光のない世界、息をすることもできず必死にもがく。
まるで深海のようなそこは上も下もわからず、立っているのかどうか座っているのかさえわからない。
助けてほしくて叫ぼうとしても声がでない。
深く、深く、深く、沈んでいく―――
もうどうでもいいと思った時。()を誰かがつかんだ。
その手は暖かく、見上げると太陽の光のように眩しく顔をみることはできなかった。
だがうっすらと見えるその瞳は優しかった。
まるで夏の太陽の日差しのように。()の心は激しく動揺し、焦がれた。
心などとうにないと思っていたはずなのに。
―――ああ、愛おしや―――


―――
――――――
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木琴の軽快な音楽が部屋に鳴り響く。
ベッドの上のスマホを手探りにさがし音を停止させる。

「変な夢...」

寝返りをうち、壁側をみるとうさぎのぬいぐるみがそこにあった。
じっとこちらを見るようにそれは動かなかった。

「きみの記憶だったりするのかな」

私が問いかけると、ぬいぐるみは首を傾げるような動作をした。
意思疎通ができてるのか疑問だが意図したものではないようだ。
よしっと起き上がり、カーテンを開け朝の陽ざしが部屋を照らす。
着替えを済ませ、身支度を整えると一階のキッチンに行く。
母が朝ごはんの支度を済ませており、私と後から来た弟は食事をするだけだ。

「ほら早く食べちゃいなさいよ、遅れないようにね!」
「うん」

トーストにバターを塗り、サクサクとした食感を愉しみながら朝食を済ませる。
食べ終えたら食器を流し台に置いて洗い、洗面所に行き歯を磨き顔を洗う。
ヘアゴムを口にくわえ、髪をまとめたらそれで縛り上げる。
キッチンに戻ると弟はまだぼーっとしていた。

「はやくしないと遅刻しちゃうよ優紀」
「んーおんぶしてって」
「いいよ~よしよししながら行く?みんなに見られていいなら」
「...やめとく」

外ではやんちゃな癖に、家の中だと甘えん坊なのっておもしろい。
そもそも私は身長が低いからすぐにおんぶされる側になりそうなのだが...。
明日から牛乳もちゃんと飲もうと私は決意した。

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高校は私の家からさほど遠くはない。
自転車で15分ほど走れば到着するので良いところに進学できたと思っている。
春の風が心地よく、住宅街を走っていると人々が今日一日を過ごさんと慌ただしく動いている姿をみることができる。

「うぃーっす」

私の自転車に並走するように現れたのは、中学の時から友人の賢一(けんいち)だ。
あまり人間関係が得意でない私にとっては昔ながらの友人が一緒の学校なのはありがたい。

「おはよ」

クラス自体は違うのだが、会えば雑談もするし助かっている。
彼は私とは違って交友関係が広く友人も多いのに...変に思われないだろうかと心配している。
子供の頃から()()()()を見ていた私は避けられていた。
何もない場所を指さして怯えるのだ、気味が悪いと思われても仕方がない。
だが彼は違った。その場所にいってどこにいるんだ?といって殴るような素振りをみせる。
最初はからかっているのかと思ったが、おまえが怖がるんなら追い払ってやるよと毎回そうするのだ。
そこに留まっている不気味なものがしだいに滑稽(こっけい)に思えて私は笑った。
すると彼も笑って、二人して遊ぶようになったのだ。
時々、彼が無理をしているのではないかと顔色を伺うのだが
決まって彼はキョトンとした表情でこちらを見返す。
どうかしたのかといわんばかりに。

「なあ、3組の吹奏楽部の子みたか?超かわいいんだって」
「そうなんだ」
「東京出身らしくてさーまじ最先端って感じ!見に行こうぜ!」
「ええ,,,そういうのはちょっと」

賢一は顔も良いし、サッカー部だからきっとモテるんだろうなあ。
そう思いながらチラッと見てると彼は意地悪そうにニヤニヤと笑い

「あーなるほどね!大丈夫、お前の方が可愛いよ」
「はあ!?なにいってんの!!」

勢いよく賢一の自転車を足で蹴ると、勢いが強すぎたのか
彼は自転車と共に道路の側溝に叫びながら落ちて行ってしまった。

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終業の鐘が校内に鳴り響く。
部活をもう決めてしまった生徒はそれぞれが支度をして移動を開始する。
私はまだ決まっていなかったのでぼうっと机に肘をついて顔を乗せ、窓の外の風景を見ていた。
桜の花がときおり風に揺られて散る様をみていると、賢一がいつのまにか側にきていた。

「まだ部活きめてないのか?」
「うん」
「ならサッカー部こいよー!先輩たちもマジいい人ばっかだしさ」
「走るのとか得意じゃないからね...」

苦笑いして答えると、そうかーと残念そうな賢一。
私は一組で賢一は4組なのでわざわざ来てくれたようだ。

「じゃあまたどっか入ったら教えろよ~!んじゃいってくるな」

そう矢継ぎ早に答えると急いで彼は荷物をもって教室を出ていった。
その後ろ姿をみている最中、教室の隅に黒い人のようなものが目に入った。
うちの生徒...じゃないよなと目をこらしてみると
それはギョロリと大きな一つの目が現れた。不意を突かれたせいで変な声がでた。
なるべく刺激しないようにしようと私は足早に教室を後にしたのだった――――

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自転車を軽快に走らせ、学校周辺の住宅街から田んぼの農道へと差し掛かる。
スマホをいじっていないときは色々と考えてしまう。
昨日の肉塊のこともそうだ。私が結んでいる"印"も所詮は正式なものではない。
先祖が残してくれた資料を私は時間があれば読みふけっていたのだが
正直なところ理解することは極めて困難だった。
なので祖父の知人であり神主をしている人に基礎的な知識を教授してもらっていた。
この世が現世(うつしよ)とよばれており、
反面、隠世(かくりよ)という霊界のようなものがあるということ。
通常、そのような霊界の存在は普通の人には認知することすら不可能なのだそうだ。
だが私のような一部の人間はそれが可能で、お互いに干渉することが可能になってしまうのだそう。そう、()()に。

とはいっても力の弱い存在はなにをするわけでもなく、想いや意思の残滓により場所に定着する程度のことしかできないようだ。誰かの、かつてそこにあった想いとしてそれは残り続ける。

しかし、例外はある。"邪気"というよくないエネルギーの影響によって存在が歪められ悪意をもった存在に変えられてしまうことがあるのだそうだ。それが俗にいう()()とよばれるもの。
そして、邪気の影響をさらに強く受け現世に強く干渉をできるようになった存在が()()とよばれるのだと。本当にそんなものがいるかは知らないが。

できるだけ遭遇はしたくないなと思う...。
私が対抗しうる手段は、先祖の資料から読み取った言霊の術ぐらいしかないからだ。
霊的存在を物体に封印するとか、その程度の術しか私は知らない...。
なのでもし妖怪なんてものが現れて殴りかかられたら成す術がないのだ。
本当に、現代に"陰陽師"なんてものがいるなら対処法を教えてくれるのだろうか。
祖父の知人の神主は知らないと言っていたけれど、本場の京都であれば現存しているのかな。

はあ...とため息をついていると、いつの間にか家の前まで来ていた。
自転車を車庫に入れると鍵をかけ、玄関の扉を開ける。

「ただいま~」

声をかけると、おかえりーと母の声が居間からした。弟はまだ帰っていないようだ。
階段をのぼり自分の部屋に着くと、ウサギのぬいぐるみが窓にいて外をみていた。

「なにみてるの?」

私は動じず声をかけた。するとぬいぐるみは右手をあげて振るような動作をした。
もしかして帰りをまっていたのだろうか。

「待ってたのかい?」

すると、ちいさく頷いた。なんかちょっと可愛い。
こいつが喋れたらいいのに,,,と思いふと気づく。

「きみはなにか名前のようなものはないのかい?」

ぬいぐるみは頭をかしげた。特にない...ということなのだろうか。
それでは声をかけるのに少し不便だと思う。
何かつけたほうがいいのだろうか。というかつけていいものなのだろうか...。
悩んだ挙句、直接聞いてみることにした。

「じゃあ、白い兎...だから、白兎(はくと)はどうかな?」

そう尋ねるとぬいぐるみは大きく頷いた。気に入ったようだ。

「白兎。それが今日からきみの名前だよ」

そう告げると、白兎と私の間に強い繋がりを感じた。
胸の内が熱くなりそれは言霊の術を行使した時のように強い力を感じた。
白兎を見ると、おぼろげながらうっすらと人のような姿かたちが半透明で浮かび上がった。
蜃気楼のようにすぐ消えてしまったが、変化はそれだけではなかった。

「―――主、ノ、ナヲシリタク―――」

私は驚愕した。喋った...というよりも心の奥底で響いた音色が言葉として感じ取れたのだ。
これは名づけをしたことによって何かしらの意思伝達が可能になったのだろうか。

「...ぼく、は玲だよ。」

そう告げると、白兎の幼い女の子のような柔らかい声色が心に響いた。

「レイ、サ、マ―――ワガ、主、オ、ツカエ、シタク――」

仕えるというのは配下とかそういうことなのだろうか。
べつに私は主従関係がほしいわけではないし、そんな風にも思ってほしくない。

「ううん、きみはぼくの"友達"だよ」
「トモ―――ダチ」
「そう。わかる...かな?」
「イミ、ヲ、シリタク――――」
「そうだな,,,もし白兎が辛いことがあれば一緒に悩んで考えるし助けたい」
「ぼくが楽しいことがあればそれを白兎にも喜んでほしい...とか...そういう感じ」

言いながら自分でも"友達"とは何なのかを理解していないことに気づく。
ふと賢一のことを思い出す。彼が支えてくれたことや一緒に怒ってくれたことを思い出して、でもなぜそんなことをしてくれたのだろうかと考えていると白兎が反応を示した。

「トモダチ――ヨキ、カナ――――――」

そう答えた白兎は少し嬉しそうだった。当初の邪悪な雰囲気はどこへやら。
そもそも邪気が意思をもちこんな霊的存在になるなんてあるんだろうか。
考えたところで答えが出るわけもなく...
私はとりあえず思考を放棄した。

そんなこんなで今日も一日が過ぎていく。
部屋の電気を消し、ベッドに入るとそこにはちゃっかり白兎が陣取っていた。
少し迷いつつも、えいっと抱きかかえると子供の頃のように私は眠りについた。
ぼんやり意識が深い眠りの底へ落ちていく中、
心の底で白兎がなにかをつぶやいたような気がした。



「―――――...ン、ナ、ギ――――――」