「ちょっと、大丈夫!?」
 
 那月の心配そうな声が耳に届く。

 俺は蹲り、不快感を堪えていた。
 全てが終わったはずなのに、なぜこうして生きているのか?
 ……こんな不可思議な現象の理由がわかるわけもない。

 俺は平然を装い、顔を上げて那月に答えようとして、
 
「――っ!?」

 しかし、彼女の顔を見た瞬間に、激しい頭痛に襲われた。
 そして、記憶が混濁する。
 交通事故で死んだ28年間の記憶と、2周目の半年の記憶と――この肉体が過ごした18年間の記憶が、瞬時にフラッシュバックし、知覚できないはずの記憶を司る脳の海馬を焼き、焦がす。

 10年後の未来と半年後の卒業式前日が、俺の脳内では共に過去になっていた。
 時間と感覚が狂い、確立した自己と精神と記憶があやふやになり、混ざり合い……。

 今はいつだ? ここはどこだ?
 俺は――何者だ?

「本当に大丈夫? 具合悪いなら、横になる?」

 那月が俺の額に手を当て、心配そうに語りかける。
 彼女の生身の体温が、俺を現実に引き留めた。

 ――そう、今日は夏休みの、とある日。
 貸切状態の図書室で、那月に勉強を見てもらった後、俺は彼女に連れられ、屋上へとたどり着いた。
 夜空を見ると、今も続々と花火が打ち上げられている。
 俺は錯乱状態からやや落ち着きを取り戻し、鈍く痛む頭を手で押さえながら、那月に呼び掛ける。

「那月……」

「何、どうしたの? 飲みかけだけど、お茶飲む?」

 那月は俺の顔を覗き込み、言う。
 つい先ほど見たはずの、彼女の最後の表情が、脳裏に浮かんだ。
 あの時迎えた最期を、繰り返してはいけない。
 ……痛みでまともに働かない俺の頭でも、それだけははっきりと分かった。

 自分のカバンから、タオルとペットボトルのお茶を取り出した那月に、俺は告げる。

「案内、楽しみにしている。お互いに、東京の大学に行けると良いな」

 力を振り絞り、俺は笑う。彼女はポカンとした表情を浮かべてから、優しく微笑んで言った。

「あんたは、自分の心配だけしていなさい」

 それから、額にかいていた俺の汗を、彼女はタオルで優しく拭ってくれた。
 柔軟剤の落ち着いた甘い香りが、鼻腔をくすぐる。

「ありがとう」

 俺はそう言ってから、彼女の手を借り、ふらつきながらも立ち上がった。



 電車に揺られながら、先ほどに比べて随分とはっきりとした頭で、俺は思案していた。

 まず、間違いなく、俺は再びタイムリープをしていた。
 ……2回目の出来事とはいえ、慣れたとはとてもいえない。
 この不可思議な現象について、考察できることも、数少ない。
 それでも、1回目と2回目のタイムリープについて、共通する事項が、二つあった。

 まず、一つ。
 俺の死がトリガーになること。

 そして、二つ。
 死の間際に、後悔をしたこと。

 一度目のタイムリープでは、今宵に告白をすることが出来なかったことを悔やみ。
 今回は……死にゆく那月の涙を見て、彼女に手を差し伸べることもせず、ただ追い詰めてしまったことを、後悔した。
 これまで俺は、もう一度死ねば、全てが終わってくれるはずだと思っていた。
 だけど、その考えは甘かった。
 悔いを残したままでは、俺は死ねないのかもしれない。
 それどころか、何をしても、どうあがいても。
 俺はこの人生を繰り返し続けなければいけない可能性すらあった。

 頭がおかしくなりそうだった。
 いっそここで全てを終わらせるために、線路に身を投げ電車に轢かれてみれば良いのかもしれない。
 そう考えていると、電車が最寄り駅に着いた。

 俺はほんの僅かに逡巡して、定期券を駅員に見せて、改札を通った。
 ……覚悟を決めることが、できなかった。

「あのさ、あんたやっぱり、体調悪いでしょ」

 駅の出口から駐輪場に向かう途中、隣を歩いている那月が声を掛けてきた。

「屋上からここまでずっと、辛そうな顔して黙ってる。……あんたの家より、私の家の方が近いんだし。ちょっと休んでいきなよ」

「いや、迷惑だろ……」

 俺の言葉に、那月は溜息を吐いてから答える。

「あんたが無事に家に帰れたか心配で、勉強に手が付かなかったらどうしてくれるのよ」

「……心配してくれてるのか」

「はぁ!? 心配なんてしてないからっ!」

 反射的に那月はそう答えたが、すぐに首を振った。

「……嘘、心配してる」

 真剣な表情を、俺に向けている。
 確かに、屋上からこれまでの俺の様子は、はたから見ても心配になるくらい、おかしかっただろう。

「それじゃあ、お言葉に甘えさせてくれ」

 良い機会だと思った。
 俺は、共に心中した那月未来のことを――何も知らない。
 彼女がどんな生活をしているのか、少しでも分かれば良いと、そう思った。
 俺は駐輪場から自転車を引っ張り出して、那月と並んで歩き始める。

「私が漕いであげようか?」

 二人乗りを提案しているようだ。
 以前は悪びれもせずに俺に漕がせていたのに、随分と対応が違った。

「いや、歩いて行こう。そのくらいなら、大丈夫だよ」

「それじゃあ、私が自転車押すから。貸して」

 そう言って、彼女は俺から自転車をひったくるように、奪い取った。
 彼女の優しさに触れる度、俺は――。

「あのさ」

「何?」

「あんまり、俺に優しくしないでくれ」

 自分の愚かさを突き付けられるようで、いたたまれない気持ちになっていた。

 真剣な俺の表情に、那月は思わず「ぷっ」と噴き出していた。

「身体が弱って、心も弱ってしまったの? 大丈夫よ、優しくするのは、今日だけだから」

 慈愛の表情を浮かべる那月。
 空っぽのはずの胸が、締め付けられるように苦しくなる。
 誰も、那月に対して優しく接することはなかったのに。
 それでも彼女は、俺のようなクズに優しく笑いかけてくれる。

 お前はクズだから、苦しむのは当たり前だ、と。
 見下されて笑われた方が、よっぽどましな気分だったろう。
 
 だが、それはあり得ない。
 今俺の隣を歩く那月未来には、俺と共に屋上から飛び降りた記憶は、ないのだから。



 駅から徒歩10分。
 オートロック付きの、築浅5階建てマンションの最上階、その角部屋。
 そこが、那月の暮らす部屋のようだった。

「ちょっと待ってて」

 そう言って、那月はポケットに手を入れ、鍵を探る。
 しかし、彼女が鍵を取り出す前に、扉が開かれた。

「あら、未来。お帰り」

 扉から出てきたのは、1周目の世界の俺と、同じか少し年上くらいの美女だった。

「ただいま、お母さん。今日は、これからなんだ」

 那月の言葉に、驚く。
 30前後にしか見えないが……。いや、ありえない話ではないのか。

「ええ。戸締り、ちゃんとしていてね。あら、そっちの子は彼氏?」

「違う。……体調悪いみたいだから、休んでもらうだけ」

 那月はその言葉に、眉を顰めて即答した。
 それを、楽しそうに眺める那月の母。

「そう、気分が良くなるまで、ゆっくり休んでいってね?」

 微笑みかけられるが、なんと答えれば良いのか分からない。

「……どうも」

「ええ。それじゃあ、行ってきます」 

「行ってらっしゃい」

 那月は、暗い声音で一言答えた。
 那月の母は、ヒールの高い靴を履いて、部屋を出て行った。

「那月の母ちゃん。綺麗な人だな」

「気持ち悪いこと、言わないで」

 俺の言葉に、無感情に那月は言い、部屋に入っていった。
 確かに気持ち悪かったな、と反省してから、「お邪魔します」と一応断り、俺も後に続く。

 生活感のあるダイニングキッチンから続く扉の一つを開けて、那月は俺を呼ぶ。

「こっちが、私の部屋。飲み物取ってくるから、ちょっと待ってて」

 彼女の言葉に頷いてから、俺は部屋の中央にあるローテーブルの前で、胡坐をかいて座る。
 今宵の部屋には、何度も通ったことがあったが、那月の部屋は彼女の好きなものに溢れた可愛らしい内装とは、似ても似つかなかった。

 5畳前後の手狭な部屋には、勉強をするための机といす、ファッション雑誌の一冊も並べられていない、参考書だらけの本棚、そして寝るためのベッド。
 今は閉じられているクローゼットの中に、趣味のものを詰め込んでいる、ということもないだろう。
 綺麗に片付けられている、というよりも、そもそも物自体が少なかった。

「お待たせ」

 那月が部屋に戻ってきた。
 彼女が手にしていたのは、スポーツドリンクとグラス、それから体温計だった。
 胡坐をかいて座る俺の隣に、那月はわざわざ座った。

「ん」

 それから、彼女は俺に体温計を差し出した。
 熱を測れということだろう。
 俺は受け取り、おとなしく従う。
 しばらくして電子音が聞こえ、俺は熱を確認した。

「36度8分、平熱だ」
 
 俺の言葉に、那月は「それなら、良かった」と言って、スポーツドリンクが注がれたグラスを差し出してきた。

「ありがとう」

 俺は受け取り、一口飲む。
 体の隅々まで、水分が染み渡るような気がした。

「せっかくだし、もう少し休んでおきなさい」

 肩が触れ合うほど近い距離で座る彼女は、俺の顔を覗き込みながら、そう言った。
 俺は無言のまま、頷いて応えた。

 ――この部屋に入り、何となく気が付いたことがあった。
 父親のいる気配がなく、そして母親は夜に働きに出ている。
 何らかの複雑な事情のある家庭環境なのかもしれない。
 であれば、高校2年時に転校してきたのも、家庭環境が関係している可能性は高い。

 と、推察をしてみても、正確なことは分からない。
 思い切って聞いてしまおうかとも思ったが……那月にとって、その話題は地雷かもしれない。
 俺は、彼女が自然と話すまで、無理に聞こうとするのはやめようと思った。
 その代わり、俺はかつて伝えられなかったことを、言葉にする。

「那月には助けられた。だからもし、那月が困ったときが来たら。……今度は、俺が一緒にいる」

 ポカンと口を開けたその表情は、間違いなく間抜けなのに、どこか可愛らしかった。
 そんな那月をまっすぐに見て、俺は今を生きる決意をする。

 それは、卒業式前日のあの日に、那月を死なせないため。
 那月が生きて卒業式を迎え、無事に東京の大学に通い、そして一緒に花火を見て。
 それから、彼女のことを必要とし、心の底から大切にする男性が現れれば――。
 俺は、そこでようやく、心置きなく。
 終わりを迎えることが出来るのだろう。
 
「――少なくとも。今私は、反応に困っているわ」

 冗談っぽく茶化して言った那月は、恥ずかしそうに、視線を逸らすのだった。



 那月の部屋に行った、翌日。

 俺はバイトを休んで、この先那月に生きてもらうために、どのように行動すれば良いかを考えていた。
 何もしなければきっと、前回と同じ結末をたどる。
 そうならないためにすべきことは、文化祭初日にあった出来事を回避すること。

 あの日の出来事以降、俺と那月の関係は変わってしまった。
 あの時、屋上で震える那月のことを一人にするべきではなかった。
 だから今回は、那月が一人になってしまったそもそもの原因を、無くす。
 那月があの日、屋上に一人でいたのは、学校の誰かから嫌がらせを受けたからだろう。
 そして、俺との関わりもなくなり、誰に頼ることも救われることもなく、自ら死を選んだ。

 ――2周目の俺は、そうなることを望んでいた。自分と一緒に、死んでもらうために。

 なのに今回は、自分が未練を残さずに死ぬために、彼女には生きてほしいと考えている。
 どこまでも自分本位なな考えに、我がことながら反吐が出そうになる。
 ……自嘲をしても、現状は変わらない。
 だからせめて、頭を働かせる。
 あの日、那月に普段よりも酷い嫌がらせをしそうな人間は誰がいるかを、考える。
 すぐに思いついた候補者は、二人。

 一人目は、伊織だ。
 俺の言葉で、那月に対する嫌がらせは一旦やめていたようだが、元々那月のことを毛嫌いしていた彼女のことだ。
 何かしらキッカケがあれば、これまで我慢をしていた分を上乗せした激しい嫌がらせをすることも、十分に考えられる。

 そしてもう一人は――今宵だ。
 そもそも今宵は那月を無視していたし、彼女の悪口を陰で言うくらいには嫌っていた。
 夏休み明けに初めて見た、嫉妬を宿した今宵の眼差しを思い出す。
 あの時、伊織と仲良くなったことを平然と俺は認めたが、那月との仲を邪推された時に怒りを見せてしまった。
 もしも今宵が犯人なのであれば、きっかけはまさしくあの時のことなのだろう。

 ――俺の予測に確証はない。
 文化祭初日のあの日から一緒に飛び降りる最後の日まで、那月と一切の会話をせずにいたから、犯人の正体が分からないでいる。あの時、俺が彼女に寄り添うことが出来ていたなら、少なくとも犯人探しに困ることはなかったはずだ。

 その過ちを、決して無駄にしてはいけない。
 前回の経験を生かせば悲劇を避けられるはずだ。

 俺は携帯を操作し、電話帳を開く。
 登録されている名前を選択し、俺は電話を掛けた。
 3コールの後、電話に応答する声があった。

『もしもし?』

 その言葉を聞いて、俺は単刀直入に告げた。

「今度、バイト休みの日に。俺とデートしてくれない?」



 待ち合わせに少し早くついていた俺は、相手が到着するまでどうやったら那月を死なせずに済むか、改めて考えていた。

 那月の様子を見守るために、彼女の傍に付きっきりでいられれば一番良いのかもしれないが、それには問題がある。
 まず前提として、那月は受験生のため、当然受験勉強で忙しい。
 あまり彼女にまとわりついて、これまである程度作り上げた信頼関係を損なうのは、上策ではない。

 そしてもう一つが致命的なのだが……。
 もしも、犯人が今宵であり、その動機が『嫉妬』であったなら。
 那月とずっと一緒に行動をした場合、その嫉妬心は2周目をはるかに上回ることが予想できる。
 そうなれば、2周目とは違うタイミングで、2周目よりも苛烈な悪意を那月にぶつける可能性がある。

 文化祭に問題が起こるという前提そのものがなくなれば、この3週目での対処は困難になる。
 可能な限り、今宵の嫉妬心が那月に向かないように立ち回る必要がある。そもそも、今宵が那月へ嫉妬心を抱かなければ理想的だ。

 ――だからと言って、今宵とは既に『受験が終わるまでは付き合わない』という約束を交わしている。その間は、必要以上に一緒にはいられない。
 無理やりにでも説得すれば、彼女との約束を反故にし、付き合い、行動を共にすることはできるだろうが、そうすると当然俺は今宵から束縛され、自由に行動できなくなる。
 問題が起こるかもしれない文化祭も、今宵に付き合わないといけなくなる。
 その場合、もしも那月に嫌がらせをした犯人が今宵ではなく伊織であれば、全く対応が出来ない。

 今宵の嫉妬心を、那月から逸らせること。
 そして、伊織の様子を確認できるポジションを確保すること。
 この両立をするために、これからの行動指針を決定した。
 それは、今宵の嫉妬心を那月から伊織(・・)へ向けさせることだ。
 と、いうわけで――。

「お待たせ、あっき―!」

「待ってないよ、俺も今着いたとこだから」

 俺は伊織をデートに誘ったのだ。
 今いる待ち合わせ場所は、自宅の最寄駅から電車で40分程度の市内の駅。
 あの田舎町と違い、遊ぶ場所には困らない。
 
「いきなり電話来たから、びっくりしたんだけど」

「今度暇な日にデートしようって、先に誘ってきたのは伊織だったろ?」

 俺が言うと、「それさー」と、楽しそうな表情で前置きをしてから、

「ダメ元で言ってたから、マジで誘われるとは思ってなかったし!」

 それから、続けて伊織は言う、

「それで、何するかまだ決まってないけど、何する?」

「とりあえず、昼ご飯食べに行かない?」

「ん、オッケー。ご飯食べながら話そっか」

 それから、俺と伊織は駅近くのファミレスに入る。
 昼時のため、それなりに混んではいたが、待たされることなく席に案内された。
 その後、注文の品を食べ終え、飲み物を口にしながら、俺は伊織に問いかける。

「そういえば、課題持ってきてくれたか?」

「うん、無くしたからコピーさせてってやつでしょ?」

 伊織はそう言って、カバンの中から俺が持ってきてほしいと頼んでいた課題を取り出した。
 予想通り、それは白紙のままだった。

「お願いしておいてなんだけど、本当に、全く手を付けてないんだな」

「ほら、トワって『愛されおバカキャラ』じゃん? イメージを守る努力をしてるんですよ」

 自称『愛されおバカキャラ』のバカが、恥ずかしげもなくそう言った。俺は嘆息しつつ、彼女に言う。

「でも、課題一つもやってなかったら、2学期始まってから面倒だろ?」

「そうかもしれないけどさー、やる気もないし、分かんないし。ま、いっかな―って」

「それなら、俺が課題を手伝ってやるよ」

「え、マジ!? ありがとーあっきー、助かるよー!」
 
 可愛らしく笑みを浮かべて、伊織は言った。
 それがなんだか微笑ましくて、俺は笑う。

「それじゃあ、早速」

 俺は店員さんを呼び止め、テーブル上の皿を下げてもらった。
 それから、持ってきていた筆記用具を取り出す。
 そして、伊織にシャープペンを渡す。

「トワが使ってるのとおんなじシャーペンだー」

 素直に受け取った伊織に課題を広げさせる。

「ちなみに、伊織って実際どのくらいの馬鹿なの?」

「……おバカとはいえ、トワはやればできる子だからなー」

 たはー、と手のひらで額を抑えた伊織に、俺は言う。

「じゃあ、自分で出来るところまで、課題を解いてくれる?」

 俺の言葉に、伊織は「へんっ!」と鼻を指先で擦ってから、課題を解き始めた。
 そして……。

「やっぱり無理―!」
 
 伊織はうんうんと唸った後、シャーペンを机の上に放り出した。
 課題を確認してみると、驚いたことに俺が思っていたよりも、ずっとマシな状態だった。
 基礎的な部分は意外としっかりしている。ただ、応用的な問題が少しでも入ると、混乱してしまうらしい。
 
「この問題は――」

 俺は伊織のつまずいた問題を、一つ一つ解説する。
 伊織に勉強を教えるのは、驚くほどやりやすかった。
 説明が理解できていれば、彼女はわかりやすい笑顔になって、

「なるほど、あっきー天才じゃん! 先生よりわかりやすいよ!」

 とほめてくれるし、説明が分かりづらかったら、

「……うん、分かったかも」

 と、全然ぴんときていない様子で呟く。
 そんなときは、どこから理解できていなかったのかを彼女の表情から探り、もう一度説明すると、

「なるほど、あっきー天才(以下略)」

 と、理解をしてくれる。
 うちの高校に入るだけの学力はあるので、地頭が悪いわけではない。
 面白いほど理解してくれるので、彼女に説明をしながら課題をサクサクと進めていき――。

「え、ちょっと待って!? もう外暗いんだけど!」

 昼からほとんど休憩なしで勉強を続けていたが、気付けばもう遅い時間になっていたらしい。

「それだけ集中してたってことだろ、良いことだな」

「デートは!?」

「また今度な」

 俺がそう言うと、荒ぶる伊織はやや落ち着きを取り戻し、

「……それなら、まぁ。いっか」

 と、はにかんで笑った。
 俺たちは机の上に広がっていた勉強道具を片付けて、席を立つ。
 会計を済ませてから店を出たところで、伊織に聞かれる。

「あれ、そういえば課題のコピーまだとってないよね? トワ、結構書き込んじゃったんだけど……」

 今さらながら、彼女は気づいたようだ。
 自分のミスでもないのに、心から申し訳なさそうにしていて、俺は心苦しくなる。

「大丈夫だ。課題無くしたのって、嘘だから」

 俺の言葉に、伊織はキョトンとした表情を浮かべる。

「え? それって……」

 そう言ってから、ハッとした表情を浮かべる。

「トワをデートに誘う口実が欲しかったわけだ、あっきーてば可愛いとこあるじゃーん?」

 にやにやとしている伊織に、俺は苦笑しつつ「そういうことだ」と答える。
 すると、「もう」と呟いてから、

「あんまカッコつけんなよー?」

 と、伊織は言った。
 流石に、最初から俺が伊織の課題を手伝うことが目的だったと、気が付いたらしい。

「そういえば、伊織の最寄り駅ってどこ?」

「あ、電車乗らない。トワ今、この近くでお姉ちゃんと一緒に住んでるから」

「え、そうなの?」

「うん、実家よりも、お姉ちゃんの部屋の方が、学校近いから」

 それは、これまで知らなかった。

「そうなんだ。……一応、送っていこうか?」

「大丈夫、ホントにこっから近いからさ。あっきーこそ気を付けて、バイバイ!」

「おう、それじゃあまたな」

 彼女は大きく俺に手を振って、駅とは逆方向に立ち去った。
 俺も、彼女に手を振って応えた。



 電車に揺られながら、俺は考える。
 
 伊織の性根は優しい。
 なのに、那月をいじめていたのはなぜなのか?
 俺は、その理由が知りたいと思った。



「終わったぁー!!」

 3周目の夏休み、最終日前日。
 俺はファミレスで、伊織に勉強を教えていた。
 今日まで毎日のように、バイト後の時間を利用し、こうして伊織の課題を手伝っていた。

 勉強漬けの日々は嫌がられると思っていたのだが、俺がわざわざバイトの後に時間を作って教えていたことに恩義を感じた伊織は、驚くほど真面目に付き合ってくれていた。
 
「お疲れ様。よく頑張ったな」

 課題の問題を解き終えた伊織が、大きく伸びをしてから、俺に向かって問いかける。

「それで、あっきー明日は暇!?」

「バイトは入れてないけど……もう課題は終わっただろ。何すんの?」

 俺の言葉に、伊織は『何言ってんだこいつ?』と馬鹿にしたような目を向けてから、大きく溜め息を吐いて、言う。

「トワの夏休みが勉強漬けで終わるなんてありえない……明日こそ、普通にデートっしょ!?」

「あ、そういうことか……」

 伊織の迫力に押されつつ、俺は納得する。

「どこか行きたいところ、あるのか?」

 俺の言葉に伊織は頷き、それから言った。



「水族館! 着いた!」

 夏休み最終日。
 伊織のリクエストに応え、今日は市内の水族館に来ていた。
 
「あっきー、水族館ってよく来る?」

 笑顔を浮かべて問いかける伊織。

「いいや、めちゃくちゃ久しぶりだ」

 この水族館に来たのは、中学時代に一度だけ。
 その時に一緒に来ていたのは、今宵だった。

「へー、ちなみにトワは年パス持ち!」

 そう言って、伊織は定期入れから年間パスポートを取り出す。

「あっきーも年パス買えば? 代金は普通の入場券2回分だから、めちゃくちゃお得だよ」

 多分来ないだろうな、と思いつつ、もしかしたら伊織とまた来る機会があるかもしれない。
 なにより、伊織に対して暗にそういう意思表示もできる。

「そうだな」

 俺は窓口で、伊織におすすめされた通り、年パスを購入した。

「伊織はよく水族館来るのか?」

「何を隠そうトワは……この年パスを購入してから、来たのはなんと2回目!」

 vサインを見せながら、ドヤッと不敵に笑う伊織。
 どうやら年パスで損をしたくないから俺を誘ったようだ。
 俺は無駄に1回分入場料を多く払ってしまったのかもしれない。

「……とりあえず、順路に沿って館内見て回るか?」

 俺の言葉に頷いてから、伊織は言う。

「イルカショーの時間が決まってて……」

 伊織の言葉を聞き、館内の案内板を見る。
 イルカショーは、日に3回開催され、次回は15時30分からのスタートだ。

「まだ時間は十分あるし、館内見て回ってから、イルカのショーを観ようか」

「そうだね、賛成!」

 笑顔を浮かべた伊織に手を引かれ、俺たちは館内の見学を始めた。
 水族館を見ていると、意外なほどに楽しめた。
 発電中のデンキウナギ、幻想的なクラゲ、不細工な見た目の深海魚、とにかくキモいグソクムシ……。
 伊織も随分と楽しんでいるようで、テンションがいつも以上に高かった。
 時計を見ると、時刻はいつの間にか15時10分となっている。
 
「そろそろ、イルカショーが始まるから会場に移動しようか」

 俺の言葉に伊織は頷き、「もうそんな時間になったかー」と楽しそうに笑っていた。

 それから、イルカショーの会場内に移動した。
 場内はそれなりに混雑をしていたが、場所取りに困るほどではなかった。
 
 全体の動きが見れるように、俺たちは最上段の場所をとった。
 それからすぐに、ウェットスーツを纏った、ショーの担当スタッフ3人が、舞台に現れた。
 愉快な音楽が流れ、スタッフがホイッスルを鳴らすと、水面からイルカがジャンプをして現れた。

「おー、すっご!」

 隣の伊織は、目を輝かせてショーを食い入るように見ている。
 それからも、人を背に乗せて泳いだり、フラフープをくぐったり、様々な芸を披露するイルカ。
 俺も、思わずそのすごさに目を奪われていた。

 それから、気付けばショーの終了時間が訪れた。
 観客は皆、満足そうに惜しみなく拍手を送っていた。
 周囲の客は立ち上がり、出口へと向かっていた。
 混雑が落ち着くまで、俺と伊織は座ったまま話をする。

「楽しかったね! てか、すっごいよね、人間の言うことあんなに聞いてくれるなんて、頭いいよねー」

 今日一番の笑顔を浮かべながら、伊織は興奮した様子で言う。

「イルカ、好きなのか?」

「うん、好きだよ。愛嬌あって可愛いし」

「確かに、イルカって頭が良くて、人懐っこい、穏やかな生き物ってイメージあるよな」

「大体トワとおんなじってこと……?」

 ふざけた様子で、伊織は呟いた。俺は、複雑な心境で言う。

「実際は、同種や小型のイルカをいじめるような、凶暴性も持っているんだってさ」

 俺の空気を読まない言葉に、伊織は当然冷めた態度で答える。

「……へー、あんなに可愛いのに。そゆとこ、人と変わんないんだね」

 間を開けてから、声のトーンを下げて、伊織はそう言った。
 これ以上その話をしてくれるなという態度を露わにする伊織に、またしても空気を読まずに俺は問いかける。

「伊織は何で、那月をイジメてたんだ?」

 俺の言葉に、彼女は「はぁ」と、大げさにため息を吐いてから答える。

「やっぱあっきーさ。トワたちに那月未来のこと虐めるなって言ったあの時から、あいつと仲良かったわけ?」

「確かに今は仲良くしてる。でも、あの時は滅茶苦茶嫌われていた」

 この夏休みに接して、伊織が進んで他人を虐めるような人間ではないことは分かっていた。
 今さら、夏休み明けに再びちょっかいを掛け始めるとも思えない。
 だから俺は、ここで彼女と仲良くしていることを、伊織に告げた。

「……それで、トワがあいつのことイジメめる理由を聞いて、どうするの?」

「俺にどうこうできる話なのか?」

 俺の言葉に、伊織はまたしても溜め息を吐いた。
 それから、うんざりするように、自嘲しながら彼女は口を開く。

「トワってさ、可愛さだけが取り柄じゃん?」

 彼女の言葉の意味が良く分からずに、俺は「はぁ……」と、間の抜けた返事をする。
 それを見た彼女は、苦笑してから続ける。

「そんなトワに比べて、那月未来は美人で、頭良くて、その上お洒落な都会育ち。つまりはトワの完全上位互換。嫉妬で意地悪したくもなるでしょ」

 そんな理由で……と思った。でも、十分な理由だとも思った。

 人が他者を貶めるのに足る、立派な理由なんてものはない。
 特に、思春期の少年少女の未成熟な精神では、嫉妬心というのは重大で、しかもコントロールが難しい部分でもある。

 それに……伊織は自ら言わないが、那月はプライドが高く、口調もキツイ。
 本人が意図していたかは分からないが、確実に余計なことも言ったのだろう。
 そうして、いじめが始まってしまった。

「それで、あっきーはこの理由を聞いて、どうするつもりなの?」

「さっきも言ったけど、俺はどうしようとも思っていない。でも、もし。伊織がこれまでのことを後悔して、謝りたいって思っているんだったら。その時は、俺もあいつに、ただいじめを傍観していたことを、謝りたいと思ってる」

 伊織トワは、近い将来必ず、那月を虐めたことを後悔する。
 俺は、未来の彼女がどうなっているのか知っている。
 優しい彼女が、どうして罪を犯して捕まってしまったのか?

 それはきっと、那月が死んだことを自分に原因があると思いつめ、自暴自棄になって、最後には悪い大人にいいように利用されてしまったからだろう。

「……どうしてあっきーは、あいつと仲直りできたの?」

 俺の言葉を聞いて、伊織は瞳を伏せたまま、尋ねてきた。

「あいつが一人で弱っている時に声を掛けたのが、たまたま俺だったから心を開いてくれただけで――それ以上の理由はない」

 俺の言葉を聞いた伊織は、一瞬口を開いて、それから唇を噛んだ。
 たったそれだけのことで許されるのかと、不満を抱いたのかもしれない。
 しかし、彼女はその思いを吐き出したりはしなかった。 

「トワは謝りたい、って思ってない。だけど今さらまた、あいつを虐めようなんて思ってない」

「それで、良いと思う。1クラス30人以上の集団で、嫌いな相手がいない方が不健全だ」

 伊織は、那月が死んだら後悔し、罪の意識に苛まれるのかもしれない。
 だけど、今回は……俺があいつが死ぬのを止めるから、二人の関係を清算する必要はない。

 俺の言葉を聞いた伊織は、その場で立ち上がり、出口へ向かって歩いて行った。

「……もう良いよね! 折角、夏休み最後の日にデートに来たんだから、もっと楽しまなくっちゃ!」

「そうだな、今の話は、忘れてくれ」

 俺は彼女の後を歩きながら言う。

「……忘れないよ」

 伊織が、俺の言葉に呟きを返す。
 その言葉には、どんな感情が込められていたかは分からない。
 だけど俺は、聞こえないふりをした。

 そうしてこの後も、何事もなかったように伊織と共に水族館を楽しんで見て回った。



 3度目の、高3の夏休みが明けた。
 日焼けをして登校した俺を見るクラスメイトの視線は、2度目の時と同じように哀れみを孕んでいた。

 それから、2度目と同じ内容の夏休み明けのテストを受け、

「お前はあまりにも自分勝手だ! 大学受験は団体戦。なのにお前は補習にも出ずに、一人で勉強。その結果、学年2位。お前は良くても、周囲はどう思う? 自分の夏休みの成果を疑問に思う人間も出てくる。自信を無くした奴らに対して、責任をとれるのかお前は!?」

 結局、担任から叱責を受けることとなる俺。成績が下がれば怒鳴られ、上がればさらに怒られる。
 予定調和のイベントに、苛立ちが募る。
 何を言われても無言で対応する俺に、「調子に乗るなよ!」と言った後、職員室を出るように担任教師が指示をした。
 俺は会釈の一つもしないまま、言われたとおりに廊下に出る。

「待て、玄野」

 それから、すぐに背後から声を掛けられる。
 振り返ると、そこには熱田先生がいた。

「なんですか?」

「少し話がある。生徒指導室に来い」

 先ほど、説教を受けていた態度が悪かったから、こうして声を掛けられているのだろうか。
 面倒だな、と思いつつも、おとなしく従う。
 生徒指導室に入り、椅子に腰かける。
 目前の熱田先生が目を細め、俺に向かって言う。

「お前、夏休み中バイトしてただろ?」

 その言葉に、俺は疑問を抱く。
 前回の夏休みは、バイトはバレてなかったと思うのだが……。

「バイトは許可制で、お前がその許可を取っていないのはもう把握している。本来は指導対象だが……そのために、ここに呼んだわけじゃない」

 俺は首を傾げる。
 彼は何を言いたいんだろうか?

「お金に困っているのか?」

 心配そうに、俺に語り掛ける熱田先生。

「……いえ、そういうわけじゃないんですが」

 俺の答えを聞いて、こちらの表情をまっすぐに覗き込んできた。
 
「隠れてバイトをしながらも、他の人より短い勉強時間で、学年2位の成績になるまで勉強も頑張る。普通のモチベーションじゃ絶対にできることじゃない」

 彼の言葉を聞いて、自分が失敗したことに気が付いた。
 こんなことになるのなら、前回と同じくらいの点数を取っておけばよかった。
 今回のテストで、好成績を狙ったのは……。
 俺が好成績を取ることで自信を無くす奴らがいるのなら、いい気味だと思ったから。
 同学年の奴らのほとんどは、那月が嫌がらせを受けても、見て見ぬふりをしていた連中だ。
 そいつらに対して、俺は幼稚な八つ当たりをしたのだった。

「バイトはもう、辞めろ。見逃すのは今回だけ、次に見つけたときは、改めて指導する。もしも、やめられない事情があるなら……俺に、相談をしてくれ」

 熱田先生は俺の肩に手を置き、諭すようにそう言った。

「はい、そうします」

 俺の答えを聞いた熱田先生は、苦笑して言う。

「そうしろ。良い成績が取れたからって、次回も同じようにとれるとは限らないんだからな」

 その言葉を聞いて、少し気になることがあった。

「どうした、玄野?」

 熱田先生が、俺の表情を伺いながら問いかける。

「いえ、俺の担任でも、生活指導の担当ってわけでもないのに。どうして熱心に話をしてくれるのかなって思っただけです」

 前回も同じように、俺がバイトをしていたのを知っていたはずなのに、今回に限ってこんな対応をしたのはなぜなのだろう。

「俺は玄野が思っているよりも、薄情な奴だよ。それでも、頑張っている奴や苦しんでいる奴の味方でありたい。……お前ら高校生は、自分たちのことを大人だって思っているかもしれないけど、まだまだ子供なんだ。だから、何かあったらいつでも頼ってくれ」
 
 熱田先生はそう言って、立ち上がり出口へと向かった。
 俺も立ち上がり、彼の後に続いた。

「それじゃあ、今日は気をつけて帰れよ」

 生徒指導室の施錠をする熱田先生に会釈をしてから、俺は教室へ向かって、廊下を歩き始める。

 ――熱田先生は、決して悪人ではない。
 しかし彼は庇護するべき子供である、バレー部の女子と恋人関係であり、那月がいじめに苦しんでいることにも気づかずにいた。
 彼の言葉を綺麗ごとだと思うのは、俺自身が汚い大人だからだろう。



「お、あっきー戻ってきた!」

 教室に戻ると、2度目の時と同じように、伊織が声を掛けてきた。
 今回も俺が戻るのを待っていたようだ。

「センセーに呼び出されてたけどさ……どうだった!?」

 楽しそうに、瞳を輝かせて問いかけてくる。

「成績が上がったから、怒られたんだよ」

「どういう意味!?」

「補習をサボった俺が良い成績を獲ると、真面目に補習を受けた生徒が自信を無くして可哀そうだから、だそうだ」

「何それ! 自分たちが勉強教えるのが下手なのをあっきーのせいにして、うっざー!」

 眉間に皺を寄せた伊織は、職員室の方向を見ながら中指を突き立てた。

「ていうか夏休み、あっきーが重要だってトワに勉強教えてくれたとこ、全部テストに出たおかげで、下から数えた方が早かった順位が、ギリギリ上から数えた方が早くなるまで順位上がったんだけど!」

「下から数えた方が早いっていうのは、結構オブラートに包んだな。ほぼ最下位くらいだったろ」

 俺が言うと、伊織はテヘヘ、と笑ってごまかした。

「それでさ、あっきーこの後暇? 折角だし、お礼がしたいんだけど」

「あー、それならカラオケとかどう?」

 前回は一緒にカラオケに行っていた。
 当然今回も付き合ってもらえると思っていたが、彼女はあまり乗り気ではなさそうだ。

「オケるのも良いけどさー。もっとゆっくりしたいって言うかー……」

 伊織の言葉に、俺は首を傾げる。
 何がしたいのだろうか?

「トワの部屋でも良いけど……、あっきーの部屋行ってみたいな」

 伊織は上目遣いに、俺の表情を覗き込んでそう言った。
 その言葉を聞いて、俺は随分と昔に聞いた覚えのある、伊織トワの悪い噂を思い出した。

『誰にでもヤラせる女』
『元カレは100人以上いるのに、3日以上付き合った男はいない』

 そういうことかと、俺は内心納得した。



「……あのさ、ここ絶対あっきーの家じゃないよね?」

 息を切らし汗をかいている伊織は、大きく深呼吸を繰り返してから、恨めしそうな表情を浮かべてから言った。
 ここは俺の家の近所にある、町並みを見渡せる展望台のある公園。
 普段から、元気のあり余ったキッズくらいしかこの場には来ない。
 今も、俺と肩で息をする伊織以外に、人はいなかった。

「うん、違う。今気づいたのか?」

「途中で気付いたけどさ……え、なんでここに? トワはゆっくりしたいって言ったじゃん! もう滅茶苦茶疲れたよー」 

 不満を爆発させる伊織に、俺は答える。

「ここでもゆっくり話せるだろ?」

「だからって、なんでこんな場所に……」

「お気に入りの場所だから、伊織にも知ってもらいたくて」

 この場所は、夏休み中に那月にも案内していた。
 彼女は上る途中に現れた蛇に驚いていたものの、この場所自体は気に入ってくれていた。

「……自分の好きなところを、トワにも見てもらいたいって、結構かわいいところあるんだね、あっきー?」

 可愛らしいハンカチで額の汗を拭きながら、伊織は挑発的にそう言った。
 彼女が汗を拭い終えるのを待ってから、俺は言う。

「伊織は別に、俺のこと好きでもないだろ?」

「……好きだよ?」

 伊織は、無表情で言った。

「俺に向けているその気持ちに、恋愛感情はないだろ」

 俺は真剣な表情を浮かべて、伊織に言う。
 彼女は、無表情に言う。

「トワってすっごい可愛いし、ギャルっぽい恰好が好きだからかな? 男の人が、エロい目でこっちを見てくるのも分かるんだよね」

 伊織は、スカートからむき出しになった、自らの白い太ももに視線を向ける。

「同級生とか、年上に告られることも、ナンパされることもしょっちゅうある。大体がチャラい人で、すぐに部屋とかホテルに誘って、やろうとしてくるんだよね。……あ、真面目そうに見える人でも、おんなじだったか」

 あはは、と可愛らしく笑ってから、

「その時点で、トワ的にアウト」

 と、伊織は硬い声音でそう言った。

「俺のことを試してたってわけだろ?」

「うん、そう。あっきーは、これまでトワをエロい目で見たことがなかった。だから、トワから部屋に行きたいって言ったのは、最終テスト」

 伊織は、俺の表情を窺ってから言う。

「最終テストに合格して、トワを部屋に連れ込まなかったあっきーのことなら、トワは信用できる。……だから、これからきっと、ちゃんと好きになれる気がするんだよ」

 その言葉はまるで、自分に言い聞かせているようだった。
 好きになれる気がするの、と言っている時点で、彼女が俺に抱く感情は、決して好意ではない。

「伊織は周りにいた男がろくでもない奴ばっかりだったせいで、男性不信になってるんだろうな」

「『誰とでもヤル女』ってひどい噂を流されてるけど、多分それってこれまで付き合って、結局ヤラなかった男が言いふらしてるんだと思うんだよね。3日以上付き合った人はいないけど、元カレ30人以上いるから、特定できる気しないけどね。……そういうことが重なって、信じたくても信じられなくなったのかも」

「まぁまぁ……スタンダード」

 俺が呟くと、伊織はキョトンとした表情で首を傾げた。それを見て俺はちょっと恥ずかしくなった。
 3日以上付き合った相手はいない、という一部分のみを除いて、噂は全て噓だった。
 そんなことは、これまで伊織と接してきて十分にわかることだった。

「別に俺は、伊織と付き合いたいとか思っていない。ただ、一緒にいると楽しいから、仲良くしたいとは思っている。……だから今度、文化祭を一緒に回ってくれないか?」

 俺の言葉に、伊織は落ちこんだ様子で言う。

「でもやっぱり、トワはあっきー以外の男を好きになれるとは思わないから……」

「無理に好きになる必要なんてないだろ」

 それが虚しいだけなのだと、俺は身をもって知っている。

「本当に俺のことを好きになっても、なれなくても結局は一緒だ。さっきも言ったけど、俺は伊織と付き合いたいとか思ってないから、どうせ振る」

 俺の言葉に、伊織は驚愕を浮かべ……そして、心底楽しそうに笑った。

「酷すぎ! こんなに可愛いトワのこと振るとか、あっきーどんだけ今宵ちゃんのこと引きずってんの? キモすぎー!」

 そう言ってから、伊織は立ち上がる。
 夕暮れに沈む町並みを、目を細めて眺めて、彼女は呟いた。

「チュロス出すクラス、あるかな?」

 2年のとあるクラスが出店していた記憶があるが、今はまだ決まっていないはず。

「もしあったら、文化祭付き合ってくれるお礼におごってやるよ」

「やった! 今の言葉、絶対忘れないから!」

 無邪気に笑う伊織に、俺は頷く。取るに足らない、些細な出費だ。
 ……これで、今宵の嫉妬を向けさせる生贄(スケープゴート)を手に入れられるのだから。
 申し訳ないという気持ちは確かにあるが、これ以外の手段を取る気はない。

 俺は立ち、伊織の隣に並ぶ。
 彼女はつくづく、男運がないんだなと実感する。

 初めて信頼した俺こそが、これまで伊織が出会った男の中で、断トツのクズなのだから。



 伊織を駅まで見送り、それから家に帰る。
 携帯を見ると、那月からメールが入っていた。

『あんた、どんな勉強したわけ?』

 俺が夏休み中バイトをしていたにもかかわらず、学年2位という好成績を残したことに、興味があるのだろう。

『学年一位の才女に勉強を見てもらえばこのくらい余裕(^^)v』

 俺がメールを送ると、間髪入れずに返信が届く。

『うざ』

 顔文字も絵文字もない、たったの二文字。
 それだけなのに、彼女の嫌がる表情が想像できた。

『ヤマが当たっただけ』

『それでも私には勝てなかったね』

「……わざわざ勝利宣言とか、負けず嫌いだな、こいつ」

 俺は那月から来たメールを見て、呟いた。
 それから、続けて彼女からのメールが届いた。

『でも、頑張ったね』

 ……きっと彼女は、この言葉を俺に言うために、メールをしてくれたのだろう。

『ありがとう』

 俺の送ったメールに、返信はなかった。



 その後、那月とは学校で積極的に関わることはなかった。
 ただ、ファミレスで一緒に勉強をすることはあったし、ちょっとしたことで電話やメールのやりとりをすることもあった。
 つまりは、相変わらずの……それなりに良好な関係を続けていた。

 そうして、2学期も1か月ほどが経過した頃。

「あのさ……最近トワちゃんと仲良くない?」

 2周目と同じように、制服姿の今宵が突然俺の部屋に訪れた。
 彼女は、俺のベッドの上に腰かけ、椅子に座る俺に対し、そう問いかけた。

「ああ、そうだな」

 今宵の問いかけを俺は肯定する。
 学校にいる時は、特に伊織と一緒にいる時間が増えた。
 世間話をするのはもちろん、休み時間中に彼女の勉強を見てあげることも増えた。
 それもこれも、こうして今宵の嫉妬心を、伊織に向けるためだった。

「ふーん、開き直るんだ?」

 だけど、今宵の様子が俺の想像と違った。
 彼女の表情には、どこか余裕を感じさせた。

「開き直る、ってわけじゃないけど。休みの日には、二人きりで遊びに行くことも多い。水族館とか、カラオケとか……」

 今宵は俺の言葉を聞いて、クスリと笑った。

「お互いに志望校に合格したら、付き合おうってあたしと約束したよね? なのに暁は他の女の子と遊び惚けてる。……どういうことなのかな、これって?」

 前回は硬い声音で憤慨していたのに。
 今日は、俺の答えを聞くのを楽しんでいるように見える。
 このギャップは、何なんだ……?

「別に、伊織とは付き合ってるわけじゃない。ただ、話してみたら思いのほかウマが合って、一緒にいることが増えただけだ」

 俺が言うと、今宵は「ふーん?」とニヤニヤしながら、俺を見た。
 それから、手招きをして、

「こっち来て、隣に座って」

 と自分の隣に座れと言ってくる。
 俺は今宵を警戒しつつ、彼女の隣に腰かけた。

「何ビクビクしてるの? 浮気されたと思ったあたしが、暁を怒るとでも思った?」

「まあ……、そうだな」

 俺の言葉に、今宵は微笑む。
 そして、意外なことに彼女は、俺の肩にもたれかかってきた。

「暁は変わったよね。一回あたしにフラれてから」

「……そんなことないだろ」

 俺がタイムリープをしていることを、今宵は気づいてはいないだろう。
 それでも、思わずどきりとするようなことを、彼女は言ってきた。

「あたしは暁のこと、何でも知ってるから。隠し事なんて出来ないよ?」

「隠し事なんて、していない」

「隠すつもりがないってこと? ……暁、わざとあたしがトワちゃんに嫉妬するようにしてるでしょ?」

 その言葉に、俺はびくりと肩を震わせてしまった。
 どうやら今宵は、思っていた以上に俺のことを理解しているようだった。

「図星だったね。暁の考えてることくらい、お見通しだよ? トワちゃんに嫉妬させて、あたしの気持ちを煽ってる。……二人が合格する約束の日まで、待てないから」

 しかし、伊織に嫉妬を向けさせている理由については、理解できていないみたいだった。

「暁は、あたしに振り向いてほしくて必死なだけなんだよね? ……可愛い」

 揶揄うように言う今宵に、俺はつい油断をして、気を抜いていた。

「……今日だけだよ?」

 そう言ってから今宵は、俺の肩を掴んで思いっきり押し倒してきた。
 ベッドの上に、仰向けに倒された俺の身体に、今宵は自らの身体を重ねた。
 脈打つ鼓動が伝わり、吐息が肌を撫でる。

「今日だけ――今だけ。暁のしたいこと、してほしいこと……なんだってしてあげる」

 今宵は、俺の耳元で囁いた。
 そして、彼女はゆっくりと、俺の太股を指先でなぞる。

「……っ」

 突然の快楽に、俺の口から意図せず声が漏れた。
 それを聞いた今宵の表情が、嗜虐的に歪んだ。
 ……このまま、彼女を抱くのも悪くはないのかもしれない。
 一度抱けば、きっと今宵はこれまで以上に俺に入れ込む。
 今日だけ、なんて言葉はすぐに忘れ、肉欲に溺れる日々を過ごすことになるだろう。

 そうして身も心も、俺なしではいられなくすれば――言うことを聞かせるのも容易だろう。
 
「……どいてくれ」

 だけど俺は、そう言って今宵の身体を押し返した。

「悪いけど、そういうつもりじゃないから」

 ベッドの上で起き上がり、向かい合う俺と今宵。

「……強情だね」

 今宵は呆れたように呟いてから、俺の胸に額を押し付けた。

「でも、我慢できて偉いね」

 そう呟いてから顔を上げ、慈しむように俺を見つめてから……首筋に口づけをしてきた。
 その後、今宵は立ち上がった。皺になった制服を手で叩いて伸ばす。
 それから、ベッドに腰かけた俺を見下ろして、彼女は今しがた口づけした首筋に指を這わせながら、尋ねてくる。

「暁は、あたしのこと好き?」

「愛してるよ」

 彼女の問いに、俺は悩む間もなく即答する。俺の口から放たれた、空虚な響きの偽りの言葉を。
 今宵は妖艶な笑みを浮かべて聞いていた。

「あたしも愛してるよ」

 そう言って、今宵は俺の部屋から出て行った。
 どっと疲れが出た俺は、一つ溜め息を吐いてベッドの上で仰向けになった。
 俺の思惑とは少し違った形だが、今宵は今、那月へ嫉妬を向けてはいないようだった。
 ふと、シーツから今宵の残した甘い香りが漂い、鼻腔をくすぐる。
 つい先ほど、その香りを機に、今宵に押し倒されたことを思い出した。

 彼女を抱くことに、良心の呵責があったわけではない。
 ああいう女を抱いても面倒ばかりでろくなことにならないことを、経験則で知っていただけだ。
 俺は自分にそう言い聞かせる。
 未だに胸の鼓動が収まらないのを、自覚しながら――。



 あれから、今宵にちょっかいを掛けられることはなかったが、不思議と視線が合うことが多くなったように思う。
 それは、俺も彼女を目で追うことが増えた、ということだろう。
 今宵は、那月に嫌がらせをしている可能性が高い、要注意人物だから。……ということ以外に、理由はないと思いたい。

 そうして、平穏な日々が過ぎ、今日は3度目の文化祭。

「あっきー、とりあえずチュロス!」

 最初と2回目の文化祭は男友達と回っていたが、今回は約束通り、伊織と文化祭を回る。

「はいはい」

 そして、俺は2年生のやっている出店で、伊織にチュロスを買い与えた。
 受け取った伊織は、一口ほおばってから、

「うーん、美味しくはなーい!」

 と、楽しそうに言った。

「はい、あっきー残りどうぞ」

 そう言って伊織は、一口だけ食べたそれを俺に押し付けてくる。
 俺は受け取り、しぶしぶ食べる。

「……二個買わないで良かった」

 食べられなくはない。ただ、パサパサしてるし、なのに油を吸い過ぎてて重いし、伊織の言葉の通り、決して美味しくはない。
 ……普通に不味い。

「じゃあ次は、お化け屋敷いこっか!」

 伊織は俺の手を引き、3つの教室を使って作られた、今回の文化祭の最大規模のお化け屋敷へと向かった。
 少しの間並んでから、お化け屋敷の中へ案内をされる。
 最初の頃は雰囲気がそれなりに出ており、期待をしていたのだが、恐怖演出が単調で、半ばを過ぎたころには飽きて怖がることもなくなった。最終的に、暗いところでちょっと散歩をしているみたいな感覚だった。

「時間を無駄にしたねー」

 伊織はにっこりと笑って言い、俺も笑顔を浮かべて、無言で頷いた。

「講堂でやってるステージでも観に行く?」

「そうしようか」

 それから、俺と伊織は講堂へと向かった。



 内輪ネタばかりの寒いお笑いコンテストを、伊織は存外楽しんでいるようだった。
 俺はというと、正直飽きていた。
 何といっても3回目の文化祭だ。
 2度目は懐かしくて楽しんでいたが、今回はそれも難しい。
 
 俺は時計を見る。既に夕方、あと一時間もすれば文化祭は終わる。

 そろそろ、伊織と一緒に文化祭を回っている俺に嫉妬した今宵が、顔を出す頃合いだ。
 俺は周囲を警戒していたのだが……。
 一向に、今宵は来ない。

 ――そして、文化祭終了まで残り30分となった。
 ここにきてようやく、俺は違和感を覚えた。
 もしかして俺は、思い違いをしていたのかもしれない。

「……ごめん、伊織。ちょっと外す」

「え? あ、うん。わかった」

 漫才コンテストの結果発表を見守る伊織に一言告げてから、俺は講堂から校舎へと向かった。
 そして屋上前の扉を見て、心臓の鼓動が逸った。

 南京錠のカギが……開いていた。
 
 扉を開いて、屋上へと入ると、2度目の時と同じように。
 彼女は手摺りに寄りかかりながら、眼下を見下ろしていた。
 俺は深呼吸をしてから彼女の隣に並んで、声を掛ける。

「今年は文化祭、楽しめた?」

「……ああ、まあね」

 俺の声に、彼女はこちらを一瞥もせず、怠そうにそう答えるだけ。……俺は、絶句する。
 那月は、今回も嫌がらせを受けてしまったのだ。

「何かあったのか? 話を聞かせてくれ」

 俺の言葉に、那月は肩をびくりと震わせた。

「……うるさい」

 俺の言葉に、那月は無感情にそう言ってから、俯いた。
 その様子を見て、思案する。

 伊織は今日一日、俺に付きっきりだった。彼女が犯人は、ありえない。
 もう一人の容疑者である今宵は、今回は那月に嫉妬をすることもないため、嫌がらせをする動機がない。

 つまり、那月に嫌がらせをした犯人は、俺が注意をしていた二人ではなかったのだ。

 回りくどいことをしていないで、那月と一緒にいるべきだった。
 いや、それは結果論か……。
 とにかく今は、那月を一人にはさせない。
 
「ここ、寒くない? 俺の上着で良ければ貸すけど」

「寒くない。……良いから一人にさせて」

「今の那月を一人には出来ないだろ」

 俺の言葉に、那月は顔を上げる。
 それから彼女は、俺を赤く泣き腫らした目で、睨みつけた。

「……うるっさい、私が一人が良いって言ってるんだから、一人にさせてよ」

 前回の俺は、彼女のためにできることは何もないと、屋上を後にした。
 だけど今回は、違う。彼女の死の運命を、俺は変えたい。

「分かった、もう何も話さない。だから、傍にいるくらい良いだろ?」

 俺の言葉を聞いて、彼女は拳を固く握った。

「あんたの顔なんて見たくないっ、さっさと私の前から消えて!」

 俺は無言のまま、彼女の視線を受ける。

「黙ってないで、何か言えよぉ……」

 弱々しく呟き、縋るような視線を送る那月。

「傍にいるって、言ってるだろ」

 俺の言葉を聞いて、那月はまっすぐに、こちらを見つめる。
 それから、俺の制服の裾を、ギュッと握りしめてから、声を振り絞るように言う。

「はやく、どこか行って……」

 その言葉とは裏腹に、俺の制服を掴む彼女の手には、強い力が込められていた。
 彼女の胸の内に隠した本心が、痛いくらい伝わってくる。
 俺は那月のその手に、自らの手を重ねた。

「……嘘。どこにも行かないで、このまま一緒にいて」

 震える声で、那月は呟く。

「傍にいるから、心配すんな」

 俺が答えると、彼女は俺の胸に飛び込んできた。

「……心の中でずっと、あんたに『助けて』って言ってた」

 深い悲しみが、彼女の声と体温を通して俺に伝わってくる。

「来るのが遅い、もっと早く来てよ。……バカ」

 そう呟いてから、那月は嗚咽を押し殺す。俺は、彼女の肩を抱いて言う。

「一人にして、ごめん」

「もう、一人にしないで……」

「うん、一緒にいる」

 泣き止まない那月を宥めるように肩を叩き、俺は問う。

「誰に、何を言われたんだ? 那月を傷つけた奴を、俺は許せない」

 自分が思っている以上に、俺は怒っていたようだ。
 怒気を孕んだ声音に、那月はビクリと肩を震わせ、怯えたように俺の表情を覗き込んできた。

「言いたくない。もう、あんた以外の誰とも、関わりたくない……」

 そう言って、那月は俯いた。
 那月は弱り切っていた。
 ……今の彼女に、誰に何を言われたのか、思い出させたくもない。

 俺は、心底自分が情けなくなった。
 普段は強気に振る舞っている那月だけど、俺が見て見ぬふりをしていた内に、ここまで追い詰められていたのだ。

 ――彼女を追い詰めた全てを、台無しにしてやりたいとさえ思った。

「明日、一緒に文化祭を回ろう」

「……え?」

 俺の言葉に、那月は呆然とした様子だった。

「那月は今日、最悪な文化祭だって思っただろ? だから明日は改めて、最悪な文化祭だってことを、二人で確認しよう」

「でも……」

 答えを悩んでいる様子の那月。
『私は見世物になるつもりはないから』
 彼女の言葉を思い出し、俺は問いかける。

「祭りなんだし、見世物が一個増えるくらい構わないだろ?」

「……見世物?」

 戸惑ったように、那月は言った。
 そうだ、これは前回の記憶。
 今目の前にいる那月とは、この会話をしていない――。

 俺は、「なんでもない」と呟いてから、続けて言う。

「パッサパサのクソ不味いチュロス、内輪ネタの笑えない漫才、青春ごっこの聞くに堪えないコピーバンド。この町と同じで、那月が好きになる要素なんて一つもない、クソみたいな文化祭だったって、いつか未来で思い出した時に笑いながら言えるように――」

 俺は、彼女に手を差し伸べてから、言う。

「明日は、俺と一緒に文化祭を回ろう」

「……うん、良いよ」

 那月は頷き、差し出した俺の手を、握り返して微笑んだ――。



 そして、翌日。
 初日の熱を持ち越した文化祭の2日目は大盛り上がりをしているようだが、俺と那月には関係なかった。

「これが我が校自慢のチュロスだ」
「うわ、ほんとにマッズ」

「漫才コンテストの決勝に進んだ漫才はどうだ?」
「どこで笑えば良いか分かんないっ」

「モテたいってだけでやってるお遊びコピーバンドが盛り上がってるみたいだけど、那月も盛り上がってる?」
「クッソ萎える!」

 俺と那月は、互いに笑顔を浮かべて悪口を言った。
 周囲の人間は、気分を害したように俺たちを睨んできたが、関係なかった。

 最初に那月を害してきたのは、お前たちの方だ。
 クソみたいな学校の、クソみたいな文化祭。
 しかも、俺は3度も繰り返している。
 退屈で、最低な気分になると思っていた。

 だけど、これまでで一番楽しいと思えたのは――なぜだろう。



 文化祭2日目が、あっという間に終わった。

 明日から……いや、今日の夜にはもう、3年生は受験勉強に集中することになる。
 だけど、俺と那月は帰ることなく、二人で屋上に来ていた。
 いつもは那月が開ける南京錠を、彼女にやり方を教えてもらいながら、俺が開けた。
 やってみたら意外と簡単で、だけど那月は「私の教え方が上手いから」と得意げに言っていた。

 日は既に落ちていて、夜空には少しずつ星が瞬き始めていた。

「やっぱ、つまらない文化祭だったろ?」

 俺は那月の隣に並び立ち、夜空を見上げながら問いかける。

「うん、クソみたいな文化祭だった」

「クソみたいな生徒と教師しかいないんだから、当然なんだけどな。クソの代表格である俺が言うんだから、間違いない」

 その言葉に、那月は答えない。
 彼女は、無言で俺の横顔を見ているようだ。

「こんな学校に来るなんて、運がなかったな」

 俺は苦笑して、那月を見た。
 彼女は、プイと視線を逸らした。

「そんなことない」

 俺の言葉を即座に否定した那月。
 どうしたのだろうかと思い、俺は那月の様子を見守る。
 彼女は、逡巡した様子だったが、俺が無言でいると、深呼吸をしてから口を開いた。

「文化祭はつまらなかったし、この学校には最低な奴ばっかりだけど――それでも、この学校に来たことを不運だったと嘆くことは、私にはもう出来ないから」

「……なんで?」

 俺の言葉に、那月は「これ、言わなきゃダメなの……?」と不満そうに呟いていた。

「言いたくないなら、無理に言わなくていいけど」

 俺の言葉に、那月は「はぁ~」と大きな溜め息を吐いた。
 恨めしそうに俺を睨みつけてから、まっすぐに伸ばした指先で俺の胸を強く3度突いた。
 
「私はあんたと……玄野暁と出会えた幸運まで、否定したくはない」

 上目遣いで俺を見た那月は、反応を窺っていた。
 こんなことを言われるとは思っていなかった俺は、すぐに反応が出来なかった。

「黙るな! ……それで、私にこんなことを言われた感想は?」

 目には見えないマイクを俺に向けた那月に、

「これからも、俺と出会えて幸運だったと思ってもらえるようにしたい」

 2度目の高校生活で、那月が俺と出会ったのは、紛れもなく不運だったろう。
 でも、今回は違うのだと、俺は自分に言い聞かせる。

「……あっそ」

 照れ隠しのように、那月はそう言い。
 俺の視線から逃れるように、プイと顔を背けた。
 


 3度目の文化祭も、終わった。

 クラスメイト達は完全に受験モードに切り替わっている。
 そんな中、俺はこれまでにないくらい周囲から浮いていた。

 それも当然のことだった。
 文化祭初日、俺は伊織と文化祭を回っていたのに、翌日には那月と一緒になって、各クラスや有志の出し物をボロクソに貶していたからだ。

『伊織が可哀そうだ』

『狛江にフラれてから、ずっとおかしいよな』

『受験、失敗すればいいのに』

 俺の陰口を叩く連中は、いくらでもいた。
 彼らの陰口は大体一理あったため、俺は口答えせずにおとなしく聞いていた。
 伊織からは一度、

『気にしてないよ』

 というメールが送られてきていた。
 俺は彼女に対しては、負い目があった。
 こちらから文化祭を一緒に回ろうと提案していたのに、結局は那月と一緒にいることを選んだのだから。

「迷惑かけた。ごめん」

 俺の謝罪の言葉に、伊織は優しい言葉で答えてくれる。

『良いよ、あっきーは友達だもん』

 しかし、そのすぐ後に送られてきた2通目の内容を見て、俺は肩を落とした。

『でも、那月に謝りたいって思ったこともあったけど…それは、もう無理っぽいかも』

 伊織の謝罪をする気持ちを、俺が奪ってしまった。
 クラスメイトに無視をされても、何とも思わなかったのに。
 このことについては、ショックを受けた。
 俺が周囲から浮きまくっている中、今宵はどういった態度をとっているかというと、意外にもこれまで通りの様子だった。

 伊織と俺が話そうとすると、周囲がそれを強引に止める。
 那月とは教室内でほとんど話すことがない。
 だから、文化祭以降、俺が教室で会話をすることがあるのは、今宵だけだった。

 今宵は、空気を読んでいないのか、何か用事があれば普通に俺に話しかけてくる。
 周囲のクラスメイトは、『幼馴染だからって甘やかしすぎ』と、今宵に呆れている様だった。
 
 俺はというと、その今宵の態度に違和感を抱いていた。
 2度目の時は、俺と那月が挨拶をしていただけで嫉妬をしていた。
 だけど今回は、文化祭を一緒に回っても、何の反応もない。

 伊織とのことがあからさま過ぎたせいで、那月との関係も、わざと嫉妬をさせるための行動と思っているのだろうか?
 それとも――他の理由があるのだろうか?

 今宵を問い質したかったが、下手に彼女を刺激したくはなかった。
 そうして結局、俺は今宵に何も聞けなかった。



 そして、2学期の終業式が終わった。
 世間はクリスマスムードで浮かれているが、受験を目前に控える高校三年生には関係がなかった。
 ……はずなのに。

「24日、暇?」

 電車を降り、一緒に帰宅中だった那月は俺にそう問いかけた。
 
「……勉強してると思うけど」

「それなら、私の家で一緒に勉強するわよ」

「……何で?」

 那月とは文化祭以降、自然と一緒に下校する仲になっていたが、こうして自宅に誘われたのは、あの花火の日以来初めてのことだった。

「一緒にいたいから。……ダメ、だった?」

 那月は前を向いたまま、呟いた。
 横顔しか見えないが、彼女の耳が真っ赤になっているので、恥ずかしがっているのが分かった。

「それじゃあ、お言葉に甘えて。勉強を教わりに行く」

 俺が答えると、那月は前を向いたまま、

「うん」

 と頷いた。
 彼女の口元が嬉しそうに歪んでいるのに、俺は気が付いた。



 そして、12月24日、クリスマスイブ当日。

「いらっしゃい」

「お邪魔します」

 俺は、那月の家に来た。
 どこか普段と違うように見える那月に迎え入れられた俺は、彼女の部屋に入った。
 以前来た時と同じように、相変わらず生活感のない部屋だった。
 
 ローテーブルの上に勉強道具を広げて、俺と那月は勉強を始める。
 互いに、無言のまま問題を解き進めた。

 ――そして、数時間後。
 静寂の中、空腹を感じた俺の腹の虫が鳴った。

「……なんかごめん」

 俺の言葉に、那月はクスリと笑って、

「ちょっと休憩にしよっか」

 と言った。
 彼女は飲み物とチーズケーキを用意した。

「はい、クリスマスケーキ」

「おお、いただきます」

 勉強で疲れ、脳が糖分を欲していたところだ。
 甘いものはありがたかった。

「美味しいな、これ」

「良かった」

 ホッとした様子の那月を見て、俺は彼女に聞いてみた。

「もしかして、手作り?」

 驚愕を浮かべた那月は、

「はぁ!? 受験勉強の息抜きに作っただけなんだけど?」

 と言って、そっぽを向いた。
 どうやら俺のために作ってくれたらしいが、これは思い上がりではないだろう。

「今日はいつもより気合を入れて化粧をしてるみたいだけど、それも息抜き?」

 俺が言うと、彼女は恨めしそうに俺を見る。
 普段のナチュラルメイク……というより、ほぼナチュラルな化粧に比べて、今日はばっちりとめかしこんでいた。

「……気づいてたなら、最初に言えよ」

 怒ったように、彼女は言った。

「綺麗だよ」

 俺の言葉に、那月は顔を真っ赤にして、「あ、ありがと」と、微かに呟く。

「そうだ。ケーキのお礼ってわけじゃないけど」

 俺はカバンからラッピングされた袋を取り出して、それを那月に渡した。

「メリークリスマス」

「……クリスマスプレゼント?」

 呆然として受け取った那月が、俺に問いかける。
 その問いに、首肯した。

「とは言っても本当に大したものじゃないしぶっちゃけ那月には不要なものだから過度な期待はしないように」

「めっちゃ早口で予防線張るじゃん……だっさ」

 辛辣な言葉に反し、彼女は笑顔を浮かべて、ラッピングを丁寧に剥いていった。

「五角形の鉛筆……」

 俺からのプレゼントは、所謂『合格鉛筆』だった。

「才女の那月には不要なものだと思うけんだけど、一応持ってて損はしないんじゃない?」

 俺の言葉に、那月はクスリと笑った。

「嬉しいよ、ありがとう」

 そう言ってから、彼女は立ち上がり、俺の隣に座る。
 俺の肩にもたれかかってから、彼女は言った。

「今日、泊っていってよ」

 ……那月はすっかり、俺に心を開いてくれている。
 彼女の言葉の意味が分からないほど、俺は純粋でも鈍感でもない。
 その問いかけに答える前に……俺は那月に聞きたいことがあった。

「那月の親が許さないだろ」

 那月の家族のことについて、俺はまだ何も知らなかった。
 今なら、自然な流れで聞き出せるはずだ。

「今日は帰ってこないよ。……そもそもお父さんは東京だし」

 この口ぶりだと、両親は離婚をしているわけではないようだった。

「そういえば、どうして別居をしているのか……聞いて良い?」

 恐る恐る問いかける俺に、那月は軽い調子で答えた。

「私の転校の関係。お父さんの職場は東京だし、お家もあるから」

 俺は那月の家庭は、勝手に複雑な環境だと思っていたのだが、そうでもないのだろうか……?

「こんな田舎の高校に転校してきたのは、なんでなんだ?」

「……お父さんの出身高校だから」

 那月はそう言って、俺から視線を背けた。
 何か、隠し事があるのかもしれない。
 そう思い、無言のまま彼女を見た。

「……ほんの少しなんだけど」

 沈黙に耐えかねた那月は、そう前置きをしてから続けて言う。

「本当に、ほんのちょっと、微かに……ファザコン、じゃなくてファザコン風だから。お父さんの通ってた高校が、ちょっと気になったから、こっちの高校に転校してきた」

 全く俺の予想していなかった言葉。
 正直どう反応するべきか分からなかったので、俺は笑顔を浮かべて「そっか」と言った。
 那月は「うっざ」と言って、俺の脇腹を殴った。

「でもそれは、転校先をどこにするか決めたときの話だ。そもそも、那月はどうして転校をしたんだ?」

 俺の問いかけに、彼女は苦笑を浮かべてから、

「あんたにだけは、絶対教えないから」

 と、彼女は断言した。
 俺に聞かれたくないことなのだろうか……。それは、何なんだ?

「お母さんがこっちにいるのは、単純に一人暮らしはさせられないから、って理由。……田舎の生活も楽しそうだね、って文句の一つも言わずについてきてくれた」

 那月は、無言でいた俺にそう言った。

「そうだったのか。ちなみに……那月の母ちゃんって何の仕事してるんだ?」

 那月は答えなかった。
 踏み込んだ質問だったか? と焦っていると、彼女はむすっとした表情で俺を睨んだ。

「あのさ、あんた前にウチに来た時も、お母さんのこと見て美人だ、って言ってたよね。もしかして……人妻好き?」

「そういうのじゃねえよ!」

 予想外の疑いに、俺は思わず声を荒げた。
 それから、俺は立ち上がる。
 
「今日は帰るよ」

 俺の言葉を聞いた那月は、

「そっか……」

 と、寂しそうな表情で答えた。
 俺は彼女の頭にポンと手を置いて、言う。

「一人が寂しいのは分かるから、今日は家に帰ったら那月に電話するよ」

 那月は俺の言葉に、表情を明るくさせた。 

「うん、ありがとう。電話、待ってるから」

 そう言って、俺を出口まで見送ってくれた。

 彼女の笑顔を見て、もう大丈夫だと思った。
 文化祭の嫌がらせは、那月にとって最高の形でフォローが出来た。
 問題があるかと思っていた家庭環境も、俺の思い過ごしだった。

 きっとこのまま何事もなく過ごすことが出来れば。
 那月は、自殺をすることなんてないだろう。

 だったらこの先は、今の関係を続けるべきだ。
 友達以上、恋人未満。
 そしていつか、彼女が本当に誰かを好きになり。
 その相手にも好かれるようになったら。

 今度こそ、俺は後悔なく死ねるはずだ。

 俺は、雪解けの季節を待ちわびる。
 そして――。



 

「嘘つき」

 俺を責めるように、那月未来はそう言った。
 彼女は悲しげな表情を浮かべ、涙を流している。

「一緒に死ぬって、約束したのに……」

 諦観を浮かべた彼女は、最後の言葉を呟いてから――。
 眼下に広がる暗闇に飛び降りた。