもいない申し出だった。

 「自分を高めるのに他人の干渉はいらない」とは言っても、長い間独りで過ごすのは辛くて、そろそろ限界がやってきた頃だった。そんな中で、消極的な僕に対して積極的に働きかけてくれる存在はありがたいものだし、なにより新しい刺激となってくれるだろう。

 彼女を利用するような打算的な考えを隠して、考えをまとめる。

「そうしてくれると、助かる」
「そっか、嬉しいな」

 嬉しいと言ってくれると認められているようでこちらも嬉しくなる。

「それで、君の名前は?」
「知らないで喋ってたんだね、同じクラスなのに……。私は望月詩音。詩音って呼んでいいよ」

 あまりにも距離を詰めるのが早すぎて、望月さんはきっとこのクラスで人気者なんだろうなと思った。

 でも僕では対応することは出来ない。

「よろしく、望月さん」
「詩音でいいのに……」

 彼女は不服そうに口を尖らせていて、でもそれが演技で心の底から不服だと思ってはいないということははっきりわかって、また少し望月さんのことが怖くなくなった。



 そうして、僕たちの関係は今日のうちにすぐに深く――なるわけでもなく、僕が普段通り独りで黙々と執筆を続けている間、望月さんは普段通りクラスメイトたちと楽しそうに話していた。

 独りで執筆をしていた日々が、これから色づいていくんだと期待していた僕からしてみれば少し期待外れだったが、彼女ほど根から良い人だと感じられるような人はクラスでの人気が高いのも必然的だろう。

 聞こえてくる会話から察するに、望月さんはどうやらクラスメイトたちと放課後の予定について話し合っているようだった。

「あ、私は今日用事あるから行けないよ」
「え、なに詩音。彼氏?」
「彼氏じゃないよ、七瀬くんに用事があるの」

 僕はぎょっとした。

 確かに望月さんを怖く感じる気持ちは徐々に薄くなったが、望月さんが他のクラスメイトに僕の話をすることで他のクラスメイトと関わることになるとなれば話は別だ。

 望月さんは善人だと心の底から思えたが、他のクラスメイトたちはまだまだ怖いし、彼ら彼女らの会話に優しさを感じない。

 それから僕は放課後クラスメイトに話しかけられるかもしれないことを憂慮しながらそれを心の隅へ追いやって黙々と執筆を続けた。

 だけど幸い、僕が憂慮しているようなことにはならず、放課後にやってきたのは望月さん一人だけだった。

「予想外、みたいな顔してるね? 他の皆も連れてきた方が良かったかな?」

 僕が望月さんたちの会話を聞いていたのは望月さんには気づかれていたようだった。誤魔化しても仕方がないので、大人しく答える。

「いや、そうじゃない。一人で来てくれてありがとう、と思って」
「そっか、連れてこない方が良いかなと思ってたけど、合ってたんだね」
「ああ。それで、用事って言っていたっけ」

 僕の言葉を聞いた彼女は、僕にとって信じられない一言を発した。

「私と一緒に、遊びに行かない?」

 僕がこれまでの人生で一度も聞いたことのなかった響きを、僕の脳は簡単に受け入れてはくれなかった。

 遊びに行くとは一体。どこへ遊びに行くのか。

 数々の疑問が脳内を反芻する中で、言葉にされた単語は一つ。

「なんで?」
「なんでって、難しい問いかけだね……」

 望月さんは考え込む。

 僕はこれまで同級生と遊びに行ったことが一度もないので、同級生と遊びに行くということの目的がよくわからなかった。だから質問をしただけだが、望月さんは思ったよりもちゃんと考えてくれる。

「そうだなあ……私は、楽しいからっていうのもあるけど、一番は皆と仲良くなりたいから遊びに行ってるよ」
「一緒に遊ぶことで仲が良くなるのか?」

 確かに共同作業をするというのは人と人との仲を深めるのにちょうど良さそうだが、「一緒に遊ぶ」という行為である必要性はわからない。

 そんな僕の疑問は望月さんによって一瞬で崩壊させられる。

「そりゃあ、楽しさを共有するのが一番仲良くなりやすいと思うから。悲しさとか辛さを共有するのも大事だと思うけど、楽しい方が良いでしょ?」
「納得だ」

 今の言葉は、小説にも活かせると思った。

 例えばクラスの人気者でいつも明るいキャラクターが発するセリフとして、感情豊かで魅力的なキャラクターが発するセリフとして、理想形と言っていいほどに完成されている。

 こうやって考えてみると、僕は望月さんに魅力を感じているんだろう。だが勘違いしてはいけないのは、望月さんが僕に協力してくれているのは、優等生として社会不適合者を社会に適合させるための、ほんの手助けに過ぎないということだ。

「そっか、納得したか。その調子で、他の皆とも関わってみるっていうのは……」

 望月さんは言いながらこちらの様子を見ていたが、僕が青い顔をして首を振ったのを見て、言葉を続けた。

「やっぱり駄目だよね……。逆に、どうして私は大丈夫になったの?」

 今度は僕が考え込む番だった。

 どうして望月さんのことは大丈夫なのだろうか、と考えてみる。

「優しいから。望月さんの言葉には、悪意の欠片も感じない。それに、よく感情を読み取ってくれるから快適に喋れる」

 望月さんは嬉しそうな顔をしたが、すぐに複雑そうな顔に変わって言った。

「皆も優しいと思うんだけど……駄目かな?」
「ほんの些細な悪意、それが怖いんだ。僕に向けられたものではないってわかっていても、互いに傷つけあう愚かな姿を見ていると僕もああなってしまう、って考えてしまう」
「七瀬くんは、人一倍繊細で、優しいんだね」

 僕が繊細だというのはまだ納得がいくが、今の言葉のどこから僕の優しさを見つけ出したのだろうか。気になって、僕の口は勝手に動き出していた。

「僕が優しいっていうのは、一体どうしてそう思うんだ?」
「だって七瀬くん、自分が傷つきたくないとも思ってるだろうけど、他人を傷つけたくないとも思ってるんだよね?」
「そうだけど、それは僕が人を傷つけることが許せないだけで」

 雑な言葉を投げつけようとした僕を、望月さんは手で制した。

「そういうところも、七瀬くんの良いところなんだよ。自分では理解できないのかもしれないけど」
「……そうなのか」

 僕は人付き合いをあまり経験してきていないから、当然褒められ慣れているわけでもなく。

 僕は変わらず無表情か、少しむすっとした顔つきで望月さんの言葉を受け入れた。

「それで、どこか行きたいところとかある?」
「僕に行きたいところがあるように見える?」
「控えめに言って、引きこもりみたいに見える。ほぼ毎日学校に来られてるだけ偉いと思う」

 望月さんからあまりにあんまりな言葉を貰ったが、実際僕は何度か学校を休もうかと思ったことがある。ただ、母がそれを許さないから来ているだけだ。だから、僕がほぼ毎日学校に来られているのは僕が偉いのではなく僕の母が偉い。

 だがそれを望月さんに告げることはなく、彼女の言葉を待つ。

「じゃあほら、小説のエピソードで使うから参考にしたいみたいな、ないの?」
「……そういえば」

 思い出してみれば、今書いている小説の最新話で遊園地の場面を執筆する予定なので、一応遊園地には行きたいが、お金を使うのには少し抵抗があるし望月さんにお金を出させるのも心苦しい。

 だから僕は、なにも言わない。

「いや、なんでもない」
「ほら、なんでも言いなよ。私は、七瀬くんのこと友達だと思ってるからさ」

 「友達である」という事実が「なんでも言いなよ」という言葉の理由付けになるのかはわからなかった。でも、「友達だと思ってる」と言われたことが嬉しくて、僕は本音を告げた。

「じゃあ、遊園地」
「遊園地かあ……。えっと、どこの遊園地が良いとかある?」

 僕の必死の気遣いが役に立つことはなく、お金はどこから出てくるんだろうかと思われるような速度で望月さんは同意した。

 望月さんが良いのであれば、僕のお金は小説のネタ探しということで使われるだろう。出来るだけ消費したくはないが、交際費ということで僕の中で合意した。

「それじゃあ、いつ遊びに行くか決めない? さすがに今日っていうのは早すぎるし、私もお金を用意できないし……」
「望月さんもわかってるだろうけど、僕はいつでも暇だよ」
「ごめん、失礼なこと訊いたね。それじゃあ、当日の朝に連絡してもいい?」

 どうせ暇だし、今から少なくともひとつきは一つの予定すらも入っていないので、僕は快く頷いた。

「私の都合が良いときに連絡するね。明日以降は空いてるんだけど、それでいいかな?」
「良いよ。でも、僕はたぶん望月さんの連絡先を持っていないんだけど」

 僕のその言葉を聞いて、望月さんはなにを言っているのかわからないほど驚いたというような表情をした。

 確かに、どれだけ人との付き合いが少なくとも、今の時代では連絡アプリを入れていない人の方が少ないのだろう。

 でも僕は、それでもスマホの容量の方がもったいないと思うほど人との関わりが少なかったし、そのくらい執筆一筋で生きてきた。

 もしも望月さんと出会う前の僕が望月さんと遊びに行こうとしている僕の姿を見たら、おそらく驚いて僕を止めるだろう。そんなレベルで、まだ一日も経っていないうちに僕は変わってきていた。

「え、でもクラスラインに入ってるんじゃないの? だったらそこから追加すればいいし……」
「僕はスマホにLINEを入れてない。だからクラスラインにも入ってない」
「今時そんな人実在するんだ……! じゃあ、なにで連絡するべきかな?」
「電話番号は教えるからそこに電話してくれ」

 望月さんは嫌な顔一つせずメモ帳を取り出して、僕が暗唱する電話番号を書き取り始めた。

 普通、毎回電話をかけろなんて言われたら怒るものだ。僕が知っている「人間」というのはそうだった。

 望月さんは、僕の想定を超えるお人好しだった。

「よし、それじゃあ今日はそろそろ解散にしようか」
「そうだな」
「七瀬くん、執筆頑張ってね」

 何気ない望月さんの言葉に、僕はこれまでの自分を認められた気がして、胸が温かくなる。

 これまで僕はずっと、否定されてきた。小説家なんて地味だし、叶いもしない夢だと、そう嗤われてきたこれまでの僕が、望月さんの言葉で少しだけ報われた。

 僕は胸に充実を抱いて、上気した頬の心地良さを味わいながら、望月さんに別れの挨拶をした。