彼女、山崎月理がこの学校に転校してきてから一週間が経った。
 夏休みまでの登校日数は残り一週間を切って、僕以外の生徒たちは夏休みを待ち遠しく感じているようだった。
 彼女は持ち前の天真爛漫さであっという間にクラスに馴染み、今ではクラスの中心人物といってもいいくらいの存在感でクラスの中では目立っていた。僕なんかよりも圧倒的に多くの友人に囲まれ、今も仲良くなった友人らと教室の真ん中で談笑している。
 日中の活発で明朗な彼女。夜の寂寥を纏った儚い雰囲気の彼女。このどちらも彼女が意識して繕ったものではないんだろう。きっと僕が勝手に認識しているだけで、彼女が無意識の内に出している風情なんだろう。けれど、ならなぜ夜の彼女はあんなにも弱々しく見えるんだろうか。
 そんなことを思いながら彼女の方を見ていると、急に彼女は僕に目配せをしてきた。僕は急いで視線を逸らす。僕と彼女が歪な関係を築いていることを、他のクラスメイトに知られるわけにはいかない。面倒なことになるのがわかりきっているからだ。
 ・学校では普通の距離感で接すること
 ・二人きりの時は素で話すこと
 ・暇な日の夜はいつもの河川敷で星を一緒に見ること
 彼女にそんな提案を持ちかけられ、それを了承してから僕と彼女はほぼ毎日河川敷で会って話をしている。
 特別なことはなにもなく、ただ寝転がって彼女の星に関する話を訊きながら夜空を眺めるだけだ。彼女は本当に星が好きなようで、それらに関する話が尽きる気配は未だ無い。
 彼女は学校では積極的には僕に関わらないという約束を守ってくれている。そこに対しては不満はないけれど、彼女に押し切られる形で始めたそんな歪な関係が、今では無くてはならないようなものとして認識しつつあることが絶妙に気に食わなかった。
 
 いつも通り一人で昼食を食べ終えた後、することもなかったのでスマホを眺めていると、彼女からメッセージが送られてきた。それは何を伝えたいのかすらもわからない意味の分からないスタンプで、僕はそれに『なに??』とだけ返した。

『ひまー』
『嘘つけ。さっき神谷たちと購買にいくところ見たぞ』
『うわあ。そんなところまでみてたの?? 君は本当に私のことが好きなんだね』
『要件はそれだけか?? 用がないなら電源消すけど』
『わー!! 待って待って!! 訊きたいことがあったの!!』

 このメッセージだけで彼女が慌てているのがなぜか分かる。それから二分ほど開けて彼女から返信が合った。

『今日の夜も来るよね??』

 彼女が訊きたいことなんて言うから、どんなことだと身構えていれば、訊くまでもないわかりきったことだった。

『当たり前だろ。そういう約束したんだから』

 こんなことを訊く彼女の思惑ははっきりしないけれど、僕はなんのひねりもない返信を送った。するとすぐに歓喜を表現しているんだろうスタンプが送られてきた。
 わざわざ連絡することでもないだろ、なんて不思議に思っていると後ろの席の城田が訝し気に僕を見ていたことに気がついた。

「誰と話してたんだ?? やっぱ山崎さんか」
「まだ言ってるのかよ。だから違うって。そもそも誰かと連絡してたわけじゃない」
「ふーん」

 城田は興味なさそうに言う。

「興味ないなら聞くなよ」
「そういうわけじゃない。ただ珍しくお前が楽しそうな顔してたから聞いただけだ」

 城田のその言葉に僕は耳を疑った。

「楽しそう?? 僕が??」
「ああ。なんだよ無意識かよ」

 僕は彼女とメッセージを送り合うだけのことに喜びを感じていたのか。いや、そんなはずない。きっと城田の見間違いだ。僕はそんな些細なことに喜ぶ理由なんてないし、喜ぶ権利なんてない。だからきっとそれは彼の見間違いだ。


***
 

 その日の夜も僕はいつも通りに河川敷で彼女と集合した。
 いつもは僕が先について彼女を待っているけれど、今日は彼女の方が先に僕のことを待っていた。

「もう来てたのか、今日は早いな」
「今日は誰とも遊ぶ予定無かったから、学校終わってから暇だったの」

 僕は堤防を下りて彼女の横、間隔一メートルほどあけて座った。彼女と初めて出会ってからもう一週間。初めのうちの二人きりの時間に感じていた緊張は今ではほとんど無くなった。

「今日の昼のことだけど、別にあれくらい連絡するようなことじゃなくないか??」

 僕は今日の昼に突如として彼女から送られてきたメッセージについて指摘する。

「もしかして、迷惑だった??」
「いや、迷惑とかは思ってないけど、単に気になっただけ」
「だって、せっかく連絡先交換したのに、なにも話さないってのはもったいないじゃない」

 僕の指摘に対して、言い訳でもするように彼女は言った。

「それに、君がここに来る確証なんてないでしょ?? 私が一方的に提案したわけだし、聞いておいたほうが確実かなって思って……」
「僕は約束は守るよ。君がここに来る日は僕も必ずここに来る。これからもそれは約束する」

 僕が言うと彼女はどこか不満げな表情で目を細めていた。最適解を述べたつもりでいたのに、と僕は頭を抱えた。

「そういえば、君って城田くんとは普通に話してるみたいだけど、彼とは友達??」

 思い出したように彼女は僕に質問してくる。思いがけずに出された名前に、僕は少しだけ顔を顰めた。

「いや、友達っていうか、あいつとは中学から一緒だったから成り行きで話してる。腐れ縁的なやつ」
「なにそれ。友達ってことじゃないの??」
「友達ってのはお互いにそう思って初めてそうなるだろ。あいつはきっと僕のこと嫌いだよ」

 中学校が同じだった城田だけは、僕の過去の出来事を知っている。城田はいつも気だるそうな態度だから誤解されやすいけれど、あいつは優しい奴だ。人の心の機微に敏感で、困っている人がいればその人のことを想って行動する。いわゆる善人気質というやつで、理不尽なことが嫌いなんだ。だから僕が理不尽なことに振り回されていて、それでも前に進むことができずにいることに憤りを感じているんだ。

「でも、あいつはってことは、君は彼のことが好きなんだね」

 どうしてか、少し嬉しそうに笑みを浮かべながら隣の彼女はそんなことを言った。

「好きっていうか、別になんとも思ってないよ」
「照れなくてもいいのに。友愛も恋愛も敬愛も関係なく、人を好きになることって素敵なことだと私は思う」
「......僕はそういうことをなんの抵抗もなく言える君がすごいと思うよ」
「あはは。ちょっとカッコつけすぎたかな??」
 
 恥ずかしさを誤魔化すように彼女は笑う。
 理由は分からないけれど、彼女のその言葉にはなぜか説得力があった。

「君はそう思わない??」
「……まあ、そうだな。そう思うよ」

 僕はいつも城田に言うみたいに、そうやって中身のない表面だけの返答を返した。けれど心の中では彼女のその意見を完全に認めてはいなかった。人を好きになるということは人を信じるということだ。彼女の言う、人を好きになるということは確かに素晴らしいことなのかもしれない。でももし、その人に裏切られたとき、その人を信用した分だけの悲しみが返ってくる。僕はそれがどうしても怖い。それならば最初から他人で居たほうが楽だという考えに至ってしまう。

「それはそうと、もうそろそろ夏休みだね、君は何か予定とかあるの??」

 唐突に彼女に尋ねられて、僕は初めて夏休みまで一週間が切っていることを思い出した。
 今更だけど、山崎さんはなんという時期に転校してきたんだ。

「ろくに友達もいないのに、あると思うか??」
「あはは。でもほら、家族と旅行とかさ」

 自虐を込めて言うと、彼女は僕をフォローするように言った。

「それもないよ。言ってなかったけど僕は一人暮らしなんだ」
「へ~意外。君って家事とかできたんだ」
「あんまり舐めないでくれる?? 君よりも何倍もおいしいご飯を作れる自信があるよ」

 一昨年の夏から僕は一人暮らしをしている。だから生活に必要な必要最低限の身の回りのこと、自炊や洗濯は人一倍できる自信がある。

「じゃあ帰省とかは??」
「......いろいろあって家族とは暫く会ってない。多分、今年も会えないんじゃないかな」

 彼女はそんな僕の曖昧な答えに、不思議そうに僕を見つめるだけだった。深く聞いてこないのは多分、彼女なりの気遣いだ。

「……はっ!! 私はすごいことに気が付いてしまったよ」

 沈んだ空気を晴らすように、彼女は突然言った。

「なんだよ、どうせまたしょうもないことだろ」
「君が一人暮らしをしてるってことは、いつでも君の家に行き放題ってことだよね!?」

 ほら、やっぱりしょうもないことだった。予想が見事に的中したことに僕は苦笑してため息をつく。

「残念ながら君は出禁だ」
「ひどい!! 私まだ何もしてないのに!!」
「普通に考えて女子を家に入れるわけないだろ。いや、男でも嫌だけど」
「君は本当にけちだなぁ」

 そもそも人と関わりたくないと言っているのに、完全なプライベートな場所である家に人を入れるわけがない。まあ彼女のことだからそれを理解しての冗談だろうけど。

「でもそっか、予定ないんだ」

 彼女は意味深に呟いて、そのあと僕にこう言った。

「じゃあさ、夏休みは私と一緒にどこか行かない??」
「はは、何言って———」

 最初はまた冗談だと思った。けれどその言葉が冗談じゃないことは、真摯に僕を見つめる彼女の瞳が示していた。
 僕は返答に迷う。いつもの自分ならば即答で断っているのに、どうしてか彼女のその提案を謝絶することが出来なかった。そうしたらなにか大事なものをなくしてしまうような気がした。

「どこかって、どういうこと??」
「お出かけしようってこと」
「そんなの僕じゃなくて、クラスのやつらと行ってくればいいだろ」
「君のそのクラスの人たちが誰のことを言ってるのかはわからないけれど、私は君を誘ってるの。クラスの人たちじゃなくて」

 嫌な予感を感じて逃げようとする僕を、彼女は逃してはくれない。
 どうして僕なんだ?? なんのために?? 疑問はたくさんあった、けどそんなことを聞く余裕は無くて、僕は逃げるように視線を落とした。

「まあ、考えとくよ」
「だめ。今決めて。もし断るなら、私はもうここに来ないし、君とも関わらない」

 僕はこの時初めて、負の感情が籠もった彼女の言葉を聞いた。だから斜面に落とした視線を思わず彼女の方に向けてしまった。

「は?? 何言ってるんだ。なんでそんな、急に……」

 彼女の考えていることがなにもわからなかった。視界に入った彼女の表情は見たことがないくらい真剣で、僕はただ言葉を失ってしまった。
 冗談なんかじゃなくて彼女は本気で言っている。
 僕は冷静になって考える。彼女の提案を断ってしまえば、僕はもう彼女と無理にかかわる必要もなくなるし、僕にとってメリットしかない。彼女との夜を失い、また一人の夜にもどるだけだ。それでもいいはずなのに、答えを渋っている自分がどこかにいる。
 もう一度彼女の方を見れば、彼女の双眸からはわずかな焦燥が見えた。彼女は一体何に焦っているんだろう。けれどそんなことはどれだけ考えてもわからない。

「……わかった。君の言う通りにするよ」

 散々心の中で迷った挙句、僕はそんな答えを出した。人と関わりたくないなんて言い訳を呈しておきながら、情けないことに彼女との夜に特別な感情を抱いている自分がいた。それを失いたくないという自分が確かに存在していた。

「ん、よろしい!!」

 彼女は僕の答えに満足げに笑って、体をぱたんと後ろに倒した。
 さっきの張りつめた雰囲気は糸が切れたように無くなって、今はただ夜の静寂が作り出す心地よい雰囲気が漂っている。

「いやぁ、人を脅すのって意外と疲れるんだね」

 あはは、と彼女はまた笑う。

「さすがの君もびっくりした?? 君との関係を終わらせるなんて冗談だよ。そんなもったいないことしないよ」

 彼女はそう言うけれど、さっきの彼女が本気だったことは分かっていた。僕が今彼女の提案を断っていたら、きっと僕はもう彼女と関わることはなかった。彼女がそうまででもして、僕との予定を取り付けた理由は定かではないけれど。

「いやあ、それにしてもよかったよ。君が私の提案を断ってたら、夏休みが楽しみじゃなくなるところだった」
「……それは大げさだろ。僕との約束があったくらいで君の夏休みは彩られるわけじゃないだろ」
「大げさじゃないよ。私、東京も含めたら友達なんてたくさんいるけど、本音で話せるのは君しかいないもん」
「僕はおだてられて伸びるタイプじゃないよ。まだ君と出会って二週間も経ってないのに、僕たちがそんなに親密なわけないだろ」

 僕目線でも当然、彼女からしてもまだ会ってから日が浅い僕のことを信頼なんてしているはずがない。本音で話せるなんて本気で言ってるならお人好しが過ぎる。

「わかってないなぁ。信頼とか友愛っていうのは時間で育むものじゃないよ。そりゃあ相互の信頼は時間が必要だろうけど、一方的なものなんて自分が相手をどう思っているかで十分でしょ」
「なら君はこのたった数日で僕を信頼できる人間だと見定めたってことか?? それなら君は———」
「違う違う。自分がどう思っているかってのは信頼できると見定めたってことじゃなくて、最悪の場合はこの人に裏切られても仕方ないか、って思えるかどうかってこと」

 彼女は僕の話を遮って堂々とそんなことを言った。

「ますます意味がわからない。君は僕に裏切られてもいいのか??」
「よくはないよ!! ただ許せるってだけ。 例えるならそうだなぁ。当たって砕けろの告白みたいな?? ……あはは、ごめんちょっとわかりづらいかも」
「ちょっとどころじゃないよ」

 突飛な発言を自信満々にする彼女に僕は頭を抱える。

「しつこいようだけど、ならどうして裏切られても許せるんだよ」

 彼女はなんだそんなこと、とでも言うように瞼を上下させた。

「それはね。君が私と同じで星が好きだからだよ」
「星が??」
「うん。私はね、星が好きで夜によく見に来る人なんて初めて会った。自分が好きなものを好きな人ってだけで大抵のことは許せちゃう!! だからもし君に裏切られても、君は私が好きな星を好きでいてくれたから許してあげよう、みたいになるってこと」

 僕はそんな彼女の意味不明な発言に、思わず苦笑してしまった。いや、苦笑と言うよりかは奇怪なことに可笑しくて笑ってしまったという方が適切だ。

「君が異常なくらいお人好しだってことと、常人とはズレた感覚を持ってるってことはわかった」
「うわぁ、それ馬鹿にしてる?? それより今日は話してばかりで星を見てないから、今日はおしゃべりはこのくらいでおわり」

 彼女は勝手に話を中断して僕の腕を掴むと、勢いでそのまま体を倒した。僕は強制的に体を倒され、強制的に夜空を見上げさせられる。
 意図せず視界に入った夜空には、相変わらず満点の星が瞬いていた。

「それじゃあ今日は、どの星について話そうかな!!!!」

 横にいる彼女を見れば、これも相変わらず子供のような無邪気な笑顔で星を眺めていた。さっきまで浮かべていた焦りの感情と真剣さは、本当にあったのかと思うほど綺麗に無くなっていた。

「な、なに?? どうかした??」

 僕の視線に気づいた彼女は照れくさそうに顔を手で隠して、体を僕と反対の方に向けた。
 そんな彼女と秀麗な夜空を見て、夏休みのことも話を途中で中断することも、随分と自分勝手な彼女になにか言ってやろうかと思ったけれどその気はすっかりなくなってしまう。

「こっち見るの禁止!! 星見て星!!」

 言われて僕は空に視線を向ける。すぐに彼女は切り替えて僕の知らない星の話を始めた。

「ねえ君は知ってる?? 空には恒星、惑星、衛星の三つの星があるの、それで————」

 寝転がって空を眺めたまま、彼女の声に耳を傾ける。ただでさえ秀麗な夜空が彼女の透き通った声で更に彩られる。
 二人なら寂しさも夜の闇に対する恐怖も無い。寂寥を纏った星空は一人の時とは反対に賑やかさを纏って輝き出す。一人では決して見られない同じく違った夜の景色。
 何にも代えがたいこの時間が、僕にはとても心地よく感じた。


***

 
 その翌日から彼女は三日間学校に来なかった。
 いつもならほんの些細な出来事にすらメッセージをよこしてきたのに、この三日間は一切の連絡も来ていない。
 最後に会った夜の彼女はどこか様子がおかしくて、いやな推測が頭の中に過ぎる。
 さすがに心配で、でもこっちから連絡を送ることはしたくなかった。理由はなんてことない僕のくだらないプライドのせいだ。

 彼女と連絡が取れなくなってから三日、僕は夜に星を見ていない。というか河川敷に行くこともなく家で暇を弄んでいる。彼女と夜を過ごすようになってから、一人で星を見ることに違和感を感じるようになってしまったからだ。
 
 元々彼女と仲の良かったクラスメイトたちも彼女が学校休んでいる理由を知らないようで、困惑している様子だった。担任からされる説明は体調不良の一点張りで、明らかに足りない説明に彼女に対する心配は増していくばかりだった。

 結局、彼女は夏休みの前日になっても学校に来ることはく、その日の夜になってようやく僕のもとに一通のメッセージが届いた。
 すぐにスマホを開くと一週間前のメッセージの後に新しく『ずっと連絡できなくてごめん!!』という彼女からのメッセージが追加されていた。
 まずは安堵の感情が、その後に微かな心配と怒りが混同した感情が出てくる。

『なにかあったのか??』
『ううん!! 大丈夫!! ちょっと体調わるかっただけ〜』

 詳細を聞こうとメッセージを送れば、彼女からの返答はどこか抽象的で曖昧なもので、それが多少の強がりを含んでいることは容易に察することができた。
 まだ彼女と出会ってから日は浅いけれど、彼女はちょっと体調が悪いくらいで一週間も学校を休んだりはしない性格だということはわかっている。

『そうか。お大事に』

 彼女のことについて違和感を覚えつつも、僕はそれ以上は訊かないことにした。過去の教訓として人と深く関わることはよくないことだし、なにより彼女から言ってこないということは、何も訊いてほしくないということと同じだと思った。

 僕が最後のメッセージを送ってから一時間くらいした後、また彼女からメッセージが送られてきた。

『この後さ、通話とかできる??』

 予想外の返信に僕は困惑する。

『できるけど、なんで?? どうせ大した用もないんだろ』
『いいじゃんいいじゃん!! 暇だからしようよ〜!! 』

 僕が返信を打っている間に、彼女からは次々とメッセージが送られてくる。

『十一時になったらこっちからかけるから、絶対でてね!!!!』

 どうやら僕に拒否権はないようで、結局押し切られる形で彼女と通話することになってしまった。
 本当に体調が悪かったのか、と言いたくなるほどにいつもと変わらない彼女がメッセージからは垣間見える。

 家事を一通り済ましておいて十一時にぴったりになると、数分の遅れもなく彼女から電話がかかってきた。
 僕は恐る恐る通話ボタンに触れ、スマホを耳に当てる。

『もしもーし!!!!』
 
 開口一番がそれで、あまりのうるささに耳に当てたスマホを思わず遠ざけた。

『元気そうで何よりだけど、君は家でもそのテンションなの??』
『もちろん!! 気分上げてないと人生やってらんないよー』
『頼むから通話するときくらいは自重してくれ』

 言っても無駄なのはわかっているけれど僕は一応頼んでおく。

『それで、僕たちは今日なんのために通話なんかしてるんだ??』
『そんなの決まってるでしょ!! しばらく会えてなかったからだよ』

 決まってないし、しばらくと言ってもたかが一週間だ。

『なんだその付き合いたてのカップルみたいな理由は。用がないなら切るぞ』
『そうやってわざと冷たくしてー、本当は私のことが心配で気が気じゃなかったくせにー』
『じゃあ本当に切るから』
『わー嘘嘘!!!!。冗談だってー。ほら、夏休みにどこか出かけるって前に決めたでしょう。だからその予定を立てるためだよ』
『ああ、そういうことか』
 
 彼女の返答に僕は安堵した。これで本当に理由もなくただなんとなく通話をしたとしたら、僕たちは本当に恋人同士みたいになってしまう。

『それじゃあ早速、夏休みの予定会議始めよー』
『ああ、ちょっとまって』

 僕は張り切って言った彼女を制止する。

『訊きたいことがあるんだけど、君もしかして外にいたりする??』

 もちろんこんなどうでもいいことを質問したのは理由があって、彼女と電話を始めた瞬間から通話越しに風の音が聞こえた気がしたからだ。

『どうして?? 今は家にいるよー』

 彼女は少し間を開けて僕の指摘を否定した。どうやら風の音は僕の気のせいだったみたいだ。

『そうか、ごめんくだらないこと訊いて』
『ううん。あ、いい忘れてたけど、風邪引いてるから鼻声だけど許してね』

 それでか。さっきから彼女の声がおかしかったのは。

『それじゃあ今度こそ気を取り直して、まず君はなにか提案とかある?? 行きたい場所とかしたいこととか』

 自分勝手に僕との約束を取り付けたくせに、彼女は律儀に僕に尋ねてくる。

『いいや。僕は特にはないよ。だから行き先は君に任せる』

 僕は迷うこと無く答えて、彼女に全てを委ねる。

『わかった。実は私、こっちに引っ越してきてから行きたいところがたくさんあったの』

 通話越しにもわかるくらいに彼女は声を弾ませて言った。

『君の地元は確か東京だろ?? そっちと比べたらこっちの方なんてなんにも魅力なんて無いと思うけど』
『ないものねだりってやつだよ。確かに東京は娯楽施設はいっぱいあるけど、その分自然が皆無だからね』 

 彼女は思い出すようにして言う。

『それで、行きたい場所はどこなんだ??』
『言ってもいいけど、でもあえて教えなーい』
『なんだよそれ』
『君は当日までお楽しみってこと。どこでもいいって言ったのは君だよ』

 行き先のわからない旅行なんて、まあそもそもが彼女の付き添いとして行くだけなので別にいいのだけれど釈然としない。

『はい、じゃあ次は日程だね。夏休みは明日からぴったり三週間だから、その間で二日間空いている日はある??』
『ちょっと待て、今なんて??』

 予想外の言葉が聞こえて、僕は聞き間違いであってくれと聞き返した。

『もう、ちゃんと聞いててよ。夏休みのどこかで二日間暇な日はあるの??』

 どうやら聞き間違いじゃなかったようで、彼女は信じがたい内容を正確に答えてくれた。

『二日間だったのか。僕はてっきり、日帰りだと思ってたんだけど……』
『そりゃあそうでしょー。旅行なんだから』

 どうやら僕と彼女の間で出かけるということの認識に齟齬があったらしい。出かけるということは、僕にとっては外出、彼女にとっては旅行の規模だった。

『てことはなんだ。どこかに泊まるってこと??』
『うん。でも安心して、ホテルの予約は私が取っておくから』

 今の発言のどこに安心できる要素があったのだろうか。

『頼むから、部屋は別々にしてくれよ』
『うーん、そのつもりだけど無理だったら許してね。旅行シーズンは予約でお部屋がすぐ埋まっちゃうから』

 電話越しの鼻声の彼女の声を聞く度に、この旅行に不安がどんどんと募っていく。言動も考え方もなにもかもが突飛な彼女に、僕の日常が侵略されて言っているのが今更ながらに感じる。 

『そんなに身構えなくても大丈夫だよ。だって私達、一度隣で夜を明かしてるじゃない』
『お願いだからそんなことを人前で言ってくれるなよ』

 誰かに訊かれれば誤解されそうな彼女のセリフを一蹴して、僕は深い溜め息をつく。

『で、空いている日は??』
『僕はいつでもいいよ。多忙そうな君に合わせる。日程が決まったら連絡してくれればいい』
『うわぁ、できる男だー。不意の優しさにきゅんときちゃったよ〜』
『うるさい。それよりもう用件は済んだよな。それならもう切るぞ』
『待って』

 僕が急かすように言うと、いやに冷静な彼女の声が僕を制止した。
 沈黙が一瞬流れて、その短い間にまた静かな風の音が聞こえた気がした。

『ごめん。やっぱりなんでもない。旅行、楽しみにしておいてね!!!!』
『……うん。それじゃあ、また』

 僕はどこかためらいながら通話を切った。部屋に響いていた彼女の声が無くなったせいで、いつもの静寂がやけに寂しく感じた。
 僕はスマホを寝台に放り投げた後、なんとなく一度外に出た。今夜はいつもよりも風の流れが早くて、体の周りを吹き抜けていく夜風を手で捉えてしまえそうな気がした。

「さすがにないよな......」 

 彼女に関するありえないような、でも彼女ならありえなくないようなことを想像して、そんな想像をした自分自身を鼻で笑った。僕は少し、彼女のことで気を張りすぎているようだ。
 僕はすぐに家に戻ってベッドに体を放り投げた。
 星を見ていないせいだろうか、今夜はあまり眠れなかった。