二章

 河村さん……。いや、彩楓さんとの偽装婚約者生活が始まったわけだけど……。
 彼女が上尾市に引っ越して、まだ一ヶ月ぐらい。そんな状況でいきなり婚約者を名乗る男を連れて行ってもダメだ。「俺が婚約者です。彩楓さんを幸せにします」とお母さんに言っても、信じてもらえるはずもない。
 そういうわけで、お母さんが納得するアリバイ作りが必要だとなったから――。
「――凛空君! はい、お弁当!」
「……うん、教室じゃないとダメなのかな?」
「ダメじゃないかな? 万が一、お母さんが学校にきたとき噂になってないとさ!」
「それ、噂を広めるってことか……」
 こういうカップルらしいデートをするべきだって理屈は分かる。
 お母さんは、もうすぐ家に帰ってくるらしいから……。娘が二つ、お弁当を作ってれば恋人の存在だって疑うだろう。
 三者面談とかで学校にきたとき、先生も含め凄く仲のいい恋人がいるって噂が広まってれば、疑いの裏付けになるのも、理屈は分かる。
 だけど――周りの目が痛い。
 至る所から「何であいつが?」、「美女と野獣」なんて声が聞こえる。誰が野獣だ。
 こんなの、風のように噂が広まる。広めようと努力するまでもなく、勝手に。
「はい、じゃあ写真撮るよ。私に寄って寄って!」
「……マジか」
 抜け目ない彼女は、お弁当と一緒に二人が写る写真まで撮るらしい。
 確かに、これは証拠になる。それに……バカップルと呼ぶべき光景だ。
 年齢をすっ飛ばして婚約までするのだって、やりかねないぐらいのバカップルだ。
 現状の問題は、大きく二つ。
 俺が、お母さんの認める『いい男』になるのは、難しい。
 頑張り続けても、凡人の壁を破れないからな……。これは今さらで、一番の問題。
 まぁ、彩楓さんがコーディネートしたいと張り切ってくれてるから、見た目は多少マシになるかもしれないと期待しておこう。
 そして、もう一つの問題。
 それが、彩楓さんへの負担だ。
 廊下を一人で歩く度に「男の趣味悪いんだ」、「あれなら、俺でもいけたじゃん」などなど……。
 彩楓さん本人も、もの凄く周囲から冷やかし……。いや、考え直せと言われてる。
 たまに俺のせいでバカにされてるのを見ると――辛くなる。やっぱり人選ミスだったんだと思う。
「彩楓さんはさ……。色々と陰口を言われて、辛くないの?」
「陰口?」
「俺なんかを選ぶなんて、とか……」
「皆、見る目がないなぁ~って!」
 やっぱり、彼女の目はおかしい。客観的にも実績的にも、モテない俺なんだぞ?
 アリバイ作りでデートへ行くなら、実用的な眼科もコースにも組み込むべきかな。
「モテる彼氏を自慢する気持ちも、分かるけどね~。彼氏はアクセサリーじゃないんだぞってのが、私の気持ちかな? 私にとっては最高のスーパーダーリンだからさ!」
「君にも欠点があったのかもしれない。男を見る目っていう、致命的な欠点がさ」
「そんなことないよ? だって幸せだもん」
 満面の笑みで笑われると、俺までつられてしまう。
 きっと俺は、この嘘の時間が――人生で一番、幸せで虚しくなるんだろうな。
「まぁ、ねぇ~……。放課後とか昼休み、凛空君がいないときに呼び出されるのは、困るかな? 辛いってより、腹が立つし困るよ」
「俺よりは自分の方が優れてるって、半分ぐらいの男は思ってるだろうからな」
「評価基準なんて、人それぞれなのにさ……。私の好きな人をバカにするようなことを言われるんだもん。腹立っちゃうよ」
「告白されまくってるのは、他の女の子から嫉妬を集めそうだね」
 ある意味、それも人間関係では欠点なのかもしれない。
「う~ん。でも話してるとね、告白はされないんだ。変な人って言われるんだけど……。私の凛空君への想いが揺るがないって、分かってくれたんだと思う!」
「惜しいね、今正解に辿り着きそうだったのに」
「正解?」
「間違いなく、変な人だから様子を見ようって引かれたんだよ」
 話してると、優しくて元気が出るぐらい面白いけど……。やっぱり変人だ。
 男の趣味も含めて、多分――告白を考え直すぐらいにはな。
 それに、彼女に睨まれたら腰も引けるだろう。
「目付き、鋭いもんな……」
「あ、それは言わないでよ! 昔から、気にしてるんだから……。直すぞって、長年かけて変えてきたけどさ……。目とか顔の造りって、自分磨きをしても限界があるよね」
「俺への嫌味かな? それとも、周りの女子への宣戦布告?」
「違うよ! 鼻が高くなるように矯正したりとか、顔がシャープになるようにマッサージとか筋トレとか。細身になる運動とか表情とか……。お化粧だってそう。――もう十年以上、目標を定めて努力を続けてるんだから。私の場合、成長期前から始められたのは大きかったと思うけどね」
 彼女の美貌が優れてる理由の一端を垣間見た気がする。
 十年以上前って、幼稚園とか小学校入学ぐらいからだろ? 身体も全然成長してない時期からやってれば、それは有利だろう。
 テレビ番組で、幼い頃から首に輪を徐々に増やして長くしたり、小さい靴を掃き続けて足を小さくしてる人の集団を見たことがある。
 それと似たような何かを、やってきたんだろうな。自分が理想とする美貌になるために。
 その頃の俺なんて、乳歯が抜けた間抜け顔で、サッカーやら木登りなんかしてた。
 イケメンになろうとか、勉強ができるようになろうとか……。普通、そんな他者評価を気にして外見に気を使い始めるのは、もっと成長してからだろうに。
 一体、何が幼い彼女を、そこまで動かしたんだろう?
 やっぱり彼女は、謎だらけだ――。
 そうして迎えた放課後。
 俺たちは街へデートにきていた。アリバイ作りのデートに。
「制服デート、やってみたかったんだよね! そっちは諦めかけてたんだけど……。高校三年生になって叶うなんて、幸せ!」
 お母さんを説得するための、偽装だって忘れてない?
 いや、お母さんを愛して、心配してるからこそ……。本気で楽しむ姿を完成させて、心残りなく送り出そうと努力をしてるのかもしれない。
 十年以上も同じ目標を持って努力してきた彼女なら、ありえる。
 それにしても、だ。これだけ可愛いのに、今まで彼氏ができたことなかったんだな。制服デートなんて、いくらでもできそうなのに。
 出会ってからたった一ヶ月程度で、これだけ『変人』と学校で浸透してきたんだ。
 幼い頃から、長く住んできた川崎では、外見や中身は満点だけど、付き合うには変人すぎるとか思われてたのかもしれない。
 そう考えると、少しだけ親しみが湧く。まぁ……。俺とはスペック差がありすぎるから、ほんの少しだけ、だけど。
 そんなことを考えながら、ショッピングモールで彼女の隣を歩いていると
「やっぱいいな~」
 突然そう微笑んだ。
「何が?」
「そっか。ぜ~んぶ無自覚なんだね。このエスコート上手!」
「わけが分からない」
「私には伝わってるよ! ありがとう」
 ありがとうと言われる覚えがない。ただ一緒にいるだけで、お礼を言われても反応に困る。
 何に対しての言葉なのかは分からないけど、楽しそうなら何よりだ。これ以上、無粋に突っ込んで聞くこともないか。
 普段、あまり行くこともないモール内を歩いていると、小さなゲームセンターが目に入った。
「あ、プリクラある! 一回、撮ってみたかったんだ~! ね、私と撮ろうよ!」
 プリクラを撮るのも、初めてなのか? もしかして友達と遊ぶとかも、ほとんどしてなかったのかな……。
 プリクラとか、カップルの典型かもしれない。詳しくないけど。お母さんにアピールする材料としても、いいだろう。
 二人で撮影機の中に入ったはいいけど、ポーズに困る。
「ええっと……。あの、こんな感じ、なのかな?」
「あ、うん。多分?」
 彼女が手でハートマークの半分を出してきた。俺も手を差し出すことで、ハートマークが完成する。
 カップルの典型なのかもしれないけど……。結構、恥ずかしいを超えて辛い。
 普通の恋人同士を超えて、婚約者レベルの仲を見せようとしてるからかもしれないけど……。
 慣れないことに、違和感が拭えない……。
 彼女と初めて指先が触れてることに、挙動不審になる自分も辛い。これは偽装関係なんだ。本気になるな……。ドキドキするな。
 撮影画面を見れば、彼女も照れ臭そうにしてる。
 これは……婚約まで行くカップルの証拠になるだろうか? 初々しい関係と見られたら……。
 いや、時系列だ。このプリクラは付き合ってすぐの証拠として出せばいい。
 何ごとも、物は使いようだ――。
 プリクラを撮った後、彼女は俺をショッピングモールに連れていった。行き先は、どうやらアパレルショップが大量に入ってる場所らしい。
 本当に、俺をコーディネートしてくれるようだ。
 俺としても、少しでも彼女の隣に歩いてるのを違和感に思われる場面が減るのはありがたい。
 平凡なルックスから抜け出せるなら最高だけど……。それは望みすぎだろう。分かってるんだけど、少し期待してしまう。
 これだけ綺麗な人にコーディネートされたら、もしかしたら俺でもって……。
「これ、凛空君に絶対似合う! カジュアルか爽やか系でいこっかな。それとも、キチッと格好よく……」
 彼女は瞳を輝かせて、ぐるぐるとショップを駆け回っている。
 着せ替え人形にでも、なんでもしてくれ。それで外見の自己肯定感が上がるなら、どんな服でも喜んで着よう。
「うん、これ! これ似合いそう。ねぇ、着てみて!」
「はいはい」
 彼女が選んだ服を一式手渡され、試着室へと入る。
 今まで俺が着なかったような、派手な服装だな。本当に、こんな服が俺に似合うのか? いや、彼女の感性を信じてみよう。
 そう思いながら着替えて、鏡を見てみる。
「……完全に、服に着られてる。……マネキンの方が、よっぽど俺より似合うじゃねぇか」
 派手目な服に身を包む俺の姿に、思わず呟きが漏れる。
 悔しい……。自分がみっともない。
 簡単に割れそうな姿鏡に、軽く拳を当てる。
 鏡に映ってる、どこにでもいそうな自分の胸に拳が触れていた。決して本物の自分を殴ったわけじゃない。
 それなのに、だ。
 普通という厚い壁の中で、自信なさそうにしてる自分の胸が、息苦しい程に痛む。
「どうだった? あれ、脱いじゃったの?」
「……ごめん、もう少し地味というか……。無難なのにしたい」
「好みに合わなかったか~。了解! 待ってて!」
 嘘の笑みを浮かべた俺から服を受け取ると、彼女は服を店員さんに預け、また駆け足で店内を物色し始めた。
 ここまでしてくれるのに、何も買わないのは申し訳ない。店員さんにも、彼女にもだ。
 結局、彼女が持ってきた中で一番着られてる感の薄い地味な服を買った。
「次はこれを着て一緒にデートしようね! 私の服も選んでほしいな~」
「俺じゃ無理。センスないから」
「え~。一緒に選ぶことに意味があるんだよ?」
 彼女のスタイルと顔なら、何を着ても似合うだろう。
 だけど、それは彼女がたゆまぬ努力の果てに手に入れた美貌だ。
 マネキンにも劣る見た目の俺なんかが、あれこれと手を加えていいものじゃない――。
 彩楓さんとアリバイを作り続け、初夏になった。
 そろそろ、お母さんを納得させる材料も揃ってきたと思う。
 焦りすぎはよくないけど、余命数ヶ月のお母さんを早く安心させてあげたい。会ったこともない他人――彩楓さんのお母さんに、そう思うのは変かもしれないけど。
 どうしても、そう思ってしまう。
「ね! 今日のデートはどうする?」
「ここのところ、毎日のようにアリバイ作りしてるじゃん。もう十分じゃないか?」
「毎日でもいいじゃん? 私と一緒にいるの、嫌?」
「嫌というか、辛い」
 俺自身が……隣にいるうちに、偽装とは分かってても彼女との絶対的な差を感じて辛くなってきたというのがある。
 納得してもらって、アリバイ作りに必要になる密な偽装関係が早く終われば……。この屈辱感とか惨めさからも解放される。
 そんなことを思う自分が情けないけど……。人は自分と誰かを比べずにはいられない弱さを誰でも持ってると言うんだから、仕方ない。
 俺は他の人よりも、誰かと比べてしまう感情が強いんだろうとは思う。
「……辛い、か~。私の何がダメかな? 頑張って直すよ!」
「君は何も悪くない。……もうすぐテストだよ? 君は平気だろうけどさ」
 言外に、俺とは違ってと伝える。
 だけど、そんなのは伝わってないのか――。
「――それなら、図書室デートだね! 放課後に一緒にテスト勉強! うん、最高だ!」
「……それ、写真撮れない場所だろうが。お母さんの説得材料にならないじゃん」
「いいじゃん、説得以外でもさ……。あっ。そうだ、私が早くお見舞いに行ったら、本当にデートしてるのか疑われるかも?」
「その理由……。絶対に今、考えただろ」
 まぁ……。一理ある、か。話に聞く限りだけど、お母さんは大分状態が安定してきたらしい。
 もうすぐ家に帰ってきて在宅医療に移行するぐらい落ち着いたとか……。
 親へ挨拶をするという約束も、もうすぐだ。
 もう少しなら、自分の劣等感なんかで手を抜くべきじゃない。
 それに、だ。自分との釣り合わなさを抜きに考えれば、彼女のような高嶺の花を間近で見られる今の偽装時間は……。一生の思い出になっても不思議じゃない貴重な時間だ。
 成績のいい彼女に教わることで、俺自身が凡人の壁を突破できる可能性もある。
「分かった。図書室に行こうか」
「やった! また一つ、夢が叶った!」
「何の夢だよ」
 ニカッと笑う彼女から目線を逸らし、ぶっきらぼうに応える。
 本気になっちゃダメだ。こんな嘘の関係、歪な関係を……本気にしちゃダメだ。
 自分に言い聞かせながら、図書室で教科書とノートを開く。
 いざ勉強を始めたら、彼女は真剣な表情で集中し始めた。
 勉強のやり方ですら、差を感じるとはな……。
 お母さんは、秋を迎えられないだろうと言われてるらしい。それなら、最低でもこの夏は偽装婚約関係を継続しなければいけない。
 このまま彩楓さんの隣にいるのが恥ずかしいと思ったまま、関係が終わってもいいのか?
 お母さんは、俺みたいな普通の男を認めてくれるのか?
 それで本当に、安心して旅立てるのか?
 嘘の関係ではあるけど、手を抜きたくない。脳内に浮かび上がる数々の疑問に、心が奮い立つ。
 凡人の壁を破って、少しでも彩楓さんの隣にいて不自然じゃないようになってやろうじゃねぇか。
 そんなことを考えていると、ポケットでスマホが震えた。
「美穂、か」
「ん? 美穂ちゃん? 大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。緊急事態じゃないみたいだから」
 美穂からの『まだ?』、『最近、いつも遅い』、『たまには前みたいに遊ぼう』というメッセージに微笑みながら、返事をうつ。
『今は大切な約束を守るために必要な時期なんだ。落ち着いたら、遊ぼう。いつも遅くてごめんな』
『どれぐらいしたら落ち着く? 一緒に帰れるのはいつ?』
『期間は分からない。学童が終わるまでには迎えにいくから』
『……分かった』
 美穂は大人で、物わかりのいい子だ。理解してくれたことに感謝しつつ、スマホをしまう。
 向かいの席で本に集中する彼女に近づけるよう、俺も全力で勉強に向き合う――。
 そうして遂に、俺の大嫌いな……。劣等感を抱き続けてきたイベント。定期テストの日がきてしまった。
「――試験を始めてください」
 教師の言葉に、生徒たちは裏返していたテスト用紙を一斉に表へ変える。
 一学期の期末テスト……。彩楓さんに触発されて、いつも以上に根を詰めて頑張ってきた。
 寝る間を惜しんでだ。「遊んでほしい」という美穂の誘いだって断り、この期末テストで自分を変えようと足掻いてきた。
 俺だって、やればできるはずだ。今度こそ、少しでも自分を認められる……。自信を持てる結果にしなければ――。
 全テストが終わった通日後。
 心弾む夏休み前日だというのに……。
「……最悪。全教科、五段階中オール三評価とか。テストも成績も、全く変わらないとか……」
 部屋で一人、溜息を吐いた。
 成績表を渡すとき、先生の言った「もう少し頑張れ」という言葉が頭から離れない。
 何度、一体何度……。俺は希望に向かって走り、現実に叩きのめされれば気が済むんだ。
 こんな惨めな思いをするぐらいなら、最初から頑張らなければよかった。
 頑張ったと思うからこそ、失望も大きくなるんだから……。
 彼女の隣に少しでも相応しく? こんな惨状で何を高望みしてたんだ、俺は……。
「美穂の誘惑だって、ずっと我慢してきたのに……。そう言えば、今日は静かだな?」
 美穂だって、今日で学校は終わり。明日から夏休みのはずだ。
 今日は学童も休みだから、鍵を渡して美穂は登校した。俺より早く帰ってるはずなのに……。
 俺が「ただいま」と言っても、何も返事すらなかった。
「美穂? 寝てるのか?」
 美穂の部屋をトントンとノックすると、返事がない。
 まさか……。中で倒れてないだろうな?
 悪いとは思いつつ、そっとドアを開ける。
「……美穂? まだ帰ってない、のか?」
 室内には、誰もいない。時間的に、帰ってきてないはずがないんだけど……。
「まさか、誘拐か!?」
 慌てて美穂に通話をかける。
 呼び出し音が鳴るだけで、出ない。まさか、まさか……。本当に誘拐!?
 美穂が理由もなく俺からの通話に反応しないなんて、あり得ない!
 バクバクとした心音、謎の浮遊感に襲われてると――美穂からメッセージが届いた。
「……は? 家出、します?」
 簡潔に『家出します。探さないでください』と書かれたメッセージ。
 内容を認識してすぐ――外へ出た。
「くそ……。俺のせいだ。美穂を蔑ろにしすぎた! 彩楓さんと遊んでばかりで、自分の勉強ばっかりで! 美穂は、甘えたがってたはずなのに!」
 ここのところ、自分が美穂にしてきた仕打ちに後悔した。
 俺は色々な人と話せる。遅く帰ってくる母さんともだ。
 だけど美穂は……。朝早く仕事に行って夜遅くまで帰ってこない母さんとは、少ししか顔を合わせられない。
 美穂には実質、俺しか家族がいなかったのに。何で、もっと早く気がついてやれなかった。何を――彩楓さんと一緒にいるのに浮かれてたんだ! 自分が情けない!
 汗だくになりながら上尾の街を走り回った。
 学校、通学路、美穂が好きだと話してた公園、ショッピングモール。閉まってる学童やゲームセンターに、警察署。
 何処にも美穂はいない。通話にも出ない。
 情けなさに涙が出そうになる……。もし、美穂が本当に家出中に誘拐されたら……。
 取り返しの付かないことになる前に、母さんへ連絡すると『今日は早上がりさせてもらう』と返事がきた。
 俺が不甲斐ないばかりに、家族が普通にすごす平穏すら壊した。
 後悔で胸が押しつぶされそうになる。
 だけど、今はそんな自己憐憫に浸ってる場合じゃない。
「……彼女に頼るのは間違ってるかもしれない。それでも……今は、少しでも手を貸してほしい!」
 誰かに頼るなんて、凄い違和感だ。
 それでも彼女の願いに付き合ってる形だし……。これで対等か?
『もしもし? 急に凛空君から通話なんて、どうしたの?』
「……ごめん、助けてくれないか?」
 走りすぎて、肺が痛い。上手く声が出ないぐらい、呼吸が浅い。まるでマラソンを全力で走った直後のようだ。
 本当はもっと詳しく伝えるべきなのに、言葉を出すのが辛くて……。簡潔にしか伝えられなかった。
『うん、勿論だよ。どうすればいい?』
 それなのに――彼女は迷いなく、助けてくれると言った。
 どうしたのかとか、内容すら聞かずに……。まるで何があろうと関係ない。助けるのは決まってると言わんばかりに、だ。
 何で、そうも当然のように優しくしてくれるんだよ……。こんな、惨めで役に立たない凡人相手に、さ。今は協力関係にあるから、か? 
 そうだろうな。そうでなければ、俺なんかを助ける彼女にメリットがない。
「ありがとう。美穂を、探してくれないか? 家出して、見つからないんだ」
『え!? 美穂ちゃんが!? 分かった! 今すぐ街中を探して、人にも聞いて回るね!』
 そう言って、彼女は通話を切った。
「そっか……。街を一人で走り回るんじゃなくて、心当たりがないか聞けばよかったんだ」
 通行人なり、店員さんなりに……。少し考えれば、一人で走り回るより効率のいい手段があったのに。そんなことにも気がつかないなんて……。動揺してた何て、言い訳にもならないミスだ。
 どうして、俺はこう……。
「自己否定してる場合じゃない、か。今からでも、遅くない。俺も街の人に聞いて回ろう」
 それから、積極的に街の人に美穂の写真を見せて姿を見てないか聞き回った。
 そうしていると、スマホが鳴る。
「……ぇ、見つかった?」
 彩楓さんからのメッセージを見ると『駅の改札前で美穂ちゃんを見つけた。でも私じゃダメ。すぐに来て』と書いてあった。
 助けを求めて直ぐ、彼女は結果を出してくれた。
 自分との格の違いを感じつつも、俺の家族……美穂に一刻も早く会いたくて、全力で走る――。
「――美穂!」
「……凛空」
「凛空君……。ごめんね、私じゃダメで」
「いや、美穂を見つけてくれて、ありがとう。……美穂、ごめんな? 寂しかったんだろ?」
 改札の前、俺が片膝を付いて謝ると、美穂は顔を背けてしまった。
「……違う。私はただ、父さんを探しにいこうとしただけ」
「……父さんを? もう何年も、顔すら合わせてないだろう」
「分かってる。だから、駅まで来たはいいけど……。どうしようもなくなってた」
「……何で今さら、父さんなんだ?」
 あっさりと母さんと離婚して、養育費を払うだけ。
 顔合わせの約束すら、まともに果たさないような人なのに……。
「……凛空は、彩楓さんと家庭を持つと思ったから」
「は?」
「だって凛空、最近は彩楓さんとばっかりいた。母さんと凛空、彩楓さんだけでいいのかなって。……私、要らない子なんだろうなって」
 まだ小学校六年生の子に、俺はなんてことを思わせてたんだ……。
「私は、父さんをまともに覚えてない。知らない」
「…………」
「それでも――たった一人の父さんだから。離婚して、私みたいに寂しいのかもって思ったら……。家出してた」
 たった一人の、父さん。そうか……。美穂は、そんな風に考えてたのか。
 一人ぼっちに感じられて、同じように一人な……。たった一人の父さんのところに行けば、居場所があるかと思って家出を……。
 養育費を払うだけで子供に会おうともしない父さんでも、美穂にとっては大切な家族だったのか。俺は妹の気持ちを、何も気づいてあげられてなかった。寂しい思いをさせた俺が――全て悪い。
「美穂……。ごめんな、俺が悪かった。美穂の家族は、俺だ」
「……私、凛空が幸せになる邪魔をしたくない」
「邪魔だなんて、思うはずないだろ」
「……本当? 彩楓さんは、私がいて邪魔じゃない? 凛空との時間、私が奪っちゃう」
 美穂は顔を俯かせながら、彩楓さんの方へ視線を向けて尋ねる。
 そんな美穂に、彩楓さんは涙を浮かべた笑みで頭を撫でた。
「大丈夫だよ。家族が取られちゃうの、いなくなっちゃうの……寂しいよね?」
「…………」
「私が美穂ちゃんと会ったときに言った言葉、覚えてるかな?」
「……何?」
 美穂は首を傾げながら、顔を上げた。
「お姉ちゃんは、ほしくないって。そう聞いたじゃない? 私も家族だと思って、甘えてよ」
「でも……」
「……お姉ちゃんは、甘えてほしいな。お姉ちゃんもね、お父さんがいないの。お母さんも……もうすぐ、いなくなっちゃうんだ。寂しいから、美穂ちゃんに家族になってほしくてね?」
「……私、邪魔じゃない? 私も家族で、いいの?」
 お父さんもいないなんて、初めて聞いた。
 死別か、離婚か。そもそも俺との婚約は偽装だろう。凡人の壁を破れなかった俺に、君の婚約者役は荷が重すぎるなんて……。真剣に問いかけてる彼女と美穂の間では、口にできなかった。
「邪魔なわけ、ないよ。寂しいお姉ちゃんをさ、家族にしてくれないかな?」
「……ありがとう、彩楓お姉ちゃん」
 美穂は恐る恐るといった様子で、彩楓さんに向かい手を広げる。
 そんな美穂を彩楓さんもゆっくり抱き寄せ――ギュッと腕を回した。
 俺たちは……。俺は家族に対して、なんて残酷な嘘を吐いてるんだろう。ただの偽装関係。嘘の婚約者なのに……。
 彼女のお母さんが、安心して旅立つまで、決して嘘が判明してはいけない。きっと、傷付ける。
 いや、彼女のお母さんだけじゃない。
 偽装という事実を知ったとき、美穂はなんて思うだろうか――。
「――美穂! 凛空!」
 パンプスをカツカツと鳴らしながら、改札から母さんが走ってきた。
 彩楓さんと抱き合っていた手を離し、美穂も母さんの方を振り向く。
 ばつの悪そうな表情を浮かべた美穂に、母さんは飛びついた。
「美穂、家出なんてどうしたの!? 心配したわよ!」
「……ごめん、なさい。父さんに会おうと思って……」
「あいつ……いえ、父さんに? ……美穂、寂しかったの?」
「……うん。母さんも凛空も、他の大切なものがあって忙しそうで……。私、一人になったのかなって。家にいらない子なら、同じように一人な父さんのところに行けば、仲良くしてもらえるのかなって……」
 美穂の言葉を聞いた母さんが目を剥き、やがてポロポロと涙を流し始めた。
「寂しい思いをさせて、ごめんね。お母さん、お仕事ばっかりで家族を大切にしてなかったね……」
「……ごめんなさい、わがままな子で、ごめんなさい」
「ううん、休みの日は一杯遊ぼうね」
「うん、ありがとう。母さん……」
 母さんは悪くない。勿論、美穂だって悪くない。
 母さんは俺たちのために、身を粉にして働いてくれてる。
 美穂は、小学校六年生とは思えないぐらい、しっかり者だ。勉強も頑張って、学童の子たちの世話役だってしてくれてる。偶には、わがままだって言うべきだ。
 俺は……一体、何ができてるんだろう。何をしてるんだろう。
 美穂が離れると、母さんはゆっくり、彩楓さんへと視線を向けた。
「……あなたは」
 母さんは目を剥き、何かを考えてる。何で家族だけの場にいるのか不審そうな目というより、驚愕してるような……。反応に違和感があるような気がするけど……。
 とりあえず、俺から彼女を紹介すべきか?
 協力を求めたのは俺だ。クラスメイトだと紹介しようと前に出ると――。
「――初めまして、河村と申します」
 彼女は俺が紹介するより先に名乗り、頭を下げた。
「……河村さん? そう、初めまして。凛空の母です」
「凛空君とは、仲良く婚約者としてお付き合いさせてもらってます!」
「ちょっと、彩楓さん!?」
 こんな場面で、何で嘘を――……。そうか、美穂に家族にしてくれとか言ったから……。
 だけど、後で訂正するのが大変だろうに。
「凛空、どういうこと? 婚約なんて、母さん聞いてないんだけど?」
「えっと……。それは」
 どう説明したものか。美穂の手前、本当の事情を話して偽装だなんて言えない。
「凛空君には、私のお母さんに挨拶をするまで待っててもらったんです。……お母さんは、もうすぐ、この世を去ります。だから、先に認めてもらうまではって……」
「そう、なの? ごめんなさい事情も知らず……。美穂も凛空も、お世話になったみたいね」
「私こそ、家族の大切さを改めて教えて頂き、ありがとうございます。凛空君にも無理ばっかり言って……。いつも、お世話になってるんです。付き合った経緯も、私が好きだからと何度も強引にお願いしたものでしたから」
「……凛空。こんな美人で礼儀正しい子、絶対に不幸にするんじゃないわよ?」
 母さんは、彩楓さんを認めたらしい。
 こんな着々と嘘を塗り固めていくなんて、どんなつもりなんだろうか。
 嘘で外堀を固めて、取り返しの付かないことになったら……。
 彼女は一体、どうするつもりなんだろうか。
 俺が母さんや美穂に、見限られたと言って殴られる分には構わない。だけど、付き合った経緯まで言う必要はないだろう。
 本当に、彼女が何を考えてるのか理解できない。
 まさか本当に、俺みたいなやつと婚約したいほど好きだとも信じられない。
「凛空君、親への挨拶の順番、逆になっちゃったね! 素敵なご家族に紹介してくれて、ありがとう!」
「いや……俺こそ、美穂を見つけてくれてありがとう。急にお願いしたのに。それに……対応も」
 俺だけだったら、この場限りでも母さんや美穂を納得させられなかっただろう。
 正直に話して、せっかく家に帰ってくれそうな妹にも愛想を尽かされたかもしれない。
「ううん、頼られて嬉しかったよ」
「迷惑じゃなかったか?」
「え、迷惑? 好きな人に頼られたら、嬉しいに決まってるじゃん?」
 彼女みたいな人間が、俺を好きになる理由が見当たらない。
「次は私のお母さんに挨拶してね。……夏休みに入ったからさ、いよいよ在宅医療に切り替わるんだ」
「……分かった。俺にできる限り、全力で挨拶をする。それが俺みたいなのにできる、せめてもの恩返しだよな」
「そんなに気負わないでよ。普通に、ね? 凛空君なら、大丈夫だから!」
 直球すぎる好意の裏には、どんな思惑があるんだろうか――。
 夏休み一日目。
 今日は午前中に、彩楓さんのお母さんが退院して自宅へ戻るらしい。
 そんな事情もあり、落ち着いた午後から挨拶をする流れになった。
 何も退院初日でなく、少し休んでから挨拶するのでいいんじゃないかとは思ったけど……。お母さんは「残された時間が少ないから、早く紹介してほしい」と、強く主張したらしい。
「じゃあ美穂。俺は顔合わせに行ってくるから、留守番よろしくな?」
「うん。彩楓お姉ちゃんによろしくね」
 すっかり、お姉ちゃんと呼ぶのに抵抗がなくなってる。むしろ美穂は嬉しそうだ。
 嘘を吐いてる罪悪感と、彼女と俺では釣り合わない現実が……胸を締め付ける。
 美穂や母さんの望むとおり、俺が彼女に相応しい男なら……。いや、無いものねだりをしても、仕方がない。
 彩楓さんには、大切な妹や家族の関係を守ってもらった。
 彼女が何を企んでるかは知らないけど……俺も、彼女の家族関係を守るために全力を尽くそう。
 玄関の鏡で、制服のネクタイが曲がってないことを確かめる。
 親への挨拶なら、本来はスーツがベストとネットで調べたときには書いてあった。
 だけど学生の場合、正装は学生服らしい。
 少し熱いけど、お互いに制服で会うって約束だ。それぐらいは我慢しよう。
 汗を拭くハンカチも忘れてない。後は、嘘を貫く心構えだけだ。
 身形と気持ちを整えてから、絶対に嘘がバレないよう気を引き締め、家を出た――。
 マンションを出て、ナビアプリの案内で彼女から送られてきたアパートへ向かい歩く。
 そうして数十分。
「このアパート……。この部屋番号。まさか、俺が引越バイトをしたときの?」
 俺は送られてきた住所と、実際の建物を何度も見比べていた。
 間違いない。屋外階段の上り下りが辛いと言ってた――あの部屋だ。
 まさか……。彩楓さんの引越作業を俺が担当してたなんて。
 だとすれば、あのときに見た人の良さそうな叔母さんが……彩楓さんのお母さんか?
 秋を迎えられないと言われてたようには見えないぐらい、しっかりしてたけど……。
 あのときの対応に失礼はなかったかなと思い返しながら、緊張に震える手でインターホンを鳴らす。
「はーい! 凛空君、来てくれてありがとう! 狭くて汚い部屋だけど、上がって上がって!」
「お、お邪魔します」
 このアパートが、それ程広くないのは十分に知ってる。
 引越の荷物を運び込んだとき、本の入った段ボール箱を運ぶだけで、通路の壁に当たりそうだったんだから。
 玄関で靴を脱ぎ、置かれたスリッパに履き替える。
 第一声、何て挨拶をしよう。婚約者として疑われないように、お付き合いさせてもらってると挨拶を……。いや、それより退院祝いの言葉が先か?
 胸がバクバクしてきた。今更ながらに、嘘を吐くのが心苦しい……。いや、ここまで来て尻込みするわけにはいかない。
 俺たちは、この罪深い嘘を貫かなければならないんだ。
 少なくとも、お母さんが安らかに旅立つまで。終わりの決まってる期限付き、利用される関係だからこそ――俺は今の関係を許せる。
 そうでなければ、恥ずかしすぎて彼女の隣に立ってられない。逆に言えば、だ。
 この場では偽装婚約の嘘がバレることこそ、更に自分が嫌いになる。全力で、彼女の婚約者のふりをしなければ!
「お母さん、お待たせ! 婚約者の凛空君だよ!」
 先導してくれる彩楓さんがダイニングを抜け、勢いよく部屋への扉を開けた。
「あら……。こんにちは。河村綾(かわむら あや)です」
「は、初めまして! 風間凛空です!」
 背中部分の上がった、病院で見るようなベッドに寄りかかったまま、お母さんが挨拶をしてくれた。
 浮かべた柔らかな笑みと、枝のように細く痩せた身体。口元は、彩楓さんにかなり似てる。真夏なのにニット帽を被ってるのは、治療の副作用とかで髪の毛が抜けたとかだろうか?
 すくなくとも――引越バイトのときに見た女性とは、間違いなく別人だ。
「……彩楓と婚約したのは、本当?」
「……は、はい」
「本当だよ! ほらほら、これを見て!」
 歯切れ悪く嘘を吐く俺をフォローするためか、彩楓さんは俺に腕を絡ませながら、スマホの画面をお母さんに見せた。
「あら、楽しそうね。随分と幸せそうじゃない、彩楓」
「うん、幸せ! お似合いのカップルでしょう?」
「そうねぇ……」
 お母さんは苦笑してる。俺も、同じような表情を浮かべてたと思う。
 どう考えても、お似合いは無理がある。
「風間……凛空さんだったかしら?」
「は、はい」
 見定めるように、お母さんはジッと俺を見据えてくる。
 やがて、ふっと笑い――。
「――彩楓、お茶を買ってきてもらえる? お客さんにお茶ぐらい出さないと」
「え? 冷蔵庫でペットボトルのお茶を冷やしてあるよ?」
「それもいいんだけど、急須で煎れる方よ。お茶っ葉と急須、両方買ってきて頂戴。ゆっくりでいいから」
「きゅ、急須? 今、夏だよ?」
 彩楓さんが困惑してるように、俺も戸惑う。
「あの、お構いなく。俺は、水道水でもいいぐらいなので……」
「お願い、彩楓。その間に、お母さんは凛空さんと話がしたいの」
「え? 凛空君と、二人で?」
 彩楓さんがキョトンとした目で尋ねた。
 少し悩んでる様子だったけど、お母さんの望みを優先したいんだろう。
 彩夏さんは頷き、鞄を手に取り立ち上がった。
「分かった。行ってくる。凛空君、お母さんに惚れちゃダメだよ?」
「惚れな……。いや、失礼しました」
「あら、何を言いかけたのか気になるわね。……彩楓、からかうのは止めてあげなさい」
「あははっ。了解! ちょっと行ってきます!」
 あの子は本当に掴めない……。
 楽しそうに笑いながら、棚からエコバッグを取りだし出かけていった。
 残されたのは、お母さんと俺だけ。
 気まずい。この空気、どうしよう。婚約者っぽくアピールするべきか? 
 いや、そもそも何で俺と二人っきりになりたがったのか――。
「――これで、もう嘘を吐かなくて大丈夫よ」
「……え?」
「彩楓との婚約、お付き合い。……全て、嘘なんでしょ?」
 お母さんの言葉に、身体が固まった。
 何で、バレた? 俺の言動に違和感があったのか?
 いや、まだ探ってるだけって可能性もある。
 簡単に認めるわけにはいかない。彩楓さんの期待を裏切ったら、顔向けできない。
 お母さんを安心して旅立たいと願う優しさまで踏みにじったら、俺は俺を許せない。
「いえ、嘘じゃありません」
「…………」
 強い口調で言い切った俺を、お母さんの瞳は捉えて放さない。
 お互いに目線を逸らさずにいると、お母さんは小さく笑い始めた。
「そこの本類って書かれた段ボール箱、中身を見てくれる?」
 お母さんが指差す先には、引越で使った段ボールがそのまま積まれていた。
 部屋のサイズ的に、全ては本棚に収まらなかったのか。
 というか、これは俺が運んだ段ボールじゃないか。中を見ろって、いいのか? お母さんが言うんだから、いいのか。中に一体、何があるって言うんだ。
「……は? 何で、これが?」
「驚いた?」
「いや、驚いたというか……。え?」
「久し振りね、桜田凛空さん」
 両親が離婚する前の俺の名字――桜田。
 確かに今、そう呼ばれた。
 そして手にあるのは、両親が離婚するより前の……幼稚園の卒業アルバム。
 俺の卒業した幼稚園の、だ。
 何で、ここに……。何で俺の名字を……。神奈川県の川崎市から引越してきたはず。
「自分のクラス、覚えてる? そこに山田っているでしょ?」
 お母さんに促され、アルバムを開く。
 幼稚園の卒業アルバムなんて、覚えてないぐらい前に見たっきりだ。
 自分の顔だって、ほぼ別人。ほぼ名前だけで自分を見つけ、同じクラスの山田を探す。
「――やまだ、あやか? ……あやか?」
 頭がぐるぐると混乱してる。
 彩楓さんと同じ名前が、平仮名で載ってる。顔は別人。いや、僅かに目元が似てる、か? 
「河村は私の旧姓なの。……ろくでなしの元夫に私たちが捨てられて、河村に戻ったのよ」
「え、じゃあ……。この人は」
「彩楓よ? 分からないのも無理はないわね。まるで別人だもの」
 ちょっと待ってくれ……。情報量が、急な情報が多くて理解が追いつかない。
 俺と彩楓さんは、実は同じ幼稚園同じクラス出身の幼馴染みだった?
 小学校には、間違いなく彩楓さんはいなかった。それは覚えてる。
 だとすると彼女は幼稚園卒園後に、上尾市から川崎市へ引っ越したのか?
 つまり――俺たちは、幼馴染み?
 覚えてない。あの頃の記憶がない。それはそうだろう。幼稚園生だぞ。何となく、そんな子がいたな程度で……。
 いや、待て。それと婚約者じゃないって指摘は関係ないだろう。
 過去の記憶を考えるのは後だ。まずは、今の彩楓さんの願いを果たさなければ!
「いや、驚きました。これはまだ、彼女に話してもらってなかったので。婚約者にサプライズでも用意してたんですかね?」
「強情ね。まだ誤魔化し続けるの?」
「誤魔化すも何も……。ちなみに、何で嘘だなんて思ったんですか? 彩楓さんと俺では、釣り合わないからですか?」
「それは違うわ。何となく分かるのよ。女の勘というか、経験なのかしらね。本当に好き合ってるのか片思いなのかは、顔を見れば分かるものよ。……私はダメ男を愛し続けて、捨てられたから」
 これは、無理だ。もう隠し通せない。疑いとかじゃなくて、確信だ。
 優しい嘘を貫き通さなければいけないのに……。俺には、それさえもできそうにない。
「凛空さんは子供の頃みたいに、キラキラと燃えるように楽しむ、自信漲る瞳をしてないもの。叔母さんも彩楓と同じで、あの瞳が大好きだったわ」
 昔を懐かしむように遠い瞳を浮かべる叔母さんの姿に――胸がズキリと痛んだ。
 ああ、そうだったかもしれない……。幼稚園の頃は、学内ヒエラルキーなんてなかった。
 自分と誰かを比較して自己肯定感を損なわれることもなく、無邪気に生きてた。
 人の優劣とか考えて惨めな思いで自己嫌悪に浸ることもなく、自信満々に遊び回ってたなぁ。
 もしも、だけど……。叔母さんの言うように、彩楓さんが今でも……あの頃の俺を想ってくれてたとしたら、だ。
 それは――もう存在しない俺であり、幻想だ。
 多分だけど、幼稚園の頃の俺たちは仲がよかったんだろう。
 今の彩楓さんが隣にいた記憶はないけど……。幼稚園の頃、一人の女の子と特別仲がよかった記憶はある。
 それが、このアルバムに写ってる頃の河村彩楓さんだったんだと思う。
 だからこそ、お母さんの余命が迫ってる時期に、俺に婚約者役を依頼してきたんだろうな。今の俺を知らず、過去の俺に幻想を抱いて、だ。
「……色々と、納得しました。彩楓さんの言動とか、本当に色々と……」
 これなら、いっそ人がよさそうだからと利用されてた方がマシだった。
「叔母ちゃんから嘘を指摘しておいてなんだけどね……。このまま、もう少しでもいいわ。彩楓と都合のいい、優しい嘘の関係を続けてやってくれない?」
「何で、ですか?」
 優しい嘘。どんなに言い繕っても、俺たちが叔母さんに嘘を吐いたのは事実だ。
 もうすぐ自分の死が迫って不安なときに嘘を吐かれて、腹が立たないのか? 娘が心配にならないのか?
「彩楓は、本当に幸せそうだったわ。幼い頃からの夢が叶ったんだもの、当然よね。その上で――いつか、彩楓に本当の恋を教えてほしいの。凛空さんが無理なら、他の誠実な男の人との恋をね。もうすぐこの世を去らなければならない叔母ちゃんの、最期のお願いよ」
 そんな言い方は、ズルい。親子揃って、俺が断れないようにしてくる。
 亡くなるまでとか、最期の願いとか言われたら……断れない。俺に、そんな意志力はない。
 ただ、辛いだけだ。幼稚園の頃とは違う今の俺が……。あんなにもキラキラと耀く姿に成長した、彩楓さんの隣に、婚約者役で立つことが。
「友達じゃ、ダメなんでしょうか?」
「ダメね」
「何で、ダメなんですか?」
「それじゃあの子、諦められないもの。私の子だから、よく分かる。離れるなら、徹底的に振ってやって。もう一切関わらないぐらいじゃないと、未練と未来の可能性に縋りつくわよ。あの子のダメな部分、私によく似てるから。下手したら、私以上ね」
 断言した。
 親の言葉は説得力がある。それに、だ。過去の幻想に縋り付き――俺を信用した彩楓さんを見ると、より説得力が増す。
「それなら……せめて、今の俺の姿をよく見ろ。過去とは違うぞって教えてもいいですか?」
「それは、どうしたものかしら……。あの子に言っても、ムダだと思うけど?」
「彼女が早く真実に気づいてくれて、正しい恋を見つけられるように願います」
「……ねぇ。そんなに凛空さんは、彩楓を愛せそうにない?」
 寂しそうな顔と声で、お母さんが尋ねてきた。
 一目で病気と分かる弱々しい身体で、そんな心を揺さぶるようなことを言わないでほしい。
 俺が愛せそうにないんじゃない。理想通り、満点な彼女を愛せないわけがない。
 俺が、俺を愛せないんだ。全ては――平凡にしかなれない俺の責任だ。
 だからこそ、恋人として一緒にいる未来なんて……お互いのためにならないと思ってしまう。
「……今の俺は、彼女に相応しくないですから」
「……そう考えてしまうのは残念だけど、正直なのね。曖昧に濁してもいいのに。……凛空さんが本当に彩楓を愛してくれてたら安心だったのだけれど、これじゃ無理そうね」
 失望されただろうか。これじゃ無理そうって一言が、心にズシンと響くな……。
「仕方ないか、分かったわ。あの子が帰ってきたら、よく話してみて。――あっ。私が嘘に気がついてることは、秘密よ? これは絶対。これ以上、彩楓に気を遣わせたくないもの」
「それは……。はい、分かりました」
 いずれにせよ、婚約者のふりは続けなければいけないのか。
 もうバレてるのに、彩楓さんにだけ嘘を吐いて。どれだけ嘘を積み重ねていけばいいんだ。
 一度嘘を吐いたら、雪だるまのように嘘が膨らんでいくと聞いたけど、本当だな……。
 彼女が帰ってくるまで、お母さんは俺がどのような人生を歩んできたか。
 どんな気持ちだったのか、飽きることもなく尋ね続けた――。
「――ただいま! 凛空君、まだいるよね? 靴あったし、帰ってないよね?」
「帰ってないよ。あ、靴は脱がないで」
「なんで? 靴を脱がないと、私が中に入れないよ」
「いいから。お茶セットだけ、預かるから」
 不思議そうな顔をしてる彼女からエコバッグを預かり、一先ず中身をシンクの上に載せる。
「どうしたの? え、もしかして買い足すものあった?」
「違うよ。……これ」
「あ……。な、何で、それ……」
 先程までお母さんと一緒に読んでいたアルバムを見えると、彼女の目が泳ぎ始めた。
 かなり動揺してるらしい。
 やっぱり、彩楓さんは幼稚園の頃の記憶がかなり残ってるタイプみたいだ。
 今の俺とは違うって、ちゃんと説明しないとな……。
「私が話したのよ。あんた、いつまでも勇気出さないで秘密にしておく気だったでしょ?」
 ベッドから起きてきたお母さんが、手で壁に体重を預けながら言った。
 立ってて大丈夫なのかと不安になるけど、声は楽しげだ。
「お母さん!? 話したって、どこからどこまで!?」
「幼稚園から想いを拗らせ続けてる、私の娘らしい子ってところだけよ」
「十分に話しちゃってるよ!」
「まだまだ話してないじゃない。親でもドン引きするような話がゴロゴロあるでしょうに……。彩楓、婚約者にいつまでも隠しておく気?」
お母さん……。本当に、俺が婚約者じゃないって知ってるのは隠しておくつもりなのか。
 それにしても、親でもドン引きするような話ってなんだ?
 彼女が隠してる裏の意図や思惑とか、かな。
 いくら幼稚園の頃に仲がよかったとしても、そんなので本気で婚約者どうこうとはならないだろう。
 秘密を知りたいけど……彩楓さんは、一気にトーンダウンしてしまった。
 それ程に、俺には知られたくないんだろうか。
「いや、それは、その……。何もかも話す必要も、ないかな~って……」
「そう、それなら私から――」
「――凛空君、ちょっと公園に行こうか! ね、二人で話そう!」
「お、おう。お母さん、ちょっと失礼します」
 彼女が手を引き、慌ててスリッパから靴に履き替える。
 お母さんは、もしかしたら彼女の秘密をいつか話してくれる気かも知れない。
 これから彩楓さんに、今の俺がどんな状態なのかを正直に伝えて……。それでも、またお母さんの元へ来ることがあったら、聞いてみようか――。
 歩くこと数分。
 俺たちは、夕暮れどきの公園に来ていた。
 親への挨拶と思ってたから、夏休みなのに互いにブレザーだ。
 せめて夏服なら、部活帰りとかに見えて自然だったのに……。
「ほら、どっちがいい?」
「え、奢ってくれるの?」
「まぁ……迷惑かけたから」
「迷惑かけたの、私じゃない?」
 君がいないところで、お母さんに嘘がバレたんだよ。
 それに美穂の件も考えたら、自販機でジュースを奢るぐらいで済ませるべきじゃないのかもしれない。
 差し出した炭酸ジュースと緑茶。彼女は迷いなく「これ! ありがとう」と緑茶を手に取った。
「炭酸、嫌いなのか?」
「分からない、飲んだことないんだよね」
「高校生で、一回も炭酸を飲んだことない人とかいるの?」
「いるよ、ここに。お茶はさ、脂肪を減らす効果があるんだって~」
 まぁ、そうかもしれないけど。そこまで自分磨きを徹底してるのか。
「それで……。本当はさ、どこまでお母さんに聞いたの?」
「彩楓さんと、昔に会ってたこと。後は、多分昔に仲がよかったんだろうなってぐらい」
「……本当に、それだけ?」
「それだけだけど……。まだ何かあるの?」
 俺が尋ねると、彩楓さんは顔を逸らしてお茶を口に含んだ。
 夕焼けで頬が茜色に染まって見える。
 少し藻掻くように身体をジタバタさせた後、意を決したように立ち上がった。
「昔の私を思い出して、写真を見てどう思った!?」
「え……。芋っぽいというか、あどけない可愛さがあるなって」
 思い出しても、今目の前に立つ彩楓さんと同一人物には思えない。
 こんな洗練された美しさに成長するとか、どんなマジックを使えばそうなるのか。
「でしょう!? それじゃ、今の私は?」
「今は……凄いよ」
 俺とは比べ物にならない。
 正直、劣等感に苛むレベルで……笑うと快活に可愛く、普段はクールな美しさが混合してる。
 冗談じゃないぐらい、理想のタイプ。
 それこそ、ゲームやアニメとかの二次元キャラを好きになるのと同レベルだ。
 こんなの、妄想でしかありえないぐらい好みだ。二次元みたいに、手が届かないからこそ……好きになる。実際に横に立ったら、足の長さや見た目のレベル差に落ち込むぐらい、凄いと思う。
「凄いとかじゃなくてさ、好きか嫌いか!」
「……俺は、俺が嫌いだ」
「質問の答えと違うよ! わざと、はぐらかしてる?」
 分かってる。彩楓さんが聞いてるのは、彩楓さんのことが好きか嫌いか。その答えを引き出したいってことぐらい。だけど……これ以上、ムダな嘘も吐きたくない。
 お母さんには、嘘の関係を続けてくれって言われたけど……。
 それは、永遠の関係を約束してない。長くても、お母さんが安らかに旅立つまでだ。
 それまでに、できれば彼女に相応しい男を見つけて、ダメなら仲いい友達ぐらいの立ち位置を獲得する。そうすれば、お母さんだって安らかに旅立てるはずだ。
 そう見送れたらいいなって、お母さんと話して情が湧いた今は……より一層、思いが強くなってる。
「……言えないって答えじゃ納得してくれない?」
「言えないって、何で?」
「俺の責任」
「何、それ……。教えてくれれば、私はどんなことでも手を貸すのに」
 止めてくれ。昨日、美穂を探してくれたときにも思い知った。俺にとって百点満点の君と、精々が六十点の俺のスペック差を。
 君が手を貸してくれたら、もしかしたら……平凡の壁を打ち破れないって問題は解決してしまうのかもしれない。
 その問題が解決するのは嬉しい。悲願でもある。
 だけどもう一つの問題が、返って強くなるだろう。
 そう――俺の自己肯定感が、更に下がるって問題が。
 結局、彼女に依存して、一方的に助けてもらわないと生きて行けなくなる。
 所謂、ダメ男にしかならない気がするんだ。それは、絶対に嫌だ。
 俺が、俺自身を許せなくなる。
「もう……。幼稚園の頃の会話とか、思い出した?」
「ごめん、それも全然。俺は、物心が付くのも遅かったのかもしれない」
「えぇ……。そんな。嘘でしょう……」
 蹲るほどショックなのか?
 俺たちは幼稚園の頃、一体どんな会話をしたんだ。
「いつもね、私は凛空君の後ろをついて歩いてたの」
「……やっぱり、ぼんやり記憶に残ってる。いつも一緒だった女の子は、君だったんだな」
「誰かも分からないぐらい、ぼんやり……。私はずっと、ずっと大切にしてたのに」
「ごめんって……」
 自分が大切にしてた思い出が、俺にとってはぼんやり程度でしかなかった。
 その事実は、確かにショックかもしれない。
 悪いとは思いつつも、下手に覚えてるとか適当なことも言えないな。
 記憶違いとかあったら、思い出を大切にしてる彩楓さんに申し訳なさすぎる。
「いつも助けてもらってたんだよ。私にできないこと……。人見知りで、臆病だった私の代わりに前へ立ってくれてた。色んな遊びに仲間に入れてもらえたのも、全部。全部……凛空君のお陰だった」
「それは、過去の話だから」
「格好よかったんだよ。皆のリーダーというか、ガキ大将みたいでね。いじめは許さない。仲間外れは許さない。皆で楽しくって……。私の、ヒーロー」
「今の俺は……。面影もないな。こんなだよ、今の俺は……」
 彼女は過去の幻想が強い。
 今の俺を、きちんと説明しよう。また自分を否定するみたいで、少し辛いけど……これが、成長した俺の現実だ。
「全てが平凡か、下手したら平凡以下。勉強、運動、見た目、友達関係……。何もかも、あの頃とは違う。だから……過去の俺に幻想を抱かないでほしい。今の俺に、ありもしない幻影を重ねないでほしい」
 過去の俺をヒーローとまで言ってしまう彼女の中では、俺はどれだけ偉大な人物にまで膨らんでるのか分からない。
 だけど、これが現実だ。
「過去の俺を見て、婚約してくれとか言うのは、もう止めてほしい。俺が、俺自身の情けなさに堪えられない。自己嫌悪感で潰れる。どうして君と違って俺は、こんな成長しかしなかったのかってさ……」
「……どうして、そんなに自分を卑下するの? 今の凛空君も、素敵だよ」
「どこにも素敵なところが見当たらないよ。少なくとも、君みたいな子に好意を抱かれる要素は、どこにもない」
「そんなことない! 絶対にない! 凛空君は、今でも素敵!」
 ガバッと立ち上がり、彩楓さんは力強い語調で否定してきた。
 彼女の目に、今の俺は映ってないのか?
「成績とかは普通かもしれないけど、家族を大切に想う優しい人だよ! それが何より大切で、私の理想なの!」
「そんなの、当たり前だろ」
「当たり前じゃないよ! 当たり前だったら、どれだけいいか……」
 辛そうに呟く彼女に、俺は察した。
 俺たちと同じ……父親に、見捨てられたのか。お母さんも、そんなことを言ってたな。離婚の時期がいつ頃で、経緯が何かまでは聞いてない。
 だけど、幼い頃だったら……。離婚する程の父親の問題が、下手したら生まれた時からあったとしたら。家族を大切に想うのは、彼女にとってもの凄く優先順位が高いことなのかもしれない。
「凛空君、私ね、頑張ってきたんだ。自分磨き」
「そう、なんだ」
 そう言えば、彩楓さんが転校してきたときに、クラスの女子と会話してたかもしれない。
 あの時は、確か……。
『どうしても、なりたい自分の理想像があったからね! 安くても栄養を意識したり、スリムになるストレッチとかジョギング。肌とか骨格形成も、理想へ近づけるように、詳しい人から教わって続けてたんだ』
 そうだ。そんな努力を、幼稚園の頃にはしてたとか言ってた。
 まさか、その理由って……。
「幼稚園の頃にね、私は聞いたんだよ? 凛空君は、どんな女の子が好きなのって」
 彼女が言う理想像。俺にとって百点満点の理想像になってるのは、まさか……。
「髪型も性格も、全部。全部、凛空君が好きって言ってたのを目指してきたの。幼稚園の頃から、ずっと変わらず思い描いて……。気がついたら、私のなりたい姿は全部、凛空君の理想と一致してたの。お陰で必ずなりたい。いや、なるんだって目標が、揺るがなくなってた」
 幼い頃の他愛もない会話。
 それを彼女は――一心に抱き続ける目標にしてたなんて……。
「私たち……約束、したんだよ? 私が凛空君の理想になれたら、結婚しようってさ……」
 そんなの、物心が付いてない幼い子供の口約束じゃないか。
 それぐらい分かるだろうに……。曖昧で、果たされる保証もない言葉を……。本当に、信じ続けてきたのか?
「どう? 私は、凛空君の理想の子に、なれたかな?」 
 切なそうに微笑む、クールな彼女の瞳から――茜色に照らされた涙が一筋、頬を伝っていく。
 幻想的なまでに美しい涙を見て、確信した。
 ああ……。最初から、言ってた言葉に裏も表もなかったんだ。
 ふざけてるのかと思えた、いきなりの『婚約してください』も、彼女の中では本気だったんだ。
 どれだけ一途で、想いが深いんだ。
 成長した俺を見ても、それでも揺らがないなんて……。普通は幻滅するだろう。そんな口約束、忘れてるだろう。
 お母さんが、俺が友達関係を提案してもムダだって言った理由が、よく分かった。
「凛空君、好きです。ずっと、ずっと昔から、今後もずっと大好きです」
 その瞳は、ちゃんと俺を捉えてた。
 背丈も、顔も……。幼稚園の頃の俺じゃない。ちゃんと、今の俺を見据えてる。
「幼稚園の頃から、想いが変わったことは一度もない。やっと凛空君に想いを伝えられるって……。初めて廊下でぶつかった時、思わず泣いちゃうぐらい大好き。どれだけ凛空君が自分のことを嫌いと言っても、私は今の凛空君も大好き」
 自分ですら大嫌いな俺を見て、それでも――好きだと言ってくれてる。
 自分と釣り合わないとか、そんなことは関係ないとばかりに。
「だから――私と結婚してください。……やっと、やっと伝えられた。お母さんとか抜きに、ちゃんと告白できたよ」
 指で涙を拭い、快活に笑った。
 こんなにも、幼い頃の俺が無邪気な会話の中で発した――好みのタイプになろうと、一生懸命に努力をしてきてくれたのに。
 その結果、百点満点の姿にまでなってくれたのに――俺はその間、何をしてたんだ……。
「君の想いは伝わった。言いたいことも分かる」
「じゃあ――」
「――でも、ごめん。凄く嬉しいのに、凄く苦しいんだ。……俺自身の問題で」
「ぁ……」
 顔が曇った彼女に、申し訳なさしかない。顔向けもできない。
 幼稚園の頃に戻って「お前の理想の子に相応しくなれるよう、努力を続けろ。彼女は、ちゃんとやるぞ」って……。殴って、言い聞かせたい。
 だけど時間は戻せない。戻ってくれない。今ある残酷な現実は、絶望的なまでに彼女と違う……。平凡か、それ以下の、自分で自分を大嫌いな俺だけだ。
 幼い頃だろうと、一度交わした約束の一つも果たせないような……。
 約束。そうだ、お母さんとの約束――この偽装婚約関係の継続があった。
 こんなことをお願いするのは心が痛むけど……。余命僅かなお母さんの願いを、断れない。
「都合のいいことだけど、この一時的な偽装婚約関係は……。お母さんが安心して旅立つまで、続けさせてもらえないかな? その後は、友達にだってなれると思う。親しい友達の一人ぐらいなら、一緒にいても辛くないと思うから」
「それは……。うん、私からお願いしたことだから」
 涙を拭いながら、何度も頷く彼女を見てると……心が軋む。
 喜んで付き合いますって……。彼女の隣にいられるぐらい自分に自信が持てたら、彼女を泣かせることもなかっただろうに。
 後悔先に立たずって言葉を聞いたことがあるけど……。
 中途半端な努力量で生きてきた俺自身が、改めて許せない。
「――うん、うん! よし、切り替えた! これからも婚約者関係ではあるんだよね!?」
 彼女は、本当に強い。心根の強さも、百点満点だと思う。
「……偽装、だけどね」
「それでも、一緒にいられるのは変わらないから! だったらチャンス、ピンチもチャンスだよ!」
 もう切り替えて、俺の理想であり……彼女も目指してきた快活な笑みで、前を向いてる。
 くよくよしてる俺とは、根本から差がありすぎる。
「凛空君が私のことを好きって言う未来を、諦めないから!」
 お母さんは、本当に娘さんの理解者なんですね。
 いつか……俺から徹底的に避けない限り、彩楓さんは本当に諦めないんだろう。
 そんな残酷なことを――俺が好きな子に、言えなんて……。こんなにも一途に想ってくれてる子を、徹底的に振れだなんて……。俺はまた、嘘を重ねなければいけないのか。
 俺が彼女の隣にいるのに相応しくないばかりに、嘘を吐いて「もう関わらないでくれ」なんて、言わなければいけないのか。
 かつて彼女が恋して、彼女が「こうなってるだろう」と恋した幻想のようになれなかった自分なんか、消えてしまえばいい。そう思わずにはいられない。
 その後、一緒に彼女の家に戻り「また来ます」と告げたときのお母さんは、一体どんな理由で笑ってたんだろうか――。
 夏休みも中盤。
 彼女は本当に、俺の言葉にもめげなかった。
 何も用事がなくてもデートに誘ってきたり、家で一緒に勉強しようと誘ってくる。
 肝心のお母さんに嘘がバレてる以上、外デートはもう必要ない。
 結果、夏の思い出は――彼女の家で一緒に勉強したり、家事をしたりだけになってる。
 彼女に相応しい男を探そうとしても、俺はそんなに友達も多くない。
 貴重な高校最後の夏休みを浪費させることが、申し訳なかった。
「――あ、このブロッコリー安い! 昨日より十円安くなってるよ!」
「本当だ。お母さん、ブロッコリー食べられるかな? 食欲がないって言ってるけど……」
「軽く茹でてから細かく刻めば食べられるよ! 凛空君が作ったのなら、食欲がないって言いながらも食べてくれるからね。本当、助かる!」
「味は普通だと思うんだけどね……」
 一緒にスーパーで買い物をする時間を、楽しいとか思ってはいけない。俺は、この偽装関係が終わったら……彼女と関係を断たなければいけないんだから。
「凛空君が作る料理は、お母さんにとっても特別なんだよ! 私や叔母ちゃんが作った料理だと、ほとんど食べられないからさ……」
 お母さんは、俺に気を遣ってくれてるんだと思う。
 それと……彼女に聞いたんだけど、引越バイトの時にいた女性は彼女たちの住むアパートのオーナー。彩楓さんにとっては叔母で、お母さんにとっては姉に当たる人物らしい。
 偶々お見舞いにきた叔母さんと遭遇した時は、あちらも俺を覚えていてくれて、すぐに受け入れられた。「挨拶のしっかりした引越バイトの子だった」と言って。
 お母さん的には俺は家族と違うから、作る料理を残すのは申し訳ないとか思ってるんだろう。
 だからお母さんは俺の作る料理は体調が優れなくても、ゆっくりでも食べてくれる。
 それが彩楓さんにとっても助けになってるなら、俺がいる意味はあるのかもしれない――。
 一通り食材を買い終え、アパートへと戻る。
 スーパーでも、周囲の視線は彩楓さんに向く。それだけなら構わないけど、イートインに座ってる素直な人なんかは「まさかカップルじゃねぇなぁ。似合わねぇからな」なんて、言葉にもする。
 そんなの誰より俺が分かってるけど、やっぱり心に来るものがある。
 怒って目付きを鋭くした彼女を止めるのが大変なぐらいだ。
「お母さん、ただいま!」
「戻りました」
 近所迷惑にならないように静かにドアを開け閉めしてるのに、大声で言ったら意味がなくなるだろうに。
 まぁ、この快活な声にお母さんも元気をもらえてるのかもしれない。
 苦笑しながら、キッチンで買ってきた食材を整理していると――。
「――お母さん!? ねぇ、どうしたの!? 大丈夫!?」
 悲鳴のような声が響いてきた。
「どうした!?」
「凛空君、お母さんの呼吸が変なの! 目も、私が見えてないみたい! どこかに手を伸ばしてて! どうしよう!?」
 涙目で狼狽する彼女に、ベッド上で虚空に手を伸ばすお母さん。
 ここまで聞こえてくる呼吸は、乱れに乱れきってる。
「すぐに救急車を呼ぶ……。いや、まずは訪問医療だったか! 連絡先が書いてある名刺、あったよな!?」
「う、うん。そこの棚」
 何度か訪問医療の人とも顔を合わせたことがある。
 そのときに、何か変わったことあればすぐに連絡をしてくれと話してたのを思い出した。
 急ぎ電話を繋ぐと、電話に出てくれた看護師らしき人は落ち着いて指示をくれる。
 言われた通りお母さんが呼吸をしやすい姿勢に整え、救急車を待った――。
 運び込まれた先は、緩和ケア病棟。
 処置を終えた後、今は空きがあるからと一時入院が許された。
 最初に彩楓さんを見かけたときは、中にまでは入ってなかった。病院としての機能はあるけど、落ち着いた場所だなと感じる。
「……彩楓、凛空君。迷惑をかけたわね」
「お母さん、大丈夫だよ。落ち着いてよかった……」
「……いつも悪いわね。本当に、本当にごめんなさい」
「謝らないでよ。凛空君が落ち着いて対処してくれたの。お母さんが助かって、本当によかった」
 彩楓さんが言うと、お母さんは俺へと視線を向けてきた。
「そう……。頼りになるわね。ありがとう、凛空さん」
「いえ……。俺は無難なことをしただけで……。結局、電話先の人に頼りっぱなしだったんで」
 俺は何もしてない。
 ただ電話を繋ぎ、本当に頼りになる人の指示通り動いただけだ。
「……彩楓。入院手続きと荷物、悪いんだけどお願いできる?」
「うん。これから受付に行って、入院セットも持ってくるよ」
「あ、それなら荷物ぐらい俺が――」
「――凛空さんは、残ってくれるかしら」
 荷物を持つぐらいしか役に立たない俺を、お母さんが止めた。
 家族以外は、もう帰ってくれとかなら分かる。でも……残ってほしいのは、何でだ?
「一人残されるのは、寂しいのよ。お話、付き合ってくれる?」
「……なるほど。それで俺が役に立つなら」
「じゃあ、彩楓。お願いね」
 お母さんと俺だけが残ることに思うところがあるのか、彼女は少し鋭い目付きで呻った。
 お母さんが苦笑すると、諦めたように彼女も部屋を出て行く。
 まぁ……前回二人きりになったときは、彼女と幼稚園で知り合ってたことをバラされたからな。彼女が警戒する気持ちも、分からなくない。
「我が娘ながら、焼き餅焼きね。本当、母親の血が強いわ」
「あれは、そう言うのじゃなかったような……。単純に変なことを話さないか、警戒してたんじゃないですかね?」
「はぁ~……。凛空さんも、女心が分かってないわね」
「男心すら分からないですから。……いや、自分の心すらも」
 自分の気持ちとか、どうしたいのかすら分からないんだ。彩楓さんの気持ちなんて、考えても考えても分からない。
 どうして幼稚園の頃の想い……。初恋と呼ぶのも怪しい年代の想いを、今でも抱き続けられるのかだろうか。俺には理解ができない。
「聞いたわよ。やっぱり彩楓とは、友達にはなれなかったみたいね」
「……はい。正直、なんで彼女ほどの子が俺みたいなのに固執するのかサッパリです。幼稚園に通う子供の口約束なのに」
 どこにでも転がってそうな、昔は『結婚しよう』と言ってた幼馴染みだったという話だ。ありきたりで、成長するにつれ互いになかったことになるような……。
 それなのに彼女は、再会できるかも分からない俺を想い続け、成長した俺を見ても想いは変わらないという。本当に理解ができない。
「あの子の想い、重いでしょう?」
 正確には、俺には荷が重いだろう。あんな魅力的な子に迫られたら、普通は喜ぶだろうから。
「乳歯一つ抜けただけで、凛空君の理想から遠ざかっちゃった。嫌われちゃうって大泣きしたり。鏡の前で笑顔やら歩き方とか身振り手振り、喋り方も録音してたり。美容体重を少しでも超えたら、戻るまでジョギングやめなかったりね……。母親の私から見ても、愛が重かった。というか、実の子供なのに怖かったわよ」
 それ、話していいのか? また、彩楓さんが嫌がるんじゃ……。
 いや、お母さんの気持ちを優先しよう。思い残すことを、少しでも減らしてあげたい。
「凄い努力というか、修練ですね」
「いえ、執念ね」
「俺はノーコメントで。……今の俺を見たなら、泣き叫んでそうですね」
 彼女が頑張ってるとき、俺は流されるままに生きてて……。自己否定の塊、ネガティブ感情に支配されるような男になってたんだから。
 自信が漲り、明るかった幼稚園生時代から幻想を膨らませてたなら、泣き叫ぶのが普通だ。
「そうね、咽び泣いてたわ」
「そうでしょうね。幼稚園生の頃に憧れた男が、今ではこんな――」
「――喜びに、咽び泣いてたわよ」
「なぜそうなる」
 思わず言葉が乱れて突っ込んでしまった。
 まずい、俺は病人に対して、何てことを……。
「あ、いや、言葉遣い、すいません。普通は幻滅と絶望で泣くでしょう? 私の努力は、なんだったんだって」
 慌てて言葉を言い直す俺に、お母さんは儚い笑みを浮かべた。
 その目は、どこか遠くを見ているようだった。
「母親のダメなところを強~く受け継いじゃったのよねぇ……。この先が本当に、心配だわ。変な男に捕まら……。いえ、捕まえないといいのだけれど……。父親のダメなところを受け継がなかったのだけは安心だけど」
 普通は変な男に捕まらないかを心配すると思うんだけど……。
 思い込みというか、一途で積極的な彼女を見てると頷けてしまう。
「恋は盲目って言葉があるけど、本当ね」
 周りが見えなくなるってことか。確かに、彩楓さんの言動を思い返すと相応しい気がする。
 盲目的になって、俺が魅力的に映ってたり……。
「特に私は、ダメだったわ。あの人が出て行っても、しばらくは帰ってくるとか思ってて……。病気になって、それでもメッセージは無視されてね。やっと手紙が届いたと思ったら、サイン入りの離婚届だったのよ」
 突然、お母さんの壮絶な家庭事情を語り始めた。
「内縁関係で結婚になって、諦めたのか婚姻届にサインをくれてね。嬉しいって舞い上がってた頃の自分の目を覚させてあげたいわ。――その男は、正真正銘のクズ男だ。娘の名前すら考えてくれないで、私の稼ぎを待つヒモになるからってね」
 それは、お母さんが言うようにクズ男だ。いくら俺でも、そこまでのダメ男ではない。
 精々が一緒にいるだけでネガティブな感情になるぐらい。……今はまだ、そこまで腐ってない。
「付き合ってたときは紳士でいい男だったし、境遇に同情するところもあったのよ。大地主で事業家の家に産まれてね。だけどお爺さんの代で事業が大失敗して、残った資産も全て売り払わなきゃでね。何不自由なく、お手伝いさんに全てをやってもらってた我が儘の世間知らず、常識知らず……。そんな男が突然、普通に社会で働けなんて言われてもねぇ」
 想像も付かない。だけど、自分の常識が突然崩れ去ったということだろう。
 持つ者が、突然に持たざる者へなる。
 最初から持たない者より、その苦しみは強いのかもしれない。
「人に謝ることもできないプライドの高さで、すぐ喧嘩とか問題を起こしてクビになってね……。唯一の取り柄だったルックスも、彩楓が産まれる頃には衰えてね。どんどん自分に自信がなくなったのか、やさぐれちゃったのよ。より怠惰で暴力的になっていったわ。……それでも改心して、いつか昔みたいな紳士に戻ってくれるとか信じちゃってた」
 このエピソードを聞いてると、やっぱり親子だなぁとか……。失礼ながら思ってしまう。
 もしかしたら彩楓さんも俺が改心……。いや、昔の俺のように無邪気で自信溢れてた幼稚園生時代に戻るのを信じてくれてるのか? 
 そうだとしたら応えたいけど……。俺は、どうすればあの頃に戻れる?
 競争社会で長く結果が振るわなかった結果、俺も随分と歪んでしまった。
「唯一、感謝してるのは……。あの人がいたから、彩楓が産まれたことね」
 お母さんは、しみじみと言葉を発した。
 そのゆっくりとした言葉からは、深い慈しみのようなものを感じる。
「あの子は、私の唯一無二の宝……。幸せになってほしい、大切な子なの。……凛空さん。彩楓と嘘で付き合うの、嫌なんでしょう?」
「…………」
「その顔、嫌というより……辛いって表情ね」
「……分かるんですね」
 それだけ、顔から滲み出てたんだろうか。全く自覚がなかった。
「経験よ、これも。自分の評価は、簡単には上げられないわ。叔母ちゃんだって、自己評価は凄く低いんだもの。余命に縋ってないで、いっそ今すぐ……。何て言うと、緩和ケアで精神の苦痛を和らげてくれる人たちに失礼よね」
「お母さんは……。優しくて、娘想いで、素敵な方です」
「ふふ……。そういうことよ。自己評価と他者評価は、一致するとは限らないの。それが時に凄く自分を苦しめる」
 分かるかもしれない。
 お母さんのことを、俺は素敵だと思ってる。人格者だと思ってる。だけど本人は、自己嫌悪で自己評価が低くなってるように感じる。
 俺にも、同じようなことが言えるんだろうか? 本当に、俺にもいいところがあるんだろうか。
「どうしても辛ければ――あの子を捨ててね。私は大丈夫だから、嘘は止めてもいいわ」
「え……。でも、約束が」
「叔母ちゃんのことは気にしないで。彩楓のことも大丈夫。……変な男に騙されるぐらいなら生涯一人で幸せを掴みなさいって、あの子には遺言を残していくから」
「…………」
 一生独り身を彩楓さんが望むのなら……俺だって、それでもいいと思う。
 だけど彼女は、こんな俺と結婚することを……どうやら本気で望んでくれてる。
 顔合わせの日、お母さんが言った『凛空さんが本当に彩楓を愛してくれてたら、安心だった』という言葉が、胸で疼く。
 愛してるか、愛してないか。
 そんな簡単にはいかない。パートナーとして結婚するなら、対等でなければいけない。
 それなのに、俺はどんな分野でも彼女と対等に立てる気がしないんだ。
 立派に成長した彼女と一緒になるのが、ただの寄生に思えてしまう。
 俺は、俺を……変えなければいけない。
 でも、凡人の壁は分厚くて……今まで何度チャレンジしてもダメだった。
 その壁を破れたら、その時は……俺は、俺を認められるだろうか。
 忌まわしい程に低い自己肯定感から、解放されるのだろうか。
 彼女と……一緒にいるのを恥じなくなるんだろうか。
 好きだとか、恥ずかしげもなく言える日が来るんだろうか……。
「凛空さん、よく聞いて。――若ければ、負けたくない、負けて悔しいって思うのは当然なの。健康的でさえあるわ。その惨めさと悔しさという想いはね、立派な大人に成長させてくれる肥料なの」
「立派な大人って、何でしょうか? 俺には……お母さんとか、彩楓さんみたいに立派な成長像が浮かびません。俺の母も立派だと思いますけど……。どこを目指せば、立派になれるんでしょうか?」
「立派にも色々な形があるわ。悩みながら諦めず頑張る凛空さんにも、いずれ分かる日がくるわ」
「俺は……立派な人間に、変われるんでしょうか? 自分に自身を持って、誇れるような……。劣等感に悩まされない自分に」
 変われるなら、変わりたい。
 今からでも努力で……。長く自分を苦しめてきた凡人の壁を破れない、結果が伴わない自己否定感が軽減するなら、努力する。
「変わろうと思って動き続ければ、きっと変われるわ。……自分に自信を持って、持ち続けてあげてね。それをちゃんと伝えるのが、叔母ちゃんの最後の仕事かもしれない。もう役目を終えて、あとは静かに死を待つばかりだと思ってたけど……。最後に仕事――役割をもらえて、嬉しいわ」
 本当に嬉しそうに、お母さんは騙った。
 動くにしても、明確な目標がない。ここを目指すという理想像が見えない。
「よく大人の言うことを子供は聞けって言うじゃない? 大人にも色々いるから、それは一概に正しいとは言えないわね」
 学校で一般的に言われる言葉を、お母さんは否定してきた。
「大人の大半は、どうすれば社会で上手く立ち回れるかを学んでる経験値が多いの。大半が社会に出ると、自分にできる限界に諦めていくから。電車、街……。色々なところで、背を丸めて目を曇らせ疲れてる大人を見たことない?」
 見たことがある。通学の時、土曜日の電車。至る場所で、目にする光景だ。
 目に光がなく、疲れて諦めたような瞳。あの人たちは立派だと思うけど、同時に何かを諦め受け入れてるのかもしれない。
「そういう意味では、青春時代から自分の限界から目を逸らさずに受け止めて、惨めだ、悔しいと感じてる凛空さんには期待しちゃうわ。悔しさを覚えて、どうすればいいのかって考えるのは、素晴らしい青春だと叔母ちゃんは思うわ。そんな青春時代を過ごしてる凛空さんは、誰にも誇れる、立派な大人になってくれるんじゃないかなって期待しちゃう」
 そんな期待をされても……。悩んだ先に何があるのか、俺には分からない。
「叔母ちゃんね、凛空さんの心に響くように伝えたい。凛空さん自身の魅力に、気づいてほしいな。……自分を認められない凛空さんを、変えたいの。ごめんね。偉そうで、嫌な気分にさせちゃった?」
「いえ……。本当に、ためになる話をありがとうございます」
「愚痴にも付きあってもらっちゃった。一度、あの元旦那について誰かに愚痴を言いたかったのよね~。酒とギャンブルにハマって、人の金を使い込むな! 親権を争うぐらいには娘を愛せ! 婚約指輪か結婚指輪のどっちかぐらい寄越せ!」
「あの……声が大きいかなって」
 よっぽど長年のストレスが溜まってたんだろう。
 さっきまで苦しんでたとは思えない程の大声で、言い放った。
 そして今は、凄くスッキリとした表情をしてる。
 まぁ……愚痴を吐く相手になれただけでも、よかったのかな? 俺が残った意味は、あったのかもしれない。
「戻ったよ! 凛空君、まだいるよね!? いるね!」
「あら、彩楓。ありがとう。凛空さんのお陰で、凄く楽しい時間をすごせたわ~。スッキリしたし、まだ生きなきゃって目的までもらえちゃった」
「え!? それは嬉しいんだけど、何の話!?」
「二人だけの秘密よ」
 悪ふざけをしたお母さんは、俺の腕を抱き寄せた。お母さんのニット帽、頬の温かな温もりが俺の腕に伝わってくる。まだ生きてる温もりが、ちゃんと伝わってくる。
「何、それ!? お母さん、私の気持ち知ってるクセに!」
「あんたがモタモタしてるから悪いのよ。早く骨抜きにしてみせなさい」
「やってるよ! 私なりに、精一杯自分の想いを伝えてるもん。いいよ……。こっから、もっともっと本気で攻めるから!」
「その意気よ。――だけど、捨てられたら潔く諦めなさい」
 お母さんも面白い人だな。家族仲がよさそうで微笑ましい。
 この二人が、もうすぐお別れになるなんて……考えたくもない。
 俺にとっては誘惑に負けそうになるような、怖ろしい会話が繰り広げられてるけど……。流されて周囲や自分を傷付けないように、気を付けなければ。
 立派な大人の理想像、目指すべき姿は浮かばない。
 それでも、元旦那さんの話は本当にためになった。決して他人事じゃない。
 そうはならないぞと、肝に銘じなければ――。
 数日後、お母さんは退院となった。
 また俺はアパートに行ったり美穂と遊んだり、家事をしたりの日常に戻る。
 そんな中、俺は遂に――中の中な存在でもなくなってしまった。
「……成績、落ちた。まぁ当然か」
 夕食を作り終えた後。
 ネットでできる模試で自分の実力を確かめると、今までは見事に中間だった点数が、いくつか落ちた。遂に成績は中の下になった。
 それも当然だ。今までは努力をしても、中の中だったんだから。
 ここのところは彩楓さんと勉強はしてても、テスト対策とか模試対策はしてなかった。
 模試の成績が下がって当然。だけど……元旦那さんの話を聞いてから、できないのを当然としてしまうのが怖くなってる。
「はぁ~……。俺も、ろくな大人にならないのかなぁ……」
 パソコンディスプレイに映る模試の判定から目を逸らすように、机に突っ伏す。
 そんな時、机の上に突然振動が鳴ってビクリと身体が起きる。
「彩楓さんからか? えっと『お母さんとダブルで風邪引いた。叔母さんもいない。助けて』って……。おいおい、それは大丈夫なのか!?」
 認識した瞬間、ガバッと立ち上がる。
 彩楓さんが俺に助けを求めるぐらい、二人とも体調が悪いのか!?
 買い物からアパートに戻ったとき、苦しんでたお母さんの表情が脳裏に浮かぶ。
 慌てる彩楓さんの表情、医師から落ち着いたと言われ安堵する様子が蘇ってくる。
 あんな日々を、お父さんもいない中、家で付きっきりで見ていた彼女は……。
 一体、どれだけのストレスと緊張の連続だったんだろう。
 今まで体調を崩さなかったのが不思議なぐらいだ。
「美穂! ごめん、ちょっと彩楓さんの家に行ってくる! 留守番よろしくな!」
「彩楓お姉ちゃんの家? うん、行ってらっしゃい」
 急ぎ靴を履いていると、美穂の部屋から不安そうな声が返ってきた。
 帰ってきたら、ちゃんと説明しないとな……。
 今は兎に角、急がないと!
 しっかり施錠をした俺は、全力で走って彼女の住むアパートへ向かった――。
 意気を切らせながらも、足を止めずに数十分。
 震える足で上る屋外階段に、足が悲鳴を上げてる。
 あと少しだ、動け、動け! 足を叩き、一刻も早く辿り着くために無理やり動かす。
 やっと部屋の前に辿り着き、インターホンを鳴らすが……誰も出て来ない。
 出られないぐらい、状況が悪いのか!? ドアノブを回すと、鍵がかかってなかった。
「失礼します! 風間です、平気ですか!?」
 電気も付いておらず、暗い室内へ踏み込む。
 電気はどこだと、恐る恐るダイニングキッチン辺りを歩いていると――。
「――いた、い……」
「うわっ!? えっ!?」
 足下にフローリングとは違う、柔らかな違和感があった。
 壁に手を突き、スイッチらしきものの感触がある。
 飛び出したスイッチを押すと、室内に明かりが灯った。
「え!? あ、彩楓さん!? 何でキッチンに布団を敷いて寝てるの!?」
「おはよう……。来てくれたんだね、ごめん。寝ちゃってたみたい」
 ダイニングキッチンに敷かれた布団で、足の辺りを押さえる彩楓さんの姿が見えた。
 あ、もしかして……。俺が彩楓さんの足を踏んだのか!?
「ごめん! 俺が踏んだんだよな!? 痛みは!? 風邪は!?」
 身体を起こそうとする彩楓さんに「寝ててくれ」と促しながら、慌てて尋ねる。
 すると彼女は風邪で火照ったような弱々しい表情で……。
「大丈夫、来てくれてありがとう。私はそんなに熱ないんだけど……。治療で免疫力が落ちてるお母さんには、近付かない方がいいかもって言われて……。料理も、直接はできないんだ」
「そっか……。動けるようで、まずはよかった。ほら、これ飲んで」
「……ありがとう。助けとか協力を求めてばっかりで、ごめんね」
 風邪に効くかなと思い途中で清涼飲料水を買っておいてよかった。
 マスクを少しズラして、美味しそうに飲んでる。
「熱は何度ぐらいあるの?」
「ん~、三十七度五分か、ちょっと上ぐらい?」
「十分、キツイだろ」
「私より、お母さんがさ……。ご飯も食べてくれなくてね、熱も下がらないで辛そうなの」
 そうか……。普段でも食欲がないんだ。熱があるなら、余計に食べたくないんだろう。
 彩楓さんは料理ができない状態だし、それなら俺が作ろう。
「分かった。マスクもらうね。あと、台所を借りるよ」
 洗面所で手を洗った後、今では随分と慣れた彼女の家の中を歩き回る。お母さんが寝てるなら、起こさないようにと音を潜めながら。
「あっ。ウイルス感染とかの関係で料理はできないって言ったけど、でも洗い物ぐらいなら――」
「――いいから、大人しく寝てろって」
 起き上がろうとする彩楓さんを無理やり横にさせる。
 エプロンを身につけると――。
「――凛空さん? 来てくれたのね……。ごめんなさい、私がこんな状態なばっかりに……。本当に、ごめんなさいねぇ……」
 少しだけ開いたドアの向こうから、お母さんの声が聞こえた。
 起こしちゃったか……。料理ができるまでは、眠っててほしかったな。
「すいません、お邪魔してます。食べやすい物を作るので、休んでてください。そんな上手くはないですが」
「迷惑、かけるわねぇ……。ありがとう」
 暗い寝室から辛そうな声が僅かに聞こえてくる。
 ウイルスとかを気にしてるなら換気扇だけじゃな不安だよな。小換気ぐらいはしておくか。
 窓を小さく開けて、新鮮な空気が入るようにする。
 人と大きな道路が多い上尾の空気だと、車の排ガスも混じってそうだけど……。全く換気しないよりは、いいだろう。
 冷蔵庫の中身を覗き込めば、中身は充実してる。
 お粥とか、水分多めの料理がいいだろうな。冷蔵庫で数日は保存が利きそうな物も、一緒に作っておくか。
 一先ず、水分と栄養。そして食欲が問題だ。梅粥と卵粥を同時に作るか。
 こうやって病人向けに料理を考えてると、何だか……思い出すな。美穂がもっと幼いころ、風邪を隠してたとき、いつもこうやって栄養が摂れて、すぐに食べられる料理を考えてた。
 自分の家族にやってきた経験が活きるのは嬉しいもんだ。
 そんなことを考えながら米を磨いでると、後ろで寝てる彩楓さんの呟くような声が聞こえた。
「なんか、いいなぁ……」
「ん? 何がだ?」
「こういう空気感っていうのかな? 弱ったときに好きな人たちに囲まれて助けてもらう家庭……。身体は辛いのに、なんか幸せなの」
「それは……。確かに、彩楓さんは弱ってるみたいだな」
 お父さんからは、こういう風に料理をしてもらったことはないのかな?
 ないんだろうなぁ……。前にお母さんが愚痴混じりに話してたのを聞く限り、絶対にやらなそうな人物だ。
 いつか家庭を持つ機会があったら、俺は子供やパートナーに手料理を振る舞える自分でありたい。その頃には、料理も上手い部類に入れるようにしてな……。
「よし、完成。お皿とスプーン、借りるよ」
 どこに何があるのかは、もうこれまでに通った経験から把握してる。
 というか家主じゃなくて、俺が取りやすい位置に調理器具やら食器を置いてくれてるぐらいだ。
 我ながら、随分と余所様の家庭に馴染んじゃったな。そんな普通じゃない状況に苦笑しながら二セットの食器を取り出すと、彩楓さんの優しい声が後ろから聞こえてきた。
「ありがとうね、凛空君。まずは、お母さんにお願い。食べるの時間掛かるし、自分だけだと口に運んでくれないと思うからさ」
「あら、失礼ね。凛空さんの手料理なら、ちゃんと食べようとは思うわよ」
「思うだけかもしれないでしょう?」
「……娘には普段の行いがバレてるから、嘘はつけないわねぇ」
 ドア越しでも、ちゃんと親子の会話をしてる。
 小さいアパートの寝室とダイニングキッチンだからこそ、できる会話か。
 一軒家や大きなマンションに住んでなくても、こんなに温かな会話ができる家庭は――確かに、幸せなのかもしれない。
 お母さんがちゃんと食べられてなければ、彩楓さんも心配で食事が喉を通らないかもしれないな。
 言われた通り、お母さんへ先に食事を運んでいく。
 電気をつけると、お母さんはこの短期間でまた……骨張ったように見える。
 肌の色や全身から感じる生気が、以前より弱く感じる。
 それでもコチラへ微笑みかけながら「ありがとう」と声をかけてくれる。
 その姿が愛おしくて……。大切にしたいと感じる。
 食べやすいようにベッドの背中を上げると、お母さんと同じ高さで目が合った。
 生気がなくても、綺麗な瞳だ。人の良さが滲みでてる。
「少しずつ、どうぞ」
 お盆に載せた料理の中から、梅粥を少しスプーンですくう。
 そっと口まで運ぶと、何度か咀嚼してから――飲み込んだ。
「食べた! お母さん、やっと食べてくれた!」
 歓喜の声に振り向けばドアの隙間から這いつくばってきた姿勢の、彩楓さんの顔が少し見えた。
 寝てろと言ってるのに……。まぁ、心配なのか。これで安心してくれるなら、いいだろう。
 ゆっくり四十分間ぐらいかけて――お母さんは一食分をしっかりと食べきってくれた。
 嫌がりつつ薬も飲んでくれたし、これで体調が上向くことを願おう。
 ほっとしながら食器を片付け、彩楓さんの分を温め直す。
 お盆に載せ、彼女の寝る布団の横へ置いた。
「お待たせ。あんま上手くない手料理だけど、食べられるか?」
 それだけ言って隣に胡座をかくと――彼女は少し、拗ねていた。
「何だよ、その目は? 食べたいものがあるなら、言えって。俺に作れそうなものなら、調べながらでも作りなおすから」
「……違う」
「じゃあ、何だよ?」
 犬のように、うーと唸りながら鋭い目付きで睨む彼女は、やがて口を開き――。
「――私にも、食べさせてくれないの? あーんは?」
「食べたくないなら、俺が食べてもいいんだぞ」
 そんな、間抜けなことを言った。
「えぇ~酷くない? お母さん程じゃないけど、私も弱ってるんだよ?」
「冗談だ。ほら、口を開けろ」
「ありがと、大好きだよ」
 直球すぎる好意は……俺の自己肯定感の低さを更に加速させるんだけどな。
 こんな……本当に恋人同士みたいなことをしていいのか? 俺は彼女を、ズバッと突き放せるんだろうか。
「あらあら、仲がいいわねぇ~。さすが、婚約者同士ね。お互い十八歳以上だし、私のいないところで婚姻届を勝手に出してそうね?」
 事情は理解してるだろうに、お母さんまで茶化してくる。
「精神的には、もう入籍してるんだけどね」
「残念ながら、婚姻届は物理的なものだ」
「残りの物理的な障害は薄いね! 紙一重の差だ!」
「その紙が社会的に厚くて重いんだっての」
 ふざけてるのか本気なのかは分からないけど思わずツッコミを入れてしまう。
 というか偽装婚約だって前提を忘れるな。
 彩楓さんとお母さん、二人の笑い声が小さな部屋を包む。
 すると、彩楓さんが苦しそうに口を押さえた。
「けほっ、けほっ……」
「ほら、まだ体調治ってないのに、ふざけるからだぞ。大人しく寝なさい」
「……うん。ねぇ、凛空君?」
「何だ?」
 横になりながら、俺を見上げてくる。
 熱で少し潤んだ瞳は、卑怯だ。そんな目をされたら、突き放せなくなるだろうが……。
「……眠るまで一緒にいてってお願いしたらさ、迷惑だよね?」
「……迷惑じゃない。それぐらいなら、俺にもできるから」
 凡人でしかない俺でも、普通にできることだ。
 お母さん本人には、もうバレてるけど……。彩楓さんは、まだ偽装婚約関係はバレてないと思ってる。それなら、病気で弱った婚約者が眠るまで一緒にいてくれと頼むのも普通だろう。
 彼女が本心から俺を好きって知ってるから……少し、複雑な気分だけどな。しかも、さっき――模試の結果で彩楓さんに相応しくないって再認識した直後だから、余計にだ。
 それなのに……。何でだろう。弱った彩楓さんの願いを、叶えたい。分不相応だと分かってるのに、何でもしてやりたい。
「急に黙っていなくなったりしない? お父さんみたいに、さ……」
「俺は普通の男だから、最低ではない。……今は、な。いいから、安心して寝ろ」
「うん……。凄く、安心」
「眠るまで、だからな」
 彩楓さんは、不安なんだろう。きっと過去には、お父さんが黙って家からいなくなった経験があるんだろうな。
 彩楓さんは満点ではあるけど、完全無欠じゃない。
 満点と完全無欠。凄く似てるようで、人の場合に置き換えると少し違う。
 完全無欠な人間はロボットのようで……ある意味、その不自然さが満点から遠ざける。
 諦めが悪くて、感情的で彼女の自然な欠点は――人間らしさとして、やっぱり満点だと思う。
 こちらに手を伸ばしてくる彩楓さんの手を、そっと握る。
 穏やかな笑みを浮かべながら目を閉じると、すぅすぅという寝息が聞こえてきた。
 やっぱり、普段から相当に疲れてたんだろうな……。自分磨きに、お母さんの介護。他にも色々と頑張ってたに違いない。息を抜く暇なんて、ほとんどなかっただろう。
 伝わる手の温もりに、思わず瞳が潤むのが分かった。
 何で、こんな満点のいい子が……。俺なんかに毒されちゃったかな。
「凛空さん、今日は本当にありがとう。彩楓、もう寝たんでしょう?」
「姿が見えないそっち側からでも、分かります?」
「分かるわよ。大切な娘の寝息を、ずっと昔から聞いてたもの」
 産まれた頃から、ずっとそばにいたお母さんの言葉だと納得する理由だ。
 大切な親子の絆は、心以外でも繋がってるんだな。
「凛空さん。叔母ちゃんにとっても彩楓にとっても……。凛空さんはかけがえのない、唯一無二の存在なのよ。今日の一件で、よく伝わったでしょう? 自分に自信、持てたかしら?」
「……すいません」
「そう……。残念ねぇ。本当に、残念だわ」
 心が痛い。こんな好意、認めてくれる言葉。素直にうけれ入れられない自分が――改めて情けない。
 せめて、何か一つ。俺にとっての百点満点に成長した彼女の隣に立つに相応しい、自信が持てる何かがあれば……。
 彼女ほど努力してこなかった自分が悪いから、今さら考えても仕方がない。それなのに、ここ最近は優れた自分と、彼女の隣に立つ自分の妄想ばかりしてしまう。
 そうなれば、どれだけ幸せだろうって……。
 ダメだ。妄想と現実の差に、辛くなってきた。
「……食べやすいもの買ってきて、そろそろ帰ろうと思います。プリンは食べられそうですか?」
「大好物よ。私たち二人とも、ね」
「そうですか、よかった。鍵は――」
「――そこの棚に入ってるわ。持って行って。帰りだけ、閉めてポストに入れてくれる?」
 安心して鍵を渡してくれるのか。まるで本物の家族みたいに信頼してくれるじゃないか……。
 俺の前で安心して眠ってしまう彩楓さん。家の鍵まで預けてしまうお母さん。
 自己肯定感の低さで、居心地の悪い俺。
 どうしたものかと悩みながら買い物をして、静かに冷蔵庫へプリンを仕舞う。
 お母さんも眠ったのか、寝息のみの暗い部屋を後にして、ポストへ鍵を入れる。
 アパートに背を向け、ゆっくり歩きながら自宅へと戻った――。
「――凛空、お帰り」
「ただいま、美穂。何か食べるか?」
「ううん、冷蔵庫にあったのをチンして食べたから。それより凛空の部屋に行きたい。遊びたい」
「そっか、分かった。美穂が思う存分、遊ぼうな」
 念入りに手洗いうがいをしてから自室へ向かう。
 家の中でも離れずついてくる辺り、美穂も素直になったと思う。
 家出前は大人ぶってたのか、ここまで甘えてこなかったから。家族として、寂しいというのを直接的に見せてくれるのは嬉しい。
 自分の部屋のドアを開け、電源ボタンが点滅してるパソコンを触ってから――気がついた。
「あ……」
「凛空。これ、テストの成績?」
 スリープ状態のパソコンを再起動しちゃったけど……。この画面のまま、家を出たんだった。
 ネットでできる模試の判定。平凡如以下に俺がなってしまったと示す結果が映ってる。
「……情けないお兄ちゃんで、ごめんな」
「これ、情けないの?」
「情けないよ。……彩楓お姉ちゃんなら多分、もっともっと凄い成績を取ってるからな」
 彼女の隣に立つのに相応しい男になれたら、もっと自信を持てただろうに。
「俺がもっと優秀なら……。彩楓さんの隣にいれたのかな。ちゃんと目標を持って、小さい頃から頑張ってたら、自分で自分のことを認めて……。皆からも褒められるようになってたのかな……」
 思わず、美穂に聞いてしまう。
 まずいな。大人びてるとは言っても、美穂だって小学校六年生の子供だ。
 俺は高校三年生。一八歳にもなって、何をみっともないことを聞いてるんだろう。
 美穂だって、呆れたのかキョトンとした顔をしてる。
「凛空は、どうしたいの? 私が頑張るのは、陸とお母さんに褒めてほしいから。他はどうでもいい。どうでもいい誰かに褒められたいものなの? それ、本当に嬉しいの? 百人に褒められるより、お母さんや凛空に褒められた方が嬉しい」
 美穂の言葉に、俺も疑問に思う。
 正直、分からない。百人に褒められた経験も、皆に認められた経験もないから。
 だけど――家族や大切な人から褒められて、認められる。それが嬉しいことは、言われてみれば知ってる。知ってた。
 美穂や母さんに頼られ、求められ、褒められること。彩楓さんやお母さんに頼られ、求められ、褒めてもらえること。
 それは――他の誰に認められるよりも、嬉しいのかもしれない。
「大切な人……。好きな人に褒められるのは、嬉しいのかもね。……でもさ、俺は弱いから。周囲の言葉が気になって、目線が気になっちゃうんだ。自分で自分が嫌になるぐらい、な。普通以上にはなれない自分が、許せないよ」
 せめて普通以上なら――俺の好きな人と、一緒にいられたかもしれない。
 好きで堪らない一途な子の隣で、素直に笑えてたかもしれない。
「凛空は、自分に厳しい。もう、自分を許してあげたらいい。普通って、そんなにダメなの?」
 普通が、ダメか?
 そんなの……ダメではないけど、よくはないって評価だろう。
「何もしないのはよくないって私も思う。でも凛空は、頑張ろうとしてる。結果は知らない。でも……諦めず頑張り続ける凛空は、立派」
 俺が、立派だって? 美穂はまだ小さいから、そう思うんだろう。
「美穂も中学校、高校に入ったら分かるかもな。段々と、行動だけじゃなくて結果も大切なんだってさ。……いや、美穂は優秀だから、皆にどう思われるかとか気にせず、自由に生きられるといいな」
 学校という小さな社会の中で、周囲の目を気にせず自由に振る舞える。
 そんなカースト上位の……彩楓さんのように。
「俺みたいに、自分で自分を嫌いになったらダメだぞ。俺は、悪い見本だからな」
「皆にどう思われてるかは知らない。だけど、自分ぐらい許してあげてもいいと思う。自分で自分を許せないなら、その分は私たちが許す」
 本当に、美穂は優しくていい子に育ってくれてる。
 でも……。
「私たちって? 母さんか?」
「違うよ。――凛空が一番、好きな人」
「……え?」
 俺の、一番好きな人?
「凛空は全部一番じゃなきゃ嫌だって――彩楓お姉ちゃんは、言ったの?」
 美穂の言葉に息を飲んだ。
 言われたことがない。一度も、そんなことは求められたことがない。
 思えば……幼稚園生時代にも特段、優れた能力なんてなかったはずだ。
 だったら彩楓さんは――俺のどこに、惚れたって言うんだ?
「……好きって、難しいな」
「うん、難しい。私が母さんや凛空を好きな理由も、説明できない」
「だよなぁ……」
 俺が――彩楓さんを好きな理由だって、後付けだ。
 好みのタイプだから、好きなのか。
 勿論、否定はしない。幼い頃の彼女がそうなろうと努力を続けてくれたのが、好きという感情を抱く一因になってないはずがない。
 それでも――だったら幼稚園の頃の俺は、何で好みのタイプでもなかった彼女と、結婚しようなんて約束を交わしたんだ?
「美穂は――好きだから、好き。好きな人が幸せになってくれるために、努力をしたい。そう思う」
 胸がドクンッと、大きな音を立てた。思考が頭を駆け巡り、涙が滲んでくる。
 俺は……本当に、アホだ。最低の、クズ男だ。
「凛空? 苦しそうな顔。大丈夫?」
「大丈夫だよ、美穂。心配してくれて、ありがとう」
「本当? 無理、してない?」
「本当だよ。――ただ、決意が固まっただけだ」
 不思議そうな顔をしてる美穂の頭を撫でて、ギュッと抱きしめる。
 できすぎた優秀な妹の熱を、腕の中で感じる。
「……凛空、暑い」
「まだ夏だからな」
 言葉とは裏腹に、美穂は俺から離れようとはしない。
 感謝の気持ちで抱きしめたけど、やっぱり寂しかったんだろう。
 冷房をつけてても、暑いものは暑い。
 互いに、じんわりと汗をかいてくるまで、美穂は離れなかった――。
 夏休みも、今日で最終日。
 まだまだ歩くだけで汗が垂れる暑い日が続いてるのに、長期休みは伸びてくれない。
 視界がぐらつく程に厳しい猛暑の中、俺は事前にメッセージで交わした約束通りに彼女のアパートを訪れた。
「凛空君、いらっしゃ――ど、どうしたの!? 凄い汗、目の隈も! 寝不足!?」
「ちょっと、ね。それより、お母さんの状態は?」
 俺がお母さんのことを尋ねると、顔を掴んで心配していた彼女の視線が落ちた。
「……元々、秋は迎えられないだろうって言われてたからね。痛みとか、幻覚とか……。色々と苦しむ頻度が増えてるかな」
「そっか……」
 弱ってる身体を見ると、よく頑張ってると思う。
 これは、今以上に急がないといけないな……。
 間に合わなかったじゃ絶対に済まされない。もっと危機感を持って、追い込まないといけない。
「今も薬の副作用なのかな? 寝ちゃってるけど、会っていくでしょ?」
「いや、止めとく」
「――ぇ?」
「ちょっとさ、この間の公園で話さない? お母さんが寝てるうちに、すぐ終わるから」
 俺が家に上がらないと言った言葉が意外だったのか、彼女の瞳が不安そうに揺れた。
「え、すぐ終わる話なら、ここでも……」
「ここじゃダメなんだ」
「……分かった」
 か細い声で、彩楓さんは同意をしてくれた。
 いつものようにカラッと晴れた青空のような笑顔が消えたのを心苦しく思いながら、公園に向かう。
 彼女が過去の想いと、今の俺への想いを伝えてくれた公園へと――。
「――偽装婚約関係を、終わりにしたい」
「……なん、で」
「……ごめん」
 消え入りそうな声、顔から血が引いた彩楓さんの疑問に、謝ることしかできない。
 今すぐ、土下座したい。
 だけど俺には、俺の……目標ができてしまったんだ。
 理解してくれとか、偉そうなことを言うつもりもない。
 ただ、これまでのツケが回ってきただけだ。
「都合がいい話だけどさ……。お母さんに何かあったら、呼んでほしいんだ。俺にとっても、もう他人とは思えない人だから」
「そう思ってもらえるのは、嬉しいけど……」
 お母さんの最期は、悲しいことに近いらしい。
 ずっと前から言われてたことなのに、仲良く言葉を交わし合ったから……。立ち会えないのは寂しすぎる。――それに、言いたいことだってあるんだ。
「お、お母さんの前では、偽装婚約関係を続けてくれるってこと?」
「……そう、とも言えるのかな」
「じゃあ、これまで通り家に来てもらうのは!? せめて、家デートだけでも――」
「――それは、ごめん。俺は……やりたいこと、やらなきゃいけない目標があるから」
 頭を下げた俺の身体が――横にぶれた。
 目を上げると、肩に縋り付き涙を流す彩楓さんの姿がある。
 本当に……。いい子だよな。こんな俺を想ってくれてるのが、痛い程に心へ伝わるよ。
 だからこそ――彼女を、そっと引き剥がした。
 だけど彩楓さんは、諦めないとばかりに腕を掴んできた。
「待って! お願いだから、待って!」
「…………」
「私のこと、嫌いになっちゃった!?」
「違う。それは違う」
 濡れた彼女の瞳を見つめ、首を振る。
「だったら、私が弱味を見せたからかな!? 今の私、凛空君がタイプな明るくて、安心出来て、見ていて元気になるような子じゃなかった!? だったら、待って! もう一回直すから――」
「――そういうことじゃない。違うんだ。……君は、何も悪くない」
「……私が、悪くない? じゃあ……」
 蚊の鳴くような声で目線を右往左往させた後、彼女は視線を僅かに下げた。
 俺を掴む指先が、小刻みに震えてる。
「じゃあ、さ。前に話してた……自分のことを、認めてあげられないから? 凛空君の自己肯定感が低いから、なの?」
「……そう、だね。それも関係ある」
「だったら、私が認める! 他の誰が凛空君の悪口を言ってても、黙らせるから! 私が他の人の分まで、凛空君を肯定するから! いいところを一杯言う! だから、お願い……」
 切ない程に狂おしい、彼女の懇願。
 掴まれてた腕を、そっと解き――。
「――ごめん、今の俺は……幼稚園の頃みたいな姿で、君の隣に立てないから」
「そんな昔のこと、いいよ。いいんだよ……。私は、今の凛空君と――」
「――だから、またね……」
 彼女に背を向け、自宅に向かって歩き始めた。
 振り返って姿を見なくても、彼女が後ろで呆然としてるのが分かる。
 心が割れそうだ。
 こんな手しか思い浮かばない自分が、やっぱり許せない。
 だけど――決めたことを貫かない自分は、もっと許せない。
 決して後ろを振り返らず、一刻も早く成すべきことを成すと誓い走った――。