最終章

「彩楓、気を付けてね」
「うん、お母さん。学校が終わったらすぐに帰るから、待っててね」
「毎日言われなくても、まだ死なないわよ。……彩楓に言いたいことを残したまま、逝かないわ」
「じゃあ……。その言いたいこと、一生聞きたくないかな」
 最後の言葉は、お母さんに聞こえなかったかな?
 分かってるのに……。もう、お母さんは……生きることが苦しいと思ってるなんて、分かってるのにね。
 まだまだ一緒にいたくて、私を一人残して逝かないでほしくて……。思わず、我が儘が口から漏れ出ちゃった。
 夏休みが終わって、もう一ヶ月以上。
 お母さんは、迎えられないと言われた秋に入っても頑張ってくれてる。
 痛みに苦しみ、余命が迫る怖さに震え、幻覚さえ見えてるのに……。
 そこまで耐えてくれてるのは多分、お母さん自身でも言ってたように――私に言いたい心残りがあるからだと思う。
 夏休みの終わりには姿を見せなくなった、凛空君のことについても……触れないでくれてる。
 私、お母さんに最期まで心配をかけちゃってるな……。
 しっかりしないといけないのに、物心ついてからずっと続いてる恋は、脳から離れてくれない。
「彩楓ちゃん、おはよう」
「叔母さん、おはようございます」
 アパートのオーナーをしてる叔母さんが、庭の手入れをしながら声をかけてくれた。
 いけない、暗い顔をしてたかも。明るくて、安心出来て、見ていて元気になる子の顔を……。いや、それはもういいんだっけ。あれ、でも……。じゃあ私は、どんな顔をするのが正解なんだろう。
 分からない。凛空君が好みのタイプが、いつの間にか私のなりたい理想像になってたから……。
 それ以外の自分に何て、今さらなれない。
 だったら今のように、自然でいていいのかもしれない。
 凛空君や私の理想の子に、そんな自然で暗い一面があっても……いいんだと思う。
「綾の様子は、どう?」
「……お医者様から、覚悟をしておいてくださいって」
「そう……。分かったわ、今日も彩楓ちゃんが学校の間、私がちょくちょく見にいくから」
「はい、お願いします」
 お母さんの姉として心配してくれるのが、私にも伝わってくる。
 嬉しいなぁ……。緩和ケア病棟へ入院できるとなっても、新しく賃貸を借りられなくて困ってた私たちに手を差し伸べてくれたり、本当に助けられてる。
 お母さんが「病院じゃなくて、家族だけに看取られたい」って願ったから、緩和ケア病棟にはもう入院することはない。
 お家へ診療に来てくれるお医者さんも、それを認めてくれた。
 遠からず訪れちゃう未来に、目を向けたくないなぁ……。
「……元とは言え、自分の妻がこんな状態なのに。あの男は――」
「――すいません、あの人……。お父さんの話は、やめませんか?」
 少し思い出してしまった。考えるだけで、腸が煮えくり返りそうだ。自分の口から『お父さん』という単語が出ただけで、吐き気がする。
 私たちに興味も示さず遊び呆けて自分の都合のいいようにならないと怒鳴る。だけど家の外ではニコニコして、外面だけはよかった――あの男。
 私と血が繋がってるって思うだけで嫌悪感に襲われるのに、お父さん何て呼びたくもない。
 あの男が病気になったお母さんを捨てて出て行くときも、殴ってやりたい、罵声を浴びせたいと思ってたけど……。
 あの男が暴れてる姿を見て育った私は――結局、何も言えなかった。拳を振り上げるどころか、何も言えなかったんだよね。
 弱かった。情けなかった。身体が動かなかった。
 あのときの言い訳をすれば、いくらでも湧き出てくるけど……。結局、産まれた頃から染み付いてるからには、私は一生あの男に逆らえないのかもしれない。
 もう一生関わらない、考えないのが一番だ。
「ごめんね。だから、そんな怖い目をしないで?」
「あ、いえ! これは元からで……すいません!」
「いいのよ。それだけ酷かったのは、結婚前から知ってたからね」
 結婚前も、結婚後も――お母さんは、家族から止められてたらしい。実家に帰ってこいって。
 それでも振り切って「自分の好きな人と一緒になるから」と、事実婚が認められちゃうぐらい一緒に居続けたんだから、恋は盲目だよね。
 なんて……私も人のことを言えないか。
 凛空君の顔が浮かんで、涙が込みあがってくる。
「それじゃ、叔母さん! 学校行ってる間、すいませんが!」
「うん。今日も頑張ってね」
 そうだ、頑張らないと。
 今日は中間テストの最終日。成績まで大きく落としたんじゃ、お母さんが気に病んじゃう。
 私は、何ごとも諦めない。――凛空君のことも、いつかまた振り向かせてみせる。
 そのためにも、理想の自分でいないとだ。
 込みあげて来る涙に蓋をして、学校へ向かい歩く――。
「――おはよう!」
「彩楓ちゃん、おはよう。余裕そうだね~」
「ヤバいよ、ウチ全然勉強してない」
 教室に入ると、テスト直前特有の空気感が漂ってた。
 入口で少し友達と話してから、自分の席に向かう。
 ああ……。背中を見ただけで、毎日涙が出そう。好きって気持ちが溢れて、言葉になって出ちゃうよ。胸が痛い、目頭が熱くなる。
「おはよう」
 勇気を振り絞って、小さな声で凛空君に挨拶をしてみる。
 凛空君は鬼気迫る表情で教科書とノート、参考書を読みながらぶつぶつと言ってた。
 当然のように、返事はない。
 集中してて、聞こえなかったのかもしれないけど……。無視、かな。
 お別れを告げられて、学校が始まってから……凛空君は、心配になるぐらい様子がおかしい。
 友達と話す時間も極端に減ってる。目の下の隈だって、どんどんと濃くなっていく。
 何に追われてるんだろうってぐらい、授業中は真剣そのもの。休み時間だって、休んでる様子はない。昼休みだって、サンドイッチを食べながら勉強してる。
 その姿は格好いいけど……。やっぱり、無視されるのは悲しい。
 あ、これは……転校してきたばっかりのときに、私が凛空君にしちゃってたことか。
 今さらながらに、悪いことをしちゃったなぁ。
 よく振られたら忘れようとか耳にするけど――私は違う。
 忘れない、忘れたくない、忘れてたまるか。
 私が好きなんだから、その気持ちに嘘は吐かない。
 迷惑だから、もう一切関わるなって言われない限り……未来の可能性を信じる。
 私の好きに嘘を吐いても、好きじゃないって感情には変化しないんだから、好きに生きる。
 正直、幼稚園の頃の好きって気持ちは――段々と薄れてきてた。
 それはそうだ。記憶が朧気な頃から好きだっていっても、もう二度と会うことすらないかもしれない。十年以上も、連絡一つ取らずに離れてたんだから。
 スマホに撮った当時の写真を見ては、気持ちを思い出してた。好きになった人に、好かれる自分でいたい。その人が一緒にいて、幸せになれる自分でありたいって。
 勿論、写真に写る理想とは程遠い、弱くて理想像から遠い自分への戒めの気持ちも込めて毎日見てたのもある。
 写真を見る度に当時の記憶を思い出して「やっぱり、今でも好きだな。会えないの、寂しいな」程度には心がほんわかとしてた。
 それでも、キュンキュンと悶えてしまうぐらいの激情は――徐々に薄れていった。
 だけど……引越で産まれ故郷の上尾市に帰ってくるとき、つい彼を探しちゃったんだよね。
 本名で登録するネットSNSで、『桜田凛空、上尾』と検索しても引っかからなかった。
 登録してないのかと少し残念に思いながら、上尾市から通える高校を調べてると――一人の顔写真を見た瞬間、胸がキュッと締め付けられたのを覚えてる。
 顔も成長してたから……。私の知る凛空君とは違ったけど、一瞬で恋が再燃した。
 また――好きって感情が燃え上がった。
 お母さんにもお願いして、その高校への編入試験を受けさせてもらって……。手続きで学校にきたときから――私の過去の恋は、上書きされたんだよなぁ……。
 やっと抱え続けた好きって気持ちを伝えられる。一区切りつけられるとか思ってたけど、凛空君は私が思ってるより――ずっと素敵な男の子になってた。
 自分には自信がなくて、自己肯定感も低くて、可もなく不可もなしな自分が大嫌いって……。いつも責めてるみたいだったけどね。
 正直、私から言わせれば――何を言ってるの? 何でそんな、自己評価が低いのって感じだった。
「……何で、こうなっちゃったかな。もっと、ちゃんと言っておけば……」
 私は凛空君の素敵なところを知ってる。自分を責めちゃうクセはよくないけど、他にもっともっと、人より優れた素敵なところがあるよって……。
 そう普段から言ってれば、今みたいに避けられる状況にはならなかったのかもしれない。
 まぁ、避けられても諦めるつもりはサラサラないけどさ。
 だいたい凛空君は、自分の良さが見えてないんだよ。もしかしたら、見ないようにしてるのかもしれない。自分のことは、意外に見えないって聞くから。鏡に映らないと、自分の姿だけは自分で見えないのと同じでさ。
 婚約話を掘り返したのだって、そう。お母さんが変な男と一緒にならないか心配してるから、安心させたいって気持ちもあった。
 だけど――凛空君の、あんな格好いい姿を見なかったら、もう少しゆっくりと話せたのに。
 格好よかったなぁ……。私の陰口を言ってる女の子たちに、自分がどうなるのかも顧みず言い返す凛空君……。
 学校でキラキラした子の集団に逆らったらどうなるのか、なんて……。そんなの私でも分かるのに。いじめられるだろうって、理解してただろうに。それでも自分の意思を曲げないで庇ってくれちゃってさ……。負けずに自分の意思を貫いちゃうなんて、堪らないよ。
 百点満点の好きが、一二十点になって溢れちゃうってもんでしょ。
 まぁ自分でも……あの開口一番の告白は失敗したなぁ~って、後から思ったけどさ。
 上書きされた好きが溢れて、気付いたら口走ってたんだよねぇ……。
 その後も、どんどんと好きが高まっていった。
 彼は何だかんだで、自分に得なんてないのに……。病院から出てきた私を見て、すぐに協力してくれた。
 お母さんがこの世に留まってられるのは、凛空君の影響が絶対に大きい。
 ちょっと嫉妬しちゃうぐらい、お母さんと凛空君は仲が良いから……。
 美穂ちゃんとの仲とか、自分の家族を大切に想うのも凄い高ポイント。シスコンなぐらい大切にしてるのが、むしろ家族になりたいこっちからすると最高。美穂ちゃんとも仲良くなりたいからこそ、ね。
 私とお母さんが体調が悪いときには、食べやすい料理を作ってくれたり……。エプロン姿で料理してる凛空君、素敵すぎて熱上がったなぁ……。
 家庭的で献身的にしてくれる男の人もいるんだって、感動したよ。
 今もそうだけど、何かに向かって頑張る姿も最高に格好いい。結果は確かに、普通かもしれないけど……。その過程で真剣に頑張る姿が、本当に魅力的なんだよね。
 私より大切な何か……。それに向けて頑張ってるのは嫉妬するけど、そこはこれから……。諦めずに愛されるよう、私も頑張ればいい。
 あの男の影響で男の人なんて……。とか思ってた私の男性観を、いい方向に上書きしてくれた。
 あれ? 気がついたら……私、凛空君の色に染められきってない? 価値観から、何から。
「それ……。嬉しいなぁ~……」
 独り言を言っても、集中してる凛空君は反応しない。
 だからこそ、机の上に組んだ両手に顎を乗せて、凛空君の背中を見て愛おしさを呟ける。
 偽装って条件付きだけど、凛空君と婚約者同士になってからは……夢みたいな日々だった。
 好きとか愛してるなんて言葉だけじゃ、とても足りないぐらい。
 凛空君は――一緒に道を歩くとき、自然と歩幅を合わせてくれる。
 しゃがんで立ちあがろうとしたとき、ぶつからないように机を手で覆ってくれる。
 道を歩いてるとき、自転車が私の横を通ると、ぶつからないよう引き寄せてくれる。
 エスカレーターで、助けられる位置にいる。
 エレベーターのドアが当たらないよう、常に開閉するドアを手で押さえてくれる。
 本人の中では意識もしてない、『当たり前の行動をしている』だけなのかもしれない。
 もしかしたら、美穂ちゃんを守ろうと自然に身についた、何気ない行動のつもりなのかもしれない。
 それでも私には、一つ一つの行動が特別で――胸がキュンキュンと高鳴る。
 体が火照って、ふわふわ宙を浮いてる気分になる程に嬉しかったなぁ。
 その日々が、もう帰ってこない。
 凛空君に、明確に振られた。
 その事実が、悲しみが……。涙として溢れて止まらなかった。
 諦めないと決めてても、苦しい物は苦しい。寂しい物は寂しい。辛い物は辛い。
 お母さんもいなくなって、一人になったら……。大好きな人たちとの、言葉にならないほどの思い出の宝を抱えて、私は生涯一人で生きていく。
 もう凛空君以上に、好きになれる男の人なんて――絶対にいない。
 産んで愛情を注ぎながら育ててくれた、お母さん以上に懐く人なんて――絶対にいない。
 どちらも、代わりなんて絶対にいないと断言できちゃう。
 それぐらい私の心は、大切な想いで埋め尽くされてる。
 もう伝える機会もなくなっちゃうかもしれない好きで、満杯になってる――。
 中間テストも終わり、土日もお母さんは無事に乗り越えてくれた。
 この土日、お母さんの横にずっといたけど……。本当に苦しそうで、胸が痛んだ。
「彩楓、今日も婚約者さんは来てくれないのね」
「ごめんね……。テスト疲れが出てるみたいでさ」
「そう、それなら仕方ないわね。……彩楓、私の最期の願い、そろそろ言ってもいいかしら?」
「……嫌。お母さんは、まだ生きるんだから。まだ聞きたくない」
 休日にそんな会話を何度もしたのを思い出しながら、早く帰りたいと思い登校する。
 今週も、お母さんは乗り越えてくれるかな。私が学校から帰るまで、体調が崩れないかな。早く、お母さんのところに帰りたいな。
 そんなことを考えながら、月曜日の学校。
 場合によっては教科関係なく、一気に答案が戻ってくる。午後にもなると、ほとんどの答案用紙が返却された。
 今回、私の点数はかなり酷いことになってる。
 だけど……今回ぐらいは点数を気にしないことにした。今は他に、大切で重視することがあるから。
 本当なら、今すぐ戻りたい。
 お医者さんからの言葉もだけど、お母さんを見てたら……。もう、本当に間もなく――。
「――河村、今すぐ帰る準備をしてくれ」
「先生?」
 教室のドアを勢いよく開けて、担任の先生が駆け込んできた。
 それだけで、何となく予想と覚悟はできた。
「河村の叔母という方から、学校に連絡があった。……今すぐ、戻ってきてほしいそうだ」
「分かり、ました」
 詳しく明言されなくても、理解した。帰り支度を急いで済ませ、学校を出る。
 全力で駆けてると、感情が高まってきた。
「――お母さん、最期のときが来ちゃったんだね……。嫌だ、そんなの……。嫌だよ!」
 よく頑張ってくれた。迎えられないだろうと言われてた秋を迎えてくれた。
 辛いのに、早く楽になりたいだろうに……。
 必ず「行ってらっしゃい」と微笑みを浮かべてくれた。
 朦朧とする意識、幻覚にうなされてても……私の手を握り返してくれた。
 お母さんを、私も笑顔で送り出さなければいけない。
 分かってるのに、言葉は子供みたいに「嫌だ」を繰り返してた。
 これなら美穂ちゃんの方が、私よりよっぽど大人だよ。
 信号待ちで立ち止まったとき――凛空君との約束を思い出した。
 お別れの日、彼と交わした『都合がいい話だけどさ……。お母さんに何かあったら、呼んでほしいんだ。俺にとっても、もう他人とは思えない人だから』という約束。
「凛空君……。もう私なんか、眼中にも入らないんだろうけど……。約束、守るね」
 ここ最近の凛空君の、鬼気迫る様子で何かに打ち込んでるのを見ていたら、こんな過去の約束なんて押しつけるべきじゃないのかもしれない。
 それでも、約束は約束。
 私は凛空君に『お母さんの最期の時がきた。これから家で看取ることになる』とメッセージを送る。
 自分でメッセージを書いてて、辛い……。
 看取るという言葉が、現実が……本当に、辛い。
 私は唯一の家族を、これから失うんだ。
 そんな感傷に浸ってる暇なんてないのに、涙が零れそう。
「ダメ……。お母さんを、お母さんが望むように、笑って送り出さないと。私は一人でもやっていけるんだよって、安心させてあげなきゃ」
 私、お母さん、そして凛空君の大好きな笑みをつくり、家までの道を駆け抜けた――。
「――お母さん!」
「彩楓ちゃん! お帰りなさい。早く、綾の手を握ってあげて……」
 叔母さんや駆けつけてくれたお医者さんたちが退くと……。ベッドに横たわるお母さんの姿が見えた。
 規則性のない荒れた息、顔面は蒼白。こんな状態で、私が来るまで待っててくれたなんて……。
 お母さん、ありがとう……。笑わなきゃ、安心させて、見送らなきゃ……。
「……お母さん、ただいま。会いたかったよ」
 私が手を握り返すと、お母さんは落ちくぼんだ目を開き微笑んでくれた。
 ああ……。いつも、私を励ましてくれた優しい笑顔だ。
 この笑顔が、もう見られなくなるなんて……。信じたくないよ。
「……彩楓と、二人にして」
「……分かったわ。彩楓ちゃん、外にいるわね。……あいつを叩きのめさないと」
「……うん、ありがとう叔母さん」
 あいつ、という言葉が気に掛かったけど……。アパートから出て行く叔母さんたちを見送り、お母さんと見詰め合う。
 この時間が、止まればいいのに。
 神様、お母さんを……どうか連れていかないでくれませんか?
「……彩楓。凛空さんは?」
「……ごめんね、私の婚約者は今、自分のやるべきことを頑張ってるから」
「そう……。そう、なのね」
 お母さんの儚げな表情は……何でだろう。
 素敵な男と添い遂げてほしいって、お母さんの願い……。叶えてあげられなかったのかな。
 凛空君と私が婚約してるって嘘、お母さんは見破ってたのかもしれない。
「彩楓。最期に……大切なことを伝えるわ」
「最期、なんて……」
 その先の言葉が口から出ない。『最期なんて言わないで』、『最期じゃないよ』。慰めの言葉は浮かぶけど……。お母さんの様子を見れば、それはむしろ――苦しめる言葉だって分かる。
 お母さんは、ここまでよく耐えてくれた。頑張ってくれた。私が家に戻るまで、天国に行かずに待っててくれた。
 だから今の私にできるのは、ちゃんと話を聞くこと。それは分かってる。それは分かってるけど――。
「――凛空さんは、諦めなさい」
「……ぇ」
「彩楓を愛してくれる、素敵な人と幸せになりなさい。盲目にならず、いい男と幸せな家庭を……」
「何で、凛空君だって……」
 凛空君だって、きっと私を愛してくれる。
 その言葉は、私の決意でしかなくて……。可能性の薄い希望的観測なんて、お母さんは求めてないのが分かる。
 だってお母さんは一途に、盲目的にダメ男を愛し続けて……不幸な結婚生活を遂げたから。
 だけど……ごめん、無理だよ。
 私――凛空君以外の男の人なんて、好きになれない。愛せない。諦められないよ……。
「……それが嫌なら、一人で強く生きなさい」
「お母さん……。私、凛空君のことが……」
「我が娘ながら、変なところだけ私に似たわね……。一生片思いしながら、それでも笑って」
「……うん。変な口だけの男に騙されるぐらいなら、お母さんと凛空君との大切な思い出を胸に、幸せに生きるから。だから……安心してね」
 私が言うと、お母さんは柔らかく笑った。
 ああ、きっと安心してくれたんだ。
 初恋は実らないって、よく聞く。まして、幼稚園の頃からの拗らせ続けた初恋。
 だけど――私にとっては、永遠の恋。
 遺言、守るからね……。だから、どうか安心して――。
「――お母さん! 彩楓さん!」
「え、え!? 凛空君!?」
 息を切らせ、汗を顎から滴らせる凛空君が、部屋に飛び込んできた。
 何で……。本当に、最期の見送りに来てくれたの?
「……凛空さん。来てくれたのね」
「お母さん、間に合ってよかった……。これ、見てください」
 凛空君が鞄から、何枚もの紙を取り出した。
 あれは、答案用紙?
「凡人の壁は、遂に超えられませんでした。それでも、全て平均点より上、中の上にはいきました! 俺では持って生まれた人みたいに、大船に乗せるなんて大口は叩けません」
 そう言うと凛空君は答案用紙を鞄に入れ、代わりに――違う紙と小さな箱を取り出した。
「それでも、普通なりに普通の幸せを進んでいけるよう、常に頑張り続けます! 相手の幸せを願い、怠けずに動き続けます! だから――娘さんを俺にください!」
「凛空君!?」
 な、何を言ってるの!?
 もしかして、その言葉に説得力をつけて……お母さんを納得させるため。そして自分を認めてあげるためだけに、あれだけテスト勉強に打ち込んでたの?
 それが、新しくできた凛空君の目標だったの? あんな隈までつくって……。他にも一杯、自分で自分を認めてあげる方法なんてありそうなのに……。
 私が、いくらでも手助けするのに。いくらでも、良いところを伝えるのに。
 何て不器用で……何て、愛おしい人なんだろう。
「……いい目ね。幼稚園の頃の、凛空さんみたい」
「普通でもいい。結果を出そうと頑張り続けること、やるべきことに真剣に取り組み続け、自分で自分を認めてあげる。そうして笑顔で、明るい雰囲気を周囲にも伝える。それが周囲や自分の幸せに繋がるんだと、やっと納得できたんです」
「それで……彩楓を幸せにするための婚姻届なのね。男性側が先に埋まってる何て、初めてみたわ」
「それだけじゃないです。お母さんの指に、今でもはまってない……。婚約指輪も、用意しました」
 凛空君が小さな箱の蓋を開けると――指輪が見えた。
 それを目にした瞬間、お母さんも私も涙が滲んでしまう。
「婚約指輪って、こんなに綺麗なのね。知らなかった。……こんなにも、キラキラと輝いてるのね」
 お母さんが、あの男からもらえなかった――婚姻届と婚約指輪。
 キラキラ輝いてるのはね、お母さん……。感動の涙の反射で、小さな宝石の光がより眩しくみえるからなんだよ……。今の私も、そうだもん。
「俺たちは十八歳以上だから、親の同意なしでも結婚はできます。だけど、どうしても父母欄には、お母さんの名前がほしいんです! 永遠に消えない記録として、お母さんのサインがほしいんです! 偽装の婚約者なんかじゃない。どうか、彩楓さんと本当に結婚させてください!」
 床に土下座して、凛空君はお母さんに頭を下げた。
 私のために、お母さんを安心させるために……。そこまでしてくれるなんて……。
 私の初恋の相手が――凛空君でよかった。
 偽装って言葉が出ても、お母さんは驚いた様子もない。ただ、微笑みながら――。
「――凛空さん。……その言葉は、待ちわびてる子に言ってあげてね?」
 お母さんの視線が、私に向いた。
 凛空君は、大きく深呼吸をしてから私に向け――。
「――嘘偽りなく、愛してます。俺と、結婚してください」
 そう力の籠もった声、頼もしい瞳で言い切った。
「大船に乗るような安心感もない俺だけど、彩楓さんを幸せにできるよう一生懸命に頑張り続けることを誓います」
 どうしよう……。喉の奥が震える、涙が溢れて、言葉が出てこない。
 私の返事なんて、もう決まってるのに!
「俺のバイト代で買えちゃうような、安い婚約指輪……。君には似合わないかもしれない。それでも、受け取ってくれますか?」
 指輪の入った箱を開け、私の前に差し出してきた。
 必死に呼吸を整えながら、凛空君の手も一緒に――箱を受け取る。
「――勿論です。私と結婚して、夫婦になってください。……人がつけた価値とか値段なんて、関係ない。そんなの、関係ないんだよ。私にとっては、値段がつけられないぐらい貴重なんだから。もう、一生離さない……」
「ありがとう……。結婚指輪は、さ。頑張って働いてから、いいの買うから」
「それならさ、二人で働いたお金で買おうよ。夫婦は、二人で助け合って幸せになるんだから」
 ああ……。私は今、凛空君のタイプな顔で笑えてるかな? 泣いちゃってるよね……。自分の耳で聞こえてくる声、震えてるもん。
 だけど、嬉しくて……。凛空君に愛されたことも、お母さんが安心した笑みでこっちを見てることも……。それに、凛空君がまた――自分を肯定してあげられたことも、さ。
「遅くなったけど、ありがとう」
「……何が?」
「俺の理想になりたいと努力してくれて、本当にありがとう。俺も、少しでも君の理想に近づけるように頑張り続けるから。もし怠けてたら、殴ってでも気合いを入れ直してくれ」
「分かった。お互い様、ね」
 十年以上、物心がハッキリする前から……頑張り続けてよかった。
 お互いに理想に近付き続けられるように、幸せにならないとだね。
「お母さん、今の私たちなら――安心してくれる?」
「ええ……。最期に……叔母ちゃんの最期の仕事が果たせて、よかった。大切な人たちの、幸せを確信できてよかった。凛空さん、彩楓……。ありがとう」
 お母さんの落ちくぼんだ目に涙が溜まり――やがて、頬を伝い落ちた。
 病気で昔より老けたはずなのに、何でだろうね?
 あの男に泣かされで溢れた涙なんかと違うよ。今までで一番――綺麗な涙だよ。
「彩楓、ペンを頂戴」
 お母さんにペンを手渡し、腕を支えてあげる。
 婚姻届に父母欄に、よれよれのお母さんの名前が刻まれていく。
「彩楓、あなたの名前も……。完成した姿、それと指輪をはめた姿も、見せて……」
「うん、お母さん……。待っててね」
 急ぎながらも、一字一字大切に自分の名前を書き込む。
 書きあがった婚姻届をお母さんの手元に渡し、凛空君の方へ向く。
「凛空君、お願いできる?」
 凛空君は緊張した様子で、身体をカチコチにしながら指輪を取り出した。
 本当に触れていいのかといわんばかりに、恐る恐る私の左薬指へ指輪を通していく。
 流れるようにスマートじゃない感じ……。いいなぁ。人間味があって、可愛い。愛おしい。
「は、はまったぞ。はまってる、よな?」
「うん、うん……。これで、もう私たちは婚約者……。ううん、夫婦だね」
「そう、だな。ふ、不束者ですが……。一生幸せにできるように、頑張って上を目指し続けるから」
 重なった指から、お互いの心音が伝わりそう。
 情熱的な凛空君の瞳に、心がふわふわと溶けそう。これが、幸せなんだね……。
 特別でも何でもない。凛空君の言う普通でも掴める……幸せって、やつなんだね。
「だから、その……。末永く、よろしくお願いします」
「こちらこそ。重い女だとは思いますが、生涯凛空君だけを愛し幸せになると誓います」
 顔が熱い。胸がドキドキしすぎて、おかしい。ここは天国かってぐらい、空中に立ってる感覚。
 お母さんは、こんな私たちを見て……幸せに旅立ってくれるかな?
「最期に……。最高の、幸せな光景を見させてもらったわ……。心の底から、安心した。彩楓、凛空さん……。私の、大切な子供たち。二人とも、幸せにね。それと、ありがとう……」
 お母さんは涙を流しながら瞳を閉じ――荒かった呼吸音が聞こえなくなった。
 今まで、本当に最後の力を振り絞って、見届けてくれてたんだね。
 もう、旅立ったんだね? 今まで、よく頑張ったね。……よく、耐えたね!
「お母さん、愛してるよ……。育ててくれて、幸せになるところを見届けてくれて、ありがとう。ありがとうね……」
 左手をお母さんの指に絡める。
 呼吸は聞こえないのに、まだ温かくて……。とても天国へ旅立った何て信じられない。
 産まれてきて、よかった。私は、お母さんの娘で、よかったよ――。
「――ちょっと、あなた! 今は家族だけで!」
「俺も家族ですよ。少なくとも彩楓にとっては、血の繋がったね」
 涙で沸き立ってた血が――一気に引いていく。
 何で、何で――あの男の声が、ここで聞こえるの?
「綾は……間に合わなかったか。急いだんだが、残念だ」
「嘘吐き。……私が時間がないって急かしても、『まだ大丈夫だろ』って家で昼寝してたクセに」
「俺も神奈川からの急な移動で疲れてたもので。もう少し早く来てればって、今では思います」
 この発言。聞くだけで、腹から怒りが込み上げてくる声。
 間違いない――戸籍上、私の父親になってる、あの男だ。
 本当にそう思ってるなら、お母さんに頭を下げろ。凛空君みたいに、いや……。凛空君より深く、土下座して顔を上げないでほしい。
「医療従事者の皆さんも、ありがとうございます。本当、お世話になりました」
 外に待機してくれてる、お医者さんや看護師さんにも……。そうやって、いい人アピールをしてるのか。相変わらず、外面だけはよく見せようとする。
 それが……心の底から、気に入らない。
 凛空君と再会して恋が再燃したように、この男は――再会する度に、私の怒りを燃え上がらせる。
「彩楓、迎えに来たぞ。その制服姿、顔。本当に高校生になったんだなぁ。立派で綺麗に成長して、父親として感慨深いよ」
「…………」
「綾の弔いは手伝うからな。それが終わったら、俺の家に来い。新しい家族が待ってるから」
「……は?」
 意味が分からない。
 何で私が、こんな男のところに行かなきゃいけないの? 新しい家族って、何?
「実は父さん、再婚してな。新しく嫁と息子がいるんだ。きっと仲良くなれるぞ」
「……何、それ」
「もう迎える準備はできてるから。高校生だと、保護者がいないとだからなぁ。大丈夫、卒業したら向こうで働いて金を入れてくれれば、誰も文句を言わないさ」
 勝手に私の進路を……。人生を決めるな。あなたの勝手に、振り回すな。
 お母さんを安心して見送れた気持ちが……。幸せな気持ちが台無しだ。
「まさか、父さんがここまでしてやってるのに、逆らわないよな? ほら、早くこっちにこい」
「あなたねぇ……。いい加減に――」
「――これは親子の問題ですから」
 叔母さんが止めに入ってくれるけど……。男の声に動けなくなってる。
 こいつが一体どんな男か知ってるから、当然だよね。
 叔母さんを巻き込みたくない。
 これ以上――お母さんの、安らかな旅立ちを邪魔されたくない。
 また、私が我慢するしかない。それで、この場を穢されないなら……。
 産まれたときから逆らえないようにされた心、身体が……そうしろって叫んでくる。
 ここは我慢して、干渉されなくなる卒業後には、黙って家を出ればいい。
 そうやって、凛空君と一緒になればいい。
 ああ……。何だかんだ言ってるけど、私は弱いままなんだ。
 理想の姿を目指して努力してきても、結局は……産まれた頃からの呪縛から逃げられない。
 悔しいけど、心の底から嫌気が差すけど……。
 身体が、いうことを聞いてくれない……。
 私が戸籍上の父親の方へ、一歩進もうとすると――。
「――おい、勝手に俺を撮るな。何だ、お前。失礼だろ」
 スマホのカメラ音がして、動きが止まった。
「すいませんね。失礼には失礼で返すのが、礼儀かなって」
「……失礼だと? 俺が、か?」
「ええ、完全にそうですが? それに――この写真は、戒めに必要な教材ですから」
 煽るようなことを言いながら、あの男と私の間に、凛空君が立ってくれた――。


エピローグ

 世の中に優れた子供ばかりじゃないように、色々な大人がいる。
 優しい人、厳しい人。普通な人。そして――見てると辛くなるような人。
 子供は親の背中を見て育つという。
 素晴らしい親……父親がいるのも知ってる。
 だけど、目を逸らしてしまいたくなるケースだってある。
 このお父さんの姿は――あり得るかもしれない未来の俺だ。
 自分より弱い人に助けられたり、甘える心地よさに満足する――退廃的になるまで歪んだ、そんな俺の姿だ。
 彼女に大切なことを教えてもらえず『どうせ俺なんて』と自己否定を繰り返し続けて……。辛い上を見るのを、諦めているように感じる。
 強く、戒めにしなければならない。
 諦め続ければ、自分だけじゃなくて周りも不幸にするんだ、と。
「俺の写真が、戒めの教材だと?」
「ええ。――反面教師ってやつですよ」
 俺の言葉に、目の前の男は――目に見えて激昂した。短気な人だ。
「おい、お前なめてるのか? 大人を敬えって教わらなかったか? あ?」
「再婚したから自分のところへ来いだの、卒業したら働いて金入れろだの……。子供をなんだと思ってるんですか? 子供は、親の道具じゃないんですよ」
「テメェに言われなくても分かってんだよ! 親の教育がなってねぇな。顔を見てみたいもんだ」
 こっちは、あんたの顔なんて見たくもなかったけどな。
 優しくて立派な人格者の、お母さんだけで十分だ。
「あなたは再婚して、また違う子供ができたのかもしれない。――それでも子供にとって親は、永遠に親なんです。たった一人の父親、たった一人の母親なんですよ。どれだけ縁を切りたくても、どれだけ愛しても変わらない、親なんですよ」
「親にもなってない社会の理不尽も知らない子供の分際で偉そうに大人に逆らうんじゃねぇ!」
「普通に子供を愛せないなら、親面しないでください!」
 お父さんは、怒りに拳を振るわせてる。
「特筆して優れてなくてもいい。優しさ、お金……。そんなのじゃない。……普通に子供を想う、それだけでもいいんだから。せめて子供に誇れる生き方をする親であってくださいよ」
 屈辱なんだろうな。それでも――言わせてもらう。
「子供の方は……こんなにも、誇らしく立派に育ってるじゃないか」
 彩楓さんに視線を向けると目を見開きながら、心配そうな表情で涙を流していた。
 大丈夫だ。君にできないことは……俺がやるから。
「あんた、今……。恥ずかしくないのかよ? 情けなくないのかよ? 惨めじゃないのかよ。普通の幸せを普通に、一緒に歩めない自分が……。嫌じゃないのかよ!?」
「普通普通って、うるせぇな! 普通に生きるのがどれだけ難しいか、そのうち分かるんだよ!」
「そうでしょうね。だけど俺は、あんたみたいに立ち止まって腐るのを受け入れない。俺なら嫌だね。悔しくて惨めで仕方ない。全力で――普通を目指そうと頑張るよ!」
 そもそも、だ。この男は――場にそぐわない。
 お母さん……。確かに、あなたの言う通り。この男に愚痴を言いたくなる気持ちが理解できましたよ。
「娘が親を安らかに見送るのを邪魔して……。普通に幸せを掴もうとしてるのを邪魔する。それが本当に……あなたの望みなんですか?」
「だから俺は父親として、家族としての責任を果たそうとしてんだろうが!」
「あなたの協力は必要ありません。俺は――毎日、彩楓と普通に笑いあえる日々を一緒に掴む。もう、夫婦。大切な人たちの刻んだ証で認められた、家族ですから」
 俺が婚姻届を見せると、お父さんは怒り顔で奪いとろうとしてくる。
 誰が渡すか。これは――大切な家族で書き上げた、大切な記録なんだ!
「彩楓さん――彩楓と、お母さんに誓ったんです。凡人だろうと、全力で足掻いて……。惨めだと自分を責めないで済むように、お互いを尊重して大切にする。そんな夫婦になるって、誓ったんです!」
「このクソガキが……」
「お帰りください。弔う気がないなら、この場に相応しくないです」
 出口の方を指差すと――男は俺の後ろに立つ彩楓に手を伸ばそうとする。
 全力で力を込めて手を掴むと、男の顔が近寄ってくる。
 酒臭い……。自分の元妻が亡くなる直前まで、飲んでやがったな。
 絶対に彩楓の元へは、行かせない! 腐った指一本、触れさせてたまるか!
「おい、彩楓! 早くこっち来い! こんなところ、もう出るぞ! 俺のところに来た方が、よっぽど幸せになれるかんな!」
 力尽くは諦めたのか、大きな声で呼びかける。
 何秒か、沈黙が流れる。
 そして彩楓は、俺の服の裾を震える手で掴んでから――。
「――行かない、です」
 確かに、自分の口から――拒絶の言葉を放った。
 怒りに沸き立っていた胸がスッと空く思いだ。
 お父さんに、あれだけ逆らえない様子だったのに……。よく、頑張ったな。
「……あ? 今、なんて言った?」
「私は……。私は、あなたとは他人です!」
 やっぱり、君は強いな。俺が理想とした……なりたい姿だよ。
「これからは凛空君と夫婦として、幸せな過程をつくります。幸せになれるように、お互いに助け合う。上辺だけのあなたの嘘になんて、もう騙されない!」
「おい、何を言ってやがる? 何のために、俺が埼玉なんかまで来てやったと――」
「――もう帰って! もう二度と、私に関わらないで!」
 怒声がアパートを揺らした。
 呆気に取られていた男は、その場全員の視線が痛かったのか……。辺りを見渡し、大きく舌打ちを打った。
「どいつもこいつも、社会なんかクソばっかりだ!」
 そう吐き捨てて、ドカドカ足音を踏み鳴らしながら――去って行った。
 終わった、か……。あの男は、これからも競争社会はクソだと呪詛のように吐き散らしながら生きていくんだろうな。
 俺は――絶対に、そうはならない。
 競争社会の中での評価には、他者評価と自己評価の二つが存在する。
 俺は確かに、他者評価は普通。可もなく不可もない六十点人間かもしれない。
 更に悪かったのは、自分自身がつける自己評価が不可に等しい評価にしてしまってたことだ。
 ナルシストになるとは言わない。それでも、せめて自分ぐらい自分を認めてあげないと。
 俺も俺自信を認めてやりながら精一杯、頑張り続けよう。
 彼女が俺に笑顔をうつしてくれたように、俺も普通なりの幸せを彼女へうつせるように。
 自己評価だけじゃない、他者評価だって……考え方一つだ。
 大勢の評価では、これからも俺は六十点がいいところかもしれないけど――。
「――凛空君、助けてくれてありがとう。……言えた、私、あの人に言いたいことを言えたよ! やっと、やっと……」
「おう、格好よかったぞ」
「全部、凛空君のお陰だよ……。昔からずっと、ずっと助けてくれて……。本当に、ありがとう! 私の初恋の相手、最後の恋の相手が――凛空君でよかった!」
 それでも――たった一人の評価が満点、百点であれば、それでいい。
 もしかしたら、そのたった一人に認められるための努力を続けることこそが、凡人の枠を抜け出す方法なのかもしれない。
 俺はそう、教えられた。伝えてもらった。
「俺、彩楓に胸を張れる男でいられるよう頑張るよ。君にも幸せを渡せるように」
「私も、凛空君に幸せのプレゼントをできるように頑張るね! これまで以上に!」
 終わりの見えない人生。変わるなんて不可能と決めつけて諦めるのは――まだまだ早い。
 十年以上も一念を通し続け、岩のように厚い普通の壁を貫く偉業を成し遂げた、実例。
 長年のトラウマさえもはね除けて見せたパートナーが、俺の隣にいるんだからな。
 優しい嘘から始まった実の関係。
 本心から大切に想い合う関係を俺たちはお母さんに……たむけられただろうか?
「凛空君、見て? お母さんの顔が……」
「……笑ってる?」
 ベットへ横になっているお母さんが、安らかな笑みを浮かべてるように見えた。
 まるで『よく立ち向かった。よく頑張ったわね。安心した』とでも、告げたいように。
「お母さん、私……。乗り越えたよ。嘘吐いて安心させようとして、ごめんなさい。今度こそ……。凛空君と、本当に幸せになるからね」
「お母さん、どうか安らかに。俺たちが掴む普通で最高な幸せを、天国で見守ってください」
 彩楓と二人、お母さんの手を握る。
 俺たちにとって大切な家族が、今度こそ何の憂いもなく旅立てますように。
 この言葉にならない思いが、天国まで伝わりますように。
 彩楓を育てて生き抜き、闘病してきた証。
 ボロボロになった細い指から、俺たちから溢れる感謝の思いを伝え続けた――。