夜になっても一向に収まる気配のない暑さに、今年も嫌いな夏が来たことを予感させられた。
どうしていても訪れる苛立ちを少しでも紛らわせるために、僕はただなんとなく外に出た。
時刻はもう二十二時を回っている。閑静な住宅街を自宅から真っ直ぐ進んで、突き当りを右に曲がると河川敷が見えてきた。
堤防を上がってそこから少し下った野原に腰を下ろす。夜空には無数の星が瞬いていて、空をぼうっと眺めているだけで胸の中にあった苛立ちは不思議と収まっていった。
建物を視界に収めること無く星を眺められるこの場所は僕にとっての唯一の安らぎの場で、なにか嫌なことがあったときや感情が理性ではせき止められない時はいつもここに来て気持ちを落ち着かせている。だから今日もこうやって、夏の気温で想起された記憶のせいで、昂ぶった感情を紛らわせきた、そのはずだったのに。
「—————!!!!」
僕の座る場所の少し横の方で、嗚咽に涙を滲ませながら咽び泣く少女がうずくまっていた。彼女の容姿に見に覚えはない。けれどどこか視線を引きつける不思議な風情があった。彼女の後ろ姿があまりにも弱々しかったからか、それとも一瞬だけ見えた彼女の頬を伝う涙が、彼女のすぐ向う側にある星空と相まって流れ星のように見えたからか。
彼女の涙は、堪えようとしているのに自分自身ではどうやっても塞き止められずに漏れてしまったような、そんな痛切な涙だった。
僕はそんな彼女の姿を見て、彼女をどうにかしてあげたくなった。自己満足、偽善と言われればそれまでだけれど、とにかく彼女の中の負の感情を少しでも紛らわせてやりたかった。
大丈夫?? どうしたの?? そう言って彼女が泣いている理由を尋ねるか、それともクールぶって上着でもかけてやるか、いくつかの選択肢を考えて、結局僕は何も選ばなかった。
彼女が自分が泣いている理由なんて話したくない可能性だってあるし、初対面のよくわからない男になにかされたって不快に思うだけだ。それにもし、彼女が泣きたくて泣いているのなら僕にそれを止める権利なんてない。感情をむき出しにすることで救われることだってある。
だから僕は泣いている彼女に何もしなかった。彼女の涙を止められるのは、いつも何一つとして変わらない夜に浮かぶ星くらいだろうと思った。
それからどれくらい時間が経ったのかはわからないけれど、話しかけることも立ち去ることもせずにいれば彼女は涙を枯らして僕の方に振り返った。
そうしてわかったけれど、彼女は驚くほどに整った顔立ちをしていた。こんな美少女でも声を上げて泣くほどの悩み事があるんだなと脈絡もなく思った。
「あはは。泣いているところ見られちゃったかぁ」
居心地が悪そうに言って、彼女はなぜか笑った。
「星、見てたの?? だったらごめん。雰囲気悪くしちゃったよね」
「悪くなんてしてないよ。星空なんてもともと暗い雰囲気だし」
僕が言うと、彼女はなにそれと言ってまた笑った。直前の自分の発言を、格好つけたような感じに聞こえたかもと後悔した。
「君はよく星を見に来るの??」
「よくってほどじゃないけど、嫌なことがあったときとかは気分を落ち着かせに来てる。なんていうか理屈じゃ言えないけど、星見てたら心が落ち着く」
「それ分かる!! なんていうか、星なんて大きいものと比べたら私の悩みってなんてちっぽけなんだろうって思う」
彼女は食い気味に同調してくる。さっきまでの泣き顔は嘘のように晴れていた。
「あ、ごめん。自己紹介がまだだったね。私、山崎月理って言うの。年齢は十七歳で高校二年生」
「待った。なんで急に自己紹介始めてるんだよ」
不穏を感じて僕は制止する。けれど彼女はそんなのお構いなしに話を続ける。
「人に名前を聞く時は自分からでしょう。それで、君は??」
「……宮瀬悠、十七歳、高校二年生だよ」
「えー!! 同い年じゃん!!」
溌剌と聞いてくる彼女に僕は渋々答えた。学年も年齢も同じだという事実に彼女は嬉しそうに笑う。
「君こそ、よくここに来るのか??」
「ううん。実は今日が初めて」
彼女は首を横に降って言った。聞いておいて何だけどまあそうだろうなと思った。自分と同じくらいの頻度で来ているなら、もっと早いタイミングで僕たちは会っていたはずだ。
「でも初めてきたけど、ここすっごく星が綺麗に見えるね。寝転がったらもう星空しか見えないよ」
彼女はそう言うと、膝を抱えていた手を離して、腰掛けている斜面に仰向けで体を預けた。
「ほら、君もやってみなよ」
別にやってみなくても視界に映る景色くらい想像できたけれど、ついさっきまで泣いていた彼女の提案を断るのは忍びなく、彼女に倣って寝転がった。
「どう??」
「綺麗だな」
「なんか心が籠もってない」
ぶっきらぼうに答えたけれど、想像していた景色の何倍も星空は綺麗だった。闇の中に散りばめられた星、太陽が出ている頃には想像もできないほどに濃く深い空、何度も見た景色のはずなのに見る度に景色に感動してしまう。
横目で彼女を見ると彼女の方もこっちを見ていて目が合った。初めてしっかりと見た彼女はさっきの泣いていた姿が嘘のように生命力に満ちていて、力強く輝きを帯びているようにも見えた。
「ねえ、君はまだ帰らないの??」
時刻は十時半を過ぎている。確かにいつもなら星空を見て心が凪げばすぐに帰宅する。けれど今日はなんだかまだ星を見ていたい気分だった。それと、ついさっきまで泣いていた彼女を残していくのが少しだけ心配だった。
「まだいいよ。帰りたくない気分だし」
言うと彼女はわかりやすく表情を煌めかせた。
「本当!? じゃあもう少しだけ私と話そうよ。一人は寂しいからさー」
「まあ、いいけど」
控えめに首肯すると、彼女はにっと笑って真っ直ぐに人差し指を空に立てた。
「君は星に興味ある??」
「まあ、そりゃあ見に来るくらいだから、どちらかといえばあるよ」
「じゃあ星について話そ!!!! あ、態勢はそのままでいいから」
彼女に言われて、僕は起こそうとしていた体を斜面に再び預ける。
彼女も僕と同じように寝転がったまま、空に浮かぶ星を指さしてそれを三角形になぞって動かした。
「ごほん!! それじゃあまずは定番、夏の大三角形は聞いたことあるでしょう?? デネブ、アルタイル、ベガ」
「聞いたことはある。でもごめん。君が指さしてる夏の大三角形がどのことなのか僕にはわからない」
「あれだよあれ。一番上にあるのがベガで、左側にあるのデネブ、その隣がアルタイル。簡単でしょ??」
「いや、君の指先から判断するには空との距離が果てしなさ過ぎて無理だ」
彼女は簡単に言うけれど、星について何も知らない人間が、数多の星から特定のものを探すなんて至難の業だ。
「よーし、じゃあこうしよう」
少し離れたところに寝そべっていた彼女は起き上がってすぐ隣に来た。そして僕の腕を掴むと三角形に動かして示した。
「どう?? これなら分かる??」
「うん。星がどれも遜色なく綺麗だってことは」
「ねー、全然わかってないじゃん!!!!」
僕の言い訳に彼女は盛大に笑う。あまりにも大げさに笑うから、こっちまでつられて笑いそうになってしまった。
「あはは。まあそのうち分かるようになるよ。それでね、夏の大三角形は———」
「待った、まだ続けるのかよ」
どうやら彼女の話はまだ終わらないらしく、平然と話を続けようとしている。
「あー、ごめん。迷惑だよね……」
僕の制止に彼女ははっと我に返った様子で目を伏せた。悲しみを帯びたその瞳に、僕は少しだけ罪悪感を感じてしまう。
「いや、いいんだ。迷惑とかじゃないよ。むしろ訊きたいくらい。ただ、君は帰らなくていいの??」
「どうして??」
「どうしてって、高校生だとしても女の子がこんな時間に出かけてるなんて家族が心配するだろ」
僕が当然の意見を言うと、彼女は悪い笑みを浮かべた。
「君は優しいんだね。でも大丈夫。だって私が出かけてること家族は知らないから。そりゃあ出かけてることバレたら大変だけど、家を出るとき二階のベランダから降りてきたからね〜」
Vサインをしながら言う彼女に僕は苦笑する。やっていることが端正な顔に似合わなさすぎる。
「だからまだ帰らなくてもいいの」
「……それならまあ、続けてもいいけど。てかむしろ聞きたいくらいだ」
半分は彼女への気遣いだったかもしれない。けれどもう半分は本音で、彼女の語りは不思議と心地よく、心が安らぐような気がした。だから僕は珍しく、自分から彼女の語りを願った。
「なら遠慮なく!! じゃあ次は———」
彼女はすぐに嬉しそうに僕の要望に応えてくれた。あまりにも楽しそうに話すから、らしくもなく僕の方まで楽しく感じてしまっていた。
僕は彼女の星に関する話を黙って聞いていた。ただ寝転がって話を聞いているだけなのに、決してそれは退屈なんかじゃなかった。プラネタリウムを見ているような、いや、天然の星空と造形物じゃない空間、そして定型文じゃない彼女の語りはそれ以上の心地よさを確かにこの場所に生み出していた。
少しして彼女の話が途切れて、少しの間黙って星空を見ていると意識が朦朧としてきた。隣に寝転がる彼女はまだ帰る気がなさそうで、ずっと寝転がって星空を眺めていた。自分一人だけ帰るのも忍びないし、何より彼女と星を観測するのが思いの外悪くなかったので最後まで彼女に付き合ってやることにした。
———あ、流れ星。
眠る瞬間、そんな彼女の声が聞こえた気がしたけれどきっと気のせいだろう。
結局、僕は次の日の早朝に彼女に起こされるまで僕は眠っていた。笑えることに僕と彼女はあの後、河川敷の野原で一夜を明かしたらしい。本当に馬鹿だ。
寝心地が悪く、まだ開ききっていない目で彼女と顔を見合わせて盛大に笑った。そのあとで自分が久々に笑ったことに気がついて、きっと夜の昂ぶった気持ちと、うだるような夏の気温が、僕の頭をおかしくさせたんだろうとそういうことで納得しておいた。
———なんて、それがつい二日前の話。思えばそれが全ての始まりだった。僕と彼女の短い物語の。
***
「東京から引っ越してきました。山崎月理です!! もう夏休みまで少ししか無いけど友達はたくさん作りたいです。よろしくお願いしまーす!!」
休日が明けていつものように惰性で学校に行けば、見覚えのある彼女が高らかに自己紹介をした。それは担任の先生が「転校生を紹介します」なんて言った数十秒後の出来事だった。
転校生になんて興味もなく、ただ窓の外を眺めていた僕もさすがに今は彼女の方を見向くほか無かった。
———山崎月理。
その名前を聞いた途端につい二日前の夜の出来事が脳裏を過ぎった。
僕は改めて彼女を見る。身長は百六十くらいでランダムに巻かれたセミロングの髪。二日前の夜に出会った、夢と見紛うほどに奇怪な体験を共にした彼女がそこにはいた。
彼女と僕の関係などおかまいなしに、急な転入生に教室内が喧騒に包まれる。
まだ信じられなくて彼女を凝視していると不意に彼女と目があった。やっほーとでも言いたげに目配せをしてきた。僕はすぐに視線を外した。
「じゃあ山崎の席は空いているところで」
担任の村下先生がそう言って、彼女は指定された席に座った。そこは僕が座る席とは反対の廊下側に位置する席だった。
助かった。どうやら隣の席なんて最悪の状況は避けることができたみたいだ。
ホームルームが終わると、堰き止められていた流れが一気に放出されたようにクラスメイト達が山崎月理の元へと駆け寄って行く。田舎の高校生にとって、転入生が来るなんてイベントは幻想に等しいものだから皆、興奮しているのだろう。
「山崎さんは東京のどこから来たの??」
「山崎さんとってもかわいいね!! 下の名前で呼んでもいい??」
「ねえ、山崎さんって彼氏とかいんの??」
溶け落ちた氷菓に群がる蟻みたいに、彼女はクラスメイトに群がられていた。彼女のペースなどおかまいなしに質問攻めが始まる。まあそりゃあ、容姿の整った都会の女子高生がこんな田舎に来れば注目の的になるのも必然だろう。
大変だな、なんて同情を感じながらその光景を眺める。けれどその同情は彼女にとって余計なものでしかなかったらしい。僕の同情に反して、彼女は矢継ぎ早に繰り出される質問を見事に捌き切っていた。
「東京の練馬区ってとこで治安もよかったし住みやすい街だよ。下の名前?? うん、大歓迎!! 私もみんなのこと下の名前で呼ぶつもりだったし。彼氏はいないし、作る気はあんまりないかなぁ————」
初対面の生徒に取り囲まれれば普通は圧倒されるはずだ。なのに彼女は堂々とした態度で一人一人に返答していた。
「あの転校生すげーな。陽キャすぎるだろ」
僕の後ろの席に座る城田藍人がそれをみて感嘆の声を上げている。自分に向けられたのだろうその言葉を僕は敢えて受け流した。彼女と初対面ではないことを知られるのはなんだかまずいことのような気がした。
「なあ悠。あの子知り合いか??」
そんな僕の思いとは裏腹に城田は不意に尋ねてくる。
「どうしてそう思うんだ??」
「いや、だってさっき見つめ合ってただろ」
「……表現が終わってるな。目が合っただけだろ。初対面だよ」
あの夜はきっと僕もどうかしていた。いつもなら人に関心を抱くことなんてないし、人を慮るような態度を取ることなんて僕にはありえない。それなのになぜか彼女を一人残していくわけにはいかないと思って、結局二人で星を見ながら一夜を明かしてしまった。一夜の過ちと言えば誤解を招くだろうが、本当にあのときの僕は変だった。
あれは人に言えるような話でもないし、城田に言えばよくない方向に事が進むのが明白だ。だから僕はあの夜のことはもう忘れて、なにもなかったことにして城田にはそう伝えた。
「ふーん。初対面ねぇ。でも怪しいな。あの山崎ってやつ、さっきお前に笑いかけてるように見えたけど」
「気のせいだろ。本当に彼女のことなんか知らないよ僕は」
訝しげな視線を送ってくる城田に、あくまでも僕はしらを切り続ける。
「それにお前は知ってるだろ。僕が人間関係を結ぶのには向いてないことは」
畳み掛けるようにしていうと、城田はまあそれはそうだけど、なんて相槌を打つ。
「もういいんだ。友達とか、家族とか、そういうのは僕はもういいよ」
城田に対して誤魔化すためのものではなくて、僕は本当にそういうのはもういらない。
まだ怪しんでくる城田に言って、僕はまた窓の外に視線を移した。城田も僕と同じようにそうして外を眺める。
「もう夏か……」
城田は思い出すようにして言った。
校舎の外では雲ひとつ無い空に浮かぶ太陽が、容赦なく世界を照りつけている。
「今日の気温三十五度だってさ」
「うへえ、そりゃあ死ぬなー。いっそのこと休校にしてくれよ」
夏という言葉を聞いて、城田が僕に何を諭そうとしてるのかがわかってすぐに話題をそらした。けれどそんな僕の抵抗も虚しく、城田は「お前さぁ」と口を開いた。僕はその先に続く言葉の種類を簡単に理解できた。
「いい加減前に進めよ」
呆れを含んだ城田の言葉が僕に突き刺さる。
「……わかってるよ」
「わかってないから言ってんだよ。もう三度目の夏だぞ??」
「僕にだって事情くらいある。城田には関係ないし、余計なお世話だよ」
「そうやって逃げてばっかだと、気がついたら取り返しつかなくなるぞ」
「……だからわかってるって」
「……あっそ」
僕の表面だけの返答に、城田もぞんざいに応える。
城田は僕のことを思って言っているのに、なにも変わろうとしない僕は最低だ。僕に寄り添ってくれる唯一の彼にそっけない態度を取ってしまったことに、罪悪感がチクチクと胸に刺さる。
「……本当にわかってるから。ごめん」
「いいって。俺関係ねーし」
苛立ちを含んだ城田の返答を最後に会話は途切れた。今日の天気には相応しくない、じめじめとした雰囲気だけが僕とたった一人の友人の周りに残った。
転校生が来たからと言って日常のなにかが変わるわけでもなく、時間はあっという間に過ぎていく。いつもと何も変わることなく学校での時間を過ごしてれば、気が付けば最後の授業も終わっていた。
放課後になり鞄を持って廊下に出れば、彼女、山崎月理は待ち構えていたように立っていた。今日一日、僕があからさまに彼女のことを避けていたことがバレているのか、彼女は露骨に不満げな表情をしていた。
「まさか君がこの高校の生徒だとは思ってなかったな」
「僕も君がここの転校生だとは思ってなかった」
顔を合わせてしまえばもう逃げられない。諦めて返答すると、彼女はさらに不満げに目を細めた。
「それで、どうして君はそんなに私のことを避けてるの??」
僅かな怒りを含んだ声に、思わず彼女の目から視線を外す。僕が彼女を避けていたことがやっぱりバレていたみたいだ。
「別に避けてたわけじゃないよ。君は珍しい転校生で、世話焼きなクラスメイト達がずっと君の側にいたから話しかける機会が無かっただけだ」
「嘘。お昼休みに話しかけたのに無視したよね??」
「あれは聞こえなかっただけだよ」
「朝だって城田くんと話してること聞こえてたよ?? 私と前に会ったことを無かったことにしてたよね」
「……聞こえてたのか」
ここまで来るともう言い訳なんて無意味で、僕はもう呆然と立ち尽くすしか無い。
「申し訳ないとは思ってる。でももう僕には関わらないでほしい」
観念して避けていた事実を認めた後、僕は彼女の目を真っ直ぐに見つめてそう言った。
「それは……どうして??」
「別に君のことが嫌いとかそういうことじゃなくて、僕は人と関わるのが苦手なんだ」
「人と関わるのが苦手?? あの日の夜はあんなに話したのに??」
「あの日は本当どうにかしてた。だからもう忘れてくれ。僕と関わらないことも、あの日のことが無かったことになることも、君にとって些細なことだろ」
淡々と言うと、なにかが気に触ったらしい。彼女は露骨に不機嫌な表情で僕を睨んできた。
「些細なことなんて、そんなわけないよ。君にとってはそうなのかもしれないけれど、私にとっては大切な人生の一部。思い出だよ。無かったことになんてできるはずない」
「ごめん。気に触ったんなら謝るよ。でも本当に僕はもう誰とも関わりたくないんだ」
誰かと関わりたくないなんて、高校生にもなって情けないなと自分でも思う。けれど一昨年の夏の出来事がまるで呪いのように頭から離れない。あの出来事が人と関わることへの恐怖を簡単に増幅させていく。
「……君ってそういう人だったんだね」
僕の情けない姿を見て失望しただろうか。彼女は言って塞いでいた廊下を開けた。
「本当、ごめん。じゃあ、帰るから」
「うん。じゃあね」
情けない自分を否定されたような気がして、逃げるように彼女の横を過ぎていく。頑固そうに見えて意外と物分かりがいいのか、彼女はただじゃあねと言って手を降るだけだった。
そうして僕と彼女の関係は終わりを告げた。なんて、たったこれだけのことでそう思っていた僕は、少し馬鹿だったかもしれない。
翌日の朝、教室に入ったところで彼女に溌溂と挨拶された。まるで昨日話したことが無かったことのように彼女は僕に接してきたのだ。
不意の出来事に一瞬僕は固まって、そのあとは無視を貫き通して席に座った。もう彼女は何も言ってこなかった。
そして迎えた昼休み。信じられない、いや信じたくない出来事が僕に降りかかることになる。
それは鞄から弁当を取り出した刹那だった。
「はい捕まえたー。 それじゃあ行こ」
「は?? なにを———」
あろうことか、彼女は僕の腕を掴んで無理やりに立たせた。あまりに唐突な行動に唖然とする僕に、彼女は無邪気に笑いかけてくる。
「お昼ご飯一緒に食べない??」
そんなことを聞きながら有無を言わさずに僕を引っ張っていく。自分勝手に僕を引っ張って行く彼女に対して、僕はなんとか倒れないように足を動かしていくのが精一杯だった。
「ねえ、ここの学校って屋上入れるの??」
三階に上がる階段の手前で、彼女は急に止まって僕に尋ねた。
「……鍵掛かってるから無理だけど」
「そ、じゃあどこか空いてる教室しかないかぁ」
「いやちょっと待ってくれ、なんで僕と君が昼食を一緒に取ることになってるんだ」
ここでようやく僕は彼女に尋ねた。尋ねることができた。
「そりゃあ、私がそうしたいからにきまってるじゃん」
彼女の返答に僕は唖然とする。理由があまりにも自己中心的だった。
「なんだよそれ、勝手すぎるだろ……」
「まあ言いたいことはたくさんあるだろうけど、とりあえず落ち着いてからにしよ」
確かに彼女に言いたいことは山ほどあるが、誰が通ってもおかしくない廊下でそれをすべて消化するのはこちらとしても気が引ける。僕はひとまずは渋々彼女に従うことにした。
「……空いている教室なら知ってるよ」
「本当!? じゃあ案内お願い!!」
僕は腕を掴む彼女の手を振り払って、二回の最奥にある教室に向かった。ここは数学の授業の時に使う教室で、普段は鍵がかかっているけれど次の時間に授業が入っているときは昼休みの前に鍵が開けられる。
教室に入って適当な机に腰かけると、彼女は僕の隣の席に座った。
「昨日、僕に関わらないでくれって言ったよな」
何から言うべきか迷った挙句、僕は弁当箱を開けて感嘆の声を上げている彼女にそう言った。
「言われたけど、納得した覚えはないかな」
悪戯に笑む彼女に、僕は昨日のことを思い返してみる。確かに彼女は「分かった」とは一言も言っていなかった。
「ならもう一度言うけど、僕に関わらないでくれ」
「無理」
彼女の即答に僕は内心イラっと来る。
「どうして君はそんなに僕に関わろうとするんだ」
僕は苛立ちを含んだ声で眼の前の彼女に言い放った。けれど彼女はきょとんとした表情で僕にこう言った。
「どうしてって言われても、最初に私に関わってきたのは君の方だよ」
「は?? 僕の方??」
彼女のその言葉に僕は首を傾げる。全くと言っていいほど身に覚えが無かった。
「本気でそう思ってるなら説明してくれ。正直身に覚えがない」
「しょうがないなー。先週の金曜日の夜のこと、君は憶えてる??」
僕は頷いた。先週の金曜日の夜のこととは、僕が彼女と河川敷で会った日のことだろう。
「あの日の夜に君は私に何をしましたか」
「何をしたって、別になにもしてない」
「正解!!」
彼女は右手で丸を作って嬉しそうに笑う。
「君は私が泣いてることに気が付いて、あえて何もしてこなかった。君は私にとってそれが最良の選択だと思ったんだよね??」
ここでようやく僕は彼女の言いたいことがなんとなくわかった。
「私を気遣った、私のために考えて実行したってことは、たとえなにもしてなくても私に関わってきたってことと一緒だと思いまーす。だから先に私に関わってきたのは君の方だよ」
屁理屈のような彼女の意見を聞いて僕は頭を抱える。彼女の言う通り、僕はあの日に彼女を気遣ってなにもしなかった。その彼女に対する気遣いが関わったということと同義だと彼女は言いたいのだ。
つまりは僕があのとき彼女のことなんて微塵も気に留めなければこうはならなかったということ。泣いている彼女を見て邪魔だなと場所を変えれば良かったのだ。下心丸出しで話しかければこうはならなかっただろう。
けれどここで素直に認めてしまうわけにはいかない。僕は必死に言い訳を考える。
「別に僕はそこまで考えてやったわけじゃない。君のことなんて眼中になかった」
「それじゃあ私を見てすぐに帰らなかったのはなんで?? 私のことが心配で、置いていけなかったからでしょ??」
正直に言えば図星だ。けれどまだ引かない。
「違う。ただ星が見たくて残っただけだ」
「それなら私から離れた場所で見るはずだよね。号泣してる女の子の隣で見る星なんて感性もなにもかも吹き飛んじゃうもんね」
僕の言い訳はことごとく彼女に粉砕された。僕が思っている以上に彼女は、広い視点で物事を考える力があるらしい。
これ以上の言い訳が見つからず、僕はため息をついて白状することにした。
「……認めるよ。あの時は君が心配だった。でもどうやら僕は選択を失敗したようだ」
「あはは。あの時に君が、大丈夫??とか言って上着でもかけてくれたら、私は今頃君に近づこうとは思わなかったのに」
本当、正解の選択肢がそれだとは微塵も思わなかった。
「ということで、つまり私には君と関係を切るかどうかを選ぶ権利があるの」
彼女は得意げに笑って、弁当に入った卵焼きを口に放り込んだ。
「いや、ないだろ。人間関係なんてどちらかが切ればそれで終わりなんだから」
「理論上ではね。でも考えてみてよ。自分から告白したくせに自分から別れようっていう彼氏ってどう?? 不躾だと思わない??」
「いや、まあ、確かに……ってなんの話だよ」
「それと同じことを君はしようとしてるってことだよ」
妙に口の上手い彼女に僕は納得させられそうになる。僕はひとまず弁当を開いて彼女と同じように食べ始めた。彼女との会話に必死になって昼休みが終わったしまったら、なんだか彼女に固執しているみたいで嫌だ。
「君のお弁当もおいしそうだね。おかず交換しようよ」
「断る。食事中くらい静かにしてくれ」
「はー、けちー」
僕はそれから黙々と弁当を平らげた。気が付けば昼休みも終わりに近づいていて、僕たちはとりあえず各々教室に戻った。彼女と話し合ったことについて、結局何もかも腑に落ちなかった。
放課後に掃除を終えた後、残っていたクラスメイトが出て行ったのを見計らって僕は廊下に出た。なんとなく予想はしていたけど、やっぱり彼女は僕のことを待ち伏せしていた。
「しつこいぞ。昼休みにあれだけ話したんだからもういいだろ」
「よくないよ。結局話終わらなかったじゃん」
僕は廊下の真ん中に佇む彼女の横を通り過ぎていく。
「ちょ、どこ行くの」
「帰る以外にないだろ」
四時間目の授業から放課後になるまでの間、僕は彼女の対応について考えていた。そうしてでた結論は、不躾だろうがなんだろうが、こっちから彼女との関係を切ることだった。
「君は僕のことが好きなのか??」
そんなわけがないし、自分で言っててあほらしいとも思ったけれど、彼女がこれで僕に対して不快感を持ってくれればと思って言った。けれど僕が思っていた反応を彼女は示さずに、右手を顎に当てて真剣に考えるそぶりをした。
「うーん、どうなんだろ。好きとかじゃないと思うんだけど……」
随分と自信が無さげにそう言った。
「そこは否定してくれ」
「わからないんだから仕方ないでしょ。私人生で一度も恋愛的な意味で人を好きになったことなんてないんだから。でも、気になってはいるの。君のこと」
彼女は言って、らしくもなく少し顔を赤らめた。ように見えた。それでも視線を外さないのはきっと強がりだ。
「そうか。君みたいな人に気にかけてもらえるのはきっと幸せなことなんだろうな」
僕はそれでも、彼女に背を向けた。
「でも、ごめん。迷惑なんだ。僕は君が嫌いだ」
中途半端な否定は無駄だ。彼女と話していて僕はそう理解した。だから今度はそうきっぱりと言った。
彼女はもう僕に何かを言ってくることはなかった。これでいいと僕は思った。ただ、彼女の無邪気な笑顔を思い出して少しだけ心が痛んだ。
駅を出て五分も歩けば家についた。自分以外誰も住んでいない自宅の扉を開けて、僕はリビングに鞄を放り投げた。
———もう少し言い方があっただろ。
僕は今になって彼女への言葉を後悔していた。
僕が人と関わりたくない理由を彼女に説明すればよかったんじゃないか。彼女は自分勝手だけれどきちんとした理由さえあれば僕のことを素直に聞き入れてくれたんじゃないか。
後悔と、いつも最善の選択をできない自分への苛立ちが胸中で渦を巻いている。
不意にキャビネットに立てかけられた写真を見る。そこには一昨年のあの出来事が起こった日から、会えなくなってしまった妹のあかりが満面の笑みで映っていた。僕が人と関係を築くことに恐怖を感じてしまうようになってしまったあの夏の出来事。
妹の写真を見て、僕は深い溜息をつく。
なにもかも、僕は一体どうするべきだったんだろうか。
十時頃になって、僕は外に出て河川敷に向かっていた。いつも通り、この胸の内に募った感情は星を見ることでしか鎮火できないと思った。
徒歩十分程で河川敷に着いた。前に来たときと同じ場所に腰を下ろす。
なんとなく周囲を見渡すけれど人の姿はなく、静寂の中で虫の音色が響いているだけだった。
体を倒して空を見る。相変わらずの秀麗な星空がそこにはあって、けれどなにかが物足りなく感じる。
———いい加減、前に進めよ。
ふと昨日の朝に城田に言われたことを思い出して嘆息した。彼に言われたことが一昨年の夏に起こった事件を、いまだ引きずっていることに対してのものだとはわかっている。けれど前に進めと言われたって、僕はもう前の向き方を忘れてしまった。一体何が正解で何が間違いなのかすらも、あの夏からわからなくなってしまった。
空を見て、流れ星にでも願えば今の状況が少しでも解決するだろうかと思った。超常に頼ることしかできない自分が情けなく思えて、すぐにそんな考えを破棄した。
———もう帰ろう。
そう思って体を起こしたとき、同時に堤防の上からこちらに降ってくる人影が見えた。迷うこと無くまっすぐにこちらに向かってくる彼女は、結局僕から少し離れた場所に座った。
「今日は来たんだね」
学校での出来事が無かったことのように、彼女は何でもないような表情で僕に言った。
「もう帰るの??」
私服姿の彼女はそう僕に尋ねる。僕はこのとき、彼女のなにかに違和感を感じた。
「帰ろうと、思ってたところだよ」
「そう。気をつけてね」
今日の放課後、僕がひどいことを言ったせいだろうか、彼女は僕を引き止めることはしないでたださみしげに俯いた。そこで僕は彼女に感じた違和感の理由がわかった。学校での彼女と今の彼女は、違うんだ。学校での生き生きとしていて力強い彼女はここにはいない。今の僕の目に見える彼女は弱々しく、どこか儚いような。
———ああ、そういうことか。
あの日の夜、普段人と関わったりしない僕がなぜ彼女と共に過ごしたのかがたった今わかった。そっくりなんだ。弱々しくて、悲しい時は盛大に泣いて、好きなことになるとおしゃべりな彼女は、僕の妹のあかりによく似ている。だから僕はきっと彼女を、夜の山崎月理を妹に重ねていた。あかりと彼女を重ねて、あの日の僕はつい兄のように振る舞ってしまったのかもしれない。
「やっぱり、まだここに居るよ。いてもいい??」
前言を撤回して僕はその場に座りなおす。学校では僕に関わるななんて言ったくせに、時間が違うだけで自分から彼女に接している自分が卑怯だと思った。それでもやっぱり、僕は妹に似た儚い空気を纏う今の彼女を放っておくことはできなかった。
僕はそのまま後ろに倒れて寝転がった。彼女はそんな僕を見て、理由を訊きたそうにクエスチョンマークを頭の上に浮かべていた。
「どうして??」
「なんとなくだよ。ただ帰る気にならなかっただけだ」
言うと彼女は嬉しそうに笑って同じように寝転がった。
「ねえ、君のこと訊いてもいい??」
「答えられることなら」
「わかった。じゃあ、どうして君は人と関わりたくないの??」
率直に彼女は訊いてきた。僕に直接関わりたくないなんて言われた彼女にとって当然の疑問だろう。いつもの僕なら正直に話すことなんてきっとしない。なのに夜空に輝く夥しい数の星と、今にも消えてしまいそうな彼女の儚い風情が僕の口を羽毛みたいに軽くさせた。
「関わりたくないわけではないよ。ただ、深く関わりすぎるのが怖いんだ」
「どうして怖いの??」
「怖いと思うようになったことがあったからだよ」
僕は抽象的に、けれど事実を述べる。二年前の夏に起こった出来事は、人を信じるということに対して僕に大きな恐怖を植え付けた。
「ならどうして、今は、夜の私とは話してくれるの??」
「それは答えられない。自分でも完璧にはわかってないから」
僕が無意識のうちに彼女と妹を重ねていることはなんとなくわかった。けれど、だからと言って僕が彼女と積極的に関わる直接的な理由にはならない。僕が今の彼女を放っておけない理由として、なにか別のものが自分でも知らないところであるんだろう。
「とか言って、本当は言うのが恥ずかしいだけだったり」
「それは断じて違う。変なこと言うなら帰るぞ」
「冗談だよ」
僕の否定に彼女はあははと笑う。彼女が笑ったことがどうしてか嬉しく感じる。結局その質問を最後に彼女はもう何も訊いてこなかった。
「もういいのか??」
「うん。知りたいことは知れたし、私も君が言うように、人と深く関わることが怖いことだって知ってるからさ」
僕に気を遣って同調してくれたのか、彼女は言って今度は困ったように笑った。
「だからまあ、学校での君の態度は許してあげる。君が人と関わることが本当に苦手だってことは分かったし、学校ではこれからはあんまり積極的に君に関わることはしない。でも最低限話しかけられたら答えてね。無視されるのは悲しいよ」
「それは本当にごめん。これからは普通にするよ」
僕は彼女に謝罪する。彼女が許してくれたおかげで心にあった罪悪感はましになった。
「ねえ、今日もここに泊まってく??」
「いや、さすがにしないよ。明日は学校だし、この前は蚊に刺されまくったからもう勘弁だ」
「そ。じゃあいつ帰るの??」
「……決めてないけど、多分君が帰るときかな」
「つまり私が朝に帰るって言ったら、君も朝帰りになるわけだ」
「やっぱり早めに帰ることにする」
「うそだって!! ちゃんと日付が変わるまでには帰りますー。よーし、ならそれまでは今日も話そっか!!」
最初からそれが狙いだったんだろう。なんて言葉は飲み込んで僕は肯定の返事をした。学校で彼女に言ったひどいことに対する償いも僅かに含んでいた。
「それじゃあ今日も星の話を。君は宇宙に星が何個存在するか知ってる??」
「さあ、考えたこともない」
「なんとなくでもいいから言ってみてよ」
「……一億とか」
「ぶっぶー!! 残念。数えきれないが正解でした!!」
僕の答えに彼女は満足げに返した。
「そういう答えのない曖昧な問題を出すなよ」
「それがあるんだなあ。銀河系の中にある星が約二千億個って言われてて、その銀河が二兆個あるって言われてるから、計算すればおおよその数は分かるよ」
「いや、僕が悪かった。それを計算するにはまず学校で習わなかった数字の桁から勉強しないといけない」
宇宙は広いことなんて周知の事実だけれど、その話を聞けば広いなんて言葉じゃ収まりきれないほどの壮大さだ。その壮大さを加味すれば、流れ星が願い事を叶えてくれるなんていうお伽噺も少しは信憑性が生まれるのかもしれない。
「それじゃあ二問目いくよ〜。目に見える星で一番明るい星はなんでしょう」
彼女は続けて溌剌に問題を出してくる。
「それは訊いたことがあるな。たしかシリウスだったっけ」
「わあ!! 惜しい!! 確かに惑星を外せばシリウスが一番だけど、惑星ありだと一番は金星だよ。宵の明星って訊いたことある?? 夕星とも言って、一番明るいときはシリウスの四倍くらい輝いてるの。一度だけ見たことあるんだけど、とっても綺麗だよ!!」
あまりの熱弁に気持ちが昂ぶっているのか、彼女は体を起こして僕のすぐ隣まで来ていた。それにすら気がついていないほど、彼女は星が好きなんなんだろうか。
本当の妹を見るような目つきで彼女を見ていれば、彼女は我に返った様子で顔を赤らめた。
「あはは。ごめんごめん。熱く語りすぎちゃった。星の話なんて今まで話せる人も訊いてくれる人がいなかったからつい」
彼女のそんな言葉に、僕は特に考えること無くこう言った。
「君はそんなに好きなんだな星が。まあでも、君がそんなに褒めるならいつか見てみたい。シリウスも宵の明星ってやつも」
僕が言うと彼女は唖然とした表情で寝転がる僕を覗き込んだ。なんだよ、というと彼女はすぐに視線をそらした。
「昼の君と、夜の君は別人みたいだね」
「はあ、何を言ってるんだ」
「夜の君のほうが私はかっこいいと思うよ」
「本当に何を言ってるんだよ」
「あはは!! なんでもない」
にっと笑って、彼女は背中を地面に付けた。
少しだけ沈黙の時間が流れて、それは彼女が体をこちらに向けた音で消えた。僕も同じようにやろうか迷ったけれど、そうしたら彼女と正面に向き合う態勢になってしまうからやめた。どうせ僕がそれに耐えられなくなって視線を外した後、冷やかされることは目に見えていた。
「僕なんか見てないで、星を見ろよ」
「見てるよ?? 星も見てるし君も見てる」
君の視野は超人的だな、なんてつこっみは心の中にしまっておいた。
「ねえ、君に提案があるの」
どうせよからぬことだろうと、僕は身構える。彼女は僕を見たまま言った。
「君は人と関わるのが怖い、でも私と二人きりならこうして話すことが出来てる。ならさ、二人きりの時は今みたいに話してよ」
僕はそんな彼女の言葉に答えを詰まらせる。
「僕と話せたところで君にメリットなんてないだろ」
「あるよ。学校でも言ったでしょ?? 私、君のことが少しだけ気になってるもん。君のことが知りたいって思ってる」
よくもまあそんな恥ずかしげなことが言えるなと思った。けれど彼女の表情は本気で、だから僕も茶化すことができなかった。
「ねえ、どう??」
「……わかったよ。それくらいなら」
僕が了承すると、彼女はよかったぁと安堵した。
「それじゃあもう一つダメ元で提案なんだけど、暇な日は毎日ここで一緒に星を見ない?? 最近気がついたんだけど、一人で見る星より二人で見る星のほうが何倍も輝いて見えるの」
彼女の提案にもう一度僕は考える。仮に僕が断っても、彼女はこの場所に星を見に来るだろう。夜に弱々しい彼女を一人にするのは心配だし、僕が星を見にくれば図らずとも会うことになる。それに僕だって星は好きだ。どうしようもない感情を紛らわせてくれる唯一のものだからだ。彼女と一緒に見る星も案外悪いものじゃなかった。
「毎日は無理かもしれないけど、それくらいならいいよ」
様々なことを考えた結果、僕は彼女の提案をらしくもなく賛成した。彼女は無邪気に笑って大げさに喜んでいた。
「あのさ、今日はごめん」
嬉しそうに星空を見上げている彼女に言うと、唐突な僕の謝罪に彼女は不思議そうな表情をした。
「君のこと嫌いとか言って。あれは本心じゃない」
僕が言うと彼女は安心したように笑った。
「大丈夫。最初からわかってたから気にしてないよ」
どこまでも優しい彼女はそう言ってまた笑った。そんな彼女を見て改めて自覚した。僕は彼女のことが嫌いなんじゃなくて、彼女と正反対な自分のことが嫌いなんだと。
そのあと僕は彼女と連絡先を交換し、星をまた少しだけ眺めたあと帰宅した。家についた頃にはもう十一時を過ぎていて、時間の流れが早すぎることに驚かされた。
誰もいない家について、僕はキャビネットに置いてある妹の写真を手に取った。いつの写真だろうか、まだ幼いあかりが額縁の中で笑っていた。
僕は無意識にため息をついたあとその写真を元に戻した。もう妹のことは忘れるべきだとわかっている。忘れることが妹にとっての幸せであるはずなのに、どうしても僕はこの写真を処分することが出来ない。
あかりは昔はよく笑っていた。なのに今の記憶の中のあかりは、泣いている姿しか想起されない。ふいにあかりが泣いている姿を思い出して、今度はそれが彼女に重なった。そうして、夜空が悍ましいほどに煌めいていたあの夜に嗚咽するほど泣いていた彼女のことが頭を過ぎった。
どうして彼女はあのとき泣いていたんだろう。