彼女が入院してから二ヶ月が経った。
 その間、僕たちは一度も顔を合わせることができなかった。彼女が自分から一切の面会を拒んだからだ。
 入院する少し前に彼女は言っていた。薬の副作用で弱っていく自分の姿は家族にすら見られたくないと。彼女の気持ちは痛いほどわかってるつもりで、でも本当はその十分の一もわかってあげられてないんだろう。

 彼女は冬休みが終わってすぐに転校するという名目で高校を辞めた。彼女の病気のことをしらない誰もが困惑していた。彼女の病気のことを知っている僕だけが、彼女が学校を辞めた理由を知っていた。彼女が学校を辞める決断に至ったのは、きっともうこの先、学校に通えるほど彼女の容態が回復する見込みがないからだ。

 彼女が入院してからもずっと僕は彼女と連絡を取り続けた。彼女に気を遣っているわけでも同情しているわけでもなくて、ただ僕が彼女と話をしていたかった。
 彼女が入院してから二人で星を見ることはできなくなった。
 
「私の代わりに君が星を見て」
 
 彼女が僕にそんなこと言うから、僕は彼女と通話を繋げたまま一人で星を眺めた。彼女はいないけれど、彼女と話をしながら星を眺めることはできた。
 僕は彼女に冬に見られる星座を教えてもらった。あまり知られてはいないらしいけれど、冬の大三角形を形成するベテルギウス、シリウス、プロキオンという星も教えてもらった。彼女がいないことは寂しかったけれど、星空を通じて繋がっていられることは、お互いにとっての最大限の救いだった。

 けれど彼女が入院してから一ヶ月が過ぎた頃、最初の内はすぐに返ってきた返信も徐々に遅くなっていった。毎夜行っていた通話もしなくなった。山崎さんの精神的な理由と、昏睡状態になることが多くなったからだ。僕と彼女が繋がっていられる時間は明確に減っていった。
 春になって、彼女は一時的に退院することになった。僕はもう迷うこと無く、月理に『会おう』とメッセージを送った。返答は返ってこなかった。

「悠。帰りにいつものメンツでゲーセン行くけど来るか??」
 
 学校の帰り際に神谷に誘われた。
 
「ごめん。この後用事あるんだ。最近付き合い悪くて本当ごめん」
 
 僕は彼の誘いを断った。善意で誘ってくれてるのに、それを断るのは罪悪感を感じた。

「おお。それはいいけど、最近お前元気無くね?? 大丈夫かよ」
「大丈夫。僕は。気にかけてくれてありがとう」
 
 僕はそう言って教室を出た。
 家について、まだ日が沈んでいないけれど、僕はすぐに河川敷に向かった。スマホを確認してもまだ彼女から返答は返ってきていなかった。
 もう一度メッセージを入力して、送る前に消した。それを何度か繰り返して、やっぱり送ることをやめた。不自由のない僕から何を言っても月理を傷つけてしまうことになる。
 彼女に会いたい僕と、彼女を傷つけたくない僕が頭の中で葛藤していた。どちらも選択したい傲慢な自分に嫌気が差して頭がおかしくなりそうになる。
 それから一時間くらいして、スマホの通知が鳴った。月理からメッセージが返ってきていた。
 
『ごめん、会えない』
 
 それだけだった。たった数文字に僕は苦しめられた。
 
『どうして??』
『もう去年の私じゃないから』
 
 彼女が入院している間、彼女は僕に弱音を吐くことが偶にあった。
 薬の副作用で髪が抜けること、常に気持ち悪くてまともに食事もできないから痩せ細っていくこと。きっと彼女が言っていることは、病人になってしまった自分を見られたくないということだ。 
 
『僕は気にしないよ。ってそんなの気休めにもならないよな。どんな事を言っても君が傷つくのはわかってる。でもそれでも、僕は君に会いたい』
『勝手すぎだよそんなの』
『ごめん。そうだよな』
 
 今、彼女はどんな気持ちで僕とやり取りをしているのだろうか。彼女だって本当はいつもみたいに星空を眺めたいはずだ。クラスのみんなと遊びにいきたいはずだ。したいのにできないから、彼女は苦しんでいる。
 
『ごめん。私、本当はみんなのこと大嫌いだから』
 
 心にもないことを彼女は言って、僕のことを突き放した。僕は彼女の気持ちを想像して一人で泣いた。
 もしかしたら、僕はもう山崎さんには会えないのかもしれない。彼女が僕と会いたくないなら、それは仕方のないことだ。だから少なくともその覚悟はしておかなければならないと思った。
  けれど、事態が進展したのはその翌日だった。
 
『二十二時に、いつもの場所で』
 
 帰宅途中にそんなメッセージが届いた。僕は嬉しさの反面、素直に喜ぶことができなかった。なぜならこれが最後の別れのための会合になってしまうかもしれない。
 時刻通りに河川敷に行った。堤防の上には空の車椅子が置いてあって、下の方で彼女は座っていた。
 僕が彼女の方に向かうと、彼女は僕に気がついたのか僕のほうに振り向いた。
 
「久しぶり……」

 彼女は不器用に笑った。
 約二ヶ月ぶりに見た月理は目に見えて痩せていた。綺麗だったミディアムヘアも、どこか不自然なウィッグになっていた。けれど僕はそんなことはどうでもよくて、彼女に再び会えたことが何よりも嬉しく感じた。
 
「隣、座ってもいい??」
 
 彼女が頷いて、僕は腰を下ろす。
 おしゃべりな彼女は俯いたまま何も話さなかった。星も見ないまま、淡々とした時間が流れていく。
 
「僕さ、少しだけ星の勉強したんだ」
 
 彼女が入院している間、僕は一人で星を見るしか無かった。いつもの解説役がいなかったから、諦めて僕は本を買って、僕が彼女に教わっていない星を探した。
 
「それで知ったんだけど、春にも大三角があるんだな」
 
 僕はうろ覚えの知識で三角形をなぞる。
 
「確か、アークトゥルスとスピカと……なんだったっけ」
「獅子座のデネボラだよ。北斗七星の真下にあるでしょー」
 
 彼女は呆れたように僕に言った。
 
「そうだそれだ。そういえば、春になったら僕と君の黄道十二星座が見れるんだったよな」
 
 去年の夏の旅行で見られなかった自分の星座だ。
 
「どこにあるんだ??」
 
 全くわからない僕はすぐに彼女に尋ねる。
 
「どっちも春の大三角のすぐ近くにあるんだよ。私の獅子座にはデネボラが入ってるし、君のおとめ座にはスピカが入ってるから。でも黄道十二星座は複雑だから分かりづらいと思う」
 
 僕はそうやって真剣に説明してくれる彼女を見る。そして思った。
 
「なんだ、いつもの君じゃないか」
 
 容姿は少し変わったのかも知れないけれど、僕に見えている星が好きでおしゃべりな彼女はなんら一つ変わってはいなかった。
 
「あはは。馬鹿だなぁ君は」
 
 彼女は嬉しそうに笑って、その後泣いた。僕は彼女が泣き止むまでずっと側に居た。彼女につられて僕も少しだけ泣いた。
 
「私ってなんなんだろう」
 
 不意に彼女がそう零した。
 きっと彼女はそれを僕に訊ねたわけじゃなくて、不意に呟いてしまっただけだ。
 生きてきた意味、死ぬ理由、その答えを求めたようなそんな彼女の弱音に僕は反射的に的はずれなことを言ってしまった。
 
「流れ星、みたいな」
 
 言ってから、僕は後悔した。
 彼女は一瞬あっけにとられたような表情をして、直後に吹き出した。
 
「流れ星って、っ、あははははははは!!!!!!」
「変なこと言った自覚はあるから、そんなに笑わないでくれよ」
 
 体を倒して足をバタつかせて彼女は本気で笑っている。
 バカにされているんだろうけど、今は彼女が笑ってくれるのならなんだってよかった。
 
「はー、ほんとおかしい。笑わせないでよ。病気で死ぬ前に窒息死しちゃう」
 
 当人にしか言えないようなジョークだ。反応に困る。
 
「でも僕は本当にそう思ってるんだよ」
 
 突如として僕の目の前に現れた君は、鬱蒼としていた僕の世界を一瞬にして照らしてしまった。君は僕にとっては何よりも輝いて、目を引いた。そして今度は僕の目の前から勝手に去るんだろう。そんな君は流れ星に相応しいと思った。
 
「私、君にお別れを言いに来たつもりだった」
 
 ようやく落ち着いた彼女は、笑いながら言った。
 
「今回の退院は本当に一時的なもので、少しでも症状が悪化したらまた入院しないといけないの。きっと次入院したら、私たちはもう会えないから」
 
 会えない、という言葉だけで胸の奥が締め付けられたように苦しくなった。
 
「でも。やーめた」
 
 彼女は吹っ切れたように言って体を後ろに倒した。
 
「死ぬ前に、もう一度君と一緒に思い出をつくるよ」
 
 彼女はそう宣言する。
 
「手伝ってくれるよね??」
「もちろん」

 僕も頷く。彼女が前向きになってくれたことが嬉しくて、涙が溢れそうになるのを必死に我慢する。

「君の願い事リスト、まだまだ残ってるだろ。だからもう一度二人でやろう」
「ううん。願い事リストはね、もういいの」

 今度は僕があっけに取られた。あんなに固執してい願い事リストを、彼女が簡単に放棄したことが不思議だった。

「それは、どうして??」
「私の願い事はもう、叶ったから」

 そう言って笑った彼女の表情は、諦念も絶望も含んではいなかった。これは彼女の本心だ。

「実は私ね、まだ誰にも言ってない秘密があるんだ。それは病気のことじゃない。私だけの秘密」
「それは、僕には教えてくれないんだろう??」
「君には知っていてもらいたいけど、でも今は恥ずかしいからまた今度ね」
「驚いた、君に羞恥心なんてものがあったなんて」
「はい、そうやって私を馬鹿にするなら教えないからね」

 いつも通り、なにも変わったところのない君が、僕の肩をどつく。
 いつまでも二人で居たいなんて、でも、思うだけなら許されるだろうか。

「最後にある場所で星が見たいんだ」
 
 彼女は寝転がったまま言った。
 
「ある場所って??」
「海外にある湖の近くなんだけど、世界で一番綺麗な星空が見えるって言われてるの」
「わかった。ならそこに行こう」
 
 僕は即答した。
 
「あはは。無茶振りでごめんね」
「無茶振りなんかじゃないよ。星を見るだけなんだから。善は急げだ。明日から計画を立てよう」
「場所はじゃあ私の部屋で」
「いや、散々君の家には遊びに行かせてもらってるし、今度は僕の家においでよ。ああ、いや、君がもしよかったらさ」

 僕が言うと、彼女は口を大きく開けたまま固まった。

「君って意外とむっつりなんだね...いや、最期に思い出を作るって言ったけど、最後まで安い女になるつもりはないよ??」
「はいはい。君のそういう煽りにももう慣れたよ」
 
 翌日の朝から僕と山崎さんは僕の家に集まって計画を立てることにした。

「初めて来たけど、ちゃんと綺麗で君らしいね」
 
 僕の部屋に入るなり彼女は言った。君らしい、は褒め言葉として受け取っておいた。
 インターネットで調べると、すぐに星空観測ツアーが見つかった。値段も思っていたよりも全然安くて、二日後以降なら予約も埋まっていなかった。
 
「これなら行ける。すぐ行こう」
 
 手遅れに鳴ってしまう前に行動しなければならない。彼女に残された時間は少ないのだから。
 
「家族には許可はとってあるの??」
「うん。好きなことしなさいって言われてる。だから男の子と二人きりで旅行なんて行けたんだよ」
「そっか。なら、三日後の朝に出発しよう」
 
 日程は決まった。後は行くだけだ。
 
「当日は迎えにくるから」
「わかった。待ってるね」
 
 彼女は元気いっぱいに頷いた。
 
「それより、せっかく君の家に来たし、堪能させてもらおうかな」
 
 予定を決め終えた僕たちは、暇になった残りの時間を二人で過ごすことを決めた。
 
「悪いけど、僕の部屋はなんにもないぞ」
「どうだかねー。意外と君みたいなのはむっつりだったりするんだよ」
「失礼だな。弱ってる君に免じて許してやるけどさ」
「優しいね。なら今の私は何をしても許される?? 無敵ってわけだ」

 得意げに笑って、彼女は何かを企んでいるような表情をする。
 
「ねえ、眠いから君のベッド使ってもいい??」
「まあ、別にいいけど、君が寝たら僕が暇になるじゃないか」
「そんなに構って欲しいなら、まあ構ってあげなくもないけどさ」
「はいはい、頼もしいな」
 
 僕は彼女の発言をかるくあしらう。

「あ、これ私があげたナイトライトだ!!」

 山崎さんは枕元に置いてある、初めての旅行で貰ったプレゼントを見つけて言った。
 星空のような海の中をデザインした水晶型のナイトライトだ。

「ありがたく飾らせてもらってるよ。綺麗だし気に入ってる。でも、寝る時これを見ると星が見たくなるから困る」
「あはは。嬉しいなぁ。私も入院してる時これを見てたら、不思議と心が和むの。だから本当に助かってた。お揃いだし、君と繋がってる感じがしたのかなー??」

 冗談ぽく言う彼女だけれど、多分八割は本気で言ってる。

「はは。そうかもな」

 だから僕も真面目に返してやったら。彼女はそれを想定していなかったのか、「ちょっと、そんな真剣に言わないでよー」なんて恥ずかしそうに布団に潜った。
 
「あ、私の寝顔を眺める最後のチャンスだよ」

 彼女はひょっこりと布団から顔を出して、言ってから僕のベッドに潜り込んだ。どうやら寝るつもりらしい。

「じゃあ君が寝たらその写真を撮ってネタにしてあげるよ」
「うわ、最低、女の子のすっぴん寝顔をさらすなんて」
「君が寝ようとしてるからだろ」
「じゃあ君も一緒に寝ようよ」
 
 彼女はベッドを叩いて僕に来るように促す。
 
「もう何回も同じ部屋で寝てるんだから、今更でしょ」
「そういう問題じゃないだろ」
 
 僕はいつものように彼女の冗談を軽くあしらう。
 
「最後くらい、間違ってもいいんじゃない」
 
 彼女がぼそっと呟いた。僕は彼女が寝るベッドに入る、なんてことはしなかったけれど、彼女の小さな手を握った。それくらいなら、弱った彼女につけ込んだとしても許されると思った。
 彼女の小さな手はたしかに暖かい熱を帯びていた。いつまでもこの熱が消えないように心の中で願った。


***

 
 彼女の容態が急変したのは、翌日の夜のことだった。
 彼女は昏睡状態に陥り、病院に緊急搬送された。幸い命を落とすことは無かった。けれど彼女はまた入院することになった。 最後の旅行にも行くことはできなくなった。
 僕たちが思っている以上に現実は残酷だ。残りの人生が僅かだからって、神様は好きに生きられる猶予を与えてくれるわけじゃない。いつも何も変わらない星空と同じだ。時間も、彼女の命も、僕たちの感情に応じて留まってくれるわけじゃない。それがどうしようもなく憎らしくて、恨めしかった。

 彼女が緊急搬送されてから一週間経った日の夜。
 僕が河川敷で蹲っていると、後ろから足音が聞こえた。
 
「やっぱりここに居たんだね」

 僕の心情とは真逆に軽やかな声色だった。彼女はまだ病院で安静にしてなきゃいけないはずだから、きっと抜け出してきたんだろう。
 
「……不甲斐ない僕で、ごめん」
 
 僕は俯いたまま彼女に謝った。彼女の最後かもしれなかった願い事を、僕は実現できなかった。
 
「ううん。私こそごめん。せっかく君が予定を立ててくれたのに」
「君は何一つ悪くないよ」
 
 君が謝ることなんて何一つとしてない。
 
「仕方ないよ。これは誰も悪くないよ」
「僕がもっと早く決めてたら、行けてたかもしれない」
 
 僕はそれでも自分を責めた。誰のせいにもできないより、自分を責めたほうが楽だった。
 
「そうかもね。でも聞いて。私ね、今回の旅行が無くなってよかったとも思ってるの」
 
 信じられない彼女の発言に、僕は下げていた頭を上げた。彼女は優しく微笑んでいた。
 
「確かに海外には、世界で一番星が綺麗に見える場所があるかもしれないけど、でもね、私はここで君と見る星空が一番好きだから」
 抑えていた涙が溢れ出た。彼女のその一言がどうしようもなく嬉しかった。
 
「そんなの、僕だってそうに決まってる」
 
 どれだけ空に近い場所から見る星空よりも、世界一綺麗に見られる星空よりも、僕は二人きりで彼女と見る星が一番好きだ。

「多分、今日で会えるのは最後だと思う」
 
 彼女が言った。僕もなんとなくそのことはわかっていた。だから彼女は病院から抜け出してきたんだ。
 
「僕は多分、君のことが好きだった」
「それ、今言う??」
「今言っておかないと、いつか後悔すると思った。身勝手でごめん」
「いいよ。悲しいけど、それ以上に嬉しいよ」
 
 彼女はそんな僕の告白に笑ってくれた。
 最後に僕たちは並んで星を見た。これから先も変わらない星空を、今日しか見られない視点で焼き付けた。
 ずっと涙が止まらなかった。彼女も泣いていた。子供みたいに涙を流していた。
 死なないでほしい。生きていてほしい。またここで並んで星を眺めたい。叶わない願いが涙の濁流となって溢れ出てくる。
 
「あはは。私、死んだら流れ星になって、泣き虫な君を見守ってあげるよ」
 
 彼女はそんな幻想的なことを言った。僕も彼女に倣って言う。
 
「なら僕は君に願い事をするよ。知らない流れ星なんかよりずっと願いを叶えてくれそうだ」
 
 もう涙と鼻水でなにがなんだかわからなかった。そして初めて星空はぐにゃり歪んで表情を変えた。けれど僕の目の前には何よりも輝いている星が確かにあった。
 
「ずっと願うよ。ありきたりかもしれないけど、もう一度君に会えるように」
 
 流星のような君なら、きっとこの馬鹿みたいで陳腐な願いも叶えてくれると信じてる。