気がつけば夏休みも残り僅かだった。
基本は家で特徴のない日々を過ごし、夜は彼女と星空を見る。一度だけ旅行をして喧嘩をして、そうしているだけで約一ヶ月の夏休みは大分消化されてしまっていた。
彼女のおかげで妹のあかりと復縁することができてから、僕は日々に退屈するようになった。都合がいいと思われればそれまでだけれど、トラウマと罪悪感によって束縛されていた感情が反動で外に出てしまったのが六割の理由。残りの四割はきっと、僕の目の前に突然現れた彼女が僕に非日常を教えてしまったせいだ。
翌日の夜、いつも通り河川敷に行った。山崎さんは僕が来てから数分後に来て、いつものように僕の隣に座った。
「君の誕生日は??」
開口一番僕はそんなことを尋ねた。突拍子もない質問にさすがの彼女も驚いている。
僕がそんなことを急に知りたくなったのは理由があった。昨日、少しだけ彼女のこと考えていた。でも考えるほど彼女のことを僕は知らなかった。それも当たり前で、人と関わることを避けていた僕は、そういう親密になってしまうような話を無意識のうちに避けていた。だから僕は山崎月理のことをまだ何も知らなかった。今になって、僕は彼女のことを知りたいと思った。
「八月七日だけど、どうして??」
今日は八月十六日で、彼女の誕生日は過ぎてしまっていた。
「今月だったのか、おめでとう」
「ありがとう、って急になに??」
訝しげな視線を送ってくる。けれど僕は構わずに続ける。
「なら君の好きな食べ物は??」
「お寿司とからあげだけど...」
「君らしいな。じゃあ趣味は??」
「星空観察とやりたいことをすること、ってねえ、本当になに??」
しっかり受け答えしていた山崎さんがもう一度僕に尋ねてくる。
「昨日思ったんだよ。僕は君のこと何も知らないなって。だから君のことが知りたくなった」
「告白??」
「違う。そういうのじゃない」
これはきっと恋愛感情からきた興味じゃなくて、単に山崎月理という人間を知りたくなっただけだ。
「ふーん。そういうことならいいけど」
彼女は言っていつものように寝転がった。
「なんだかやる気なさそうだな」
「どんな態勢でも質問くらい答えられますよー」
「月理、もしかして怒ってる??」
なんとなくそんな感じがして僕は尋ねる。
「怒ってないよ。むしろ君が私のことを見てくれて嬉しいよ」
彼女は恥ずかしげもなくそんなことを言った。そして続ける。
「これは嘘でも気遣いでも無い本心だよ。でもね、心の何処かで悲しくもあるの」
彼女は真っ直ぐ星空を眺めたままそんなことを言った。
「どういうこと??」
「そのうちわかるかも」
意味を尋ねても適当にはぐらかされるだけだった。
それから僕はいくつか彼女のことで気になることを聞いてみた。そうして山崎月理という人間についてわかったことは、要約すれば、星が好きでおしゃべりで、嫌いな食べ物は一つもなくて、家族はみんな仲がよくて数ヶ月に一度家族旅行に行って、誕生日は七夕で、将来の夢は自作した願い事リストを完結するとかいう変なもので、逃げてばかりで救いようのなかった僕を気にかけてくれるほど優しいという、ほとんど僕の印象とかわらないものだった。
聞き疲れて、僕も彼女に倣って体を倒した。雑草の匂いが鼻腔をくすぐった。
「そろそろ君の星の話が聞きたい」
僕は初めて自分からそう零した。気恥ずかしさは微塵もなくて、ただ純粋に思ったことを口にした。
「しょうがないなー、そんなに聞きたいなら話してあげるかぁ」
彼女は満足気に答えてくれた。
「じゃあ君の誕生日は??」
今度は彼女のほうが僕に質問を投げかけてくる。
「九月の二十二日だけど、それ今関係ある??」
「もちろんあるよ。なら君の十二星座はおとめ座かぁ。残念」
彼女はわかりやすく肩を落とした。
「何が残念なんだ??」
「悠は黄道十二星座って知ってる??」
「知ってはいるよ。えーと、双子座、獅子座、魚座、天秤座、蠍座、牡牛座、水瓶座、乙女座」
「残りは牡羊座に蟹座、射手座に山羊座ね。星座占いとかに使われてる十二星座と同じだね」
「それで、その十二星座がどうしたんだよ」
「当たり前だけど、十二星座は星だから見られるんだけど、残念ながら私の獅子座も君の乙女座も今の時期は見れないの。誕生日の星座は太陽と一緒に移動してるから、日中でしか見れなくて、それも太陽の光で消されちゃうから」
「ならいつの時期なら見られるんだ??」
「獅子座と乙女座は春だね。私達がもう少し早く出会ってれば一緒に見れたのに」
彼女は心底残念そうに言った。けれど僕は悲しむ必要なんてないと思った。
「それなら来年一緒に見れるな」
僕がなんとなしに言うと、彼女は驚いたように僕の方を見た。
「なんだよ。変なこと言ったか??」
「あはは。ううん。君は無意識に人とたぶらかせる才能があるのかもね」
意味不明なことを言って彼女はまた笑った。
「じゃあ次は———」
「待った。君は話しだしたら止まらないから、その前に一つ確認をとっておきたいことがある」
僕は彼女の話の続きをすんでのところで制止した。
「明日は夏休み最終日だけど、君は予定とかある??」
「無いけどどうして??」
「家に行ってもいいか??」
僕が言うと彼女は驚嘆の表情を浮かべて体を起こした。
「急に積極的じゃんどうしたの君……」
「誤解しないでくれ、あの日のこと、君のお母さんに謝りたいんだ」
旅行から帰ってきたあの日、僕は山崎さんの家に招かれた。けれど僕は彼女の妹を見て逃げ出してしまった。山崎さん本人には謝罪したけれど、もてなしてくれた彼女の母親にはまだだった。
「あ、そういうこと。私は暇だから大丈夫だよ」
「わかった。なら明日お邪魔するよ。時間はあとで連絡する」
もう一度僕たちは寝転がって、星空観察を再開した。彼女の話し方がぎこちなかったのは気のせいだろう。
翌日、約束どおりに僕は彼女に連絡をしてから山崎家に向かった。
当然足取りは重く、それでもこの後のことを考えていればすぐに目的地に着いた。
インターホンを押して、応答を待つ。少しすると玄関のドアが開いた。
「いらっしゃい、宮瀬くん」
彼女のお母さんが僕を出迎えてくれた。飛び出しそうになる心臓を抑えて、僕は頭を下げる。
「この前は突然飛び出て行ったりして、すみませんでした」
許されるつもりはなかった。自分の都合であの日の楽しい雰囲気をぶち壊した僕は救いようのない最低なやつだ。
少し間があって、彼女のお母さんは「大丈夫よ」なんて優しく僕に言った。顔をあげると怒りとは真逆の表情を浮かべた彼女の母がそこにはいた。
「月理からあなたの家族のこと聞いたの。大変だったね」
もう一度僕に笑いかける。
「月理とは仲直りしてくれた??」
僕はただ頷いた。
「それなら私が言うことはないわ。月理のことお願いね」
それから家に上げてもらって、僕は二階にある彼女の部屋に行った。ノックをすると、部屋着姿の彼女が出てきた。
「もう来てたんだ。連絡してくれればよかったのに」
招き入れられた僕は促されるままにカーペットの上に腰を下ろした。
「それで、どうだった??」
ベッドの上に座った月理は僕に尋ねてくる。謝罪のことについてだろう。
「笑って許してくれたよ。怒られると思ってたのに」
「そんなことで怒らないよ。私のお母さんなんだから」
「納得したよ。君の底抜けの優しさはお母さん譲りだったんだな」
僕は何度その優しさに救われたことかわからない。
「他にはなんか言ってた??」
「娘をよろしく、だって」
「あはは。じゃあ私からも言っておくけど、よろしくね!!」
少し恥ずかしそうに山崎さんは笑って言う。
こちらこそ、なんて言葉は心の中で呟いておいた。
「それじゃあ何しよっか」
彼女の部屋に遊びに来たのはいいものの、僕たちはすることを決めていなかった。僕としては謝罪目的で来たわけだから、その後のことなんて考える余裕は無かった。
「何しようかって、僕はてっきり帰るつもりでいたんだけど」
「えー!! だって夏休み最終日だよ!? 思う存分遊ばないと!! あ、そうだ。この前見た映画の続き見ない?? 続き気になってたんだよねー」
そう言えば、僕が謝罪する原因となった事件を起こした日、僕と彼女は夕食ができるまでホラー映画を見ていたんだった。
山崎さんは有無を言わさず、僕の帰宅を制止する。
「あれ、続き一人で見てなかったのか」
「怖いから一人では見れなかったの」
「まあ、ならちょうどいいな。僕も気になってたし続きを見よう」
山崎さんが映画を画面に映す。
僕はテーブルを挟んでテレビを眺めた。彼女は僕の真後ろの位置にあるベッドに座って映画を見ていた。
一時間位経った頃、彼女が無言でベッドを数回叩いた。こっちにおいで、なんて意味だということがなんとなくわかって、僕も無言で彼女の隣に座った。
映画の不穏なBGMが、白熱した登場人物のセリフが何度も流れているのに、二人きりの部屋は静寂だった。映画の内容はほとんど頭に入ってこない。隣に視線を送ることさえもできないほど、僕は今更緊張していた。
人と関わることを嫌っていた僕にとって、それは喜ばしいことなのかも知れない。緊張しているということは僕が彼女を一人の人間として意識している証拠なのだから。
妙に居心地の悪い空気と格闘していれば、不意に右腕の方に重みを感じた。それが一体なんなのかなんて、彼女以外に考えられなかった。何もかもわからないけれど、彼女から伝わってくる熱はずっとそうしていたい程心地よかった。また少しして離れた彼女に、臆病な僕は気が付かないふりをするしか無かった。
いつの間にか映画はエンドロールが流れていた。起承転結の起の部分と、断片的なクライマックスのシーンしか僕は映画の内容を覚えていなかった。
「君はエンドロールを見る派??」
訊かれて首を横に振ると、彼女はすぐにテレビを消した。
「この映画どうだった??」
僕は感想を訊かれて焦る。内容なんてほとんど記憶にない。
「後半は思ってたよりも怖くなかった」
「ねー。やっぱりホラーにファンタジーを入れちゃったら怖さ半減するよね」
思いつきの感想に彼女は同調した。僕が映画を集中して見ていなかったことはバレていないようだ。
「ちょっと疲れたからきゅうけー」
彼女は座っていたベッドに倒れるようにして寝転がった。
「ねえ、君さ」
「うん」
「……いや、なんでもない」
映画の最中の出来事について尋ねようとしたけれど、何事もないような彼女の瞳に圧倒されて僕は言うことをやめた。もしそうなら僕は頭がおかしくなってしまったようだけど、あれは僕の妄想だったのかもしれない。
「ねえ、今更だけど、自分の部屋に男子と二人きりって状況おかしくない??」
今気がついた、みたいな様子で寝転がった彼女が言う。
「本当に今更だな。旅行の時もそうだけど、僕は君がこういうのに慣れてると思ってたんだけど」
なんとなく、都会育ちはこれが普通なんだと思っていた。
「まさか。男女二人で遊ぶだなんてカップルくらいでしょ」
どうして今になってその異常さを認識したんだよ。と僕は心の中で突っ込んでおいた。
視線の定まりどころがなくて目を泳がせていれば、彼女の机の上に置いてあるノートが目に入った。旅行のときに見せてくれた、彼女の『願い事リスト』が書かれてあるらしいノートだった。
暇なことも相まって、僕は中身が気になった。以前彼女は中は見せられないと言っていたけど、今なら変わっているかも知れない。
「あれ、見てもいいか??」
僕はノートを指さして言った。
「あれって?? っ、絶対だめ!!」
断られればそれで引き下がる予定でダメ元で訊いただけなのに、僕は引きずり込まれるように腕を引っ張られた。
寝転がっていた彼女を押し倒すような形で僕はベッドに倒された。体重がかからないようになんとか手をつけば、彼女の顔は僕の眼前にあった。
すぐに引き下がろうと体に力を入れる。けれど彼女の瞳があまりにも美しく見えて、僕は少し躊躇ってしまった。
「ごめん」
体を離してすぐに謝罪された。
「……いや、こっちこそ」
気まずい空気が漂う。お互いに顔を合わせることもままならない。
僕が何事も無く彼女に会話を降ればいいだけなのに、困ったことにそれすらも出来ない。
どうすればこの空気に終止符を打てるか思案していれば、部屋の扉がノックされた。立っていた僕がドアを開けると、彼女のお母さんがお菓子や飲み物の入ったお盆を持って立っていた。僕たちのために差し入れをもってきてくれたらしい。
僕はそれを受け取ってテーブルの上に置いた。
「食べよう」
「う、うん。そうだね」
まだ少しだけ気まずい雰囲気は残っているけれど、さっきよりはましになった。
僕と彼女は気まずい空気を誤魔化すように差し入れを食べた。味はおいしくて、でもやっぱりそのことに集中する余裕がない。
「ちなみに聞くけど、どうしてあの願い事リストは僕に見せられないんだ?? 嫌なら答えなくていいから」
僕はもう一度机の上にある、彼女の願い事リストを指差して言う。自分の夢を綴ったノートを人に見せるのは確かに少し抵抗があるかもしれないけれど、必死に止めるほどではない気がする。
「んー、まあ、強いて言うなら願い事ってのは人に言ったら叶わないってよく言われるでしょ。そーいうことだよ」
「ふーん。なるほどな」
多分、彼女が言っていることは半分くらいは嘘だ。少しだけ彼女のことが分かってきた。彼女は善良で素直な分だけ、嘘をつくのが苦手なんだ。わかりやすく目線を逸らして言っていたから間違いない。
「あー、君信じてないでしょー」
嘘をつくのが苦手なくせに、人の言動には敏感な彼女が僕に指摘する。
「完全に信じてないわけじゃないよ。半分くらいだ」
「私が嘘をついてるって言いたいわけね。いいよじゃあ、見せられないけど読むくらいならしてあげる」
頼んでもいないのに、山崎さんは立ち上がって願い事リストを手に取った。
そうして寝台の上に腰掛けると、ノートを開いてこほんとわざとらしく咳き込む。
「君が私のことをそんなに知りたいなら、仕方ないから教えてあげます」
最初にそんな余計な一言を付け加えてから、山崎さんは朗読を始めた。
「私のやりたいことは、本当に数えきれないくらいあるんだー。でもここに書いてあることを全部言うのは大変だから、その中でも特にやりたいことを抜粋していいます」
・旅行(行ったことがないところ)・キャンプ(海も山も)・スイーツ食べ放題 ・スカイダイビング ・バンジージャンプ ・海外旅行 ・好きなアーティストのライブ ・カフェ巡り ・スポーツ観戦 ・神社祭り ・初詣 ・温泉巡り ・遊園地巡り 等...
なんて、わかりやすい娯楽を彼女は羅列した。
「まあ全部言ったらきりがないから、このくらいにしとく」
言い訳みたいに言って、願い事リストをパタンと閉じる。
「意外に変なものは無かったな」
「はい失礼。君も言うようになったね〜」
彼女はやれやれとでも言うように首を横に振った。
「まあでも、僕にも手伝えることがあったら言ってくれ」
「それはもしや、私の願い事リスト完結を手伝ってくれるってこと??」
「そのつもりではあるよ」
「前は叶うといいな、とか他人事だったのに、嬉しい変化だなぁこれは」
意外と僕の言動を見ているらしい山崎さんは、僕を見て悪戯に微笑む。なぜか気恥ずかしくて僕は視線を逸らした。
「そういえば君、課題はやった??」
僕は自分の話から意識を逸らすために話題を振った。返事は返ってこなくて、まさか怒っているのかと思い彼女を見れば顔を真っ青にしていた。
「あぁ〜、課題忘れてたぁ」
両手で顔を覆って、半分諦めたように脱力している。なんとなくそんな気はしていた。
「量もそんなに多くないし、二人でやれば間に合うだろ」
「もしかして手伝ってくれるの??」
「仕方ないから、手伝うよ」
「じゃあ、お願いします……」
雑念の入る隙間のない焦りは、簡単に僕と彼女の間にあった気まずい雰囲気を吹き飛ばしてくれた。
今だけは長期休みの課題の存在に感謝しておいた。
「終わったー!!!!!!」
数学の最後の問題を解いて、彼女はベッドにダイブした。
時刻はもう七時を過ぎていて、僕たちは四時間以上もぶっ通しで課題をしていた。複数課題があるうちの八割はなんとか終わらせることができた。
「まだ一教科終わってないけどね」
「いいの。それは君が帰ってからやるよ。まずは手伝ってくれてありがと。お礼はまた今度ちゃんとするから」
「わかった。それじゃあ近くの高級焼肉店をリサーチしておくよ」
「ちょ、高級すぎるのは勘弁して欲しいかもな〜」
「ははっ。冗談だよ気にしないでくれ。僕だって君に助けられてばっかだし、むしろこっちがお礼したいくらいだ」
僕が言うと、彼女は不思議そうに僕を見つめた。
「なんだよ」
「ううん。なんでもなーい。とにかくありがと」
僕は何を考えているのか分からない彼女のお礼を素直に受け取った。
「それじゃあ僕はそろそろ帰るよ」
「夜ご飯も食べていけばいいのに」
「そこまで迷惑はかけられないよ」
僕は持ってきていた鞄を持って腰を上げた。ずっと座っていたせいで足が痺れている。
「送り迎えはいいよ。どうせ今日も星を見るんだから後で会うだろ。それじゃあまた後で」
「うん」
僕は階段を降りて玄関で靴を履く。挨拶をして戸を開けようとすると、彼女のお母さんがリビングの方からやってきた。
「宮瀬くん、少し時間あるかな」
いつもの和みが一切ない表情で僕に言った。僕は黙って頷いた。
リビングに招かれて、食卓の椅子に向かい合って座った。彼女のお母さんは悲壮な表情で話を始めた。
「月理の、ことなんだけどね」
嫌な予感がした。
優しく強そうな人柄からは想像もできないほどか細い声だった。気を抜けば感情が一気に溢れ出てしまいそうな様子で、これがただの世間話なんかではないことは容易に察することができた。
「月理に言われたの。君にはどうしても知っていて欲しいって」
言葉に言い表せない不穏な感情が心臓に纏わりついた気がした。本能が今からされるんだろう話を拒否していた。それでも彼女が僕に知っていてほしいと言ったのなら、僕はそれを訊かなければならないと思った。
「あの子はもう、長く生きていられないの」
言葉にすれば簡単なことで、けれどそのひどく簡単な事実を僕は暫く理解することが出来なかった。
その事実を無限のような一瞬で理解して、尋ねたいことは山程あるのに一体なにから聞けばいいのかもわからない。聞いた後にそれを受け止められる自信も無かった。
何も言えない僕に気を遣ってか、彼女のお母さんは話を続ける。
「少し前に脳に病気が見つかったの」
病気、どんな。
「それは治らないんですか」
「全国の病院を訪ねたわ。でも手術はできないって」
夢であってほしかった。彼女が考えた僕の驚かすための趣味の悪い冗談でもいい。心からこの話が事実じゃないことを祈った。けれど考えれば考えるほどに、悪い方に辻褄が合った。
僕と彼女が初めて出会った日に彼女が泣いていた理由、一つの連絡もなしに学校を三日以上も休んだこと、あかりの通う病院の受付と親しそうに話をしていたこと。やりたいことリストを作っていたこと。その全てが彼女が病気だということに繋がってしまう。
「じゃあ、彼女は、死ぬんですか」
今は結論だけが欲しかった。どんな病であろうと、彼女が生きていられる可能性があるならそれでよかった。
わからない。可能性はある。そうやって少しでも希望を持たせてくれることを期待した。なのに彼女のお母さんはただ頷くだけだった。
「すみません。もう帰ります」
これ以上何も聞きたくなくて、僕は逃げるように家を出た。もう一度彼女の部屋に行けば彼女に会って詳しい事情を訊くこともできただろうけど、僕はしなかった。どんな顔をして彼女に会うことが正解なのかわからなかった。
帰宅してからも、僕は何をすることもできなかった。体が自分のものじゃないみたいに感じて、纏まることのない思考と感情だけが静かな部屋に取り残されていた。
ふと洗面所に行って鏡に映った自分を見た。ひどい顔をしている。あまりの突然のことに、頭の中にある感情を身体が処理しきれていないのか、涙は出ない。呼吸が上手くできなくて、出そうになる嗚咽が寸前のところで引き下がって逆に不快感を残していく。
夜になって、僕はいてもたってもいられなくて外に出た。いつもよりも一時間以上も早く、星が見える暗さになってすぐに河川敷に向かった。
彼女はもうすでにいつもの場所にいた。いつもと何も変わらない様子で膝を抱えて座っていた。
「ん、さっきぶりだね」
何も変わらない笑顔を向ける。まるでさっきの話が夢だと思ってしまうほどに。
「私の病気のこと、お母さんから訊いたんでしょ??」
いつもと変わらない彼女、なのに僕の目には彼女は異質に映っていた。自由奔放で活発な彼女はそこにはいない。自分の死を悟り、やけに落ち着いた病人がそこにはいる。
「っ、どうして……」
今まで教えてくれなかったんだ。今僕にそれを伝えたんだ。どうして君が病気なんだ。
そのどれかなのか、どれでもないのか、言葉が続かなかった。何か尋ねたいことがあったはずなのに、一瞬の間に忘れてしまった。
「内緒にしてたのは、ごめん。このことは家族以外に誰にも言ったことが無かったし、言うつもりもなかったから、話そうってなってからどのタイミングで言えばいいのわからなくて、こんなに遅くなっちゃった。結局自分で伝える勇気もなくて、お母さんからになっちゃったのも、ごめんなさい」
山崎さんは僕に頭を下げて、気まずそうに笑った。
そしていつもみたいに僕に言う。
「隣にきてよ」
無理だ。
「いつもみたいに、一緒に星を見ようよ。私も星のこと話すから」
無理だ。
「……そうだよね。ごめん」
立ち尽くしたまま動かない僕に、彼女は悲しそうに笑った。
「やっぱり言わなければよかったのかな。言わなければ私が死ぬまでいつも通りに過ごせたかな」
自身を糾弾する彼女を見て叫びだしたくなった。彼女は悪くない。僕が彼女のことを理解した上でいつも通り接すればいいだけの話だ。
そんなことわかっていて、でも、それでも僕にはできなかった。
彼女がもう少しで死ぬことを知って、理解して、認めた上で、僕は今までのように接することができるだろうか。僕が彼女に同情すれば、それは却って彼女を傷つけることになる。それなら悲しまずに、焦らずに、彼女が死ぬまでの期間を楽しんでいけるだろうか。そんなの無理に決まってる。
僕はもう、彼女のことを大切だと思ってしまっているから。
彼女がいなくなることを想像して、ふと涙がこぼれ出てしまった。ほら、もうこの時点でできてない。
「死なないでくれよ……」
泣いている姿なんて彼女に見られたくなくて、視界を手で覆えば、つい口に出してしまった。彼女にはどうしようもないこと。願うだけ彼女を傷つける。
僕は踵を返して走った。また逃げた。何も見たくなくてコンクリートの地面だけを見て走った。けれど空にはやっぱりこんな状況でも変わらない星空があるんだろうか。