06

マサキの気持ちなんぞいざ知らず、咲き誇る桃色の花は今日も儚く、堂々とその姿を人々に見せていた。下方を流れる川の水面に落ちていく桜の花びらを見ていたマサキは、周囲を見回す。あっちも、こっちも、そっちも。

「平和だ……」

「ちう」

「平和過ぎて、仕事がない」

まるで平和を憎む悪役のような台詞を吐き捨てたマサキは、川と陸を隔てる柵に手を付くと大きくため息を吐き出した。今までであれば、春の陽気に浮かれた誰かが何かをしでかしたり、マサキの目にしか映らない変なモノがそこら中で悪戯を仕掛けていたりするのだが、ここ数日そんな輩は見えない。

(商売あがったりじゃねーか)

「あ゛ー……」

更に項垂れるマサキを横目に、ちうは首を傾げる。その様子を周囲の人々は微笑まし気に見ていた。彼等がこうして項垂れているのを見るのは、そう珍しいことではないのだ。

ぐぅと響く腹をマサキは撫でる。そういえば朝から何も食べていない。それほどまでに予想外だったことにショックを受けていたマサキは、近くの立ち食い蕎麦にでも足を運ぼうかと足を動かした。

「ちうちう」

「ん? どうしたー、ちう」

「ちゃっちゃるん!」

ちうは問いかけるマサキを他所に肩を飛び立つと、パタパタと羽根を動かした。突然の出来事に訝し気に顔を顰めたマサキだったが、ため息を一つ吐いた後、ちうの後を追いかけた。

桜の花々が美しく咲き誇る空をどこか空虚な気持ちで眺めつつ、飛んでいくちうを見失わないように意識を尖らせる。ちうは桜の枝の間を縫うように飛んでいく。道中すら楽しもうとしている姿に生前の頃を思い出し、マサキはくすりと笑う。そんな彼はどんどん人気のない場所へと向かていることに気づかないまま、空を見て歩いていく。

「あ?」

「ちう!」

マサキはふと、桜の木の下に蹲る人間を見つけた。ちうはその人間のいる木の枝に止まると、じっと下を見つめた。

(ちうはあいつが気になるのか?)

蹲る人間――女性らしい――を、マサキはちうと同様にじっと見つめる。

腰までの長い老婆のような白髪が、時折吹く風に靡く。桃色の桜に紛れて、美しい。マサキは音を立てないように静かに近寄った。彼女の顔を見ようと体の角度を変えれば、見えたのは顔ではなく筆と紙。筆には真っ赤な朱色の墨が付けられており、彼女は一心不乱に筆を動かしていた。

まるで、世界がそこで切り取られたかのような勢いに、マサキは息を飲む。――果たして、ここまで絵を描くことに没頭できる人間が、この世にどれだけいるのだろうか。