僕の家庭はどこにでもいるような普通の四人家族だった。
 父と母に僕と妹、家族同士喧嘩することだってあったけれど、それはどこの家庭にもある一般的なもの。決して裕福ではなかったけれど、四人で過ごした時間はたしかに幸せだった。

 そんな時間が崩れ去るきっかけがあったのが三年前の冬。病院での何気ない検査で僕と父さんは血が繋がっていないことが分かった。簡単に言えば、僕は母さんと父さんの間に生まれた子供ではなかったらしい。それが発覚したことでそれまであった幸せな世界は一瞬で瓦解した。父は激高し、母はわめき散らかした。ゴミ屋敷のようになったリビングで、震える妹のあかりを必死に抱きしめていたのを僕は今でも覚えている。
 温厚な父が手当たりしだいにものを投げた。慎ましかった母が惨めに言い訳をしていた。理想だった両親の像は、この瞬間に消え失せた。
 この問題に全く関係のないあかりだけは巻き込むわけにはいかない、そう思って僕は、母と父が口論している中あかりの耳をずっと塞いでいた。

 最終的に父と母は離婚することになった。妹は父と、父にとって不純な血の混じった僕は母と暮らすことになった。自分たちとは直接関係のない理由で、僕とあかりは引き離されたのだ。
 母の優しさは変わらなかったけれど、僕と母の間には決して消えない溝が生まれた。僕は気にしてないふうに装ったけど、母が僕と話すときはずっと顔が引きつっていた。

 父と母が離婚してからは、定期的にあかりから手紙が送られてくるようになった。最初は一ヶ月に一度、徐々に手紙が来る頻度は増していき、一週間に三回も手紙が来るようになった。
 僕とあかりは正式な兄妹ではなかったけれど、僕にとってはたった一人の妹で、あかりにとっては僕はたった一人の兄だった。子供だったからそういうのには疎いとかそんなのじゃなくて、僕たちは血縁なんて肩書はどうでもよかった。だから絶縁した父と母とは真逆に、僕とあかりは連絡を取り合った。
 一昨年の夏、離婚から一年程して僕はサプライズで明里に会いに行くことにした。父にも母にも勿論妹にも内緒で、僕は電車に乗って手紙に記された住所に一人で向かった。
 小さな一階建ての家、僕はやっとあかりに会えると浮足立っていた。

「いないのか??」

 インターホンを押しても応答は無かった。
 本当にここが父と明里の住む家かどうかなんて確証はなかったけど、明里に会いたいという気持ちが僕の背中を押した。
 玄関の鍵は空いていた。僕は迷わずに中へ入った。テレビの音だけが響くリビングを見た時、僕はただ呆然と立ち尽くすしか無かった。

 頭をかきながら寝転がる父と、痣だらけで床に倒れ込むあかり。状況が理解できなかった。理解することを拒んだ。そこから結び付けられる事実は僕には一つしか想像できなくて、どうしてもそれを認めたくなかった。

「ゆ、悠じゃないか。お前なんでここにいるんだ」

 父さんのそれは歓迎とは無縁の言葉で、血がつながっていないとしても、十数年一緒に暮らしてきた息子に言うようなセリフでは無かった。

「あ、あかりはな、今体調が悪いんだよ。だからそうっとしてやってくれ、な??」
「……」

 僕はそんな馬鹿みたいな言い訳をする父には目もくれず、あかりを眺めていた。
 動けなかった。信じたくなかった。

「なあ悠、母さんには内緒にしてくれよ。……おい、聞いてるのか!!!!」

 無視を続ける僕に、父の声は段々と荒れていく。

「と、父さん。あかりは……」

 やっと気持ちの整理をつけて、僕は父に自分から話しかけた。血の繋がりはなくても僕はこの人を父と思ってずっと生きてきた。昔はまっとうに父親としての役割をこなしていたこの父を信じてみようと思った。
 けれど父が僕を見る目は、自分の息子を見る父のものではなかった。

「全部お前が悪いんだろ!!!!」

 父はもう言い訳すら忘れて、僕にそう言い放った。十五年と少し共に過ごした父が、その瞬間からなにか別の生き物にすら見えた。
 それからの記憶は曖昧だ。
 父を殺してやりたいと思ったし、どこまでも無責任な母にも怒りが湧いた。けれど時間が経つにつれてその考えは変わっていった。
 ふと僕がいなかった場合の世界を考えて、それがどうしようもなく幸せなものだと気がついた。母はだらしないところもあるけれど優しくて、父は怒りっぽいけれど真面目で、二人の間には最愛の娘であるあかりが座っている。
 ああ、そうだ。思えば僕が居なければこんなことは起こらなかった。僕が存在しない世界では、家族の全員が笑顔だった。

 ————なんだよ。一番悪いのは他でもない僕じゃないか。

 この怒りを父と母に向けるより、自分に向けたほうがずっと楽だった。
 後から知ったことだけど、あかりは引っ越しをしたその日から父さんに殴られていたらしい。父さんは自分と血の繋がっていない(ぼく)への怒りを、全てあかりにぶつけていたらしい。それを聞いて僕の心は一層荒んだ。
 犯罪を犯した父は逮捕され、妹のあかりは母に引き取られた。けれど念願だったあかりとの暮らしは僕の方から拒絶した。

 僕がいない世界が誰にとっても幸せだと気がついた時点で、母ともあかりとも一緒に生きたいとは思えなかったから。
 ……いや、本当は違う。僕が僕を嫌いになった理由は、僕がいない世界が幸せだと悟ったからじゃない。そんなのは建前で、根幹の部分は全く別のものだ。僕はきっと心のどこかで気がついていたんだ。あかりが父さんに虐待されているという事実に。どうしてあかりは僕に手紙を送るようになったのか。どうして手紙の頻度が週に三度にまで増えたのか。おかしいと思わないほうがどうかしてる。僕はあかりのSOSに気がついていて、それをずっと放置していたのだ。父さんがあかりを殴っているという事実から、あかりが父さんから殴られているという事実から、僕は認めたくなくて逃げ続けていたんだ。僕がようやく父の家に赴いたあの夏の日まで、ずっと。


***

 
 彼女とひどい別れ方をした翌日。僕は昼になってようやくスマホを開いた。彼女からは一件のメッセージが届いていた。

『大丈夫ですか。できたら返信をください』

 他にいくらでも言いたいことがあるだろうに、届いていたのはそんな当たり障りのないメッセージだった。きっとこれも彼女が僕のことを気遣った結果のものだ。彼女は底抜けに優しいから。
 僕は彼女からのメッセージに返信しなかった。どれだけ考えても何を言えばいいのかわからなかった。そもそも最低な僕がこれ以上彼女に関わる資格はないと思った。
 一日中、彼女に対する罪悪感は消えなくて、星を見れば少しは和らぐだろうかと思ったけれど、今日はまばらな雲が星を覆い隠していた。

 それから三日経っても現状は何も変わらなかった。ずっと部屋に引きこもって、自分の感情が落ち着くのを待っただけ、僕はまだ一歩も前に進むことができていない。
 夜になって音沙汰の無かった僕のスマホに着信があった。しびれを切らした彼女が僕に電話をかけてきたのかもしれないと思って画面を見れば、表示されていたのは城田だった。
 思えば彼が僕に電話をかけてくることなんて初めてで、それくらい重大なことが起こったのかもしれないと思った。だから僕は意を決して電話に出た。

「もしもし、悠か??」

 特に変わったことは無い、いつも通りの城田の声が聞こえた。

「……僕になにか用??」
「いや、その用事も今終わった。生きてんならいいよ」

 彼はぶっきらぼうに言った。

「山崎さんに頼まれたんだ。お前と連絡が取れないから心配だって」

 まあそんなことだろうと思った。確か彼女は城田を含めたクラスメイト数人と旅行に行くといっていたから、彼女がその時に僕に電話をするように頼んだのだろう。
 直接電話をかけて来なかったのは、彼女からの着信には僕が応答しないことをなんとなく理解していたからか。

「お前、山崎さんとなんかあったんだろ」

 城田はただ押し黙る僕にそう尋ねてきた。

「別になにもないよ」
「嘘つけ。山崎さん目が腫れてた。だからそれくらい泣いたんだろ」

 胸の奥がずきりと痛んだ。僕のせいで彼女が泣いているという事実が棘になって僕に刺さった。

「君には関係ないだろ。放っておいてくれ」
「そうだな。でもお前、そろそろいい加減にしろよ」

 城田の声には怒りなんて含んでなかった。呆れでもない、一番近いものは心配だった。それが余計に僕の心を荒れさせた。

「悠、お前のやってることは誰も幸せにしない。妹さんも山崎さんもお前自身も」
「お前に何がわかるんだよ」
「少しくらいわかる。俺はお前と小学生のときから一緒にいるんだから。一昨年の夏に起こったことはただの理不尽でお前と妹さんは巻き込まれただけだ。なのにお前はその理不尽を自分のせいにして、そのくせ馬鹿みたいにずっと苦しんでる」

 仕方ないだろ、理不尽を恨むことより、父と母を恨むことより、自分のせいにした方がずっと楽だったんだから。

「中途半端はやめろ。見ててイラつくんだよ」
「わかってる、わかってるんだよ」

 理不尽を受け入れるか、それとも抗うか。中途半端なものじゃなく、どちらか一つを選ばなければらないことは分かってる。そしてどちらが自分にとって正しいことなのかも本当はずっとわかってる。
 僕は城田との着信を切った。城田もこれ以上僕に言うことはなかっただろうし、僕ももう話すことはしたくなかった。


***
 
 
 僕は一週間経ってようやく外にでた。
 気を張り詰めたまま電車に揺られ、そのままいつも降りる駅から少し過ぎたところの駅で降りる。
 改札を抜け、南口から駅を出て、そこから住宅街をまっすぐ進めば海に出る。海岸沿いの歩道をひたすら北側に歩いて数十分、ようやく目的地である市立病院が見えてきた。
 この近辺では大きな病院はここしかない。だから近隣の住民だけでなく、少し離れた地域からもこの病院には人が集まる。少し離れた街にすんでいる僕の妹のあかりもこの病院に通院している。

「……行こう」

 都会らしい巨大な駐車場を抜け、僕は溢れ出そうな動悸を抑えて入り口の自動ドアに踏み込み。 
 てっきり二人は診察室にいるのだと思っていた。覚悟を決める前に安易に踏み込んだのが仇になった。僕が病院の入口を抜けてすぐの受付には、三ヶ月ぶりに見る母の姿と妹の姿があった。

「う……っ!!!!」

 僕の思いとは真逆に体が拒絶する。無意識に体が震え、背筋に冷や汗が浮き出る。
 声を掛ける前に、僕はすぐに踵を返して逃げるように駆け出した。
 乱れる呼吸にも気を遣わず、ただひたすらに逃げた。僕は二人に会うことを望んでいるはずなのに、今日で呪いのような過去を終わりにするために来たのに、どうしても足は止まらなかった。
 まるで異形の怪物からでも逃げるようにひたすらに走った後、走るのに必要な酸素が不足してようやく僕は海岸沿いにある胸壁前で立ち止まった。

「はぁ!! はぁ!! っぅ……」

 呼吸のタイミングが噛み合わずにむせ返る。全身が震えて声もうまくだせない。
 僕が感じている感情は何よりもわかりやすい、恐怖そのものだった。僕は家族である二人に恐怖すら感じていた。僕の体は家族である二人を恐ろしいものとして認識していた。

「……くそっ!!」

 自分の惨めさに、どこにも向けられない怒りに、僕は海と陸を隔てるコンクリートに拳を叩きつける。骨がきしむような痛みが苛立ちを加速させた。

「はは、痛った。なんなんだよもう……」

 嘲笑と苦笑が入り混じった声、あの日から数えてもう何度目になるかわからない吐き気を噛み締める。
 やっぱりだめだ。これは勇気とか、覚悟とか、そういった気概では絶対に克服できるものじゃない。……いや、それすらも言い訳だ。僕はただ、たった一人の妹と向き合う自信がないだけだ。
 もしあかりが僕の存在していなかった世界の幸せに気づいてしまっていたら、僕があかりを助けられなかったことを恨まれていたら、僕はあかりに面と向かって拒絶されることがどうしようもなく怖い。

「……宮瀬くん」

 突如として呼ばれた名前、僕が横に目をやるとそこにはいるはずもない彼女が居た。

「……なんで、いるんだよ」
「その、まあ……君を見かけて付いてきた」

 真偽もわからない彼女のそんな言葉に、僕は彼女のことを苛立ちに任せて睨みつける。

「気持ち悪いよ。もう僕に構わないでくれ」

 なんでもないような態度を保っている彼女は、少しだけ肩を震わせていた。

「宮瀬くん、何かあったの??」
「……」

 話す気なんて無い。これは僕の問題で、仮に彼女に話したところで解決するものでもない。そんな僕とは反対に、彼女は少し離れた胸壁に身を預けた。帰るつもりはないらしい。

「教えてよ、君のこと」
「……」
「頑固だなあ」
「君はどうしてそんなに僕に構うんだ」

 僕はもう一度彼女を睨む。今この瞬間だけは彼女のことがうっとうしくてたまらなかった。

「それに答えたら、君は何があったか話してくれる??」
「……もう黙ってくれ」
「君はーーー」
「っ、いい加減にしてくれ!!!!」

 僕の精神は限界だった。限界に達した感情を解き放つ先はきっと誰でもよかった。僕は今この場にたまたま居合わせただけの彼女に対して怒号を放つ。今まで蓄積された全ての心労が抑えきれなくなってあふれ出た。
 関係のない彼女に八つ当たりをしたって何も変わらない。なのに、僕の敵意は関係のない彼女に向けられていた。

「どうして、君はいつもそうやって自分勝手に行動するんだ」
「私はただ、君が悩んでるなら力になりたいなって、思って」
「僕は君に助けてくれなんて言ってない!!!!」

 僕の八つ当たりは止まらなかった。彼女の自分勝手な行動に悩まされていたのは事実。けれど今の僕の苛立ちはそれに対するものではなく、ただ行き場のなかった怒りを、たまたま現れた彼女にぶつけているだけだ。
 僕はまだ先日の謝罪すらも済ませていないのに、ずっと彼女に八つ当たりを続けた。救いようのない最低な自分を理解していて、それでもなお抑えることはできなかった。
 僕のこれがただの八つ当たりだと、きっと彼女も理解しているはずなのに彼女は何も言ってこない。そんな大人の対応が、僕の惨めさをより引き立てた。

「君はさ、優しすぎるんだよ」

 彼女はそれでも微笑んで、静かにそう言った。

「本当に嫌なら放っておけばいいだけなのに、私の我儘にも付き合ってくれるし。君は悩みとかそういうの全部溜め込んじゃうんだよ。だから私が聞いてあげたられたら、って、思って………ごめん」
「どうして、君が謝るんだ……悪いのは僕なのに」

 僕は胸壁を背に、顔を右手で覆った。手のひらに覆われた世界は何も見えなくて、海岸に打ち付ける波の音だけが聞こえた。何も考えたくなくて、もうこのまま眠ってしまいたかった。

 それから五分くらいたっただろうか、マグマのようだった僕のほとぼりはあっけなく冷め、手のひらを下ろすと彼女はまだ少し離れたところの胸壁に寄りかかっていた。

「少しは落ち着いた??」

 冷静に尋ねてくる彼女に、僕はひとまず頷いた。
 
「ねえ、少し話そうよ」

 彼女は胸壁の上を指差す。この上で、ということだろう。
 彼女は自力で胸壁の上り、海側に腰を下ろした。僕は彼女の顔を見るのがまだ気まずくて、壁に寄りかかったままそっちの方に耳を傾ける。

「君はさっき、なんでそんなに構うのかって聞いたでしょ?? それは私にもわからないの」
「……どういうこと??」

 何を言うかと思えば、彼女の答えは自分でもわからないという曖昧なものだった。
 混乱する僕をよそに彼女は話を続ける。

「うーん。なんて言えばいいのかわからないけど、放って置けないくらいには君のことが気になってる。前に君に裏切られてもいいって言ったけど、今は嫌かも」

 頭を捻らせて彼女は言葉を紡いだ。彼女の言っていることはやはりよく分からなかった。

「なんだそれ、やっぱり僕のこと好きなんじゃないか??」
「ち、違うよ。と思う……」 
「だから、そこは否定してくれ」

 彼女と話しているうちに、僕が作り出した険悪な雰囲気はいつの間にか取り払わていた。さっきまではどうしても抑えきれなかった苛立ちは嘘のように霧散していた。

「はい、私は話したよ。次は君の番。平等に行かないとね」

 彼女は海の方を向いたまま言った。
 さっきまでは意地でも話したくなかったのに今は不思議と何も感じなかった。直前の彼女の発言は彼女が僕に話させるための策略かもしれないけれど、それに引っかかってやってもいい気がした。 
 あの出来事を話す前に、唐突に僕は彼女に言わなければならないことがあることを思い出した。

「さっきは八つ当たりをしてごめん。この前も勝手に家を飛び出して、連絡も返さないで、本当にごめん」

 僕は彼女の方に体を向き直して言った。
 きっと彼女のことだから気にしてないんだろう。けれど最低限これだけは言っておかないと、僕は彼女と顔を合わせることは許されないと思った。

「いいよ。仕方ないから許してあげるよ」

 胸壁に座る彼女は、許すも何も最初から何も気にしてなかったくせにそう言った。
 優しすぎるのは、君の方だって同じだ。

 僕は静かに息を吐く。
 それから、考えるだけで吐瀉物がこみ上げそうになる、あの一昨年の夏の出来事を僕はゆっくりと思い返して、彼女に話を始めた。
 最初はもう思い出したくもない過去のことを話すことに抵抗があった。けれど話しているうちに、僕は彼女に訊いてほしいと思うようになっていた。彼女と過去の出来事を共有することが僕にとっての救いになっていた。

「それで、それからは僕は母さんの誘いを断って祖母が遺した田舎の一軒家で一人暮らし、母さんとあかりは僕と違う街で暮らしてる」

 僕は大体の顛末を話し終えてから、彼女の方に見向いた。
 いつも通りの彼女が、山崎月理がそこにはいる。

「それで、君はどうして病院にいたの??」
「あかりが定期的に通院してるんだよ。今年こそは、今日こそは会おうって思った。いい加減前に進むべきだと思った。でもどうしてもできなかった。情けないよな」
「ほんとに情けないね」

 彼女は僕の自虐を否定することもなく容赦なく二乗した。

「会えばいいじゃん。あかりちゃんに」
「そんなに簡単じゃないよ。母さんもあかりもきっと僕を恨んでる。僕がいなければ父さんと母さんが離婚することも、あかりが父さんに虐待されることもなかったんだから」

 きっと母もあかりもとっくにそのことには気がついている。そして僕のことを邪魔者だと思っている。あっちのほうから接触してこないのが何よりの証拠だった。
 時間が経てば経つほどに、僕と二人の溝は深まっていく。せめて一言謝れたら、なんて思って毎月病院に足を運んではいるけれど、拒絶されるかもしれない、もうとっくに僕のことなんて忘れているのかもしれないなんていう不安が、僕の体を前に進ませない。

「僕が逃げたせいで、見て見ぬ振りをしたせいであかりは苦しむことになった。だからあかりは僕のことをきっと恨んでる」

 独り言のようにつぶやくと、軽い衝撃が左肩に走った。彼女が僕の肩に拳を当てていた。

「かっこ悪いよ」

 どうしてだろう。悲痛な表情で彼女は僕を見ていた。

「そんなの気にしないでいけばいいの。頭で考えるのは後でいいんだよ。まずは動かないと」
「……そんなこと言ったって、僕はもう」
「もーうるさい!! ほら、行くよ!!」
「うわっ!!」

 彼女は突拍子もなく胸壁から飛び降りると、その勢いのまま僕を引っ張って強制的に地面に足をつかせた。

「何するんだよ。行くってどこに……」
「病院だよ。あかりちゃんに会いに行こう」
「無理だ。母さんも、あかりだって僕を恨んでる」

 根本的な原因を作った母、暴力をした父、勿論明里はこの二人を恨んでるだろう。でもだからといってそれは僕が恨まれていない理由にはならない。

「僕はあかりに会いたくない……」

 僕の弱音に彼女の足が止まる。
 きっと今の僕はひどい顔をしている。本当に情けない。

「下向かないでこっち向いて聞いて、いい?? 君はこれっぽっちも悪くないよ!!」

 彼女はそう断言した。僕の話を全て聞いた上で僕を悪くないと言った。

「悪いのは君のお父さんとお母さんでしょ。君は何も悪いことはしてないよ。君のせいであかりちゃんが傷ついたんじゃないよ。だって君はあの日に覚悟をした上でお父さんの家に行ったんでしょ?? だから、君のおかげであかりちゃんは助かったんだよ」

 ただ関係のない彼女にそうやって言われただけなのに僕は嬉しかった。彼女が僕を認めてくれただけなのに、逃げいていた最低な僕のことを認めれくれたことがどうしようもなく嬉しかった。

「君の本心はどっち??」

 どっちなんだろう。もはや僕にもわからない。僕はあかりに会いたいんだろうか。仮に会えたとして何をするんだ。昔と同じように話すことなんて絶対にできない。僕のことを恨んでいたとしたらそれ以前の問題だ。謝って許してもらう?? それはただの自己満足、妹の辛い過去は消えない。

「君の本心なんて、関係のない私でも分かるよ」

 全部を見透かしたように彼女は言った。
 本当は僕もわかっている。あかりに会って話がしたい。だからこそ僕は逃げ続けた。過去の出来事全てを忘れて生きることだってできたのに、過去を背負って中途半端に生きることを選んだ。人と関わらない生き方で罪を背負った気になって生きてきた。いつか大切な妹と再会できるように。

「わかってる。僕はあかりに会いたい」

 自分の中で結論が出たと同時に、僕はそう呟いていた。彼女は僕のそれを聞いて優しく笑った。

「でも、どうしても怖い。あかりが僕を嫌いになってたらと思うと、このまま何も知らないほうが楽なんじゃないかって思う」

 それでも弱音を吐く僕に、彼女はまた無邪気に笑った。

「大丈夫大丈夫。私がついていってあげるから」

 彼女はまた僕の手を引いて歩きだした。君がついてきたところでなんだ、なんて思った。けれどそんな強がりとは裏腹に、僕の中にあった幾つもの恐怖はもう渦巻いてはいなかった。
 彼女の手はとても優しくて暖かった。

 病院に戻ってきて早速、少しだけ怖気づく僕は彼女に引っ張られて受付に向かった。

「木原さん、宮瀬あかりって女の子来ませんでしたか??」

 受付のベテランな雰囲気を纏った看護師さんは、彼女の急な質問に戸惑いながら「ごめんね。たとえ月理ちゃんでも、患者さんの個人情報は教えられないわ」と妙に親しげに返答をした。彼女と知り合いなんだろうか。

「あの、僕の妹なんですけど……」

 なんの作戦もなしにつっこむ彼女に、僕が後ろからフォローを入れるが疑心暗鬼の目で見られるだけだった。
 一度体制を立て直すため、僕は彼女を離れの座席にまで引っ張っていく。

「やっぱり無茶だよ。病院なんて特に規制が厳しいんだから」
「まさか今更怖気づいたの??」
「そうじゃなくって、あかりに会うなら診察室じゃなくて、病院の外でしか無理だってこと」

 たとえあかりのいる診察室が判明したとして、突入なんてしたら警察案件だ。

「そっか、じゃあ終わるの待ってれば来るかもね」

 とは言っても、僕と彼女が外で話している間に診察事態が終わってしまった可能性だってある。

「もしかしたらもう帰ったのかもしれないな……」
「んー、それじゃあ会うには直接家に行くしか無いってことかぁ。住所は知ってるの??」
「……知らないんだ、それが」

 僕がそう言うと彼女は深いため息をついた。

「家族の住所知らない人なんているんだ……」
「最悪次の診察日に来るしか無いな」
「次って??」
「三ヶ月後だよ」

 僕が言うと、彼女は少しだけ迷う様子を見せた。

「……三ヶ月後、か」
「さすがに遠すぎるよな。とりあえずもう少しだけ待ってみようか……」

 だが、そんな僕たちの心配は杞憂で、それから数分程経った頃に自体は進展することになる。
 僕と彼女が諦めて病院から出た時、一人の女の子が目の前を通り過ぎた。僕はひと目見ただけであかりだとわかった。
 髪型も身長も、外見は変わっているけれど、あかりのもつ本来の雰囲気は変わってはいなかった。

「あかり……」

 彼女が自身の妹だと理解した瞬間、僕は無意識に呟いていた。
 あかりが振り向く。もう小学校高学年になって、前よりも少し大人びた明里がそこにはいた。
 目を逸したくなるのを我慢して、僕は視線をあかりに固定する。

「ゆ、悠!? 久しぶり……」

 あかりも僕だと気がついたらしく、少し気まずそうに反応してくる。
 隣にいた彼女は僕に気を遣ってか、この場を離れようとするが僕はその手を捕まえて引き止めた。
 視線だけで意を伝えようとすると、彼女は「仕方ないなぁ」なんて表情をしてその場に留まった。

「どうして連絡しなかったの!? 心配してたんだよ!?」

 確かあかりと会うのは二年ぶり。思うところもたくさんあるはずなのに、あかりは昔と同じような感じで僕に接してくる。
 反応をみるに、母さんは僕の方から一緒に暮らすことを拒絶したとあかりには伝えていないらしい。

「げ、元気だった?? 僕は元気だったよ」

 何を話せばいいのかわからず、そんな初めて人と会話をする人みたいな言葉しか出てこなかった。

「元気だけど。僕ってなに……イメチェンでもしたの?? 昔は俺だったのに。ていうか後ろの人はもしかして彼女??」
「あ、ああ、そんな感じ……」
「ええ!! 本当に彼女!?」

 僕としてはイメチェンのほうの返答だったのだけど、あかりは驚愕の表情を浮かべて隣の彼女を見据えた。

「どうも、悠の彼女の山崎月理です」

 彼女は面白がっているのか、わざと否定せずに愛想よく笑って明あかりに挨拶をする。

「ど、どうも宮瀬明里です。兄がいつもお世話になってます」

 あかりも彼女に対してそんな社交辞令を行う。普段なら全力で否定をするだろうが、今はそんなことよりあかりに伝えるべきことを考えるのに精一杯だった。

「それで、悠はなんでここにいるの??」
「それは……」
「どうしても妹に会いたいって言うから、私が無理やり連れてきたの」

 僕がどう返すのが正しいのか迷っていると、彼女が後ろから偽りのない事実を口にした。

「あかり、元気にしてるかなって思って……」
「ふーん。え、それだけ??」
「あ、ああ」
「それなら病院じゃなくて家に来なよー」

 頷く僕に、あかりは呆れ顔でそう言った。

「いや、住所知らなくて、ってかいいのか??」
「いいのかってどういうこと??」
「その、僕が家に行っても」
「はあ。当たり前じゃん。何言ってるの??」

 疑問を感じることもなくあかりは言った。

「母さん、怒らないかな……」
「もしかしてお母さんと喧嘩でもしたの??」
「いや、まあ、そんな感じ」
「なら私から言っといてあげるよ。悠がまた今度遊びに来るって」

 僕は想像もしていなかった会話の流れに言葉が詰まる。もっと居心地の悪い会合になると思っていた。罵声を浴びせられるのも覚悟していた。だから謝ることだけを考えてやってきたのに、そんなタイミングは欠片ほどもなかった。

「スマホ出して」

 僕は言われた通りにポケットからスマートフォンを差し出す。
 するとあかりは勝手に連絡先を追加した。

「来る時連絡してね。私も予定空けとくから」
「あ、うん。ありがとう」

 僕はされるがままに頷く。

「あ、お母さんお会計終わったみたいだから行くね。それともお母さんにも会ってく??」
「……いや、やめとく。これから少し用事があるから」

 僕は嘘であかりの提案を断った。
 別に母さんに会うのは良かったけど、あかりを交えての会話はお互い気を遣ってうまく話せないような気がした。それになんとなく彼女と母さんを会わせたくはなかった。

「そう。じゃあまた今度ね」
「あかりは僕を恨んでないのか??」

 ずっと聞きたかったこと、今言うべきことではないと理解していた。だってあかりは父さんについての話は一切話せなかったし、掘り起こしたくもないだろうから。それでも僕は知りたかった。昔と全く同じように接してくれた明里が、心のどこかで僕を恨んでいるんじゃないかと思うと、気が気じゃなかった。
 彼女は握っていた僕の手に爪を立てた。今それを言う必要はないでしょ、なんて意味だろう。

「なんで私が悠を恨むの??」

 最後に手を降ってあかりは帰っていった。その後ろ姿は一切の支えもいらない程逞しく見えた。

「そろそろ手、離してもらってもいい??」

 あかりの姿が見えなくなった頃、彼女にそう言われて僕は慌てて手を離した。

「あ、ごめん……」
「ううん大丈夫。それじゃあ私達も帰ろっか。駅まで送っていくよ」

 もうこの病院に用が無くなった僕たちは、来た道と同じ海岸沿いの帰路を並んで歩いた。
 いつの間にかすっかり日は暮れ、真っ赤な夕日が空と海の両方を照らしていた。

「あかりちゃんは君と違って強いねー」

 先に沈黙を破ったのは彼女の方だった。
 笑いながら、弱い僕を冷やかしてくる。

「僕も思い知らされたよ。僕が思っていたよりもずっとあかりは強かった」

 実の父親からの暴力なんて誰にとっても苦痛なものだ。けれどあかりはそれにくじけずに前に進んでいた。逃げ続けていた僕と違って。
 何一つ僕が想像していたことは起こらなかった。母さんはまだわからないけれど、あかりは僕を全く恨んでいなかった。

「ありがとう山崎さん」

 僕が言うと、彼女は驚いたような表情をしていた。

「君が居なかったら、きっと僕はあかりに会えなかった。ずっと一人で悩んであかりの思いを勝手に決めつけて、もしかしたら一生引きずったままだったかも」

 僕は立ち止まって水平線に沈みかけている夕日を眺めた。
 ただひたすらに眩しかった。僕の視界に映る景色が今まで見ていた景色よりも秀麗に映った。
 僕は誰かに裏切られるのが怖かった。信じていた両親に裏切られたときの絶望はどんなことよりも恐ろしかった。だから人と関わることをやめた。またあの時みたいなことが起こる可能性がほんの少しでもあるなら、最初から何もしないほうがいいと思った。
 彼女の方を見ると、まだ彼女は口を開いて唖然としていた。

「どうしたの??」
「だって、初めて名前呼んでくれたから……」
「変かな」

 山崎さんはぶんぶんと首を横にふる。

「ううん。全然変じゃないよ。でも名字呼びじゃなくて下の名前で呼んでよ」
「君の下の名前ってなんだっけ??」
「ひどい!! わかってるくせに」

 わかりやすく怒る彼女を見て、僕は笑ってしまった。今はどんなくだらないことでも可笑しかった。

「もう少し苗字呼びに慣れたらでいいかな??」
「うん。楽しみにしてる」

 もう彼女のことをあかりに重ねたりしない。関わりたくないなんて思わない。僕の隣にいるのはどこか妹に似た彼女ではなく、山崎月理だ。

「じゃあ私も君のこと悠って呼ぶね」

 今更下の名前で呼ばれるのはなんだか気恥ずかしかった。

「君さ、僕に気を使って名前で呼ばなかったんだろ」
「さぁーね。どうかなー」

 クラスメイトを呼ぶとき、彼女は必ず下の名前で呼ぶ。そんな彼女が僕のことだけは名前で呼ばなかった。きっと彼女は、人と関わることにトラウマを抱えた僕に合わせてそうしていたんだ。

「あ、そういえば君、勝手に私のこと彼女にしたでしょ」

 思い出してほしくないことを思い出された。僕は気まずくて視線をそらす。

「いや、あれは誤解だよ。見栄を張ったとかそういうわけじゃなくて……てか君が否定してくれればよかったのに」
「私はてっきり君の作戦かと思ったんだよ!! 漫画とかでよくあるじゃん。家族を安心させるためにみたいな」

 確かにそういうのはよく見るけど、まさか現実で行使する人なんてそういないだろう。

「まあいいよ。次会ったときに別れたって言っておく」
「うわぁ、相変わらずドライだなぁ」

 そうやってくだらない話をしてれば、いつの間にか駅についていた。

「それじゃあまたね悠!!」

 彼女はそう言って僕に手を振る。

「君は帰らないの??」
「うん。そもそも私がここにいた理由は用事があったからだもん。まあその用事の途中で君を見つけたわけだ」
「それは、なんていうかごめん。こんなに時間使わせて、邪魔しちゃったよな」
「大丈夫だよ。大した用事じゃないし」

 何か手伝えることはないか、なんて考えて、逆に彼女に気を遣わせたくなくて言うのはやめた。

「それじゃあ、また」

 僕は彼女に背を向ける。けれど一つ言い残した事があって振り返った。

「あのさ、今日の夜は暇??」

 彼女は静かに頷いた。

「そっか。なら、いつもの場所で待ってる」
「うん!!」

 彼女は夕日に負けないくらいに輝かしい笑顔を僕に向けて頷いた。
 その日の夜に彼女と見た星空は、今まで見た中で一番綺麗だった。