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「ふふっ、それじゃあ混まないうちに行きましょう」

「うん? 君も行くのかい? ついさっき風呂に入って来たばかりだろう。ついでに入ってくればよかったのに」

「帰りに札が外されているのを見たんですよ。お話を伺えば、数分くらいは湯を溜める時間が必要だと聞きました」

「なるほど。でもいいのかい? また入ることになっても」

「ええ。この宿の目玉ですのでぜひ体験してみたいですし、それにあなただけ露天風呂に入れるなんて、ずるいじゃないですか」

むう、と子供のように唇を尖らせる彼女に、僕は目を見開く。……可愛らしいと思ってしまったのは、惚れた欲目だけではないような気がする。

僕は妻と連れ立って露天風呂へと向かった。しかしあまりの人の多さに、僕たちはどちらともなく足を止めてしまった。

露天風呂の解放と聞いてこの宿に宿泊している人たちが一斉に押し寄せてきたのだろう。流石この宿の目玉だと思う反面、この中に飛び込む勇気があるかと言われれば……難しいと思う。僕は妻と顔を見合わせる。どちらともなく苦く笑った。

「思ったより人が多いですね」

「そうだね。入るのも難しいかもしれないけど……どうしようか」

「そう、ですね」

妻にそう問い掛ければ、彼女は唸るように眉を寄せた。入りたいけれど、人の多さに悩んでしまう。でも入りたい。そんな相反する気持ちが体中から滲み出ている。

(考えてる考えてる)

そんな姿も可愛い、と思いつつ彼女の返答を待っていれば、おずおずと開かれる口。

「……今日、は、諦めます」

そう言った彼女の声は途切れ途切れで、つい笑ってしまいそうになる。苦渋の決断をしたかのような声に、「それじゃあ、僕も今日はやめておくとしようかな」と告げれば驚いた顔をされた。

「えっ」

「僕も、普通のお風呂を借りるとするよ。露天風呂は明日の朝にでも入ろうじゃないか」

「……いいんですか?」

「ああ、もちろん」

朝なら人も少ないだろうし、ゆっくりとした時間を楽しめるだろう。同じようなことを考えている人は多いかもしれないが、そこは少しだけ早起きをすれば済む話だ。妻のまだ濡れている髪を撫でる。

「僕が入ってる間、ゆっくり乾かしておいで。そのままでは風邪をひいてしまうだろう?」

「……はい。そうすることにします」

「それじゃあ、また後で」

僕は妻にそう告げると、昨日も借りた風呂場へと向かう。中は人がいつもより少なく、みんな露天風呂へと行ってしまっているのだろう。僕は苦笑いをすると、風呂で体の汚れを落とすことにした。