夏休みが終わってから、彼女と合わない日が三日続いた。
 僕はまだ彼女の病気のことについて感情を整理することができていなかった。今でも信じて認めることができなかった。
 僕は夏休みが明けてから学校には行っていない。彼女と顔を合わせることが怖かった。どんな顔をして余命僅かな彼女に会えばいいのかどれだけ考えてもわからなかった。
 気分を落ち着かせるために見ていた星空も、彼女が死ぬとわかった時点で見る気にはならなかった。どんな感情も整理してくれると思っていた星空もこの気持ちだけは消してくれそうになかった。

 夜になるとこのどうしようもない感情は勝手に膨れ上がっていく。彼女と共に過ごしたこの数ヶ月が、まるで過去の思い出となって想起されることがひどく辛くて、逃げるように部屋に引きこもった。
 不意に彼女がいなくなった後のことを考えてみた。僕の人生が大きく変わるようなことは無いのかも知れない。けれど僕が星を見るとき、隣に彼女はいなかった。この先もずっと当たり前に彼女がいると思っていた。ただそれだけのことが僕の心を締め付けた。いつの間にか変わってしまっていたんだ。星を見ることだけにあった価値が、二人で星を見ることの価値に変わった。
 僕はもう、一人で星を見ることはできない。

 それからまた三日が経った。結局僕は一週間学校を休んだ。彼女からの連絡にも返事はまだ返していなかった。
 午後九時頃に彼女から新しくメッセージが来た。たった一言、「ねえ、一緒に星を見ようよ」それだけだった。
 まるでそれが最期の勧誘に見えた僕は、すぐに断りの返事を入れた。彼女からそれ以上返信はなかった。

 暗い部屋の中で僕はただ考える。自分がどうするべきなのかを。
 彼女が、山崎さんが望んでいることはなんてことはないいつも通り(・・・・・)だ。彼女の病気のことを知らなくて一方的にトラウマを押しつけていた少し前の馬鹿な僕。その時のそのままの関係を彼女はきっと望んでいる。けれど僕にはそんな強い心はない。彼女が死ぬとわかっていて、いつも通りに話すことなんて、笑うことなんて、星を見ることなんて僕にはできない。
 どうして彼女は僕に病気のことを打ち明けたのだろう。病気のことを打ち明けなければ彼女の願いは叶ったはずだ。なにも考えてもわからない。

 僕は家族のことで人と関わることが怖くなった。信用していた人に裏切られるよりも、初めからなにもない方が楽だと思うようになってしまった。優しい父が妹に暴力を振るう父に変わってしまうところを見るくらいなら、初めから関わりはいらないと思ってしまった。でも不思議と今は違った。病気の山崎月理を知るくらいなら今までの思い出を捨てて初めから彼女と関わらなければよかったなんて、僕は思っていなかった。それが不思議で、何よりも怖い。
 もう何もわからない。自分のことも彼女のことも、どうすればいいのか何もわからない。

 その日の真夜中に目が覚めた。なんとなしに体を起こして、不意にカーテンの隙間から月が覗いているのが見えた。
 僕は窓から空を眺めた。僕が好きな星空、彼女が好きな星空。二人でともに見上げていた星空がそこにはある。
 生まれて始めて、表情を変えない悠々と存在する星空に理不尽な怒りが湧いた。ただそこに在るだけの星空が、自分たちの感情に合わせて表情を変えたりするはずもないのに、僕はそんな場違いな星空に怒りが湧いた。
 もしかしたら彼女も今、この星空を眺めているのだろうか。だとしたら彼女はどう思っているんだろう。自分が病気のことなんて人知らず輝く夜空に彼女は何を思って———。

「————」

 瞬間、星が流れた。
 真夜中の空を彩る無数にある星の中のどれか一つが落ちて、一瞬にして消えた。
 僕は初めて見た流れ星に言葉も感情も奪われた。考えることもやめて、また星が流れることに期待して空を眺めるしかなかった。
 その流星の光は思っていたよりも小さくて細くて弱々しかった。けれどその光はシリウスよりも一番星よりも僕の目を引いた。強いのは一瞬の輝きだけで、弱々しく細いのに、広大な夜空に浮かぶどれよりも僕の目を引いた。
 そして本当に馬鹿みたいだけど、似ている(・・・・)と思った。彼女に、山崎月理に。

———彼女はまるで、流星だ。

 突如として僕の目の前に現れ、目の前さえ見えない暗い僕の世界を一瞬にして明るく照らし、そして今度は儚く去っていく。時に力強くて、厳しくて、けれどどうしようもなく儚い彼女は、まるで流星のようだと思った。
 僕は無意識に握りしめていた拳を解いて、外に飛び出した。
 一週間も使って彼女の病気のことを認めて受け止めることはやっぱりできなかった。今だってまだできていない。でもたった今わかったことが一つだけあった。
 彼女は僕を照らしてくれた。無条件で僕の世界を変えてくれた。人と関わることが怖かった僕が余命僅かな彼女を知って、それでも彼女と出会ったことを嬉しく感じていられる僕がここにいるのは、紛れもなく彼女が変えてくれてからだ。
 彼女が病気で残りの余命が僅かだとしてもそれは揺るがない事実で、なら僕が彼女のためにやらなければならないこと、できることは決まっている。
 彼女の死を弱い僕には受け止めることはできないけれど、それは今はどうでもいい。今は彼女の人生が少しでも輝くように、僕が精一杯やれることをやるだけだ。今度は僕が彼女を照らす番だ。


***


 河川敷まで全力疾走で走った。日付はもう変わっていて、いつもなら僕と彼女はとっくに帰宅している時間帯だった。けれどそれでも、僕は彼女がまだこの場所にいると確信があった。
 堤防に登ってそこから少し降りたいつもの場所、そこで彼女は蹲っていた。蹲って一人で泣いていた。
 初めてここで彼女と出会ったときの記憶が蘇る。あのときも彼女はここで泣いていた。あれはきっと病気のことで誰にも吐き出すことができなかった感情を、一人でここで吐き出していたんだ。

「山崎さん、ごめん。遅くなって……」

 全力疾走のせいで途切れ途切れになった声で僕は言う。
 僕に気がついた彼女は、袖で涙を拭ってから僕の方に振り向いた。

「っ、どうして……」
 
 理由なんて僕にもわからない。まだ君の覆しようのない事実を受け止めきれていないのに、僕はここに来てしまった。理由は説明のしようがないけれど、一つだけ確かな理由はある。

「なんて言うか、また君と星が見たくなった」

 僕はそう返答して、彼女の隣に腰を下ろした。 
 なにか話をしようと思ったけれど、そう簡単にふさわしい話題は出てこなかった。無言が少しの間続いた。

「私が引っ越してきた理由、君に言ったっけ??」

 しばらくして彼女が先に僕に話しかけた。

「いいや、聞いてないよ」
「星が綺麗に見える場所で、流れ星にお願い事をするためって言ったら笑う??」

 これは僕の推測に過ぎないけれど、願い事というのはきっと治らない病気のことだろう。

「笑うわけ無いだろ。僕だってどうしようもないことは超常に任せたくなる」

 自分自身にできないことは、おとぎ話にだって頼りたくなる。たとえ願いが叶わないとわかっていても、それでもそうしたくなる。

「ねえ、どうして、君は来てくれたの??」

 僕がここに来た理由を彼女はもう一度率直に尋ねてくる。

「逃げてばかりいたらいつか後悔する。君に教えてもらったから」

 あかりの件でも、僕があのまま何もせずに引きずっていれば、もう二度と会えない可能性だってあった。今回もそうだ。彼女の病気のことで逃げ続けて、ようやく整理がついた頃に彼女はもういないかもしれない。そうやって後で後悔するくらいなら、彼女と一緒に苦しんでおいたほうがずっといい。

「君には何度も助けてもらったし、今度は僕がお返しする番だ」

 彼女の残りの人生、たとえそれが僅かだとしても、その僅かな時間をほんの少しでも彩ることができたなら、そう思った。

「あはは。なら私のわがままに付き合ってくれるってこと??」
「そんなのはもう慣れたよ」

 僕は遠回しな肯定をする。
 僕は彼女が見せてくれた『願い事リスト』について思い出していた。彼女の残りの人生を彩ることなんて、何にもない僕には多分できない。だからせめて彼女がしたいと思っていることを出来るだけ手伝ってあげたいと思った。

「君の願い事、全部叶えよう」

 僕が言うと、月理はらしくもなく泣きそうな表情になった。

「馬鹿じゃないの……」
「僕が馬鹿になったとしたら、それは君のせいだ」
「人のせいにしないでよ」
「仕方ないだろ、事実なんだから」

 彼女は最低と笑って、体を後ろに倒した。彼女の表情は僕がここに来たときよりも晴れていた。

「明日から覚悟してね?? 私に付き合うってことは君に安息の時間は無いってことだよ」
「お手柔らかに頼むよ」

 彼女に振り回される自分を想像してみて、それが簡単に想像できてしまったことに驚いた。

「明日は学校だし、今日はもう帰ろうか??」

 スマホを見れば時刻はもう一時半だった。

「ううん。もう少し星を見ていたい」

 僕も体を倒す。夜空には満点の星空がある。
 以前彼女が言っていたとおり、この壮大な宇宙からすれば、僕たちなんてちっぽけなものなのかもしれない。でも、僕から見た彼女は流れ星と同じくらい輝いて見えてしまうようになった。僕にとって彼女はもうちっぽけなんかじゃ無くなってしまった。


 ***
 

 翌日、夏休みが明けて初めて学校に行った。
 きっと皆には休みボケしてたと思われているんだろうけど、そんなことはどうでもよかった。

「よお」

 後ろの席の相変わらず気だるそうな城田に声を掛けられた。

「久しぶり、城田」

 何気ない一言、なのに城田は目を丸くして驚いていた。

「お前、なんかあったの??」
「まあ、いろいろあったよ。今までなんていうか、悪かった」

 一言で変化を見抜かれた僕は、ひとまず城田に謝った。

「よかったな」

 城田はそう言って僕を祝福してくれた。

 放課後。思いもよらぬ事が起こった。
 彼女にいきなり連れ去られたと思えば、いつも彼女と仲良くつるんでるクラスメイト数人のもとに連れていかれた。
 神谷、杉原、武井、藤井、山本、そして城田、ほとんど僕が関わったことのないメンツのもとに僕は肩身が狭い思いをしながら立っている。

「一応聞くけど、どういう状況??」
 
 思わず心の声が漏れる。
 
「今からみんなでご飯食べにいくんだけどさ、君も一緒にって」
 
 彼女はそんな身勝手なことを言った。
 
「いや、僕はいいけど、それ君が勝手に誰の了承も得ずに僕を追加したわけじゃないよね??」
「違うよ。ちゃんとみんなに聞いたら良いって言われたから」
「本当かそれ」
 
 一応彼女以外の反応を伺ってみれば、誰一人として嫌な顔をしている人はいなかった。
 渋っている僕に彼女が耳打ちをしてくる。
 
「昨日、私の願い事リストを叶えてくれるって言ったでしょ。これもその一つだよ」
 
 そう言われれば、彼女の願い事を全て叶えると約束した僕は断れなくなる。
 
「せっかくだし、楽しむか」

 僕は覚悟を決めて満面の笑みの彼女に首肯する。
 
「よーし、それじゃあ出発!!」
 
 学校から一番近いファミレスに来て、男子と女子に分かれて席に座った。僕に城田に神谷に杉原、そして残りの女子だ。
 店内は意外に混んでいて、男子と女子は一つ席を挟んだ位置に座ることになった。

「なあ、宮瀬と月理って付き合ってんの??」
 
 注文を終えて早速、前の席に座る神谷が僕に尋ねてきた。
 
「それは俺も気になるな。というかほぼ確定だと思ってる」
 
 隣の城田がそれに同調する。
 
「そんなわけないだろ」

 僕はすぐにそれを否定した。
 
「でも、お前らの距離感、明らかに普通の友達じゃないだろ」
「確かに、付き合ってるまではいかなくてもどっちかが恋愛感情抱いてるくらいはあるだろーなー」
 
 杉原も会話に入ってくる。どうやら面倒くさいことになりそうだ。

「率直に訊くけど、宮瀬お前、月理のこと好きだろ」
 
 神谷に言われて、僕はどう答えればいいのかわからなくなる。
 
「それは、多分ないと思う」
 
 僕は曖昧に答える。照れくさいとかそういうのはではなくて、僕自身でも彼女に抱いている感情がわからなかった。
 
「なんだよその返答」
「しかたないだろ、僕は人を好きになったことなんかないんだから」
「マジ!? 高校生になってそんなやついんの!?」
 
 若干バカにされてるような気がしないでもなかったけれど、今は何も言わないでおこう。
 
「でも宮瀬って変わってるよな。実際に話してみて思ったけど、人と話すのが苦手ってわけじゃなさそうなのに、今まで誰とも話してるとか見たこと無いし、話しかけるなオーラやばかったし」
「いや、僕はそんなオーラだしてるつもりはなかったんだけど」
 
 自分ではそんなつもりはなかったのに、はたから見ればそんなことを思われていたらしい。
 
「まあ許してやってくれ、悠は中学の頃いろいろあって臆病になってたんだよ」
 
 城田が僕にフォローを入れる。
 
「いろいろって??」
「まあ、家族関係で」
「へえー、意外と苦労してんのな」
 
 興味があるのか無いのか微妙なラインで神谷と杉原は反応した。
 
「そっちこそどうなんだよ。杉原と藤井は付き合ってるんだろ??」
 
 僕と月理の話を逸らすために、僕はどこかで聞いた噂話を繰り出した。
 
「知ってたのかよ。まあ今んとこ順調だよ。喧嘩はするけど次の日になったらお互い忘れてるし。って俺の話はどうでもいいだろ。今は宮瀬と月理の話」
 
 せっかくうまく逸したと思ったのに、いとも容易く矯正されてしまった。
 
「だから僕たちはなにもないって」
「お前が無くても、山崎さんのほうがあったりしてなー」
 
 城田が訝しげに言う。
 
「それはそう。今日だって宮瀬誘うこと提案したの月理だしな」
 
 杉原が余計なことを言う。
 
「そういえば、夏休み入る前に、昼休みとか一緒にどこかに行ってたような......」
 
 神谷がさらに余計なことを思い返す。

「あのな———」
 
 どうにか反論しようとしたところで、店員さんが注文したものを持ってきた。四人分の注文が一気に机に置かれていく。

「おい誰だよパフェなんて頼んだやつ。宮瀬か??」
「僕じゃない。城田だろ」
「なんだよ悪いか」
「いや別にいいけどよ」
 
 こっちとしては予想外の盛り上がりを見せている。ほぼ初対面の僕が居るのに、このコミュニケーション能力が高い三人は気まずい空気を表に出さないからすごいと思う。
 彼女の方はどんな話をしているんだろうか。


 ***
 

 その日の夜も僕達は河川敷で待ち合わせた。
 
「やあ宮瀬くん、昼は楽しかった??」
「まあ思ってたよりは悪いものじゃなかったよ。ていうか、あれが君の願い事リストの一つってどういうことだよ」

 昼間に耳打ちされた事を僕は彼女に尋ねた。
 
「私がいなくなった後も、君が一人ぼっちにならないことが私の願いの一つだよ」
「余計なお世話だ。友達くらい一人で作れる」
「あはは。ならいいんだけどさ」
 
 まあでも彼女には感謝しないといけないだろう。一番大事なきっかけをくれたのだから。
 
「それで、男子はなんの話をしてたの??」
「……別にただの世間話だよ。特別なものじゃない」
「嘘だー。城田くんと神谷くんが私の話したって言ってたよ」
「あいつら、友情ってもんが無いのか……」
「なーんて嘘だよー。君にカマかけてみただけ。本当はなんの話をしてたかなんて誰にも聞いてないよ」
 
 僕は隣の彼女を睨んだ。完全にしてやられた。
 
「それで、そんな私の話をしてたのかなー??」
 
 意地悪く笑って食い気味に尋ねてくる。
 
「前から思ってたけど、君って本当タチが悪いよな」
「当たり前でしょー。もうすぐ死ぬんだから他人に気なんか遣ってられないよ」

 その割には僕には遣うよな、なんて言葉は喉の奥に飲み込んでおいた。
 
「人を好きになるのってどんな感じなんだろーな」
 
 夜の昂ぶった気持ちに任せて、らしくもなく僕はそんなことを言ってしまった。
 
「どうしたの君、頭打った??」
「失礼だな。僕を感情の無い機械だとでも思ってるのか??」
 
 言いつつも僕は自分をそんなふうに感じていた。あかりと仲直りするまでは、自分にそんな資格はないと思っていたから。
 
「人を好きになるのは、世界で一番素敵なことだよ」
 
 説得力のかけらもないことを彼女は言った。
 
「じゃあ君はは人を好きになったことがあるのか??」

 からかうようなつもりで言った。照れる彼女の姿を見て笑ってやろうと思った。
 
「うん。あるよ」
 
 笑った彼女の瞳があまりにも純粋に輝いていて、僕のそんな思惑はすぐに消えてしまった。
 
「それは星空と同じくらい綺麗で、その人とならどんなことをしていても楽しめる気がする」
「くだらない同じことでも??」
「うん。飽きるくらい同じことでも」
 
 君がそんな表情をするってことは、それはそれくらい素敵なことなんだろう。僕は少しだけその相手に嫉妬した。
 
「まあとにかく、君の願い事リストは今日で一つ終わったってことだ。この調子で明日からもやろう」
「うん。よろしくね!!!!」


***
 

 それからの学校生活は、僕にとって突飛なものだった。
 放課後は彼女が思うままにしたいことを僕も一緒にやった。スイーツ食べ放題に行ったり、休日はファミレスに行ったメンバーで海に行ったり、近くの神社祭りに行ったり、心霊スポットに肝試しに行ったり。
 今は彼女の願い事リストを全部叶えるためだけに生きている気がした。そんな今の人生は悪くなかった。
 昼間どれだけ遊び尽くしても、夜は必ず二人で河川敷で集まった。相変わらず隣同士で寝転がって、星を観測して彼女の話を聞いた。みんなで遊ぶ毎日だってもちろん楽しかった。でも僕は夜の二人だけの時間が何よりも好きだった。

 二人の時間のことだけは、僕は城田にも、仲良くなった神谷や杉原にも話さなかった。彼女もきっとそうなんだろう。誘えばみんなで星を見ることだってできるのに僕としてはこの時間だけは誰にも邪魔されたくなかった。
 月日は異常な早さで流れていく。気がつけば季節はもう冬になっていた。彼女と出会ってからおよそ半年が過ぎた。冬になってから、彼女は学校を休む頻度が格段に増えた。その理由が病気の検診だということを、クラスで唯一僕だけが知っていた。彼女がもうすぐ死んでしまうことを、僕だけが知っているのはひどく辛いことだった。
 
「私が転校してきてからもう半年くらい経ったなんて、あっという間だね」

 雪が降り積もった河川敷で、彼女は僕に言った。
 
「本当、君に会ってから時間の流れが一気に変わった気がする」
 
 冬になって雪が積もってから、二人で星を見ることができる時間が格段に減った。雪が積もった河川敷にはとてもじゃないが座ることなんてできないし、長居すれば体調を崩してしまう。だから僕と彼女はこうして、二人で決めた十数分だけ堤防の上に立って話をしている。
 
「体は大丈夫なの??」
 
 今まで彼女の病気に関することは訊かないようにしていた。けれど最近学校を休むことが増えていたから心配になった。
 
「うん。今のところは悪化はしてないって」
 
 彼女の言い方は捉え方を変えれば、良くもなってはいないということだ。
 
「そういえば、神谷たちが今度みんなで旅行に行きたいって言ってたよ」
 
 彼女が学校を休んでいる間に話していたことを、僕は彼女に伝える。
 
「おーいいね。夏休み以来旅行には行けてないし」
「そういえば、次の君の願い事は??」
 
 僕は彼女が死ぬまでに、彼女の願い事をできる限り遂行することを誓った。夏から今までもう五十くらいの彼女の願い事を行っただろう。
 
「うーん、次はそうだなぁ」
 
 彼女は考える素振りをする。
 
「なんだよ。あのノートに書いてあるんじゃないの??」
「そりゃあ書いてあるけど、今はもってきてないから……」
 
 何か不都合を誤魔化すような小さな声だった。
 
「もう面倒だから見せてくれよ。君の願い事リスト」
「それは絶対だめ!! 前にも言ったでしょー!! 願い事っていうのは人に訊かれたら叶わなくなるものだし」
 
 それっぽい言い訳みたいな発言をして彼女は視線を空に逃した。
 
「あ、思い出した。二人で旅行に行くこと!!」
「それ本当に書いてる?? てか二人で旅行なら夏に行っただろ」
「私がやりたいことが願い事リストなんだから思いつきでもいいでしょー」
「いやまあそうなんだけどさ。それで、神谷たちとの旅行はどうするんだよ」
「それはまあ、後回しで」

 意地悪く彼女は笑う。僕は何も口を挟まない。大人しく彼女の決定に従うだけだ。
 
「冬休みに入ったら二人で行こうよ。旅行」
 
 彼女の提案に僕は黙って頷く。
 
「詳しい計画はまた後で立てよ。ここじゃ寒すぎて凍えちゃう」
「そうだね。帰ってからにしよう」
 
 なんて、そんな会話をした二週間後に冬休みに入った。
 僕と彼女は当初の予定通り二人きりで旅行をすることにした。冬休みに入って三日目に、僕たちは飛行機に乗って出発した。行き先は大阪だ。
 中学の修学旅行には行っていないから、僕は飛行機に乗るのなんて初めてだった。離陸時の重力に気持ち悪くなった。窓側の隣に座る彼女はそんな僕を見て笑っていた。
 約二時間僕たちは空を飛び、夜の十時頃に着いた。
 
「人生初の飛行機に乗った感想は??」
「正直、楽しくはなかったよ」
 
 慣れない飛行にぐったりとした僕は、また彼女に笑われた。
 事前に予約しておいたホテルにチェックインをして、飲食店はやっていなかったので近くにあったコンビニで夕食を済ませた。ここまで来てコンビニでご飯を食べるとは思ってもいなかった。
 夕食を済ませた後は各自シャワーを浴びて、ベッドの上で明日以降の計画の話をした後に眠った。
 翌日は予定通り、朝から遊園地に行った。開園時間の三十分くらい前だというのに、入り口は人でごった返していた。
 
「遊園地って、こんな感じなのか」
「まあここは国内でも一、二を争うくらい人気な遊園地だから」
「君はこの遊園地に来たことがあるのか??」

 アトラクションが並ぶ壮大な景色にも、人の多さにも慣れたような彼女に僕は尋ねる。

「ううん。実はここの遊園地は初めてなんだ〜。だからとっても楽しみにしてたの。アトラクションに関してもご飯に関してもリサーチはばっちしだから私に任せて!! おかげで昨日はあんまり寝れなかったんだから」
「君のそういう好きなものに妥協しないところ、僕は尊敬してるよ」
 
 そうして彼女と会話に勤しんでいると、ようやく開園時間になってゲートが開かれた。塞き止められた水が開放されたみたいに人が中へと流れ込んでいく。
 
「すごい光景だな」
「まあ普通にアトラクションに並ぶだけで最低一時間くらい待つからね。開園してすぐは誰も並んでないから争奪戦みたいになるんだよ」
「聞き間違いかな。君は今、最低一時間って言った??」
「うん。人気のアトラクションなら三時間とかも普通だよ」
 
 衝撃に言葉を失ってしまった。遊園地に縁のなかった僕からしたら考えられないような待ち時間だった。
 
「ほら、私達もいくよ!!!!」
 
 彼女に手を引かれて僕も大きなゲートをくぐった。
 その先には僕の知らない世界が広がっていた。例えるならまるで新しい世界に来たような感覚だった。
 
「よーし、最初はあれにしよ」
 
 彼女の審美眼に目を付けられたのは恐竜の形を模したジェットコースターだった。僕がいる場所から、たった今そのアトラクションに乗っている人たちが見える。緩急の激しい上下左右の回転が、乗っている人たちの悲鳴を促している。
 
「僕たちは今からあれに乗るの??」
「そ。これはこの遊園地の中でもトップクラスで人気のアトラクションなんだけど、開園して最初は人があまり並んでないから待ち時間も少な」 
 
 恐る恐る尋ねれば、彼女はにこにこ笑ってそう言った。
 アトラクションの並び列の入り口には待ち時間が三十分と書いてあった。彼女はさっき何時間も待つときがあると言っていたから、確かに待ち時間は格段に少ない。けれど、どうやら僕は残りの三十分で覚悟を決めないといけないらしい。
 三十分が経ち、僕たちの順番がやってきた。
 
「っ、————————」
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
 
 落下、回転、上空での停止。僕はもう声すら出ないほどに恐怖を感じた。隣で彼女は悲鳴を上げているけれど、それは歓喜の悲鳴に聞こえる。
 目を瞑ればいくらか恐怖は和らぐのだろうけれど、それは余裕そうに悲鳴をあげている彼女に負けた気がしてやめた。
 アトラクションはほんの数分で終わった。乗車場所まで戻ってきて地面に足をつけた時は、言いようのない感動があった。
 
「楽しかったぁー!!!!」
 
 彼女は満足そうに言って余韻に浸っている。
 
「君はどうだった??」
「......楽しかった」
「あはは。絶対強がりじゃん!! 顔に出てるって!!」
 
 表情で嘘が簡単にバレた。
 
「後でもう一回乗ろうね〜」
 
 死にそうな僕を見てそんなことを言ってくる彼女はきっと正気じゃないんだろう。
 それから昼までの約五時間、僕と彼女は四つのアトラクションを体験した。そのうちの二つがいわゆる絶叫系で、僕の精神は尋常じゃないダメージを受けた。この年になって初めてわかったけれど、どうやら僕は絶叫系が苦手らしい。反対に彼女は絶叫系が好きなようで、たまに聞こえる悲鳴を聞いては乗りたそうに目を輝かせていた。
 昼になって、遊園地内のレストランで控えめなお昼ごはんを食べた。アトラクションのテーマに沿ったメニューで、それなりの値段はしたけれど美味しかった。
 その後に寄ったグッズ売り場ではキャラクターの帽子をお揃いで買って被った。彼女がやりたいと言ったから仕方なく了承したのに、帽子を被る僕を見て「あはは!! 全然似合ってない!!」なんて笑う彼女はひどいやつだと思う。
 昼食後の一発目の乗り物は、今度は空を飛ぶものではなくて水面を渡るものだった。
 乗る前の注意喚起には、濡れる可能性がありますと書かれてあった。並んで待っているとついに僕たちの順番が来た。僕と彼女は何列もあるうちの最後尾の席だった。
 
「よーし、あたりだ!!!!」
 
 最後尾だと言うのに彼女は喜んでいる。
 
「後ろって普通ハズレじゃないのか??」
「わかってないね〜。まあアトラクションが終われば嫌でも分かるよ」
 
 アトラクションが始まって、最初から中盤までは悠々と泳ぎながらナレーションを聞いているだけだった。絶叫系じゃないのか、なんて安心したのもつかの間、暗いトンネルに入ったところで乗り物が斜め上に上昇していく。
 
「うわ、これ、絶対に落ちるやつだろ」
「そりゃあ上に上がってるんだから落ちるよ。ほら、来るよ!!」
 
 彼女の声で身構えた瞬間に急降下した。
 思っていたよりも何倍も早いスピードに息が止まりそうになる。
 数秒後に勢いはそのまま着水。衝撃ではねた水が、僕と彼女に直撃する。
 
「冷たっ!!!!」
 
 彼女はわははと笑っている。夏ならばまだいいけど、今の季節は冬だから尋常じゃなく寒い。
 
「ね?? あたりでしょ??」
 
 自慢気に言ってくる髪の毛がびしょ濡れの彼女に、僕ははずれだよと返した。

 そうして結局その一日、僕は彼女に振り回された。
 何度も絶叫アトラクションに乗せられ、その度に心身が削られた。閉園時間ぎりぎりまで僕たちは遊び尽くして、タクシーでホテルに戻った。
 動ける内にシャワーを浴びて、僕と彼女はベッドに倒れ込む。一日中立っていたのはさすがにきつかった。
 
「はー、最高だったなぁ」
 
 名残惜しそうに彼女は呟いた。
 
「楽しかったけど、僕は怖かったよ」
「だろうね。顔が十歳くらい老けて見えるよ」
「その冗談は結構心に来るからやめてくれ」
 
 僕が突っ込むと彼女は吹き出す。

「にしても、この広さだと一日じゃあ全部のアトラクションに乗るのは無理だったね」
「じゃあ今度また一緒に行こーね」
  
 次があるかわからない彼女が、嬉しそうな表情で僕にいう。

「もちろん」

 僕は曖昧な表情を見られないよう、顔をベッドに向けてそう返した。

 三日目の翌日は観光を目的に有名な繁華街に向かった。
 異常な人の量に圧倒されながら、僕と彼女は街を巡った。
 SNSで話題になっているらしいパン菓子を並んで買って、有名なたこ焼きを食べて、看板だらけのビルに囲まれた橋で写真を取った。
 午後からは少し離れたところにある下町で食べ歩きをした。想像していた関西のイメージとぴったり合うような世界観の町だった。
 一通りあるき回って、夜になる頃に彼女が行きたいと提案した建物に向かった。
 観光スポットとしても有名な超高層ビルで、その高さは約三百メートルもあるらしい。
 スマホを頼りにビルの下まで行って、そこからは見たこともない大きさのエレベーターで展望台に入るための受付がある階まで上った。

「うわあ、もうここの時点で相当な高さだね」
 
 彼女の言う通り、受付のある十六階の時点で恐怖を感じるほどの高さだった。
 展望台に入るチケットを二人分買って、エレベーターでさらに上の階へと上がっていく。
 ぐんぐんと階数を示す数字の表記は増えていき、ついに六十階に着いた。
 エレベーターから降りて、全面ガラス張りの窓から街を眺めた。
 
「うわぁ。絶景!!!!」
 
 彼女の隣に立って僕も覗いてみた。
 明かりに包まれた街は、まるで星が降った後のような光景だった。
 
「私達のホテル見えるかな??」
「あれじゃないか?? 多分」
「あんなに小さかったっけ。高すぎてわかんないや」
 
 こんなに綺麗な夜景を彼女と見れたことを、僕は素直に嬉しかった。
 
「人工物でこんなに感動したのは初めてかも」
「私も!! まあ星空のほうが綺麗だけどね!!」
 
 一体に何に対抗心を燃やしているのか、彼女はそんなことを言ってドヤ顔をした。

「次は君の願い事リストの何をしようか」
「お、君から言うなんて珍しいね」
「いや、僕も最近思ったんだけど、自分が知らなかったことを体験したり見たりするのって、おもしろいことだな」

 僕は彼女と出会って変わった価値観を、そのまま彼女に伝えた。

「そりゃあそうでしょー。教えてあげた私に感謝してよね」
「もちろん感謝してるよ。君は願い事リストに付き合ってって言ってたけど、付き合うってよりは一緒にやりたい」
「え、どうしたの君、今までにないくらい素直だけど」
 
 僕が素直なことがそんなにおかしいことなのか、彼女は目を丸くして驚いてる。まあでも確かに、自分でもらしくないと思う。
 
「ていうか、旅行ももう明日で終わりか」
 
 今回の旅行は三泊四日で、今日は三日目だ。だから今日が終わって明日になれば、僕たちは帰らなくちゃいけない。
 
「楽しい時間って過ぎるのが早いね〜」
 
 彼女は夜景を眺めたまま言った。
 
「また来れるよな」
 
 言うつもりなんてなかったのに僕はつい呟いてしまった。
 
「また来ようね」
 
 彼女は僕に笑いかけた。
 けれど彼女が言った通りには決してならなかった。
 旅行から帰宅した一週間後に、彼女は入院することになった。