さて、最初にした、体を潰される話に戻そう。
 二度も潰されたことがあると明言したけれど、少し語弊があったかもしれない。
 
 アタシは今、現在進行形で()()()()()()に踏み潰されている。

 公爵令嬢御付きのメイドが学園入学直前にぺちゃんこになった、なんて話は乙女ゲーの中にはなかったはずだ。
 
 なのに――。
 
『なのにどうしてこうなっているんだい?』
「知るかッ! ……ん?」
 
 その時、アタシの頭の中で響くような声が聞こえた。
 いやいや。化け物に踏み潰されかけてる状態でこんな普通に話しかけてくるような知り合いはいないでしょ。

 幻聴だ。たぶん。そういうことにしておこう。
 
 なぜアタシがまだ生きているのかはわからないが、とにかく頭の上に足を乗せられている現状は正直腹立たしい。
 なので、アタシは自棄になって全身に力を入れてみる。

「ふっ……!」
『グルゥ……!』

 一瞬ではあるが、わずかに頭上の足が持ち上がった。だが、すぐに押し返されてしまい、アタシは再び闇の中に戻される。
 
『さらに体重をかけられてしまったみたいだねぇ。もっと本気を出したらどうだい?』

 また幻聴だ。他人事だからといって余裕そうに発破をかけてくる厄介な幻聴なんて珍しいわね。
 
 けれど、まだ余裕があるのは本当だった。
 アタシの体に、これまで感じたことのない力が漲っている。
 こんな犬一匹程度、ブン投げられるっていう自信がある。
 
 アタシは意を決して――本気で体を躍動させた。

「ぅおりゃあッ――!」

「きゃああっ!」
「グオォ……!」

 どすんと地面が揺れる。

 視界が明るく開けると、そこは鬱蒼とした森に囲まれた街道だった。
 そして、白い毛並みを持った巨大な狼が目の前でひっくり返る。
 一緒に聞こえた悲鳴はその背中に乗っていた女性のものだろう。今は吹っ飛ばされて地面へと転がっているが。

「ウィナ――!」

 聞きなれた声がアタシの名前を呼んだ。

 見れば、地べたにへたり込んだフィロメニアがアタシを見ていた。
 
 可哀そうに。赤いドレスも端々が焼け焦げたり、破れたりしてしまっている。
 後ろに結い上げた青の混じりの金髪もほつれていて、まさに満身創痍といった様子だ。

 けれど、こういうときに心配されることをフィロメニアは好まない。
 だからこそアタシは笑みを浮かべて返事をした。
 
「うん。ここにいるよ」

 そうするとフィロメニアは安心したように表情を弛める。
 
 そうだ。この顔だ。
 乙女ゲーのアプリはもちろん――この世界であっても、彼女のこの表情を見ることができるのはアタシだけかもしれない。
 普段は氷のように冷たい仮面を被った彼女の、本当の素顔だ。

「なっ……なんなのよアンタッ……!」

 と、和んでいたらさっき狼と一緒に転がった女性が立ちあがって叫んできた。
 若い。見た目は二十歳そこらでアタシよりも年上なのだが、そう思ってしまうのは前世の記憶のせいだろうか。
 よく見れば着ているのは神殿の制服だ。

 つまり彼女は大まかに言えば聖職者なわけだけれど、それっぽい雰囲気は微塵も感じられない。
 
 公の場であれば頭を下げるべき相手ではあるが、アタシは両腕を広げて雑な答えを返してみせた。
 
「ただメイドだけど……以後お見知り置きを?」
「そんなわけあるかッ……! この化け物!」

 いや、化け物を飼っている人に言われたくないんだけど……と思いつつ、アタシはこめかみを掻く。

 本当のことだ。アタシは両親が他界した十歳のときから五年間、メイドをやっている生粋の使用人だ。
 今日だってフィロメニアの霊獣召喚の儀式に同行して――。

 
 ――……どうなったんだっけ?
 
 
『記憶が混濁しているねぇ。我との融合のせいかな。まぁいい。いずれ思い出すさ』
 
 幻聴の意味不明な言動に腕組みして空を見上げていると、女性がさらに叫んでくる。
 
「こんな騎士がいるなんて聞いてない! なによその魔導具!?」
 
 そう言われて、自分の体を見た。
 
 アタシの体の表面は青白く発光していて――左腕に妙な腕輪がついていることに気づく。
 エメラルドグリーンの結晶と金属が複雑に重なり合ったような腕輪だ。

 よく見れば視界の端で揺れる髪も同じ色に変わっている。
 アタシのハーフアップにした髪の色は真っ黒だったはずなのだけれど、ずいぶんと奇抜な色になってしまったらしい。

「リルリル! 嚙み砕いてッ!」

 女性が叫ぶと、狼が突進してきた。
 リルリル……フェンリル種の霊獣だからだろうか。可愛い名前ね。
 アタシをぱくっと丸のみできそうな巨大な口には凶悪な牙が並んでいて、まったく可愛くないけど。

「ウィナ、使え!」

 そのとき、フィロメニアから白い棒状のものが投げられた。
 彼女の愛用している細剣だ。

 それはぶんぶんと回転しながら遠慮のない速度で飛んでくる。
 下手をすると刺さりそう。
 
 けれど、アタシの目はゆったりとその回転を捉えていて、絶妙なタイミングで剣の握りを掴んだ。

 フェンリルの牙が迫る。

 避ける? いや、下手に避けてフィロメニアが巻き込まれるのは御免こうむりたい。
 
 そう考えていて……不思議だなぁ、と思った。
 嚙まれずとも、ちょっと体を引っ搔かれただけで大怪我を負うような霊獣を前に、アタシの心は怯えていない。
 死ぬかもしれない、という恐れがまったく湧いてこない。

 あるのは、どう敵を殺して、どうフィロメニアを守るか、という野蛮で理性的な衝動だ。
 
 普通ならば泣いて逃げ出すようなこの状況で、アタシは――。

 ――前に出た。

「おりゃッ!」

 衝撃が来る。
 フェンリルの大きく開けた口に挟まれる形で突進を受け止めた。
 左手でその長い牙を掴み、右手の細剣で下顎を突き刺す。

 あの女性が言った通りにフェンリルはアタシを噛み砕こうとするが、させない。
 アタシの細腕に漲った力が、その口を閉じさせまいと抗う。

『はっはっは! 口の中に飛び込むとは! 今の君はよほど万能感に満ちているんだろうねぇ? ――それでいい』
 
 なに笑ってんだこの幻聴は。
 けど……そうだ。今のアタシはなんだってできる気がする。

 さっきから頭の上に足を乗せられたりと、噛みついてきたりと、この犬っころにはムカついていた。
 次にムカつくのはフィロメニアをあんな姿にしたことだ。
 そして、今一番ムカついているのは……。
 
「口が――ッ」

 アタシはフィロメニアがいる方とは反対側に体を捻る。

「生臭いッ!」
「グガァァアァッ!?」
 
 重量は人間の何百倍もあるだろうフェンリルをアタシは振り回し、森の木々に叩きつけた。

 決して細くない幹が何本もへし折れ、その巨体に折り重なるように倒れる。
 気がつけば、アタシの左手にはフェンリルの牙があった。
 
 なんという力だろう。
 騎士の家に引き取られたからには、()()()使()()()()()()()相応の鍛え方をされたが、霊獣を投げ飛ばせるほどじゃなかったはずだ。

 アタシはぼんやりと思い出す。
 そうだ。いざフィロメニアの召喚の儀式が始まったと思ったら、アタシの体が光に包まれたんだ。

 だから、この声は――。
 
 そのとき、木々に埋もれるフェンリルの身じろぎする気配に、牙を投げ捨てて駆け出した。
 
 フィロメニアの細剣は健在だ。
 さすがは最高級の剣。けれど、軽すぎる。アタシの剣術には向きじゃないし、霊獣を相手にするには攻撃方法が限られる。
 この細剣であの巨体にとどめを刺すには、急所を突くしかない。
 
 アタシはもがくフェンリルの頭上へ跳躍した。すると、予想を超えた高さに体が浮く。
 どの木よりも高く、森を一望できるほどの高さに。
 
「わっ……!」

 アタシは思わず声を出す。
 フェンリルの頭に飛び乗るくらいの調子でジャンプしたつもりなんだけど……。
 
 まぁ、いっか。

 やることは変わらない。
 アタシは空中でバランスをとって、細剣の切っ先を真下へ向ける。

 そのとき、アタシは自分の背中に感じたことのない【何か】があることに気づいた。

 それはアタシが思った通りに動く腕のようで……空中で姿勢を保つ助けをしてくれているようだ。
 首を回して見てみるとアタシの背には三対、半透明の結晶のような羽があった。
 
 いや、翅といった方が正しいかもしれない。
 この世界には虫がいないので、他の人には伝わらないけれど。

 それを見て、改めてアタシは自分の体が変わってしまったことを認識した。

 アタシの姿はきっとおとぎ話に出てくる妖精みたいに見えるんだろう。
 サイズ的には人間大だけれど、もう立派に人間の姿じゃない。

 あの女性がアタシに「化け物」と言い放ったのも頷ける。
 
「そっか。今のアタシって……――」
『――思い出したかい? 我が君』
 
 空中で姿勢を整え終えたアタシが、どこまでも広がる世界を見渡しながら独り言ちると、幻聴が答えた。

 うん。思い出した。けれど、先にこいつをやろう。
 
 アタシの体を翅が加速させる。
 瞬間的に落下するその先は、フェンリルの頭――いや、脳だ。
 獣は頭の大きさの割に脳が小さい、とお母さんから狩りのときに教わった。

 それでも、元が巨大ならあんまり関係ない。
 細剣を構えたアタシの体が、一直線にフェンリルの頭頂部へと加速する。

 剣の切っ先が、硬い獣毛と皮膚……そして纏っていた魔力の守りを貫通して、その脳みそをブチ抜いた。
 そしてその余波が頭部そのものを貫き、下の草地に派手な血飛沫を広げる。

 アタシは動かなくなったフェンリルから細剣を引き抜いて、空を見上げた。

「アタシ、霊獣になったんだ」
 
 森の中から見る空は相変わらず狭い。
 
 ガチン、と腕輪から音が鳴り、アタシの体が一瞬強く発光すると、纏っていた光が解ける。
 すると髪は黒に戻り、背中の翅も消え去っていた。

『やぁ、どうだい? 初陣の感想は』
 
 頭上から降ってくる声に顔を上げると、手のひらサイズの少女が舞い降りてくる。
 手のひらで受け止めた彼女はあどけなさの残る顔で意地悪そうに笑った。
 
「今になってちょっと吐きそう」
『それは結構だ。年ごろの女性としては正常な反応といえる。存分にゲロしたまえ』
「少しは心配しろし」
 
 今日はフィロメニアの霊獣召喚の儀式の日。
 そこにアタシが立ち会ったせいで、自分の人生も、乙女ゲーの物語も大きく変わってしまったのかもしれない。
 
 ――フィロメニアの【霊獣】はアタシ自身になってしまったのだから。