夏休みに入って二日目の夜、僕は久しぶりに彼女と顔を合わせた。
 ようやく山崎さんの体調が良くなり、外出することができるようになったらしい。

『今日はいつもの場所にいくからね!!』

 なんて彼女のメッセージを見て、僕は夜に河川敷に向かった。

「やあ君、久しぶりー!!」

 飛びついてきそうなくらいの勢いで、後から来た彼女は座る僕に言った。
 心配していたけれど、彼女の顔色からは病人の雰囲気は感じられない。どうやらちゃんと完治したみたいだ。

「久しぶり。体調はもう大丈夫なのか??」
「うん。ばっちしだよ」

 僕の質問にピースサインをして答えると、彼女は僕の隣に腰掛けた。
 ふわりと漂ってくる控えめな柔軟剤の匂いが少し懐かしくも感じる。

「あ、そうそう、旅行の日程決まったよ。少し急かもしれないけど、来週の土曜日からはどうかな??」

 僕の隣に腰をおろして、間髪入れずに彼女は言った。旅行と言うのは言わずもがな僕と取り付けた約束のことだ。

「わかった。特に予定もないし僕はそれでいいよ」
「多分だけど、土曜日の朝に電車で出発して、日曜日の夕方くらいに帰ってくることになるかなー」 

 抱えた膝に顔を載せながら話す彼女は心なしか、僕にはどこかそわそわしているように見える。
 指摘するべきかどうか迷って、僕はそれを尋ねることにした。

「勘違いだったら悪い。君、なんか企んでない??」

 僕は怪しく落ち着きのない彼女に尋ねる。

「それか、旅行のことでなにか僕に隠し事してるとか」
「な、ないない!! そんなことしてないよ!! 疑うなんてひどいなー」

 あからさまに動揺している彼女を見て、僕は図星だと確信する。

「そうやって隠し事するなら、旅行当日にドタキャンするけどいい??」
「わー!! ごめんなさい!! 言うからそれだけはやめてー」

 彼女を脅すと、縋るように隠し事を認めた。

「実はね、ホテルの予約なんだけど一部屋しか取れなかったの。でも、そのかわり部屋は広いから……」

 そうして彼女が白状したことは、僕たちの力ではどうしようもないことだった。

「それはまあ、仕方ないな」

 僕がそう言うと、彼女は驚いたような表情で僕を見てくる。

「え、君はそれでも良いの??」
「良くはないけど仕方ないだろ。旅行の全部を君に丸投げしておいて文句なんて言えないし。むしろそっちこそいいのかよ」

 僕と彼女の間に特別な感情などないけれど、前提として僕たちは異性同士だ。思春期真っ只中の男女二人が同じ部屋に泊まるなんてことは異常とまではいかないけれど普通じゃない。そしてその可不可を決めるのは必然的に女性側になるから僕は尋ねた。

「私は気にしないよ。君のことを信頼してるしね」

 隣の彼女は当然のようにそう言った。
 どこから来ているのかもわからないその信頼に、内心僕は呆れる。

「それに、そんな度胸は君にはないでしょ」

 彼女はにやつきながら僕を挑発する。
 腹が立つけれど図星だから、僕はただため息を吐くしかなかった。 

 それから更に細かい旅行の予定について話を終え、僕たちはいつものように星を見ることにした。約一週間ぶりに見上げる星空は微塵も輝きを衰えさせてはいなかった。
 星を眺めて、僕はあることを思い出す。

「そういえば、やっと夏の大三角形がわかるようになった」
「ええー!! 本当!? やったじゃん!!!!」

 ただ何気なく言ったつもりだったのに、彼女はわざわざ体を起こしてまるで自分のことのように喜んでいた。

「大げさだな。スマホで調べたら簡単に見つけ方が載ってたよ」
「ほうほう、それじゃあ私に夏の大三角形がどこにあるのか教えてみてよ」
「わかった」

 テストされるのもなんだかおかしいけれど、僕が見栄をはっているわけではないことを証明するためにも彼女のそれに乗っかることにした。
 僕は先日に見たインターネットの記事に書いてあったことをそのまま実行する。と言っても届くはずのない星にできることは寝転がったまま目で追いかけることくらいなんだけど。

「まずは最初に天の川を探す」

 天の川は星の密度が高い地点を探せばいいだけなので簡単に見つかった。よく写真やイラストで見るはっきりとした天の川は今は見えないけれど、うっすらと帯の形をした星の集団が東の空に見える。

「次は天の川の中で一番輝いている星……あった。あれがデネブか」

 デネブを見つければ後は簡単だ。天の川を挟むようにして一際輝いている二つの星を探す。それがベガ、アルタイルだ。

「どう?? あってるか??」

 三つの星を順に指さして、僕は彼女に尋ねる。

「君の指先と星までの間が果てしなさ過ぎて判断できないよ」

 いつだったか僕が彼女に言ったことを、ほとんどそのまま言ってきた。実際に自分が言ったことだけれど、いざ自分が言われてみれば結構腹が立つ。

「僕も君に一度言ってるし、文句を言えないのがきつい」
「あはは。でもきっとあってるよ」

 彼女は言っていたずらに笑った。
 そして、そんな彼女の無邪気な笑顔につられて僕も少しだけ笑ってしまった。


***


 それからの一週間はあっという間だった。特にすることもなく昼間は家に引きこもって、夜は彼女と星を見る。そんな何気ない日々を過ごしていれば、気がつけば旅行当日になっていた。
 朝の時点で天気は良好、予報でも一日中晴れるらしく旅行にはうってつけの天候だった。
 僕は荷物を入れたリュックサックを持って、彼女と取り決めた待ち合わせの駅に向かった。
 待ち合わせの時刻の二十分ほど余裕を持って駅につくと、彼女はすでに駅の中のベンチに座っていた。近づいていくと彼女は僕に気が付いたようで、軽く手を挙げてから席を立った。

「おはよー!!」
「おはよう」

 早朝でも変わらないテンションで彼女は挨拶してくる。彼女のことだから、この旅行が楽しみで仕方ないんだろう。

「それにしても君、来るの早すぎないか??」

 待ち合わせ時刻は八時半で、今はまだ七時半だ。万が一電車に遅れることがあったらまずいと思い、余裕を持ってきた僕よりも彼女は先に来ている。

「実を言うとね、七時にはここにいたんだー!!」
「いや、早く来ることはいいことだろうけど、さすがにやりすぎだろ」
「楽しみだったんだからしょうがないでしょ。まあでも、今回はさすがに自分でも反省してるけど」

 あははと恥ずかし気に笑う彼女に、僕は思わず苦笑した。まあ、悪いことではないのだけれど。
 そのあと僕たちは約三十分間、真夏の駅のホームで電車を待った。ようやく定刻通りにやってきた電車の中は最高に涼しくて、もうずっとここにいたいと思わせるほどだった。

「そうだ、そろそろ行き先を教えてくれよ」

 クロスシートの窓側の席に座る彼女に僕はおもむろに尋ねる。

「そんなに気になるなら教えてあげるよ。はい」

 彼女は言って僕にスマートファンを向けてきた。顔を近づけてみると画面には僕でもしっているくらいには有名な観光名所が映っていた。

「ああ、ここか。君にしては随分と控えめな場所を選んだね」

 彼女が提示した目的地は思っていたよりも近場だった。大体電車でおよそ一時間半くらいだろう。

「もしかして行ったことあるの??」
「いいや、知ってるだけだよ。僕は基本的に旅行とかしないから」
「そ。じゃあ楽しみにしててね!! きっとすごいものが見られるよ」

 隣の彼女は自信満々に言ってはにかんだ。

 目的地周辺の駅に着いて、僕たちはまず朝食を取ることにした。
 駅を出てすぐのところに市場があった。そこでよさげな飲食店を吟味していると、彼女が海鮮丼が食べたいと言い出した。一人暮らしをしている僕にとって、そういう観光客目当ての高級な食事をするのは気が引けたけど、結局彼女の押しに負けて入店してしまった。

 席についてメニューを見て注文を決める。彼女が手を挙げると店員さんがやってきた。
 先いいよー、と言われたので僕は一番安価だったほっけの焼定食を頼んだ。次に彼女が口頭で注文を伝える。いくら丼、刺身の盛り合わせ、ホタテ焼、とろサーモンのハラス焼き。
 店員さんが去ってから、僕は言うべきだろうことを彼女に告げる。

「いや、さすがに頼み過ぎじゃない??」

 彼女の頼んだものだけで、ざっと六千円は超えている。金銭的な視点でも量的な視点でも、どちらから見ても頼み過ぎだ。

「せっかくの旅行だもん。奮発しないともったいないじゃん。それに私こう見えてもたくさん食べるんだよ??」
「まあ君がいいならいいんだけどさ……」

 彼女はもしや貴族の生まれなのだろうか、僕の金銭感覚とはかけ離れている。
 少しして注文した品が次々と来た。色とりどりの海鮮が二人がけのテーブルに敷き詰められていく。

「いただきまー!! っ、おいしすぎる〜!!!!」

 約三千円のいくら丼を口に入れた彼女はテレビ顔負けの感嘆の声を上げた。お世辞ではなく本当に美味しいのか、彼女の手は止まらない。
 少し羨ましいなと感じながら僕は自分が頼んだほっけを箸で抉って食べた。頼んでよかったと思うほどにはおいしかった。

「君はお肉とお魚だったらどっちが好き??」

 不意に彼女に尋ねられる。

「どっちも好きだけど魚かな。くどくないし」
「だと思った。だって君肉食系には見えないもん」
「外見は関係ないだろ。それを言うなら君はどっちかって言うと肉食系だし」
「えーそうかな?? 私そんなに積極的かな??」
「自覚ないのかよ」

 どうやら彼女の自由さは無意識らしい。なおさらたちが悪いな。
 彼女の食べているものと僕の食べているものが半分程無くなった頃、彼女はどんぶりを持って僕に差し出してきた。

「なに?? 一番安いほっけ定食を食べてる僕へのあてつけ?? それなら言わせてもらうけど、このほっけは思ってる百倍はおいしいぞ」
「違うよ!! そっちも食べたいから半分だけ交換しよってこと!!」

 僕は彼女のその言葉を聞いて唖然とする。

「私もそれ食べたいし、君もいくら丼食べたそうにしてたから、交換したら相互利益でしょー」

 どうやら僕が羨ましそうに見ていたのがバレていたらしい。

「疑ってごめん。じゃあ、ありがたくもらうよ」

 彼女の気遣いを無遠慮に受けることは憚られたけれど、イクラ丼の魅力には勝てなかった。
 僕は素直に彼女から丼を受け取って、僕もほっけ定食を渡す。そして思う存分頬張ろうとしたところで、僕は窮地に立たされる。僕が頼んだのはほっけ定食だから箸しかついてこなかった、つまり僕の匙がない。彼女が使っていたスプーンを使うのは、彼女にとって嫌なことかもしれない。でも僕がいわゆる関節キス程度で狼狽していれば彼女に冷やかされるのは明白だ。
 僕は迷う素振りを極力見せないように、彼女から受け取ったスプーンでイクラ丼を頬張った。彼女の方に目を向けると幸せそうにほっけを食べていた。
———なんだよ。一人で狼狽えていた僕が馬鹿みたいじゃないか。
 イクラ丼はそれこそ馬鹿みたいにおいしかった。


***


「それで、僕たちはどこに向かってるんだ??」

 朝食のような夕食を終えた僕たちは、市場からでて真っ直ぐ歩いていた。行き先を知らされていない僕は先頭を歩く彼女に尋ねた。

「有名な商店街だよ。お腹いっぱいで歩くのはつらいと思うけど、着いたら休憩できるから頑張ろ」
「あとどれくらいで着くんだ??」
「スマホには十分くらいって書いてあるよ」

 そんな会話をした約十分後に、本当に目的地にたどり着いた。商店街と言われれば狭い路地のような場所を想像していたけれど、実際は二車線の道路を挟んだ大きな商店街だった。歩道は僕たちと同じく観光が目的だと思われる人々が行き交っていて、歴史を感じる建物がどこかロマンチックな風情を漂わせている。

「初めて来たけど、私こういう雰囲気好きかも」
「へえ、それなら来てよかったんじゃないか」

 笑う彼女に僕は言った。

「なにその他人事みたいな発言、私だけじゃなくて君も楽しむんだよ!!」

 自分勝手にこの旅行を決めたくせに、僕も楽しまないといけないなんて理不尽だ。いや、そりゃあ折角来たんだから楽しむけれど。
 そうして僕たちは商店街の散策を始めた。来た方向から進路を変えずに進んで、途中にあった硝子館に入った。町並みよりも一層、店内はメルヘンな雰囲気で童話の世界の老舗のような雰囲気だった。

「この辺りは硝子が有名なんだってー。あ、見て見て、うさぎ!! かわいい!!」

 小動物の形の硝子細工を見て、彼女は小学生のようにテンションを上げている。

「ここにあるもの全部手作りなんだって〜、すごいよね。私こういうの好きだし、記念に一つ買っていこうかな」
「星空しかり、君はきらきら光るものならなんでも好きなのか??」
「そりゃあ好きだよ。逆に見ていて綺麗で癒やされるものを嫌いな人なんていないでしょ」

 彼女の言うことも一理あるけれど、それにしても君は少し単調すぎると思う。
 
「あ、いいこと思いついた。折角だしお揃いのやつ買おうよ」

 彼女はにっと笑って僕にそう持ちかけた。

「どーせ君は私に誘われない限りはもうここに旅行しにくることなんてないんだし、最後の機会だよ」
「それはそうかもだけど、僕はあんまり興味ないしな」
「そんなこと言わないでよー。あ、じゃあ私が奢ってあげるよ。それならいいでしょ」
「それはさすがに申し訳ないよ」
「気にしないでいいよ。君がついてきてくれたお礼ってことで」
「でも」
「あー、何も聞こえませーん」

 彼女はもう僕の話を聞こうとせずに、陳列された硝子細工を吟味し始めた。本当に勝手なやつだけど、もうその勝手さには随分慣れてしまった。
 僕が他の棚においてあった硝子細工を見ていると、いつの間にか彼女は買い物を終えて僕のもとにやってきた。「おまたせー」なんて言いながら小走りでやってくる彼女の手にはプレゼント品のように包装されたなにかが携えられていた。

「はい、これ君の」

 彼女はそのうちの一つを僕に手渡してきた。硝子なだけあって、思っていたよりも重量感があった。

「何を買ったの??」
「内緒。家に帰ったら開けてもいいよ」

 あどけなく彼女は笑う。

「ありがとう。大切にする」
「はーい」

 僕は素直にお礼を言って、それをリュックサックの中にしまった。誰かに何かを貰うのは久しぶりで、なぜか少しだけ緊張した。

 硝子館を出て、僕たちは商店街を道なりに歩いた。硝子館のすぐ隣にあったオルゴール堂に入って、綺羅びやかな雰囲気を満喫して、彼女がどうしても寄りたがった有名なかまぼこ屋さんでお土産を買って、立ち並ぶ海鮮の看板に目を伏せた。またもや有名な洋菓子店に寄って、「甘いものは別腹」とか言いながら彼女はスイーツを食べていた。一口だけ貰ったけれど、まあ確かにおいしかった。
 一時くらいまでこの商店街を満喫し、僕たちは少し外れた場所のベンチで休憩を取ることにした。僕が座ると、彼女は荷物を僕に預けてどこかに行ってしまった。気が狂ったのか?? なんて思っていると、数分後に彼女は意味分からないくらいに盛られたソフトクリームを持って帰ってきた。

「八段ソフトクリームだってさ!!」
「喜んでるところ申し訳ないけど、馬鹿なの??」
「馬鹿じゃないよー。君も食べる??」
「いやいい。というか君、さっきスイーツも食べてたのにまだ食べるのか」
「女の子は甘いものが好きなんだからしょうがないでしょ」

 彼女は手に持ったソフトクリームの重心を崩さないよように慎重に僕の隣に座った。

「そんなに食べたら太るぞ……」

 心の中で呟いたつもりだったのに、無意識に外に出てしまった。横の彼女を見れば案の定、目を細めて僕を睨んでいた。

「いや、その、悪気はないんだ。心配しただけで……」
「言い訳禁止。さすがに今のは優しい私でも許せないなぁ」

 女子にとっての地雷を踏んでしまったようで、彼女は不機嫌そうにそっぽを向いてソフトクリームを口に含んだ。
 僕が彼女にとった失礼な態度のことは許してくれたのに、デリカシーの不足という事柄については許してくれないらしい。男にとっての太ると女の子にとっての太るは、僕が思っている以上に重みの違いがあるようだ。

「いや、本当にごめん。それで、この後の予定はもう決まってるの??」

 一刻でも早く彼女の不機嫌を解除するため、僕は話題を逸らす。

「君さ、わざと旅行の話をして、私に言ったデリカシーのない発言を無かったことにしようとしてない??」

 仰る通りだ。どうやら簡単なことでは彼女の機嫌は直らないらしい。

「だからごめんって、本当」
「申し訳ないと思ってるなら、それを行動で示すべきだと私は思うな」
「それは、どういうこと??」
「たとえば私の言う事一つ聞いてくれるとか」

 彼女は何か企んでいる様子で、そんなことを言った。

「まあ、できることならいいけど」

 さっきの発言に関して、確かに僕の配慮が足りかなったことを自覚している。つまり僕にも非があるから、彼女のそんな理不尽な要求にも応えなければならない。

「何をすればいいんだ??」
「半分食べて」

 八段のうち四段あたり残ったソフトクリームを、彼女は僕に押し付けてきた。さっきから食べるペースが遅くなっていたのは、やはり彼女の胃袋も限界を迎えているということだろう。

「あのさ、食べきれないなら小さいやつにしろよ」
「違うの!! 私てっきり君も食べるんだと思ってたから……まさかいらないなんて言われるとは思ってなかった」

 彼女はあからさまに肩を落としている。そこまで責めるつもりはなかったのに。

「いや、いらないっていうのは金銭的な問題で、ただなら食べたかったし、もらえてラッキーだ」

 正直夕食で僕の胃袋は限界だったが、彼女を責めるのも釈然としないのでそういうことにしておいた。

「あはは!! 宮瀬くん、君って本当にちょろいなー!!」

 隣の彼女は失礼なことを言って笑っていた。


***


 彼女が食べきれなかった溶けかけのソフトクリームを僕がようやく完食したあと、僕たちは駅の方に戻った。彼女にこの旅行の全てを一任した僕は何も知らないが、彼女の中の予定では、今回の目的地に行く前に一度ホテルにチェックインするらしい。
 歩いて食べてを繰り返して疲れた僕からしたら、一度休憩できるのは喜ばしいことだった。

 彼女の後に続いて歩き続けていると、いかにもホテルらしい巨大な建造物に到着した。思っていたよりも大きいホテルで、宿泊料の値段も心配になった。
 僕たちは中に入って受付に向かう。渡された宿泊者名簿を書いて、きっちりとした佇まいのホテルマンから当館の説明を受ける。僕と彼女に部屋の鍵が一つずつ渡された後、手荷物を持ってエレベーターに向かった。
 僕たちの部屋は204号室で、二階の一室だった。
 部屋の扉を開けると、彼女の言っていた通りに二人という人数にしては少し大きい部屋が視界に広がった。

「うわぁ!! テンション上がる!!」

 クラシックな内装の室内は言いようのない気品がある。彼女はこういうのが好きなのか、室内を見渡して感嘆の声を上げている。
 僕はひとまず荷物を置いて、近くに置いてある椅子に座った。

「はぁ、歩いただけなのに疲れた」
「体力ないなー。それでも男の子??」
「言っておくけど、君が食べきれなかったアイスクリームのせいで体力が削られただけだから」
「絶対関係ないでしょそれ」

 彼女は二つある大きなベッドのうちの奥側の方に腰を下ろした。

「それじゃあ、君が気になってるであろうこの後の予定を発表したいと思いまーす」

 やっとか、と僕は嘆息をする。彼女は反対に楽しそうに笑っている。

「とりあえず五時まではここで休憩。五時になったら今回の旅行の大本命に向かいます」
「五時って遅くないか?? もう日が沈んでるぞ」
「大丈夫。むしろ日が沈んでからじゃないとだめ」

 日が沈んでからという発言から察するに、彼女の目的は夜景か何かだろう。ここらへんで夜景が有名なのは一つしか無いから、彼女の目当ての場所はなんとなく察しがついた。
 彼女は僕にサプライズ的な感覚で目的地を内緒にしている。だから僕が目的地をおおよそ察してしまったことは彼女には言わないでおいたほうがいい。
 僕は部屋の机の上に置かれた時計を見る。時刻はまだ二時過ぎだった。

「ってことは、あと三時間くらいは休めるのか」
「そういうことになるね〜。私は疲れたからシャワー浴びてから仮眠でも取ろうかなーって思ってる」
「なら僕も少し寝ようかな」
「そうしなよ。夜は君を寝かせないから今のうちに寝といたほうがいいよー!!」
「はいはい」
「うわー、私の扱いが雑になってきた」

 彼女はおもむろに立ってシャワー室に入っていった。静寂がやってきて、直後に彼女の鼻歌と飛び散る水の音が聞こえてきた。
 彼女の自由さと警戒心の無さには、もはや驚きを通り越して呆れるしか無い。
 机に頬杖をついて考え事をしているとすぐに睡魔に襲われた。特にすることもなかったから、僕はそれに意識を委ねた。僕は寝付きが悪いタイプで、慣れ親しんだ場所じゃないとろくに眠ることすらできないのに、どうしてか彼女といる空間は居心地がよく感じる。

 目が覚めて、まず最初に僕の五感が感じ取ったことは彼女の小さな寝息だった。座ったまま寝ていた僕は、静かに椅子から立つと、いつの間にか僕に掛けられていた薄い掛け布団がはらりと地面に落ちた。
 後ろを見ると、窓側にある寝台で彼女が心地よさそうに眠っていた。時計は四時を指していて、どうやら僕は二時間ほど眠っていたらしい。
 僕は彼女を起こさないように浴室に行ってシャワーを浴びた。日中にかいた汗が綺麗に流れ落ちたおかげで、体中にあった不快感は無くなった。
 着替えて浴室を出ると彼女はまだ眠っていた。僕は隣のベッドに腰掛けて、特に意味もなく彼女の方を見れば、僕は彼女から視線を外せなくなった。
 起きているときとは違う、安らかな彼女がそこにはいる。そんな彼女がどこか儚く見えて、視線が釘付けになった。

———君は、なんなんだ。

 行動原理も思考回路もよくわからない彼女に対して、僕は心の中で思った。
 すぐに考えるのをやめてベッドに体を倒すと、彼女は声を出しながら伸びをした。

「んー、君起きてたんだ」

 半分ほどしか開いていない目を僕に向けて、彼女は笑った。

「ごめん。起こしちゃったな」
「ううん。大丈夫。今何時??」
「まだ四時だよ。あと一時間くらい余裕あるから寝ててもいいよ、時間になったら僕が起こすから」

 僕が言うと、彼女はまたにっと笑って大丈夫、ありがとうと言った。

「ねえ、お話しようよ」
「話なんて、いつも飽きるほどしてるだろ」
「そりゃあそうだけど、暇だしさ」
「まあいいけど、僕は話題を振れないよ。そういうの得意じゃないし」

 いつもの僕なら即断っているはずなのに了承してしまった。布団をかけてくれた、そんな彼女の小さな優しさに触れて、僕は彼女に随分と甘くなってしまったようだ。

「君に見てほしいものがあるの」

 彼女はそう言うとベッドの横に置いてあった手荷物から、一冊の瀟洒なノートを取り出した。

「じゃーん。これなんだと思う??」
「ノート」
「そりゃそうだけど私が言ってるのはそういうことじゃなくてさー。まあいいや、正解は私の願い事リストでした!!」

 彼女は自信満々にそういった。ただ僕はいまいち意味がわからなかった。

「願い事リスト??」
「そ、簡単にいえば人生で一度は経験したいなーってことを纏めたノートだよ」
「へえ、律儀だな。わざわざノートに書いておくなんて」
「思いつきでやりたいって思うときもあるし、でもそういうのって大体すぐ忘れちゃうでしょ?? だから忘れないように書いておくの。ちなみに今日の旅行もこれに書いてあることだよ」
「食べ歩き旅行??」
「違うよ。クラスの男子と二人きりで旅行」

 僕が想像していた目的とは、どうやら根本的に趣旨が違かった。

「なんでそんなことがしたいんだよ」
「ほら、やっぱりどきどきするじゃない?? 異性って何を考えてるのかわからないし」

 それはこっちのセリフだ、なんて思ったけど、彼女からしても僕の考えていることがわからないのは驚きだった。けれどよく考えてみれば、僕が彼女の考えていることがわからないように、彼女も僕の考えていることがわからないのは当然だ。

「気になるな、それ見せてくれよ」

 僕が言って手を伸ばすと、彼女はノートを両腕で抱きしめて取れないようにした。

「だめ!! 恥ずかしいから中は見せないよ」
「じゃあなんで僕に見せたんだよ。それなら最初からノート自体を見せなければよかったのに」
「いやでも、今日の旅行に付き合ってくれた君には知る権利があるかなって思って」
「変なところで真面目だな君は」
「私はいつも真面目ですよー」

 彼女はそう言って大切そうにそのノートを鞄にしまった。

「まあでも、できるだけ叶うといいな。君の願い事が」

 僕は本心からそう言った。彼女は一瞬驚いたように目を見開いて、「なら君が叶えてよ」なんてぼそっと呟く。

「どういうこと??」
「あはは。なんでもないよー」

 彼女はどこか恥ずかしそうに笑った。

 予定時刻の五時になって、僕たちはホテルから出た。
 彼女についていくまま駅から出ているバスに乗って二十分、山の麓のロープウェイに着いた。僕たちの他にも観光客が複数人いて、その人たちと一緒に僕と彼女はロープウェイに乗った。

「目的地は山頂??」
「正解!! どうしても来てみたかったんだー」

 やはり僕の予想は合っていたらしい。彼女の目当てはこの山の山頂から見られる夜景(・・)だろう。
 ロープウェイはどんどん上がっていく。まだ山頂には程遠いけれど、途中から見える街も十分圧巻の景色だ。
 乗ってから数分で展望台に着いた。ロープウェイから降りて、僕は彼女に続いて歩く。

「君はどこか行きたい場所はある??」

 そう言って施設マップが映ったスマホを僕に見せてくる。山だから展望台で景色を見るだけだと思っていたのに、案外観光施設は多いらしい。

「とりあえずは君に任せる。僕はあんまり詳しくないし」
「ん、じゃあ予定通り私の行きたいところに付き合ってもらうね」

 言われた通り彼女に続いて歩いていくと色のない鳥居が見えてきた。そのすぐ横には看板が備え付けれられていて、神社と表記されている。

「こんな山の上に神社なんてあるのか」
「ねー。ほら見てパワースポットって書いてあるよ」

 神社の神妙な空気とは真逆に彼女ははしゃいでいる。神様がいる場所だとしても彼女はマイペースを崩すことはないらしい。

「失礼いたしまーす!!」

 律儀に礼をしてから彼女は鳥居をくぐった。彼女がやった手前僕がやらないわけにもいかないので、一応礼だけして僕も後に続く。
 短い参道を進むと、小さな拝殿があった。その手前に賽銭箱がぽつりと置かれている。

「私、神様は信じないタイプ」

 賽銭箱の前で彼女はそんな罰当たりなことを言った。

「いや、僕もそうだけど、絶対にここでする発言ではないだろ」

 苦笑いする僕に、彼女はおかしそうに笑っている。

「でもまあお賽銭はして行こっか」

 やりたかっただけだろう、なんて思ったけれど、たしかに直前の彼女の発言を許してもらうためにも神様への配慮は行った方がいい。
 財布から取り出した五円玉を投げ入れて、二例二拍手一礼をする。
 終わった直後に、彼女は隣の僕を凝視してきた。

「なんだよ」
「ねえ、私なにを願ったと思う??」
「さあ、夏休みが伸びて欲しいとか」
「違うよ!!私のことなんだと思ってるの!?君の人見知りが治りますように、だよ」
「はぁ、余計なお世話だ」

 境内から出て、僕たちは次にカフェに行った。昼にあれだけ食べたというのに、少し眠っただけでもうお腹が空いてしまっているのだから人間というのは不思議だ。
 僕はハンバーグを、彼女はラーメンを注文して食べた。言うまでもなくおいしかった。
 近くにあったお土産屋で少しだけ買い物をしていれば、日はすっかり沈んでいた。

「よーし、そろそろ行こー」

 彼女が張り切った声を出す。僕は彼女に続いて歩いた。

 着いたのは桜の木がある展望台で、僕と彼女以外に人の姿は見受けられなかった。

「うわぁ、綺麗だね」

 早速彼女は感嘆の声を上げている。僕も一歩前に出て、燦然と輝く街を見下ろした。
 展望台から見る夜の街は何もかもが輝いて見えた。

「さすが夜景で有名なだけあるな」
「夜景もそうだけど、見てよあれ」

 彼女に指をさされた方を見る。街の奥にある海の水平線、そのさらに上空に浮かぶ星だった。
 僕ははっとして真上を見た。限りなく空に近いこの場所から、満点の星空が僕の視界に映った。

「ね。綺麗でしょ??」

 やられたと思った。僕は彼女が夜景目的で来たのだと思っていた。でも実際はそれに加えて、空に近い場所から星空を見ることが目的だったんだ。
 彼女が好きな、僕も好きな星空を。

「ほら見て、ベガもデネブもアルタイルも、すぐそこにあるよ」

 彼女がなぞった夏の大三角形に、手を伸ばせば届いてしまいそうな気がする。

「それじゃあ折角なので、君に新しい星を教えてあげよう」

 彼女は言って今度は北の空に指さした。場所が違っても彼女の星空講座は開かれているらしい。

「あそこに七つに連なってる星があるでしょ。あれが有名な北斗七星、って言っても難しいよね……」
「いや、わかるよ。あの沿った杖みたいな形をしてるやつだろ??」
「沿った杖って、まあ確かに言われてみればそんな形だけどさ」

 彼女は笑って話を続ける。

「その北斗七星の先端の斜め左下の方に、一段と光ってる一番星、あれが北極星」

 彼女の動く指に沿って視線を動かせば簡単に見つけることができた。僕の認識している星が彼女が言っているものと合っているのはわからないけれど、聞いたことのある星を実際に見つけるのは以外に楽しかった。

「そして、北斗七星の反対の先端、だから杖の下の部分から右斜下にある、すっごく光ってる星がアークトゥルスだよ」

 彼女の語彙力の無い説明なのに、僕は容易に彼女の提示する星を見つけることができた。空に近いこの場所のおかげなのか、それとも僕が星を見つけることに興味を見出してしまったせいだろうか。

「それで———」

 僕は一度空を見上げるのをやめて、熱弁する彼女を見た。好きなものについて嬉しそうに話す一人の少女がそこにはいた。
 彼女に対しても、今この瞬間に対しても不思議な感情が湧いた。久しぶりの感覚に胸の中がむず痒くなった。

「ねえ君、聞いてる??」
「あ、うん、もちろん」
「絶対嘘じゃん!!」

 星空を見ていないことがばれて、僕は彼女に問い詰められる。
 
「本当だって。夏の大三角があれ、そしてその右上にあるのが北極星と北斗七星、北斗七星の右下らへんにあるのがアークトゥルスとスピカだろ」

 僕はたった今彼女が説明してくれた星を順に指を指した。

「わ、本当にちゃんと聞いててくれたんだ」
「だから言ってるだろ」

 彼女は嬉しそうに驚いていた。僕が話を聞き流しているとでも思っていたんだろうか。

「いつか君に、私の知ってる星のこと全部教えられたらいいな」

 彼女が不意にそんなことを呟いた。

「このペースなら一年もしないうちに覚えられそうだけど」
「確かにこのペースならそうかも」

 彼女はまた無邪気に笑う。

「それじゃあ続きいくよー」
「君は一度話しだしたら止まらないから、ほどほどに頼む」

 星の話をする彼女に対する不思議な感覚は増していくばかりだった。

 ロープウェイで降りていく最中も、僕たちは夜景に釘付けだった。もう暫く来ることはないだろうから、夜景も星空もできる限り目に焼き付けておいた。
 ホテルに戻る頃には時刻は十時近くになっていた。知らない場所で歩き回ったせいか、普段よりも疲労は溜まっている感じがする。

「私、温泉行ってくる!!」

 まだまだ余力のありそうな彼女は、そう行ってホテルの一階にある大浴場に行った。 
 僕がベッドの上でスマホをいじっていれば、彼女は一時間くらい経った頃に帰ってきた。
 髪もすでに乾かしてきたらしい彼女はそのままベッドに倒れるようにして寝転がった。

「はーすっきりしたぁ」
「一日に二回も入る必要なんてあるか??」
「せっかく来たのに入らなかったらもったいないじゃん。それに女の子は清潔さが大事なんですー」

 別に風呂に入った回数で清潔さが決まるわけでもないだろうに。

「君はもう寝る??」
「もう少ししたら」
「じゃあ私もー」

 彼女はそういってスマホを触りだした。横のベッドに彼女がいるということが妙に落ち着かない。

「あ、そういえば私ね。明後日からまた旅行なんだー」

 思いだしたように彼女は言った。

「クラスのみんなと行くの。あ、君の友達の城田くんも居るよ」
「へえ、楽しんできなよ」

 だからなんだ。僕には関係ない。そうやって割り切れたら良かったのだけれど、本当に少しだけ嫌な気分になった。馬鹿みたいだけど。

「それよりこのベッド、ずらせないかな。近すぎて落ち着かないんだけど」

 彼女の使うベッドとの距離は殆ど無い。これじゃあ、ほとんどダブルベッドと言っても変わらない。
 一度ベッドから降りてずらせるかどうか試してみた。けれどびくともしなかった。

「残念でした。一日くらい我慢しなよ」

 他人事のように彼女は言って、再びスマホを触りだす。
 気分も空間もいろいろな事を含めて、今日はあまり眠ることができないことを覚悟した。彼女は腹立たしいことにぐっすりと眠っていた。

 次の日は朝から水族館に行った。初めて見るイルカショーはど迫力で、彼女も相当興奮していた。
 水族館から出たあとは駅の近場を巡った。お土産屋を中心に巡り、道中で見つけたよさげな飲食店で昼食を取った。
 二人の寝坊でホテルのチェックアウトが昼頃になってしまったせいで、気がつけば帰りの時刻が迫ってきていた。
 最後にもう一度お土産屋に寄って彼女の買い物に付き合って、それから帰りの電車にのった。彼女はずっと名残惜しそうにしていたけれど、それはこの旅行が楽しかったということだから、僕はよかったと思う。
 電車に揺られている間、僕も彼女も眠っていた。旅の余韻が眠気を誘発したんだろう。

 電車から降りると見慣れた景色が視界に広がった。向こうでは全てが初めて見るものだったから、この見慣れた景色がいつもより美しく感じる。 

「いやあ、楽しかったぁ~!!!!」

 改札を抜けて駅を出ると、彼女は満足げに伸びをしながらそう言った。

「君はどうだった??」
「楽しかったよ。反強制的だったけど行ってよかった」

 これはお世辞じゃなくて本心だった。正直、旅行なんてものには興味が無かったけれど、いざ実際に行ってみれば自分でも驚くほどに楽しかった。

「それはよかった。じゃあまた今度いこうね」
「それはまあ、考えとくよ。それじゃあまた。クラスメイトとの旅行も楽しんできなよ」

 そう言って別れようとすると、唐突に彼女に腕を掴まれた。

「……あのさ、今からうちに来ない??」
「は??」

 あまりに突飛な提案に思わず声が出た。

「遊びにとかじゃなくて、お母さんが夜勤のお父さんの分までご飯を作っちゃったらしくてさ、余すのはもったいないし、よかったら食べに来ないかなーって」

 彼女は続けて、君確か一人暮らしだしこれから夕食を自分で作るのも大変でしょ、なんて建前のようなものを付け足した。

「迷惑だろ。僕なんかが行って」
「そんなことないよ!! いつでも連れてきなさいってお母さんには言われてるし」
「なにそれ、僕のことを家庭で話してるってこと??」

 言うと彼女は苦笑いしながら視線をずらした。完全に図星だ。

「それは今は関係無いでしょー。いいから来てよ、お願い」

 彼女は手を合わせて僕に懇願する。こうまでされると断りづらい。

「……わかった。行くから腕を引っ張るな」

 嘆息しつつ答えると、彼女はわかりやすく歓喜の表情を浮かべた。

「言っておくけど今日だけだぞ」
「やった!! やっぱり君は優しいねー」
「僕も自分で思うよ。さすがに君を甘やかしすぎてる気がしてる」

 少し前の、彼女と出会う前の僕ならば、こんな提案はすぐに却下してた筈だ。けれどどうしてか今は誰かと関わることに嫌悪感を感じない。この旅行の余韻が僕に若干の余裕を与えているのか、それともやっぱり夏の暑さが僕の頭をおかしくさせたのかはわからないけれど。

 彼女とくだらない話をしていたら、あっという間に彼女の家についてしまった。彼女の家は駅から十数分くらいで着いた。

「じゃーん、ここが私の住んでるところだよー」

 彼女は両手を広げて見せつけるように紹介してくる。感想としては普通の一軒家だ。

「もう一度先に言っておくけど、僕は人付き合いが苦手だから君の家族に良い印象を与えることはできないと思う」
「大丈夫だって、私の家族はそんなこと気にしないから。それに今はお母さんしかいないから緊張しなくていいよ」

 彼女はそういうけれど流石に緊張はする。幼い頃を除けば女子の部屋に入るなんて人生で初めてに近いのだから。

「ただいまー!!」

 僕の胸中などいざしらず、彼女はマイペースで自宅の玄関のドアを開けた。僕は彼女に続いておじゃましますと言ってから中に入った。

「あら、おかえりなさい。旅行は楽しかった??」

 居間に入るなり彼女の母が出迎えてくれた。

「最高だったよー!!!!」

 彼女はピースサインをして答える。

「初めまして宮瀬悠と申します。今日は突然押しかけてしまってすみません」

 彼女の前でいつもと違う自分を見せるのは癪だったけれど、最低限のマナーとして僕は挨拶をする。

「あなたが悠くんね。いいのよ気にしないで。呼んだのは私だし、いつも月理と仲良くしてもらってるお返しみたいなものよ」
「お返し、ですか」

 彼女の母は見るからに優しそうな人だった。話をしてもそんな印象は覆ることはなく、むしろより確定的なものになった。

「ええ。それじゃあ夕食ができるまでは二人で好きなことしてていいからね」

 そう言って彼女の母はキッチンに戻っていった。
 僕はそこで彼女に騙されたことを理解した。彼女はお母さんが夜勤のお父さんの分までご飯を作ってしまったから食べに来ないかと僕に言ったけれど、実際はまだ夕食なんて完成していなかった。つまりそれは僕をここに招待するための真っ赤な嘘というわけだ。
 僕はすぐとなりに立つ彼女を見る。彼女申し訳無さそうに手を合わせていた。

「ごめんなさい。許して〜」
「いや、まだ何も言ってないんだけど」
「騙したかったわけじゃないの。ちゃんとした理由がないと君は来てくれないかなと思って……」

 僕は頭を抱える。彼女の言う通り、僕が理由もなしに人様の家にあがるということは絶対にない。

「いいよもう。ここまで来たら帰るわけにも行かないし。それで、僕はどうすればいいんだ」
「ほんとにありがと!! このあとはまあ、好きなことしててって言われたし、とりあえず私の部屋でくつろいでよっか」

 僕は彼女に促されて二階にある彼女の部屋に向かう。
 彼女の部屋は僕が思っていたよりもずっと彼女らしくない内装だった。ベッドやカーペットは白で統一されていて、全体的に清楚なイメージ、わかりやすく言えば女の子らしい部屋だった。

「思ってたより綺麗だな」
「うわ、なにそれひどい。私の部屋が汚いと思ってたの??」
「そんなことはないけど、まあ多少は散らかってるとは思ってた」
「それで、感想は??」

 彼女はなにかを期待するような眼差しで僕を見つめてくる。

「いい部屋だと思うよ」
「なんか雑な褒め方だなぁ」

 彼女は目を細めて今度は不服そうにしている。我ながら褒め方が下手だなとも思ったけれど、そもそもそういうのは苦手なのだ。
 僕たちはひとまずカーペットの上に腰かける。

「それじゃあなにしよっか」

 彼女に尋ねられて僕は考えるけれど、二人でできる暇つぶしなんて思いつかなかった。

「スマホでもいじってればいいんじゃないか」
「えぇー、折角二人きりなのに意味ないじゃん。二人じゃないとできないことしようよ〜」
「なんだよ二人じゃないとできないことって」
「んーなんだろ。いちゃいちゃしちゃったり??」
「はあ、しょうもないな。帰ろうかな」
「冗談に決まってるでしょー。じゃあほら映画見よう」

 彼女はおもむろにテレビを点けると動画視聴アプリを開いた。

「夕食ができるまでって、長くてもあと数十分くらいだろ?? 映画だと途中で終わっちゃうぞ」
「いいのいいの。見れなかった分はほら、また君がここに来て見ればいいじゃん」

 僕の意見など聞く耳も持たず、彼女はよくわからないホラー映画をかけてしまった。

「気になってたやつ!! 一人で見るのは怖くてさ〜」

 僕が文句を言う前に、冒頭のムービーが流れてしまった。彼女はもうすでに見入っているらしく、諦めて僕はその映画を鑑賞することにした。
 それから十五分くらい経って一階から彼女の母が僕たちを呼んだ。どうやら夕食ができあがったらしい。一階に降りると食卓には三人分の夕食が用意してあった。しかも見たことがないくらいに豪華な食卓で、僕はそれを見て思わず唖然とする。

「まさか、君の食事はいつもこんなに豪華なのか??」
「あはは。流石にそんなわけないでしょ。これは私も初めて見たよ」
「ふふ。こっちに引っ越してから月理が友達を連れてきたのは初めてだから奮発しちゃった」

 彼女のお母さんは微笑んで僕と彼女を席に促す。改めて見ても豪華過ぎる。下手したら誕生日よりも贅沢な品揃えなんじゃないか。

「それじゃあ二人共、好きなだけ食べてね」
「いただきまーす」
「すみません。いただきます」

 僕と彼女は食事を始める。自分以外の誰かの作った料理なんて久しぶりだ。
 豪華な食事はどこから手を付ければいいのかわからなくなるほどで、僕はとりあえず彼女に倣ってコロッケを口に入れた。思わず声が出てしまいそうなくらいにおいしくて、隣に座る彼女がそんな僕を見てなにやら楽しそうにしていた。
 
「どう?? 私のお母さんの料理は」
「おいしいよ。ここ二年間くらいで一番おいしい」
「聞いといて何だけどいいすぎじゃない?? お世辞も行き過ぎたら失礼だよ」
「本気だよ。もうずっと誰かの手作り料理なんて食べてなかったし」

 一度手をつけてしまえばそこからはもう止まらなかった。今までの分もこれからの分も噛みしめるように僕は彼女の母が作ってくれた料理を食べた。

———楽しいな。

 ふと、なにか不思議な感覚が自分の中に芽生えたことに気がついた。ずっと忘れていた感覚、そうだ。僕は今が楽しいと感じている。いや、きっとこの気持ちを感じたのは今だけじゃない。彼女と星を見ることも、旅行に行ったことも、ずっと僕は楽しかった。
 認めたくはないけれど、きっと彼女が僕にそれを思い出させてくれた。
 久しぶりに実感した幸せは言葉にできないほど心地よかった。世界の色がもう一段階明るくなったような気がした。

「あのさ———」

 僕が話を始めようとした時、唐突に居間の扉がバタンと開いた。反射的にその方向を向けば、隣の彼女によく似た少女が開いたドアの前に立っていた。

「あ、おかえり美優」
「うん。ただいま〜」

 隣の彼女がその少女に話しかける。少女はそれに返答して僕を一瞥した後、すぐ二階に上がっていった。

「そういえば言ってなかったっけ。私妹がいてさ、あの子が妹の美優。人見知りだから無愛想でごめんね」

 彼女の一言で心臓が跳ねた。異常なほど心臓が脈を打っているのがいやに冷静に分かった。彼女が僕の日常に入り込んでから当たり前のことを忘れていた。それを彼女の言葉で思い出した。

———僕にも妹が、あかりがいたじゃないか。

 体中から冷や汗が流れて、体の中から得体のしれない感情が吐瀉物とともに込み上げてくるのがわかった。

「ねえ君、大丈夫??」
「っ!!」

 彼女の言葉に返答する余裕なんかなくて、僕は席を立って走った。閉まった扉を乱暴に開けて、靴を無理やり足に押し込んで外に出た。

「ねえ!! 宮瀬くん!! どうしたの!?」

 最低な僕は背中から聞こえる彼女の声も全て無視してひたすら走った。何も考えたくなくて、どこかに逃げてしまいたかった。あまりにも最低な自分がおかしくて、思わず笑ってしまいそうだった。
 今になって、人と関わることが嫌いな僕がどうして彼女と接してきたのかが本当の意味で理解できた。 
 無意識に贖罪をしているつもりだったんだ。あかりに似ていた彼女と接することで、僕が過去にしてきたことを許されたつもりになっていた。ただの現実逃避を正当化していた。
 それに気がついてあかりに申し訳なくなったと同時に、今度は彼女に申し訳なくなった。彼女はどんな理由で僕と接してきたのだろうか。きっと彼女はただ純粋に僕と接してきたはずだ。純粋に僕と仲良くなろうとしてくれていたはずだ。けれど僕は彼女の一切を見ていなかった。彼女とともにいれば妹にしたことを許されるだなんて自分のことしか考えずに、彼女を騙して利用してきただけだ。

 知らない道をひたすらに突き進んで、人気のない公園についた。公衆トイレの中で、自分の情けなさに、あかりと彼女への罪悪感に食べたものを全て吐いた。胃の中が空っぽになっても、胸の中の虚しさだけはどうしても無くなってくれなかった。

 なんとか家に着いて、旅行中に彼女から貰ったプレゼントを開けてみた。包みの中には星空と海がモチーフの水晶型のナイトライトが入っていた。星空が好きな彼女は僕のためにこれを選んでくれたんだろうか。彼女のことを考えて、一層僕の中の罪悪感は膨れ上がった。
 不意に頭に浮かんだ別れ際の彼女の悲しそうな顔が暫く頭から離れなかった。