序文

 人生なんて不平等。
 持つ者と持たざる者がいるのが当然。
 持たざる者は一生、上手くいかず自己肯定感の低さに耐えて生きるしかない。
 そう語る君の暗い瞳が、優しい嘘をたむけてくれるために一変した。
 熱く燃えるような輝きを、私は絶対に忘れない。
 もう大切な人たちには伝わらないだろうけれど……。
 最期に、この言葉を残して去りたい。
 君たちは絶対、これから幸せになれるから――。

1章

 人間同士の平等なんて本当の意味では、ありえない。
 人が複数いるからには、必ず優劣が生まれる。
風間(かざま)? 一人で掃除してんのか?」
「先生。……まぁ、そうなりました」
「まさか、いじめか?」
「違います。……惨めなだけです」
 箒を手に、慌てて笑みをつくる。
 先生は少し怪しむような表情をしながらも「何かあったら、遠慮なく相談しろよ」と廊下に戻った。
 まさか、自分が三学期末テストの点数勝負で負けたから、罰ゲームで掃除をさせられましたなんて、被害者のような告げ口はできない。
 いくらなんでも、情けなさすぎる。
「はぁ……」
 俺を含めた五人ぐらいで競った全教科の合計点数勝負。結果表が映し出されたスマホを見て、思わず溜息がでる。
 負けるだけなら、別にいい。
 俺がとんでもなく嫌なのは、だ。
「全教科……ほぼ平均点ってなんだよ」
 箒の柄に頭をつけ、ぼやいてしまう。
 何度スマホから目を逸らしても浮かんでくる。
 先生が伝えてきた各教科の平均点。それとほぼ同じ点数に、俺の点数は常にある。
 全教科、ほぼ六十点。可もなく、不可もなく。
 あまりにも一致率が高くてさ、一緒に賭け勝負をしたやつらからも「凛空(りく)は一周回ってスゲぇ」、「ミスター平均」、「ザ・普通」、「万能の凡人」とか散々バカにされたしよ……。
 そんなこと、言われなくても分かってるんだよ。
 俺が何にも特筆して勝るものがない、凡人だってことぐらい。
 容姿、学力、トーク力など。どれだけ綺麗事で飾っても、人間社会なんて競い合いの仕組みだ。
 それは小学校、中学校、高校と、年齢を重ねるごとに激しく顕著になってきた。
 この先も永遠にそう、むしろ激化していくだろう。
 可もなく不可もない人間。
 どうせ中の中が精一杯の俺。
 自分に自信なんて、あるわけない。
「あるのは退屈な日々への鬱屈した思いと劣等感だけだよ……。畜生」
 色んなことに点数がつけられ、自分がどの位置にあるのか測るのは仕方ない。
 だけど、そんな中で自己肯定感を得られるのなんて、上に位置するような一握りだけだ。
 俺の自己否定が問題なのは分かってる。自己肯定感の低さが大問題だなんて自覚してる。
 それでも、どうしようもないんだ……。
 上を見ればきりがない。競争社会やら、ネットでカースト上位の情報が山ほど溢れる中、自己肯定感が上がるわけもない。
 身近な生活でも、自分が嫌になる場面はゴロゴロとある。
 面倒だとは思いつつも、こうして便利に利用されてる間は自分が有用な存在だって気持ちになれる。
 必要不可欠って程、代わりが効かない有能な存在じゃないのは辛いけどな……。
 毎日毎日、競争社会の中で性根が捻り曲がる一方だ。
「……せめて何か、何でもいい。一つでも他人より優れたものがほしかったなぁ……」
 優しい人と思われようとすれば、便利で都合のいい人になる。
 今日だって、急なアルバイトが入ったからと女子に掃除当番を代わってくれないか頼まれて……。いい人の評価とか普通にクラスメイトと会話できる立ち位置失うのが怖くて断れない俺は、トイレ掃除まで一人でやる羽目になった。
 短い春休みが明ければ、俺も高校三年生になるってのに……。
「昔っから、ずっとこうだな、俺は……。多分、これからも」
 どれだけ努力しても、平均点。必死に頑張っても評価側の人からは、もう少し頑張れと言われ続ける。
「……マイナス思考ばっかりってのも、ダメだ。あ~、さっさと終わらせよう! よし、やるぞ!」
 誰もいない教室に、俺の気合いが入った声が響いた。
 腐ってても仕方ない、か。
 教室をキビキビと掃除をした後、トイレに向かうと――。
「――きゃっ! あ、ごめんなさい」
「あ、いや。俺の方こそ――……」
 廊下の角から飛び出してきた女の子とぶつかって、思わず言葉が出なくなった。
 モデルのように整ったスタイル。
 襟足が少し長い、快活さと元気さが感じられるショートウルフカット。
 横からでも――横からだからこそ強調されて映る、立体的な顔立ち。
 まるで外国人のようだ。
 ハーフか、クォーターか?
 外見に関しても、ほぼ可もなく不可もない六十点の俺とは雲泥の差だ。
 理想的な……。少なくとも、俺にとっては満点な女の子がいた。
 他校の制服を着てる? 何で、うちの高校に?
 それに、何でこの子は――目に涙を浮かべて、唇を震わせてるんだ?
「あ、あの。俺、結構勢いよくぶつかりましたよね? 大丈夫でしたか?」
「……やっと、伝えられる……」
「え? 伝える?」
 誰に、何を伝えるんだろう。
 俺が尋ねようとすると――。
「――え、あの!?」
 彼女は、手足を震えさせながら逃げ去ってしまった。
 廊下の角を曲がり、姿が見えなくなって数秒。
「……に、逃げられた? 俺の質問、無視?」
 俺とは、口すら効きたくないってことか?
 何で初対面の子に、そこまで嫌われないといけないんだ……。
 もしかしたら女子校の生徒で、男子が苦手なのかもしれない。俺個人が嫌だったとか、そうじゃないと信じたい。
 人形のように整った彼女の顔を思い出すと、胸と頭がもやつく……。
「くそ……。早く掃除を終わらせて帰ろう!」
 考えてても仕方ないと、再びトイレへ向かう。
 やる以上は丁寧にと思いつつ、掃除を始め――ふと、手を止めた。
「……丁寧にやっても、平均程度なんだろうけどさ」
 誰に聞かれる場所でもない。
 文字どおり、便所に流すような愚痴ぐらいは許してほしい。
 真面目にトイレを洗ってると、便器の水が顔に跳ねてきた。
 思わず顔を押さえ――トイレ掃除用のゴム手袋まで顔についた。
 うわ、汚ねぇ。
 慌てて、顔を洗おうと洗面台に向かうと――。
「――どこにでもいる顔、身長……。鏡まで、俺をバカにすんのかよ」
 鏡に映る自分を見ると、特徴のない顔と身長の男だと再認識させられる……。
 多分、日本人男子の顔と身長を全員集めて平均化したら、こんな見た目になるんだろうなって奴が鏡の中から俺を見てる。
 違うのは、顔を歪めてることぐらい、か。
 鏡の先にいるやつは、段々と目が潤んでいってる。
 こんなのが自分だなんて……。認めたくない。認めたくねぇよ……。
 俺だって、テレビや動画に出てくるようなイケメンになりたかった。
 音楽でもスポーツでも、勉強とかでも、何でもいい。
 何かしら、得意で誇れることがほしかった。
 自分に自信が持てるような、何かがほしかった……。
「畜生。なんで俺は、何もかもが普通までしかなれねぇんだよ……」
 毎日ちゃんと勉強しても、どの教科でも平均点しか取れない。
 体力をつけようと筋トレや運動をしても、ある程度を境に成長が止まる。
 料理や裁縫をネットで調べながら頑張っても、やっぱり一定のラインまでいくと上達しなくなる。
 その度に、全部が誰にも注目されない程度までの成長で止まる。言ってしまえば、器用貧乏。
 褒められるような結果には、一度もなれなくて……どんどん、自分が惨めで嫌いになってく。
「ああ、もう! うざい、自分がキモイ! 下向いてんじゃねぇ!」
 鏡に口汚く叫んでるヤバいやつみたいだけど、こうやって俺の情けなさとマイナス思考を吹き飛ばさないと……。
 今にでも、押しつぶされそうだ。
 サッサとトイレ掃除も教室掃除も終えて、後は窓を閉めて帰るだけ。
 せっかく勉強だけでも上に行けるよう集中するための帰宅部なんだ。
 家庭の事情ってのもあるけど、帰宅部が帰宅に遅れてどうする!
 さっさと自分のやるべきことをやれ! 
 立ち止まってたら、もっと悲惨に腐るだけだ!
 そう鼓舞して、開けっ放しの窓を閉めていくと――校庭で泥だらけになりながら白球に飛びついてる野球部が見えた。
「……あいつらも、甲子園だとかプロにいけるわけでもねぇんだよな」
 普通に引退する未来が目に見えてる。
 それなのに、全くケガを恐れず目の前のことへ打ち込んでる。
 好きが一番、か……。好きだからこそ、平凡に終わる未来が半ば分かってても、全力でやろうと思えるんだろうな。
「だったら――俺が、本当にやりたいことってなんだよ……」
 考えてみても、何も浮かんでこない。
 何をしても、好きでも嫌いでもない。やるよう言われ、やった方がいいからと全力でやるだけだった。
 自分の意思すらない俺の情けなさで、胸が痛い……。
「……ん? あれ、あの子じゃん」
 さっき廊下でぶつかった子が一人で、校舎から校門へ向かい歩いてるのが目に入った。
 後ろ姿しか見えないけど、他校の制服と彼女の美しさは、それでも際だってる。
 ああいうのが、選ばれた持つ人なんだろうな……。
 何をしに来たかは知らないけど、もうあんなに優れた人と会うこともないだろう。
 無視されて逃げられるとか、結構キツかった。もう御免だ。自分にもっと自信がなくなる。
 日が暮れつつある窓をゆっくり閉じ、教室の時計に目を向ける。
「……美穂(みほ)のところに行くか」
 待ち合わせ時間に遅れると、怒られるからな。
 可愛いけど、拗ねるとご機嫌取りが大変だし。
 まぁ……可愛いけど、な。
 美穂のことを考えて、少しだけ気分も晴れた。
 さっさと劣等感ばっかり感じる学校からは帰ろう――。
 急いで向かってる道中でも、美穂から『まだ?』、『遅れるの? なんかあった?』とかスマホにメッセージが飛んできて、走ることになった。
 息を切られながら来た俺を見て「そんな姿を見せられたら、怒れない」と笑ってたのは可愛かったな……。
 なんて楽しかった時間を思い出して勉強の活力にする――自室の夜。
 返ってきた期末テストの結果を見ながら、復習をしなければ。間違ってた部分を、もう一回調べ直して……。何とか、もう一回同じテストをしたら平均点から脱却できるように。
「ただいま」
 自宅マンションの玄関から、母さんの声が響いてきた。
「おう、お帰り~」
 二十二時。今日も母さんは、残業だったか。せめてサービス残業じゃないといいけど。
 そう思いながら、勉強を中断してドアを開ける。
凛空(りく)、疲れたぁ~。今日のご飯、何?」
「サバの味噌煮定食」
「普通ね」
「ほっとけ」
 母さんまで普通とか、言うな。
 息子が気にしてることだろうが。
「だけど母さん、鯖の味噌煮大好き~。ありがと、凛空!」
「いいから、さっさと風呂入ってこいよ。……味噌汁、温め直しておくから」
「もう~反抗期かと思いきや、デレるなんて! やるわね」
「後ろから抱きついて体重をかけるな。重い」
 母さん、疲れすぎてテンションおかしくなってるな。
 冷めた料理を温め直してく中、ふと不安になる。
 俺は――何者なんだろう。何者になれるんだろう。何か面白い将来や未来はくるのか?
「せめて何か……。同じような日常を繰り返すのを、やめたい」
 一番なんて、望まない。刺激的で、誰かより少し優れるとか……。
 努力の結果が実るような、そんな非日常がほしい。
 頑張ったなら、それ相応に変化がほしい。
 無いものねだりをした後、明日の朝起きてから洗濯、料理、掃除と学校へ行く前に効率よく家事をこなす順番を考える。
 無いものねだりは虚しい……。
 もう間もなく春休みだ。
 その間にできる短期バイトも申し込んである。
 そうすれば美穂のために何かプレゼントも渡せるだろう。
「……それだけが、楽しみだなぁ」
 喜んでくれるかな。
 どう渡せば、喜ぶサプライズになるだろう。
 いや、すぐに渡さず、ご機嫌取り用に温存しておくのもいいかな?
 そうこう考えてる間に、あっという間に平凡な高校二年生三学期が終わった――。
 短い春休み。
 朝と夜は冷え込み、昼には気持ちいい陽気が肌を撫でる季節だ。
 だけど俺は今、真夏も真っ青なぐらい汗だくになってる。
「高校生、そっち落とすなよ? 絶対ぶつけんなよ?」
「はい、気をつけます!」
 冷蔵庫を抱えながら、階段を上る。
 俺の住んでる埼玉県上尾市内で、高給で短期のみ可能な引越しバイトが募集されてたのは幸いだった。
 だけどトラックに荷物を運び込むにしても、新居に運び入れるにしても、だ。
 低階層アパートの現場なので、エレベーターもない。せめてエレベーターがあれば楽なのに……。
「ご苦労様ぁ~。お仕事、早いわねぇ」
「ありがとうございます! お邪魔しております!」
 立ち合いをしてた母さんより少し年上ぐらいの女性に労われ、頭を下げる。多分、この部屋に新しく住む人だろうな。
 アルバイトとはいえ、引越業者の評判に関わる。キビキビと動いて、ハキハキと挨拶をしないといけない。
 停められたトラックから、『本類』と書かれた箱を取り出す。
 うげ……。これは外れを引いたなぁ。
 本の詰まった段ボールって、こんなに重いのか。
 腕がパンパン、足が震えて腰も折れそうだ。
 それでも何とか、問題なく手早い作業速度についていく。熟練の先輩たちと比べたら、やっぱり自分は足手まとい……。
 いや、人と比べるな。そんな暇はない。自分のできること、やるべきことを精一杯やれ!
 そう鼓舞して、何とか作業を終えてトラックに乗り込む。
「お疲れ、じゃあ次の現場に移動するぞ。シートベルトはつけたか?」
「はい、大丈夫です!」
「根性あるな。前の高校生君に比べたら速度は普通だが……。そつがないのはいい。頑張れよ」
「……はい!」
 ここでも、普通。無難にそつがない……か。
 人の評価が怖い。もう、何をしても他人と比べられる社会が怖い。
 普通で悪かったな。これでも全力で頑張ってるんだけど……。もう、嘆いても仕方ない。
 給料に見合うだけの働きを俺がするには、普通以上に頑張ってやっとなんだ。
 仕方ない、これはもう……仕方ないんだ。
 こんな評価は面白くないけど……。
 生きていくためには、お金を稼ぐためには――それでもやるしかない。
 せめて次の作業現場にはエレベーターがありますように。
 そう願いながら、サイドミラーに映る平凡な自分の顔から目を逸らし、仕事に励む――。
 あっという間に時は流れる。短い春休みも、もうすぐ終わりか。
 悲鳴をあげる身体を引き摺りながら、ビルの光で煌びやかな街を自宅に向かい歩く。
 来年のこの時期には、高校を卒業して次の進路を歩んでることに気がついた。
 特に夢も目標もなく、受かりそうな大学へ進学するか。
 もしくは、お金が足りないから就職できそうなところへ何となく就職するか。
 これが向いてる。これがやりたいということもないから、専門学校とか短大はないだろう。
「……つまらなそうな人生だな」
 思わず、口から漏れてしまった。
 夢や目標に心を躍らせる毎日が特別なんだ。
 そんな人生を歩んでる人が少ないことは、気力のない顔で歩くスーツ姿の人たちを見れば分かる。
 母さんは、忙しくも楽しそうだけど……。
 何で、あんな苦しそうな状況でも、休まず真面目に働き続けられるんだろう?
 俺たちの生活のため、かな……。
 顔もあんまり覚えてない父親と離婚してから、母さんが生活を支えてくれてるんだと思う。
 昔も、今も。だから、愚痴を漏らしながらも仕方なく毎日仕事に行ってる――にしては、笑顔で帰ってくるんだよなぁ。
「……やば。早く帰って家事をやらなきゃ」
 肉体が疲れすぎて、いつもより歩くペースが遅れてる。
 家へと帰るときに通るビルの中、少し目につくショップがあった。
「ヘアアクセサリー……。ありだな」
 痛む身体に鞭を打ち、店内へと入る。
 陳列されてる商品を見ると、どれも可愛かったり綺麗だったり……。
「……これ、美穂に似合いそう」
 一つのヘアクリップを手に取り、小さく呟く。
 美穂の長い髪を、このヘアクリップで括れたら……。
 うん、可愛い。絶対に可愛いな。
 給料が入ったら、これを買おう。
 自分の未来を考えると、残り少しの引越バイトにすら行ける気がしない。
 だけど美穂の笑顔のためなら頑張れる。
 我ながら凡庸で現金な理由だけどな……。
 世界にありふれたような目標と元気をもらった俺は、家事と勉強をするために自宅へと帰る。
 そうして、いよいよ明日は始業式。
 そんな中、まともに話したことなんて数回しかない同級生の女子からメッセージがきた。
「今から軽く通話できるかって……。夜の十一時だぞ?」
 ただでさえ、アルバイトでくたくただ。
 家事も勉強も終わったし、寝ようかと思ってたんだけど……。
 メッセージに既読をつけた以上、「ごめん、寝てた」という手は使えない。
 これで、もし話も聞いてくれない嫌なやつって噂が流れたら……。
 平凡以下の評価になるのも怖い。嫌だじゃなくて、怖い。
 小さく項垂れながら『できるよ。どうした?』と返事をする。
 すると、すぐに――。
『――風間君? ごめんね、ちょっと聞いてよ……』
「お、おう……。聞くから。涙、どうした?」
 どう考えても泣いてる声が、スマホから流れてきた。
 もう、絶対に長くなるやつじゃん……。これで軽く通話って、絶対に嘘だろ。
『ありがと。相変わらず優しいね……』
 便利とか都合がいいの間違いじゃないのか、と思ったけど……。
 余計なことは言わない。
『実はね、彼氏と喧嘩して――』
 答えのない、俺が答えなんか出しようがない内容だった。
 よく話す人なら、いいけどさ。ほとんど話もしたことない俺に、その内容って……。
 絶対、何人か仲いい人に通話を断られただろ。
 消去法的に、仲は普通だけど聞いてくれそうな俺を選んだよな。
 もう聞かなくても、過去の経験で分かる。
「うん、うん。なるほどねー」
 俺は結局、陽が昇る直前まで相づちマシ―ンになり、新学期初日を迎えた。
 高校生活を締めくくる一年。
 三年生の一学期を、身体がだるくて気分も落ちた寝不足状態で――。
 ふらつき、気を抜くと眠りに落ちそうだ。
 なれない三年生用の下駄箱に自分の靴を入れ、校舎を歩く。
 三年生用の教室。
 自分の席を探し、荷物をかける。
 俺の後ろの席は、まだ来てないか。個人のタブレットに送られてきた新クラス発表でも『未定』ってなってた。
 未定って、なんだよ。
「凛空、おはよう。今年も同じクラスか」
「おう、おはよう」
「なんか眠そうか?」
「いや? バイト疲れ。引越ってマジで肉体くるのな~」
 危なかった。眠い理由を素直に話して、噂が本人に広まったら……。陰で何を言われるか分からない。
 学校生活は、評価を気にして周りの目が気になる場だ。
 クラスの人気者とかが羨ましいけど、平凡でいるのも大変だ。
 俺みたいに平凡やつは、ちょっとした悪い噂ですぐに学内ヒエラルキー最下層に落ちる。
 いじめられて卒業なんて、冗談じゃない。他人の顔色を窺いながら、せめて平凡に……。
 一番嫌いな平凡を維持するために、気を巡らせるなんて……。
 俺は、何のために学校にきてるんだろう?
 内心の葛藤を悟らせないように、新しいクラスメイトと談笑していると、教師が入ってきた。
 新しい担任の先生は、進級の挨拶をすると――。
「――今日からこのクラスに、新入生が入る」
 は?
 この卒業間近の、高校三年生に……転校生?
 中学なら転校生は結構いたけど、高校になってから転校生なんて初めてだ。
 突然のイベントに、クラス中がガヤつき始めた。
 まぁ……。俺にはあまり関係ない。
 テストや体育で平均点が上がるにせよ、下がるにせよ。外見の平均が上がるにせよ、下がるにせよ。どっちにしろ、多少の変化しかないだろう。
 中の中、その立ち位置は、変えられない。
 悔しくて変えたくても、変わらない。
「それじゃ、入ってきて挨拶をしてくれ」
「はい!」
 女の子の、声?
 それなら、ルックスのスクール内順位が下がって屈辱感に拍車がかかるのは防げるか。
 そう思ったが――。
「――可愛い」
「え……めっちゃ綺麗」
 眠気が一気に、天上の彼方まで吹き飛んだ。
 テンションが高く馬鹿騒ぎをしてた男子も――転校生に目が釘付けで大人しくしてる。
 あのときの子だ。
 二学期の末、掃除中に廊下でぶつかった子が――うちの制服を着て立ってる。
 まさか、あのときは……転校の手続きに来てた、とか?
 嘘だろう……。こんなの、劣等感を抱かずにはいられない。
 俺から見れば――百点満点の美少女が、教壇に立った。
「初めまして! 河村彩楓(かわむら あやか)です。この時期の転校は不安だらけなので、仲良くしてください!」
 笑顔まで、百点満点なのか。
 テレビの中で見るアイドルとかに会ったことはないけど……。多分、こんな感じだろう。男女問わず、「めっちゃ可愛い!」、「美少女きた!」、「よっしゃあああ!」奇声をあげてるんだから。
 多分、皆の反応が普通なんだろう。
 俺は、気持ちが落ち込む。平均でさえ、いられなくなる恐怖が襲ってくる。少なくとも、ルックス面で――学内ヒエラルキートップが、偏差値が……大幅に上がった。
 男女とか、関係ない。こんな美少女がいたら俺は普通の生活すらできず蚊帳の外の存在になるかもしれない……。
「……え?」
 騒ぎに苦笑してた彼女と目が合った瞬間――彼女の目が見開いた。
 まるでマネキンのように、固まってる。
 馬鹿騒ぎして喜ぶ男子の中で、逆に俺が目立ったのかもしれない。
 しまった……。俺も、合わせて喜んでた方がよかったか?
 いや、待てよ。逆に俺は今、普通の反応を脱却したのか?
 それがプラス方面なら、俺も皆とは違う方面で驚喜乱舞し――。
「――ちょっ、えっ!?」
 な、泣きだした!?
「おい、どうした河村?」
「い、いえ……。すいません」
 目がキラキラと涙に濡れて、一筋だけ綺麗な肌を伝って落ちてた。
 何で? 不安だから、か?
「感極まって……」
 感極まって!? わけが分からない。
「そ、そうか。河村の席は、風間の後ろだ。……あの空いてる席。大丈夫か?」
「は、はい! 喜ん――……風間?」
 俺の名前に文句があるのか? おい、クラスの男女。俺に視線を向けるな。視線で穴が空く。
 平凡、平均、可もなく不可もなくから脱却したいとは思ってたけど――こんなのは違う。
 もっと、自分の努力の果てに成果が出てがよかった。
 どう反応するのが正解なんだろう? ど、どちらにせよ……。
 無視とかはダメだ。
 仲良くなれるとは思わないけど、普通以上を目指すなら……。
 怖がらず、声をかけないと!
 彼女は荷物を手に、俺の後ろの席へ向かい教壇から歩いてきてる。
 指先、震えてる? 緊張してるのか。
 それなら、自分のこととか関係なしに……安心させてあげたい。
「河村さん。これから、よろしくな。俺は風間凛空」
 彼女が俺の斜め前の通路で足を止め、まん丸な瞳を向けてきた。
 クラスメイトからの視線とブーイングがうるさい。
 今は、河村……彩楓さんが笑えるよう不安を取り除くことが一番だろ。
 それに、俺みたいな普通のが話しかけてもいいなら、君たちだって話しやすくなるだろうが。
「俺は、本当に大したことはできないけど……。不安があるなら何でも言ってくれ。クラスメイトも、見ての通り喧しいけど、いい人たちばっかだから」
「…………」
「河村さん?」
 彫刻のように数秒固まってた河村さんは、また瞳に涙を滲ませた。
 俺を凝視しながら、そしてハッとしたように――。
「――……ぅっ」
 顔を俯かせ、後ろの席に座った。
 え……。無視、された? 二度目の無視?
 呆気に取られながら、河村さんの方へ顔を向けると――。
「――河村彩楓です! これから、よろしくね!」
「う、うん。私の名前は、あだ名でいいからね」
「まず、あだ名も教えてほしいな~」
「あっ! そっか。ごめん、河村さんが可愛くて、うっかりしてた!」
 俺以外には、めっちゃ話すじゃねぇかよ。あっさり隣の席の女子と仲良くなってるし!
 いや、まだ女子限定という可能性もある。男嫌いとか……。
「お、俺もあだ名でいいから!」
「俺も俺も!」
「わ、分かった。皆、忘れないように覚えてくけど、間違えたらごめんね?」
 可能性は消えた。
 男嫌いでもない、単純に俺が嫌いらしい。初対面でぶつかったから? それだけで無視するぐらい、生理的に俺が受け付けないのか?
「……凛空、泣くな」
「どんまい。普通すぎて空気だったんだろ。誇れよ。空気は必須だぞ」
「誇れるか。泣くぞ」
 いや、本当に。冗談抜きで。なんで初対面から嫌われなきゃいけないんだ……。
 早く馴染めるようにってした言動が、気持ち悪かったのか?
 気持ち悪かったんだろうな……。
 生理的に受け付けないと言う言葉もある。
 普通と言われ続けた俺のルックスが、たまたま彼女には……その辛すぎる評価だったんだろう。
 そうでなければ、あんな露骨に無視されるわけがない。こんな対応をされたら、俺だって気分が悪い。
 いつか、機会があったら――言ってやりたい。
 君より美穂の方が、俺は好きだ。可愛いと思うってさ。
 ファーストインプレッションで百点満点だと思ってた河村彩楓だけど、俺の中では最悪評価だ。
 いや……。俺なんかが偉そうに評価はしちゃダメか。
 河村彩楓にとって、俺はゼロ点だっただけだ――。
 その後、始業式でも彼女は壇上に立って紹介された。
 その反応は――もう予想通り。
 中には面白く思わない人たちもいるのが見えた。
 彼女に苦手意識が湧いた俺がスンと冷静になって周りを見てると、元々のスクールカースト上位だった女子を中心に、面白くなさそうな顔をしてた。
「はぁ……。何で順位とか、人との比較をしちゃうんだろ。学校ってのは、劣等感を教えるところなのかよ……」
 嫉妬とか、悪意とか。そんな感情を感じた俺は、自分のおかれてる現状も相まってそう思わずにいられない。
 誰もが他者の目を気にして、他者からの評価を気にする。
 そんな中で人間関係とか立ち回りを勉強する意味もあるんだろうけど……。
 少なくとも、俺は窮屈だ。息苦しい。
 社会に出ても、ずっとこんなのが続くと思うと、泣けてくる。
 河村さんに話しかけて、露骨な無視をされたからかな。心が荒んでる気がする。
 始業式のみの三年生初日は、そうして終わった。
 翌日からも、俺の日常は変わった。
 俺がどうこうじゃないところで、俺を劣等感のどん底に叩き付けてくる。
「……神様に選ばれた人っているんだな。選ばれなかった人がいるように」
 河村さんが、どれだけこれまで頑張ってたかは知らない。
 それでも俺だって、俺なりに頑張ってきたつもりだった。
 それなのに、自分の分を弁えろ。
 お前は別世界の人間だとばかりに、スペックの差を感じさせられる。
 英語はネイティブ。数学もわけの分からない数式を用いて答えを導きだす。
 愛想も人付き合いも……俺以外に対しては、いい。
「河村さん、凄いなぁ……。何でもできるじゃん」
「そんなことないよ? 私、できるように見せてるだけだよ?」
「でた~。そういう謙遜、いいよ……。生まれつき見た目に恵まれてる人には、ウチらの苦労は分からないから」
「本当に、そんなことないんだよ。……これ、ここだけで見てね。私の幼稚園時代の写真」
 クラスの女子と話す声が聞こえてきた。
 チラッと視線を向けると、スマホ画面を見せる河村さんの周りを数人が囲んでる。
「うそ!? これマジで!?」
「小さくて可愛いんだけど、芋っぽい……。隣にいる子がキラキラしてるから、余計に……」
「そうでしょう~? 隣にいる子がいつも、庇ってくれたの。今でもね、私は戒めとしてこの写真を毎日見るの。理想の姿にならなきゃってね!」
「戒めは分かる! ウチも体重増えてるときの写真、あえて残してるし。意識高くて凄いな~。何歳から自分磨きしてたの?」
 思わず視線が向いてしまう。耳が傾いてしまう。
「幼稚園の頃には、かな?」
 衝撃的だった。
 笑いながら軽く口にした彼女の言葉に、思わず「は?」と声が漏れる。
「よ、幼稚園!? 早すぎ! ずっと続けてきたの!?」
「どうしても、なりたい自分の理想像があったからね! 安くても栄養を意識したり、スリムになるストレッチとかジョギング。肌とか骨格形成も理想へ近づけるように、詳しい人から教わって続けてたんだ」
 彼女の言葉が冗談とか見栄とか、嘘じゃないとしたら……。
「うわ……。生まれつきとか言って、なんかごめん。他には、どんな自分磨きしてきたの?」
「立ったり歩く姿勢とか、仕草とか? 動画とか映画観るときは英語にしたり、勉強も――」
「――あ、勉強は大丈夫だわ。というか目標って誰? なんてアイドルか俳優?」
「ん〜……。ごめんね! それは、秘密!」
 積み重ねてきた努力の桁が、質が違う。
 少しの間の努力なら、俺でもできる。それは多分、俺だけじゃなくて普通は皆そうだ。全く何にも努力したことがない人なんて、いないと思う。
 だけどモチベーションを保ちながら、継続して努力を続けられるかと言われると……違う。
 彼女は、努力家という面でも――俺から見て満点だ。他の人より格段に優れてる。
 少しのノルマ達成でアレコレ騒いで、結果が伴わないと僻む自分が情けない。
 情けないとは思いつつも、自分の感情に湧き上がる鬱屈は抑えられないんだよなぁ……。 
 彼女は、あっという間にクラスの中心的位置に立ってしまった。
 転校生へ一時的に話しかけるのとは違う。この短時間で、もう完璧に溶け込んでる。
 一個後ろの席から、そんな差を見せつけられるもんだからさ……。
 俺は自分が惨めになると同時に、羨ましいと思ってしまった。
 こんな嫉妬心を抱く自分が、本当に月並みで……。人間らしいといえばそうなんだろうけど、薄汚れて感じてしまう。
 ああ、もう! ネガティブな感情に支配されたらダメだ!
 体育の授業に遅刻しないように、体操着へ着替えながら自分に言い聞かせる。
 人は人、自分は自分。自分にできる役割を精一杯やれば、きっと結果もついてくる――。
 今日の体育は、クラスで男女に分かれてサッカーをすることになった。
 もの凄く、嫌だ……。球技とか、チームスポーツとか、本当に嫌いだ。
 競技そのものが嫌いなんじゃなくて、自分が競技に混ざるのが嫌だ。
 高校生にもなると、現役で部活で続けてるやつ。あるいは小学校やら中学校でサッカーをしてたやつとでは、プレイの差が明らかになる。
 いや、経験者と比べて下手なだけじゃない。
 現役で鍛えてる運動部とも差がある。
 幼い頃のように楽しく無邪気にボールを追いかけて喜んでたときとは、わけが違う。
 授業だろうと、試合なら勝負。スポーツだ。
「おい、風間! もっと走れ!」
「お、おう!」
 ボールをパスされたと思ったら、上手く止められない。もたついてる間に、運動神経がいいやつに奪われた。
 味方は慌てて攻撃のために相手ゴールへ向かってたのを反転。
 俺も全力で走って、ミスを挽回しないと!
 頑張ってもミスして、ただ追いかけて走ってるだけ……。それが俺の実力だ。
 男子サッカー部に所属する味方がボールを奪い返してくれて、俺も再び相手ゴールへ向かう。
 すると、運よくと言うか……。
 相手ゴールの前という絶好のポジションで、俺はたまたまフリー。
 パスがくるか? いや、絶対にくるだろう。
 だってボールがきたら、後はゴールに蹴るだけなんだから。
「……ぇ」
 そんな状況なのに――二人に囲まれてる男子サッカー部は、俺を見てパスを出すのをやめ、ボールを一回後ろに下げた。
 お前には大切なことを任せられないと言われてるようで……屈辱だ。
「……チームプレイの球技なんて、大嫌いだ」
 誰にも聞かれないように、呟く。そうでもしないと、悔しさで胸が張り裂けそうだ。
 チームプレイだと……自分のできなさを、より肌で感じてしまう。申し訳なさに、罪悪感を感じてしまう。
 それからは、でしゃばる真似はせず、ゴールを守るように後ろに下がって傍観し続ける。
 たまにコートから出たボールを全力で走り取ってくる。
 結局……それが皆から俺に求められ、俺自身ができる役割だ。
 ぼんやりと、味方のゴール前でプレーを見てると――ふと女子のサッカーコートが目に入った。
 凄いな……河村さん。
 彼女が以前の高校で何をしていたかは知らない。
 それでも彼女が女子サッカー部の子ほどじゃないにせよ、上手いのは見て分かった。
 何より凄いのは、自分が奪ったボールを均等に味方へ分け、ミスをしても責めない。
 笑ってドンマイと言い、やり直しの機会を何度でも与えてる。
 文武両道の才色兼備。人格者。現実的じゃないぐらい、優れた人物だ。
 そして――俺がどれだけ欲しっても兼ね備えてないものを、全て持っている。
 彼女が今までしたきた努力が仮に本当なら……。簡単に羨ましいなんて言うべきじゃないのは重々承知だ。
 そもそも、俺と比較すべき対象じゃないのは分かってる。
 それでも……立派な彼女と比べて、自分が情けない。
 人としての差を突きつけられてる気分だった。
 結局、早く終われ早く終われと願ってるうちに授業が終わった。
 終業の挨拶をしてから、すぐに制服へ着替え一人になれそうな場所へ向かう――。
「……他人の幸せを素直に喜べよ。あの子がクラスで浮いてた方が望みだったのか。ちげぇだろ?」
 他人の目がないトイレの個室で、自分に問いかけた。
 汚い自分の心を見ると、いつも平凡で惨めに感じてた心が……。更に嫌いになる。
 何で俺は、もっと素直に現状に満足できないのか。
 楽しめれば、普通でも……。俺とは別世界に生きる人間から無視されても、いいじゃないか。
「……何で俺、こんなにショックを受けてるんだろ?」
 彼女に無視された事実が、数日経った今でも心を軋ませる。
 彼女が教壇で流してた涙を見て……。凄く、嫌な気分になる。
 あんな顔を目にするぐらいなら、俺とは関係ないところで笑ってる今の表情がいい。
 明るくて、見てるとこっちまで元気になっちゃうような笑みが最高だ。
 いきなり無視された人間の笑顔を陰から願うとか……。我ながら、わけが分からない。
 もう順位とか、俺が平均ですらいられなくなるというのも関係ないんだろうな。
 完全に別次元の存在だと思ってるから、彼女が幸せじゃないと嫌なんだと思う。
 それだけのスペックがあるなら、常に幸せであれよって……そう願っちゃうんだろう。
 そうだ、羨むことなんてない。自分とは別の生き物だと思えば、何も辛くなんてない。
 俺がモブで、彼女は社会の主役。それだけだ。
 トイレから出ると、数人の女子が廊下で声を潜めて話してるのが見えた。
 狭い廊下を塞がれると、歩きづらいんだけど……。スクールカースト、元トップの女子だから、文句を言えない。
 学校なんて社会は、上に立つ人間の集団に嫌われたら地獄なんだから。
 可もなく不可もないモブはモブらしく、壁に身を寄せ通りすぎようとすると――。
「――風間、丁度いいとこにきたじゃん」
 俺は丁度よくない。俺みたいに平凡もいいところな男に、スクールカーストの上位から下に声がかかるなんてさ……。
 絶対、碌なことじゃないだろう……。だけど、無視しても詰む。
 名前を呼ばれて声をかけられたんだから、完全に終わる。
 それなら、大したことない――それこそ、都合よく使われるぐらいの要件であれ。
「呼んだ? どうしたの?」
「あんさ。風間って、初日に河村に声をかけてシカトされたんでしょ?」
「なんか他にない? 調子乗ってるエピソード」
「気分悪いんだよね、ああいうの」
 超絶、面倒臭い要件だった。
 俺こそ気分が悪い。河村さんは俺の中でゼロ点評価だけど……。俺には、意を決して声をかけたのに無視されたって理由がある。
 この子たちは、どうせ逆恨みだろ?
「河村さんに何かされたの?」
「……別に? ただ、腹立つじゃん。調子乗ってるの見るのって」
 逆恨みだった。逆に見事だな~とか思う。
 他者評価に敏感になる気持ちは、俺には分かる。
 特に一位と二位では、大きく違うんだろう。
 可もなく不可もなしの中で、少し他者からの優先度とかが落ちた俺と彼女たちが違うのは分かる。
 だけど、人の嫉妬してる姿を見ると……。自分の今までの姿が、もっと大嫌いになる。
 今までの嫌いな自分を、変えなければって思う。
「俺は別に腹が立たない。自分と違う生き物として見てるから」
「はぁ?」
「俺は、俺ができることをやればいいって思う。小さい社会で人を落としても、自分が優秀になったわけじゃないし」
「……はぁ。風間も所詮は、あの女の見た目だけで庇う男か」
髪を巻いた子が、溜息交じりに言う。
 そう思われても仕方ない。下心なんだろって言われても、否定するだけの説得材料はない。
 それでも、だ。ただ――俺は、自分が誇れない自分が嫌なだけだ。
 努力をして、それでも平凡で誇れない自分を変えたい。
 これ以上、自分を惨めに思ってうじうじとしてたくない。
 他者と比較するな、なんて人間なら無理な話だ。劣等感も抱く。
 それでも、だ。
「ぶっちゃけ、どこがいいの? あんな八方美人のさ」
「見せびらかすように。英語もネイティブアピールしてたんでしょ?」
「ここは日本だっての。ほら、私、凄いでしょって? うわ、きんも~!」 
 こんな人の陰口で盛り上がってる連中みたいに、堕ちたくはない。
 こんな連中に同意したら、可もなく不可もなしですらない。
 間違いなく、不可。自分で自分が、もっと許せなくなる。
「何を思うかは、個人の自由だ」
「は? 何、怖い顔してんの?」
「近付いてくんなよ。おい、離れろって」
「お前らさ、言いたいことがあるなら本人の前で言えよ」
 なんで、こんなに腹が立つんだろう。彼女を庇ったところで、俺には何も得にならない。
 むしろ、こんなカースト上位陣に啖呵を切ったら、明日からいじめの対象になる可能性もある。平凡以下の人生になるだろう。
 そんなことは十分に分かってるけど――。
「――陰でだけ悪口を言って、自分が上になったように慰めてる姿。スゲぇダサいわ」
「……あ?」
「風間、あんたも調子に乗りすぎじゃない?」
「あんたらの評価では、そうなのかもな。だけど俺は、陰でだけ文句を言うところまで堕ちたくない。あんたらみたいに、な」
 言ってしまった。もう戻れない。
 廊下で揉めごとが起きてるって気がついた人たちからの視線が集中する。
 これを尾ヒレ付けて広められて……。明日からは、学校でカースト最下位まで落とされてるだろう。
 そんな人間関係の理不尽が、この小さな学校という社会では当たり前に起こる。
 不思議と後悔はない。
 普通から逸脱して、普通以下に落ちようとしてるのに――不思議と危機感もない。
 自分のありたい自分を貫いたからか?
「へぇ、言ってくれるじゃん」
「私らが陰でしか文句言えない臆病者だって?」
「酷くね? あんたみたいなやつに、なんでそこまで言われないといけないわけ? キモ」
「キモいのは、あんたらもだから。鏡、見てくれば? ああ、自分の言動までは鏡に映らないか」
 俺もスイッチが入ったのか、煽りすぎだ。自覚はある。
 だけど、止まらない。脳が沸騰しそうな程――ムカついてる。
 指先が震える。明日からが怖いから?
 いや、初めて喧嘩なんてするから、かな。
「今の言葉、完璧に覚えたから」
「マジでウザいわ! アンタも河村に無視されたのに、なんで庇うん? それで喜ぶ性癖?」
「おえ、想像しただけでゲロ吐きそう」
 楽しそうに笑ってるな。だけど、河村さんの浮かべる笑みとは違う。
 醜悪で、虫酸が走る笑顔だ。
「どいつもこいつも河村、河村。彩楓彩楓ってさぁ。転校生の外見しか見ないで騙されてんじゃないの?」
「可能性ねぇっての。少なくとも風間には! ドンマイ!」
「うわぁ~。風間君、河村さんに振られちゃうの? 可哀想、でも仕方ないよ。性癖キモイから」
 ほら、早くも勝手な想像が膨らんでる。根も葉もない噂が広まるのは、こうやってだ。
 美穂には申し訳ないなぁ……。俺、明日から相当に悲惨な学校生活になりそうだ。
「本当に気持ち悪いのは、下品なあんたらの方だろ。自分の言動、河村さんに企んでたこと、マジで考えてみろよ。ゲロ吐く感性が残ってるなら、恥ずかしくて仕方なくなるだろうな」
「いや、お前の言動の方がキモイから。鏡見てこいって」
「俺は少なくとも、自分の地位を守りたいために河村さんを蹴落とすやつらよりはマシだ」
「ウチらの何を分かって言うん? 河村を蹴落とす? はぁ~? そんなん、お前に言ったかよ? 思い込みで喧嘩売られるとか、たまったもんじゃないわ」
 被害者ぶってるなぁ。何を言っても通じないってやつが権力を持ってたり、見た目でカースト上位にいると厄介極まりない。
 真面目に頑張って、それでも中間に位置してきた自分がアホらしい。今までの自分が、アホらしい。
 これで何もかも失うって分かってるからかな。
 言いたいことをして、やりたいようにやってスッキリと、いじめ――。
「――私が、どうかした?」
 思考が停止した。
 明日からの地獄を受け入れてた俺の思考が――一人の、美しい声をした子の声で止まる。
「ねぇ、河村って聞こえたんだけど。……それ、私のことだよね? それとも、他にも河村って子が学校にいるのかな?」
 その語調から、明らかに怒ってるのが伝わってくる。
 顔を向ければ、微笑みながら近付いてくる河村さん。
 それなのに――笑みが怖い。
 聞いたことがある。
 笑顔とは、野生動物が獲物を前にしたときに牙を剥き出す表情が原点だと。
 今の河村さんは――目が笑ってない。肉食獣のような瞳で、口だけで微笑んでる。
 美人の笑みって、こんな威圧感あるんだ……。平凡な人間の俺には、分からない世界だった。
 彼女に何故か嫌われてるって事実もあって、俺まで身体が震える……。
「ねぇ、私のこと話してたでしょ? その反応、間違いないよね」
「別に、あんたのことじゃ――」
「――河村彩楓って転校生、他にもいるのかな?」
 食い気味に、彼女が言葉を被せた。強い口調で、異論を許さないように。
「……あんた、どっから聞いてたわけ?」
「ん? 『河村さんに何かされたの?』ってところからだけど? 私がした質問に関係ある?」
 それ、かなり最初の方じゃん! 俺が熱くなって暴走してたのも、聞かれてた?
 全然、周りが見えてなかった……。
「か、河村。あんたの話じゃ――」
「それは苦しくない? 目撃者、一杯だよ? 私と偶然いた子も、みんな聞いてるから。あなたたちが言うことを聞かせようとしても、どこかから真実は漏れるんじゃないかな~」
「ちっ……。そういうとこが気にくわねぇって言うんだよ! 今は評判いいからって、調子にのんなよ!?」
「別に。あなたに気に入られようと生きてないから。私の陰口なら、慣れてる。好きに言えばいいよ。あなたたちが学校内での評判とか相対評価を落としてこようと、どうでもいい。自分自身がする評価は落ちないし、私は自分のなりたい姿を目指すだけだから」
 格好いい。
 学校内の周囲と比べた相対評価ばかり気にしてた俺は――素直に、彼女をそう思った。
 自分自身の評価だっけ? その絶対評価だって、俺はどん底だ。
 やっぱり、彼女と俺は……次元が違う。自分が恥ずかしい。
 彼女はなおも、笑顔でにじり寄る。
「ただね、許せないことがあるんだ」
「な、なんだよ……」
「風間君に、これから何をしようとしてた? もし、それをしたら――絶対に許さないから」
 凄みが増した。数人に囲まれても、全く怯む様子がない。
 威圧感、いや漲る自信から放たれるオーラともいうべきか……。
 さっきまで血気盛んだった子たちも、お互いに視線を向け合って彼女の射貫くような眼力から逃れてる。
「私に何をされるかは、そっちの想像に任せるよ。……ただ、覚えておいてね。私は諦めが悪くて、何年何十年でも執着する、キモイ女だから」
 女の子たちが何度も口にしていた『キモイ』の部分を強調して、河村さんは言い切った。
 言外に、何かしたら――何年でも仕返しをする。そう思わせるような言葉だ。
 それにしても、俺の名前を出してくるとか……。
 彼女の口から初めて聞いた『風間君』という言葉に、少しそわそわする。
 なんで、こんなに意識してしまうんだろう……。
 女の子たちは一人が教室に向かうと――全員が同じように去って行った。
 目の前から逃げた瞬間、ぐちぐちと言いながら。
 いくら俺でも……あれと同類、格好悪い人間にならなくてよかった。あれは、間違いなく平凡以下だ。
 さて……。どうしようか。間違いなくお礼を言うべき場面だろう。それは分かる。
 だけど俺が何を言っても、また無視されるんじゃないのか?
 まぁそれでもいいか。一度あったなら、二度目を恐れてても仕方ない。
 恩知らずにはなりたくないし、誇れるように生きよう。
「河村さん、ありがとう」
 俺がそう言うと、去って行く女の子の方へ視線を向けていた河村さんは――なぜか、肩をビクッと震わせた。
 そうして数秒、固まってから……早足で俺の横まできて止まる。
 目線も合わせず、人に聞かれないよう囁くような声で――。
「――放課後、時間をくれない? 少し、少しでもいいから」
「は、はい……」
「ど、どこに行けばいいかな? 人目がないところの方が、いいんだけど」
 あ、この美しい肉食獣のような子に、やられる。俺は、確信した。
「……校舎裏なら、放課後には誰もいない、かな」
 うちの高校の生徒は、な。民家は近いから、ボコボコにされたら柵と塀を越えて逃げられる。
 さすがに、抵抗して腕力で負けることはないと思う。だけど――そんな力尽くのような真似、したくない。
 恩人に最低な真似をするぐらいなら、尻尾巻いて逃げた方がましだ。
「……分かった。ありがとう、ございます」
 なんで敬語? もう……河村さんは謎が多すぎて、分からない。
 そのまま足早に教室に向かい「彩楓、格好よかった」、「スカッとしたよ~」なんて、周りから言われてる。
 本人は、居心地が悪いのか足を止めないで教室を目指してるみたいだ。
 まぁ……騒ぎを起こした後って、気まずいよな。
 俺も少し、トイレに戻ってほとぼりを覚ます。
 廊下で騒いでる人たちの声が聞こえなくなるまで、個室トイレへ逃げ込んだ。
「……羨ましくて、おかしくなるぐらい格好よかった。……憧れた」
 凡人の俺が威圧しても、ビクともしなかったのに。漲るオーラみたいなのがある河村さんだと、ああも違うのか。
 助けられた自分を情けなく思いつつ、彼女に何を言われるのか。ずっと考え続ける。
 休み時間中に答えは出なくて……。
 教室、後ろの席からの圧を妙に背中に感じる。
 み、見られてる……。黒板を見る振りして、確実に。
 ヘビに睨まれたカエルのように、俺は動けなかった。
 一つ分かるのは――放課後。どちらにせよ、俺の平凡だった日常が壊れるだろうってことぐらいだ。
 それを望んでたはずなのに、どうしてだろう。変化が怖い――。
 やってきてしまった放課後。
 終礼が鳴ると「待ってる」と俺にだけ聞こえるような小声で告げてから、彼女は友達と教室を出て行った。
 友達と出て行ったのに、河村さん一人でくるのか?
 もしかしたら、また囲まれるかもしれない。校舎裏なんて、物語の中だと喧嘩なり脅かされる定番スポットだ。
 美穂……。もし俺に何かあっても、強く生きてくれ。逃げても終わり……というか、席が前後な時点で逃げ場はない。
 そう悟った俺は、自分の名字を風間に変えた父の離婚を、今さらながらに恨む。
「……過去のことを言ってても、仕方ないか」
 未来をみて、進もう。数発、殴られるぐらいは甘んじて受けよう。
 理由なんか分からなくても、それで恩人でアル彼女の気が済むなら――モブにすぎない俺としは、受け入れようと思った。
 重い足を動かし、校舎裏へ向かう。生徒たちは帰宅するなり、部活に行くなりしてる。
 教室棟の校舎裏は、そんな部活に精を出す生徒の声が遠くから聞こえるだけだ。
 裏手に繋がる校舎の角から頭を覗かせる。
「……もう、いるし」
 ポツンと、美少女が俯きながら立ってる。
 両拳をギュッと握りながら、試合前で集中する格闘家のように。
「歯の数本は、覚悟するか……」
 最悪のどん底に落ちるのを救ってくれたんだ。
 情けなく、惨め極まりない状態に堕ちるのを防いでくれたんだし……。
 よっぽどのこと以外は、受け入れようじゃないか。
 意を決して、彼女の元へ近付いて行く。待ってる人の前に行くのって、凄く気まずい。早足で行くのも違うし……。
 なんてことを考えてる間に、彼女の前に着いた。
「あのさ……。来たよ」
「…………」
 顔を上げた彼女の澄んだ瞳に、吸い込まれるかと思った。
 こうして河村さんと話すことがなかったから、分からなかったけど……。
 顔が小さい、小さすぎる。俺の掌ぐらいのサイズしかないかもしれない。
 そう見えるのは、彼女の前髪は横が長くて、フェイスラインが隠れてるからかな。
 どちらにせよ、自分をより美しいと見せようとしてるんじゃないかと感じる。
 こんな天上に住まうような人でも、やっぱり努力してるんだな――。
「――風間、凛空君」
「……何でしょうか?」
 思い詰めたように暗い河村さんの声。格好よく強い子というイメージがついてるから、ドスが利いた声に聞こえる。
 いつか、君なんて大嫌いだと言ってやるとか思ってたけど……。
 圧倒的な格の違いに、とてもじゃないけど言えない。恩もできちゃったしな。
 彼女が一歩、歩み寄ってきた。もうビンタも当たりそうな距離。
 さて、念仏でも唱えるか――。
「――私と婚約してください!」
「…………」
 死の間際、幻聴が聞こえるという。
 そうか、俺は幻聴を聞いたんだ。
「ああ、いや! あのね、その~! あ、ちょっと急すぎたよね!?」
「……そう、だね」
「す、好きな女の子のタイプは、どんな子ですか!?」
「ごめん、俺は耳鼻科に行くべきらしい」
 踵を返して逃げようとする俺の肩が、ガッと掴まれた。細い指がめりめり食い込んでて痛いんだが……。
「こ、答えないなら、当てるね?」
「まずは、この肩を離して、俺を耳鼻科に行かせてほしい」
「明るくて、安心できて、見ていて元気になる子がタイプでしょ!?」
 呼吸が一瞬、止まった。
 なんで、俺の好みのタイプが分かるんだ? 全部当たってるのが、余計に怖い! それに、さっきまでの言葉!
 婚約って言ったよな? 何を言ってるんだ!
 初対面の男に――まして百点満点の君が、こんな六十点がいいところな男に?
 ぶっ飛びすぎてて何がなんだか分からない! お願い、俺をもう帰して!
 これなら殴られた方が、よっぽどシンプルで分かりやすかった。
 まさか脳で考えさせて俺を苦しめ――いや、そんな遠回しにするタイプでもなさそうだ。
「当たってるよね、そうだよね!?」
「当たってるけど、そうだけど! なんでそれを――」
「――やった! やったやったやった!」
 この子、情緒は大丈夫だろうか?
 本気で喜んでるように見える。
「私、そうなれてるかな!? 自分では、そんな女の子だと思ってるんだけど!」
「そう、かもしれないけど」
 正直、話したことがないから周囲への態度を見るに、だけどな。
「本当!? 嬉しい! じゃあ婚約してください!」
「何がじゃあだよ。アホなのかな? 勉強できる系のアホなのかな?」
 一問正解したらOKなんて言ってないだろ。頭の大事なネジ、忘れてきたのか?
「お願い、時間がないの!」
「普通、時間をかけてするものだと思うの」
 時間がないから少し雑用手伝ってぐらいの感覚で言わないでほしい。
 婚約? それ、結婚の約束だろ?
 そんな軽々しく結婚して、母さんみたいに離婚することになったら……。
 いや、何を真面目に考えてるんだ。この子は――自分と全く釣り合わない、凡人の俺で遊んでるんだ。
 俺が許可したら「冗談に決まってるでしょ」とか笑った後、木の陰から動画を撮ってる人が現れたり……。そんな陰湿なことをするタイプでもないか?
 じゃあ、もうなんなんだよ……。
「……はぁ」
「ダメ、かな?」
「ダメもなにも……」
 ここ数日、彼女の俺に対する対応を思い出す。
 わざとらしいぐらいに、完全無視。視界にも入れてませんってぐらいだ。
 その度に、俺は自分が惨めになって……。彼女とは住む世界が違うとか考えてたのに。
「俺を無視してたんじゃないの?」
「初日のこと?」
「それもだね」
「緊張し過ぎて、喉が震えてただけ! 後は、恥ずかしくて見られなかっただけだよ!」
 そんなおかしな話があるか。
「嘘吐け! 初対面のやつらと、あんだけ明るく打ち解けてただろうが!?」
「嘘じゃないよ! 嘘はこれから吐いてほしいの!」
「余計に意味が分からない!」
 ダメだ、頭が痛くなってきた……。
 俺が、もの凄く美人な河村さんに対して、緊張とか恥ずかしいって感情を抱くならある。
 だけど、河村さんが俺に……なんて考えられない。
 こんな日本人の平均みたいな、可もなく不可もなしの俺に、冗談がキツイよ……。
「私じゃ……ダメかな? 私、タイプの子じゃない?」
「そうじゃなくて……」
「そうじゃないの!? つまりはタイプってことだよね! やった!」
「なぜ喜ぶ」
 からかってるだけじゃないのか? これでドッキリとかだったら、彼女は大した役者だ。
 見た目も可愛いし、俳優とかになった方がいい。
 そう、何者にもなれない俺とは違って……。彼女なら、煌びやかな芸能界とかが似合う。
 俺だって本当なら、こんな可愛い子に迫られて嫌がる理由はない。
 でも――。俺は、自分と彼女が違う世界に住む人間だって弁えてる。
 諦めてる……とも、言うかも知れない。
「俺は、君とは釣り合わない。……見て分かるだろ?」
「え、分からないよ?」
「見る目がないんだね。……どう考えても、おかしいだろ」
「おかしいって、何が? 誰がおかしいって思うの?」
 キョトンとした表情で、聞いてきた。
「それは、世間とか……俺とか」
「私は、おかしいって思わないよ?」
「それは君が普通じゃないんだよ。皆、周囲の目を気にして生きるのが普通だから」
「世間の目とかより、自分たちがどうしたいかじゃない?」
 痛いところを突いてくる。同時に、君には分からないだろうって憤りも湧いてきた。
 俺みたいのは、常に他者から比べられてきたんだ。
 劣等感を感じながら、それでも集団で少しでも上に行けるようにって……。そうしないと、自分を保てなかったから。
 河村さんみたいな他者と比べるじゃなく、自分の中での勝負って子には……俺の気持ちは分からない。
「俺が耐えられない。自分で自分を押しつぶることになる。住む世界が違うんだよ」
「一緒だよ?」
「違うよ。というか、なんでそんな俺にこだわるの? 君なら、もっといい人がいくらでも選び放題だろう」
「ダメなの! 他の人じゃ絶対に! ……改めて、そう確信したの」
 何を確信したのかは知らないけど、それは君の目が節穴な証拠だ。
 俺には何も取り柄がない。強いて言えば人のよさ……都合のよさぐらいだ。
 都合のよさ……。なるほど、そういうことか。
「河村さんはさ」
「彩楓でいいよ?」
「……河村さんは、俺に何か頼もうとしてるね? 婚約とかじゃなくて」
「そ、それは……。うん」
 ほら、やっぱりだ。
 危うく、彼女が俺のことを好きだとか……。一目惚れしたとか。
 分不相応な考えをするところだった。
 つまり彼女は――俺を利用したいんだ。婚約という餌をぶら下げるぐらいだ。
 よっぽど頼みにくいか、リスクが大きいことなんだろう。
「俺だって、君に助けられた。婚約とか餌なんてなくても、多少の協力なら惜しまない」
「本当!? じゃあ婚約した上で親に会って!」
「俺の日本語、通じてる?」
「通じてるよ?」
 だったら何で、婚約して親に会うとかいう完全なる終着点に行き着く。
「そもそも君って、そんな話すタイプだったんだね」
「き、緊張の糸が切れたんだよ。そしたら、今まで貯めてた想いが堰を切ったように溢れだして……」
「そうか。じゃあ俺も伝えるよ。君に無視されたときから――嫌いだって言いたかった」
「え。……ぁ」
 悲しそうな彼女の表情が、堪える。
 俺を利用としてただけのはずなのに、何でそんな傷付いたような顔をするんだ……。
 勘違い、しそうになるじゃないか。
「まぁ、君に助けられたときから、そんな感情は消えたんだけど」
「……今は、私のこと嫌いじゃない?」
「……嫌いでは、ない」
「そ、それなら! せめて連絡先交換からでも!」
 彼女はスマホを取り出すと、俺ににじり寄ってくる。
 目が、目が怖い! この子、本気だ! 何に追われてるのか分からないけど、本気だ。
 鞄の中にスマホはあるけど、交換したら何がどうなるか分からない。
 それは多分、恩返しとかを超えて……。可もなく不可もない俺には、とても合わない要求をされるに決まってる。
 絶対に連絡先を教えたくない!
「ごめん、スマホは持ってないんだ」
「嘘! さっき鞄に視線がいってたよ!?」
「ごめん、君に教えるスマホは持ってないんだ!」
「ひ、酷い! お願い、人助けだと思ってさ!」
 彼女は強引に俺の鞄に手をかけ、チャックを開けようとしてくる。
 何でそんな、必死なんだ!?
「ちょっ! やめ――」
「――ぇ……」
 そのとき、スマホと一緒に中の荷物が落ちた。参考書と、筆記用具。
 そして――。
「――女の子用の、ヘアクリップ? スマホ……。受信、美穂?」
「あ……。もう、美穂と待ち合わせの時間か」
 落ちたスマホディスプレイに、何通も美穂からのメッセージが表示されてる。『今日はまだ?』、『早く会いたい』、『事故に遭ってない?』、『待ってます』と……。
 だいぶ、待たせてるうちに態度が変わってるな。これもまた、可愛い……。
 落ちた荷物を鞄の中に仕舞い直す。
 ヘアクリップは、まだ渡すには早い。美穂が本気で拗ねるか、喜んでくれるか……。
 何かしら、適切なタイミングで渡すために、袋にでも入れておくか。
 今みたいに落として、傷がついたら大変だ。あっ。美穂に連絡しないと、怒られるな。
 メッセージを開いて『もうすぐ行くから、待ってて』と送る。
 そうして、彼女の方を見る。
「…………」
 見るからに意気消沈していた。
 さっきまでの……自分で言っていたように堰を切ったような勢いは止まってる。
 悲しそうな、儚げな表情を浮かべ、手を胸の前で組んでた。
「……そっか、そうなんだ。ごめん、ね」
「……ぇ?」
「本当に、暴走してごめんね……。忘れて」
 止める間もなく彼女は、背を向け走って行ってしまった。
 唇を引き結び、涙目を浮かべてた。
 何で……。そんな顔をするんだよ。
 利用する都合のいい駒が、一つダメになっただけじゃないか。
 君の願いには、わけが分からないし分不相応だから応えられないけど……。
 俺は、君の笑顔を遠くで見るモブでありたかった。君の悲痛な泣き顔なんて、見たくなかったのに。胸が痛い。頭が……ぼうっとする。
 痛む頭で冷静に、彼女と俺が恋人になる姿を想像して……。顔が歪んだのを自覚した。
 俺が、彼女の隣に並び立つ? ありえない。
 そんな日々を考えただけで、自分をさらに嫌いになっていく。
 俺が原因で上手くいかないのが、簡単に想像できる。
 彼女がどう思ってようと関係ない。全て、ひねくれた俺が抱える心の問題だ。
 実績と自信のなさが、彼女を受け入れられないと告げてる。
 それなのに、何で……。彼女といる姿を否定すると、こんなにも胸が痛むんだよ? 矛盾してるだろうが……。
 ズキズキと痛む胸を押さえ、美穂の元へと向かった。
 美穂の「今日は遅かったね。大丈夫?」と心配してくれる優しい言葉が、救いだった――。
 翌日から、彼女の様子がおかしい。
 俺の方を、ちらちらと見てる視線を感じる。目線を返すと、あからさまにバッと視線を下に向けられてしまう。
 無視より、更にキツくなった気がする。何よりもキツイのは、だ。
「……笑ってよ。君みたいな輝く人は、俺みたいな凡人に元気を与えてほしい」
 何より――俺は、笑った顔の方が好きなんだ。
 他のクラスメイトたちと話しているときも、表情に陰りが見える。
 彼女の笑顔を奪ったのは、間違いなく俺だろう。
 切っ掛けは、俺と校舎裏で会ってからなんだから。
 でも――原因が分からない。元々、婚約だの親に会ってだの……。都合がいい男と言われる俺でも、無理な願いばっかりだった。
 いくら彼女だって、断られる可能性を考えてなかったはずはない。多分。
 それなのに、あんな元気がなくなる理由が分からない。
 最後、校舎裏から立ち去る寸前に彼女の見せた――悲痛で儚げな表情が、頭を離れてくれない。
 どうしても、悶々としてしまう。
 頭を悩ませつつ、自分が平均以上になれるよう真剣に授業を聞いていて――昼休み。
 食事に誘われたので、食堂にきたんだけど……。一緒にきた友達が、急に頭を下げてきた。
「すまん、凛空! 今日の掃除当番、変わってくれ!」
「また?」
「いや、これも人助けだと思って! 彼女に振られそうなんだ!」
「それは、まぁ……」
 どういう理由かは聞かない。他人の恋愛事情に深入りしたって、いいことがないから。
 まぁどうせ、この男子が相手の子を寂しがらせたとか……。そういう理由だろう。
「本当なら、僕だって今日だけは代わりたくないんだよ!」
「毎回そう思ってほしいけど。なんで今日に限ってなんだ?」
「今日は女子の方のペアが河村さんなんだ! あの子と一緒に掃除できる日なんだよ!」
「ごめん、俺もダメな理由ができた。他の人に頼んでくれ」
 食事に手を伸ばす。ムダな相談だったな。
「待って待って! 僕にもね、凛空の友達として手助けって気持ちもあるんだよ!」
「振られたくないだけだろ。河村さんに色目使ってるから、別れそうになるんじゃねぇの?」
「正論を言うなって! 違うんだ、凛空と河村さんって、その……。険悪じゃん?」
「まぁ……。そう、だな」
 多分、思ってるのとは違う理由でな。
 最初の日、無視された件は……よく分からないけど、解決した。
 今は、もっと謎に険悪だ。視界に入れない無視より、なおキツイ。
「初日、凛空が無視されたときからさ。機会を整えてやりたいと思ってたんだよ」
「そうか。……もう少し早ければ、感謝したかもな」
「なんだ、それ? とにかく、頼む! マジで彼女キレてて……」
「……自業自得だと思うけどな」
 彼女がいるのに、他の可愛い女の子と掃除ができるって喜んでるとか、振られて当然だろう。
 彼女さんの方に同情するよ。まぁ……。河村さんが可愛いのは分かるけどな。
 それ以上に、強烈な印象が強すぎる。
 無視されたかと思えば、絡んできた子を格好よく撃退。
 そうかと思えば、ハイテンション以上の暴走で婚約だの親への挨拶だの……。 
 そして急なトーンダウン。もうわけが分からないよ。
 俺としても喧嘩をしたいわけじゃないし、このままが気分悪いのは確か、か……。
 涙目で反省しながら頼み込む彼に負けて、紙パックジュース一本で引き受けた――。
 そうして放課後。
 教室には、気まずい沈黙が流れた。お互いに、黙々と作業。
 視線は感じるけど、明らかに沈鬱とした表情だ。
「……その掃除用具は、こっちに」
「うん、ありがとう」
 視線を合わせずに、儚げな笑みで言う彼女。
 意識的に、目線を合わせないようにされてるな……。
 彼女の望みを受けるには、俺は分不相応だ。その結論は今でも変わってない。
 ただ、彼女の表情が陰ってるのは――嫌だ。
「あのさ……。何で、そんな辛そうなの?」
「別に……。大丈夫だよ。気にしないで」
「気にする。……俺のせい、だよな」
 俺が尋ねると、彼女は小さく首を振った。
 キュッと握られた手で、そんな首を振られてもな……。
「私が無理なお願いをしたのが悪い、から」
「それは、そう」
 突拍子もない婚約とか、親への挨拶とか。それは無理なお願いだ。
 そんなことを分かってたはずなら、何でそんなにショックを受けてるんだ?
 何で、俺なら受けてくれると思ってたんだ?
「迷惑、だったよね」
「困惑、だったかな?」
「……やっぱり、優しい嘘吐き」
 優しい嘘吐きって、何だ?
 今のは褒められたのかな。どちらともつかない言葉だ。
「風間君。……は、初恋って覚えてる?」
「初恋?」
「やっぱ何でもない! 忘れて!」
 そう言うと、彼女はサッサと掃除の続きを始めた。何でもないって態度ではないだろう……。
 初恋、か。正直……遠すぎて覚えてない。
 恋の明確な定義も知らないし、小学校の頃から周囲の中で劣らないようにと必死になってたから。
 記憶の中に、気になってた子の姿は浮かんでくる。でも、それだけだ。
 強いて言えば、今――目の前にいる河村彩楓さん。
 彼女は、俺の理想を体現したような……。
 いや、これは考えちゃダメだ。明らかに、上手くいかない。
 高嶺の花へ無理に手を伸ばしたら、転落する。ボロクソになって都合よく利用されるだけだ。
「……河村さんは、何で俺に婚約とか親への挨拶とか言ったの?」
「……忘れてって、言ったよ?」
「あんなインパクト強いこと、忘れられないよ」
「……ごめん。秘密」
 秘密、か。誰にでも隠してしておきたいことぐらいはあるだろう。
 だけど、理由も話されず秘密にされた状態で、都合よく――俺なら、利用されるかもしれないな。困ってて、笑顔が陰ってるなら……。もっと、俺が彼女の婚約者に相応しければ……。
 河村さんみたいな可愛くて格好いい。見てる限り俺以外には性格もよくて、いるだけで元気になるような明るい人と婚約できるなら、受ける人も多いだろう。
 俺だって、そうだ。
「……本当に、彼女さんにも嫌な思いをさせてごめんね」
「……はい?」
「恍けなくてもいいんだよ。気を遣わせて、ごめんね」
 一層、辛そうな笑みを浮かべる彼女を……もう見ていたくない。
 だけど――彼女さん?
「あのさ……。勘違いしてない?」
「してないよ」
「いや、してるよ」
「……してた、かも。風間君みたいに素敵な人に、彼女がいないわけなかったのにね……」
 現在進行形で勘違いしてるよ。それも、いくつも。
 まず、俺が素敵な人ってところ。可もなく不可もなくを具現化した俺の、どこが素敵なのか教えてほしい。自分でも分からないから、切実に。
 そして、もう一つ。
「俺、本当に彼女いないけど? その勘違いで、最近は笑顔が曇ってるの?」
「……よく見てくれてるね」
「誰でも分かるよ」
「痛いってのは、自分でも分かってる。……ごめん、立ち直るから。気にしないで」
 あの格好よかった姿は、どこへ消えたのか。
 人間らしいところもあるって意味では、満点のままなんだけど……。
 目の節穴さとか、思い込みの激しさとかは……彼女が同じ人間かもって感じさせてくれる。
 親しみを持てるって程、気安くはなれないけど。
「俺なんかの何が……。まぁ都合のいい人が減ったからなんだろうけど。その勘違いで君の笑顔が曇るのは、嫌だ」
「都合のいい人なんて、思ってないよ」
「それなら、余計に思い直してくれ。俺は――君の突き抜ける空のように輝く笑みがいい」
「……ぇ」
 あ、やばい。変なことを言った。
 ああ……。気障なセリフなんて、イケメンが言わない限りは気持ち悪いだけなのに!
 ついつい、彼女の笑顔が本来の笑みじゃないのが嫌で口走った!
「……そんなことを言ったら、美穂さんに悪いよ」
「……美穂?」
「うん。彼女さんがいるのに、他の子を落としちゃダメだよ?」
 ストンと、腑に落ちた。
 なるほど。状況だけ見たら、勘違いもするか。
 それなら――。
「――ねぇ。この間は俺が付き合ったんだからさ、今日は俺に放課後、時間くれない? 掃除終わった後に、さ」
「……え?」
「上尾市内で、ちょっと見てほしい……。来てほしいところがあるんだよ」
「でも……。美穂さんに、悪い」
 彼女は、目を右往左往させて悩んでる。
「その美穂に関すること。大丈夫、怒られ……は、するかもしれないけど。でも、絶対に大丈夫」
「また、優しい嘘?」
「嘘じゃないっての」
「……うん、分かった。信じる」
 同意は得られた。俺たちはササッと掃除を終わらせ、一緒に帰宅する。
 学校の生徒の姿が見えなくなるまで、周囲から向けられる視線が痛かった――。
「――あの、どこ行くの?」
「もうちょっとだから、ついてきて」
 俺たちは電車に乗り、上尾市内だが高校の最寄りとは別の駅へ来ていた。
 駅から十数分、歩き――。
「――着いたよ」
「ここ……学童保育?」
「そう、美穂! 来たぞ!」
「え、え!? 美穂さんって、年上の職員さん!? お仕事中に良いの!?」
 う~ん。もう、この時点でなぁ。「年上好きだったなんて、知らなかった」とか呟いてるし……。
 俺が入口で声をかけると、すぐに美穂が駆け出てきた。
「凛空、遅い。……心配した」
「ごめんごめん。急に掃除当番入ったって、メッセージしただろ?」
「それでも、いつもより遅かった。……この頃、そんなのばっかで不安になる」
「ははっ。ごめんって」
 美穂は俺の顔を見るなり、ハグをしてきた。
 いつものことだけど、甘え上手で可愛い。
「…………」
 河村さんは、絶句してた。大きい目をパチクリさせて、俺と美穂を見比べてる。
「凛空、この女……誰?」
「俺のクラスメイト。河村彩楓さん。この女とか言わない」
「へぇ……。ただのクラスメイトと、ここに来たの?」
「怒るなっての」
 頭を撫でてやると、頬を膨らませながら、そっぽを向いた。
 まぁ、やっぱり怒るよな。予想はしてた。
「風間君……」
「……これで分かった? 河村さん」
「うん。……一緒に自首しよう? 私も付き添うから」
「待って。それはおかしい。君はまた勘違いをしてる」
 涙目で思い詰めたような……。
 そんな表情で、彼女は俺と美穂を引き剥がそうと腕を引っ張ってる。
「さすがに、小学生はダメだって」
「ダメも何も、妹だっての」
「……え?」
「美穂は、俺の妹。六つ歳が離れてる、血の繋がった妹だよ」
 今年、十二才になる小学校六年生。母さんは忙しいから、俺が毎日迎えにきてる。
 進級する度に学童を卒業しちゃうから、今では小学校六年生は美穂だけだ。だから他の皆のお世話もしてるような、しっかり者で自慢の妹。
「風間美穂です。いつもうちの凛空が、お友達としてお世話になってます」
「あ、え? あ、あの……。河村彩楓です。こちらこそ、いつもご迷惑をおかけしております」
 本当にな。とんでもない勘違いをしてたし……。いや、迷惑のかけ方なら助けてもらった俺の方が上、か?
「……凛空。いつもご迷惑ってのは、具体的には?」
「怒るなよ。河村さんは、俺が性格悪い子にいじめられそうになってたのを助けてくれたんだから」
「え……。そうなんだ。それなら、まぁ……」
 膨れっ面で、渋々ながら河村さんに頭を下げてる。
 年下の子の面倒を見るし、言葉遣いも考え方も小学生離れしてるけど……。
 母さんからの愛情と触れ合う時間が少なかった分、だいぶお兄ちゃんっ子だからな。父親は、美穂が生まれたときには母さんと離婚していなかったし。
 お互いにブラコン、シスコンだとは思う。
「美穂、朝に編んだ髪がほどけかけてるぞ。結んであげるから、後ろ向いて」
「……うん」
 未だに呆然としてる様子の河村さんをよそに、バックからヘアクリップを取り出す。
 背中を向けた美穂の髪を三つ編みや編み込みでハーフアップに整える。
 よし、可愛くも上品になったな。
「あ、そのヘアクリップ……」
「そう。……美穂、写真撮るよ」
「え、なんで!?」
「ほら、見てみ?」
 撮った写真を見せてやると、美穂は目を見開いた後、ヘアクリップを触った。
「……凛空、ありがとう」
 うんうん。こうして幸せそうな笑みを見ると、頑張って引越バイトをしてよかったなってなる。
 自分の進学費用にもなるし、家族が喜ぶことにも使える。
「美穂ちゃん。可愛い。似合ってるね!」
「ありがとうございます。私は凛空に毎日、髪を結んでもらってるんです。……あんまり上手くはないけど、下手でもないので」
「はは……。可もなく不可もなく、か。……妹にも言われると、メンタルにくるなぁ」
 家事でもなんでもそうだ。何か、何か一つでもいい。
 これなら誰にも負けないってものがあればなぁ……。
「それで河村さん? もう勘違いはしてない?」
「あ、うん。私、色々と恥ずかしいね」
 照れたように、高い鼻を擦ってる。その恥ずかしそうな笑みには、もう陰りも曇りもない。
 ちゃんと、心からの笑みだ。よかった、これが見たかったんだ。
「美穂ちゃん。お姉ちゃんは、ほしくない?」
「うん、ちょっと黙ろうか」
 そこまで話が戻るのか。勘違いは解消したかったけど、婚約だの親への挨拶だのは重すぎる。
 そっちは今回の話とは、次元が違うから。
 せっかく機嫌が直った美穂を落ち着かせながら、彼女を駅前まで送って自宅へ帰った――。
 翌日から、俺の日常は変わった。
「風間君! おはよう!」
「お、おう……。おはよう」
 朝から、今までの気まずい関係が嘘のように挨拶をしてくる。
 周りもザワザワしてて……。
 特に、昨日掃除を代わってくれと言ったやつの誇らしげな視線が腹立たしい。
 授業の合間、休み時間も――机に向かって予習をしてる俺は落ち着かない。
「……背中突っつくの、やめてもらえない?」
「私のお願い、聞いてくれたらね」
「それ、例のやつ?」
「そっ。例のやつ」
「お断りします」
 教科書に視線を戻す。
 拗ねてるのか、指先で背中をなぞってくる。河村さんは距離感、おかしくないか? 周囲の視線が痛い……。
 こういうのは、俺みたいな六十点がいいところの人間にやるべきものじゃない。
 周りからも「釣り合わねぇ」、「趣味悪いのか?」、「風間とか普通じゃん。なんで?」と聞こえてくる。
 俺自身、そうは思うけど……。普通は傷付くからやめてほしい。
 見ての通り、普通以上の……自信を持てる何かを得ようと頑張ってるんだ。
「ねっ。連絡先交換しようよ~」
「そうしたら、学校でこういうのしない?」
「こういうのって?」
「……君だけじゃなく、俺まで目立つ行動。不相応だから」
 言わなければ分からないのかな。まぁ分からないか……。
 見た目はともかく、成績から何から平均、可もなく不可もなしなんて、出会って日の浅い彼女が知ってるわけがない。
「不相応とか言われると、私が悲しくなるなぁ……」
「……念のため、言っておくよ。俺が、君に釣り合ってないんだからね?」
「そんなわけないじゃん……。これじゃ、今までの私は一体何を……」
 最後の方は真後ろの席なのに、よく聞こえなかった。本当に自分の中で呟くような小さい声だったから。
 だけど、落ち込んでほしくはない……。離れたところから、彼女の笑顔を見てたい。
「……ねぇ。それならさ、もっと格好よくなれるように、私がお手伝いするよ?」
「どうやって?」
「街でショップ巡って、おしゃれにコーディネートとか! 一杯、ファッションの勉強もしたんだ!」
「それ、デートじゃん。君の要望を飲ませることに繋がる既成事実作成だろ」
 婚約まで一足跳びにいかなくても、周囲から付き合ってると勘違いされるかもしれない。
 いや……。荷物持ちと思われるか? それが妥当か。
 だけど俺の提案が不満だったみたいで、また拗ねたような溜息が後ろから聞こえた。
「……時間がない」
 本当に、弱っていて……焦ったような声音だった。何とかしてあげたいとは思う。
 だけど、彼女の突き付けた要求は俺には叶えられるようなものじゃない。
 そういうのは、運命を感じた君に相応しく頭も性格もいいイケメンに頼むべきだ。
 聞こえない振りをしながら、俺はその日を乗り切った――。
 そして次の登校、また三週間ぐらいが経った四月後半になっても――。
「――おはよう風間君! 連絡先交換しよ!」
「おはよう。今日も、いい天気だねみたいに定型文化しないでくれるかな」
「……今日も、ダメかぁ。明日は、どんな手を使おう……」
 彼女は、諦めない。俺から何を言われても、へこたれない。
 俺に彼女がいると勘違いしてたときは、素直に引いたのに。
 いっそ、勘違いさせたままのが平穏だったか……。いや、それは俺の望むところじゃない。
 彼女の笑ってる顔をモブとして見られるのは、せめて中の上を目指すのにもありがたい。
 周囲を明るく、元気にする力を彼女は持ってるから。
 要望は飲めないけど……。連絡先を教えるだけでもすれば、彼女は本当の笑顔で毎日をすごせるだろうか?
 それで活力をもらえれば、俺も平凡を脱却できるかもしれない。あの女の子たちを撃退した日みたいに、彼女の強さにも憧れたしな。
 事情を知れば婚約とかはともかく、連絡先ぐらいは……。それだと意味がないのかもしれないけど。……何だか、立場が逆転してるな。
 普通、俺みたいなやつが河村さんに「連絡先を教えてください!」って懇願する立場だろうに……。
 そもそも、だ。何で彼女が俺にこだわるのか。この理由が秘密のままだと、素直に利用されにくい。婚約とか、破棄も大変だろうに。
 会ったばかりの俺にそれを頼む程の事情はなんだろう?
 やっぱり彼女の秘密が気になる――。
 自宅へ帰ってきた。
 ここ三週間程度ではあるけど……。俺は、今まで以上に勉強に励んできた。
「……勉強に全力を注いだ。これで優秀……とまでは行かなくても、中の上以上の伸びがあるなら。俺は彼女の要求に応えられるかもしれない」
 今、俺の目の前にあるパソコン画面には、Webで受けられる模試サービスの画面が映ってる。
 簡単に受けられて、すぐに結果が出る。相対的な学力を測ったり、学力を伸ばすことに繋げられる有料サービスだ。
 決まった時間に塾へ通う時間がないから、こういうのを使ってるけど……。
 今回は、気合いの入れようが違う。日に日に焦りが強くなってく河村さんの期待に応えたい。
 婚約はともかく、付き合ってる振りをして親へ挨拶ぐらいなら……力になりたい。
 協力するための、俺でも彼女と付き合ってる振りをしていいんだという自信をつけたい。
 黙々と、テストに打ち込む――。
「――俺は、何のために存在してるのかな……。俺の代わりなんて、いくらでもいる」
 二時間が経過したとき、天を仰いで口から漏れ出ていた。
 あれだけ勉強したのに……。やっぱり、ほぼ平均点。逆に凄いけど、普通の壁を破れない。
 可もなく不可もなし。何て面白味がなくて、どこにでもいる人間なんだろう……。
「――凛空、勉強は終わった!?」
「美穂? どうした?」
 俺が勉強に打ち込んでるのを見て、話しかけるのを躊躇ってたのかな?
 美穂が扉を開いて、室内に入ってきた。
「私の勉強、手伝って! これ、参考書!」
 手に持ってた本は、参考書か。小学校六年生算数みたいだな。
 知識確認の小テストもついてるみたいだ。
 これなら、俺も百点満点を取れるかなとか考えちゃうのは……もう末期かもしれない。
「美穂は勉強熱心だな。偉いぞ~。よし、俺と一緒に勉強頑張ろうな」
「ありがとう。凛空も偉い。いつも家事も勉強も頑張ってくれてる。凄く偉くて、感謝してる」
 人間性でも、美穂は俺より既に上だ。優秀な妹に比べて、俺は……。
 何とか辛い表情をみせないように、美穂を身体に寄せながら頭を撫でて褒める。
 軽いスキンシップも終わって、お互いに教科書や参考書を開き勉強を始めた。
 自分の見てる教科書の内容が理解できない……。
 美穂は黙々とやってるな。大丈夫なのかな。分からないところとかあったら、教えるのに。
 気になって美穂の参考書とノートへ目線を向ける。
 知識確認の小テスト問題を解いてるみたいだ。
 問題を読み進めてると――一問、解けない問題があった。
 長文の、いくつかある難問の一つなんだろうけど……。
 やばい、分からない。ちょっと……難しすぎない? 質問されたら、どうしよう。
 そう思いながら美穂のノートを見ると――美穂が綺麗な字で数式を書き、解いてる。
 その数式を見て、これが正解なんだろうと悟った。
 何だよ、これ。泣きそうだ。可愛い妹によく頑張ったなって思うと同時に……。羨ましいとか、なんで俺は小学校六年生の問題すら解けないんだとか考えちゃうなんて……。
 俺は、なんでこんなにも惨めで器が小さいんだ。
 努力も実らず、それどころか小学生の優秀な妹の才に嫉妬するなんて……情けない。
 こんな俺が、授業でも圧倒的学力を見せ、美貌でも満点の彼女に相応しいわけがない――。
 翌日の学校でも、河村さんは変わらなかった。
「おはよう風間君。ねぇ、お願い。いきなりアレはお願いしないから……。せめて連絡先だけでも交換してくれないかな?」
 明らかに最初より焦ってる様子の彼女が、譲歩してきた。
 この数週間、彼女は代わりの誰かへお願いした様子がない。
 誰かに受けてもらえるかは分からないけど、ずっと断り続けてる俺よりは可能性があるだろうに。利用するのが難しいと、いい加減に分かるだろうに、だ。
 こうなると校舎裏で彼女に、もっといい男を選び放題だろうと言ったときの反応が気になってくる。
 あのとき『ダメなの! 他の人じゃ絶対に! ……改めて、そう確信したの』と、彼女は言ってた。
 記憶に鮮烈に残りすぎて、一言一句忘れない。――彼女には、何かがある。
「ね。無視はしないで? 初日に無視しちゃった私が言うのも、変だけどさ」
「それはその通りだな。もう気にしてないけど。……俺は、君みたいな人と連絡先を交換するに相応しくない」
「だから、それはさ――」
「――昨日、改めてそう感じたんだよ……」
 努力の結果が実らないだけならいい。それなら、慣れてる。
 でも小学生の……可愛い妹にさえ嫉妬した事実は、改めて自分を嫌いになるには十分な経験だ。
「……そっか。分かった。何があったかは、これ以上は聞かないね」
「そうしてくれると、惨めな気持ちが増さなくて済むな」
「うん。ただ、私は諦めないよ! 私に足りないところがあったら、言ってね!」
「俺が君に足りないんだって、何度言っても理解できないところかな……」
 なんで彼女は、こうも俺に執着するんだろう。もはや、怪しいのレベルだ。
 やっぱり――彼女の秘密が知りたい。一度、彼女と二人っきりになって聞いてみるか?
 そうして下校時、彼女の後ろについて歩いたのはいいけど……。
「……ストーカーじゃねぇか。これ……」
 上尾は、人が意外に多い。通勤快速列車が停まらないクセに、滅茶苦茶、駅が込む。
 人気のないところへ放課後に呼び出す勇気もでなかった。彼女の秘密を教えてほしいから呼び出すのは、言いにくくて……。自然と人気がないところに行けばと放課後、校門近くで声をかけようとしたけど、生徒が多い。
 そのまま駅に行けば、人がもっと多かった。彼女が電車に乗るのについていき……。ほんの一駅離れたところ。丁度、普段俺が帰るのと同じ駅で彼女はホームに降りた。
 これなら、見つかっても自分も帰る予定だったと言い訳できそうだ。
 まずい。何か本当に不審者みたいになってる。
 後ろめたさを感じながら、人ごみに紛れて彼女についていく。
 すると――。
「――病院?」
 俺でも知ってるような、有名で大きな病院に彼女は入って行った。
 さすがに、院内にまでついていくわけにはいかない。
 出入り口が見えるコンビニ前で、頭を落ち着けよう。
「頻りに言ってた『時間がない』って言葉……。もしかして、彼女は……」
 病気、なのか? あの元気に笑い、快活で挫けない彼女が……。
 考えにくいけど、そうだとしたら……つじつまが合う。
 婚約だけして、迷惑をかけなそうな人間。
 心残りにもならなそうで、都合のいい人間。
 残りの期間、思い出作りだけで……本気には、ならなそうな人間。
 それでいて極端に格好よくも不細工でもない……と評価されてる人間。
 自分の余命が残り少なくて、結婚や恋人がいる生活を体験だけしてみたいとしたら……。
 俺みたいな人間は――全て当てはまって丁度良いだろう。
「そういう、ことか……」
 点と点が、線で繋がった気がした。それなら、俺も力になろう。
 残りの寿命が少ない彼女に……。いい思い出をプレゼントする。決して本気にならず、都合のいい男。
 その彼女の願いになら、俺は相応しい。だったら、彼女の笑顔のために全力を尽くす。
 意を決した俺は、病院の中に入る。
 待合室に……彼女の姿はない。
 どこにいるんだろうと、院内をさまよい歩いてると――エレベーターが開いた。
「え……」
「あ……」
 目が合った。エレベーターの中で、瞳を潤ませてる河村彩楓さんと。
 そのエレベーターが止まる病棟を、見てみる。
「……緩和ケア、病棟?」
 あんまり聞き覚えのない病棟名があって、思わず口に出してしまった。
 すると彼女は、唇をキュッと引き締め――。
「――バレちゃった、か……」
 そう、儚く笑った。
 本当に彼女が……。病気?
「ついてきてくれる? 私の抱えてる秘密。話したいから、さ……」
 彼女の声に従い、俺は病院を出た。
 後ろをついて少し歩き、小さな公園のベンチに座る。
 沈黙のまま、何を話せばいいのか分からない。
 緩和ケアについて、この公園へ来るまでにスマホでサッと検索だけしたら『癌』、『終末期』、『人生の最期をどうすごすか』なんて予測ワードが表示された。
 今までの人生で、余命を考えなければならない大きな病気にかかった人となんて接したことがない。
 それが俺と同じ年齢の子なんて……。薄幸の美少女とか、余命のある高校生なんて……。映画やドラマ、物語の世界だけだと思ってた。
 彼女が病気なんて、未だに信じられない。声なんて、かけようがない。俺自身も戸惑ってるし……。現実を認めたくない。
 自分の身体に起きてる病気じゃない。まだ彼女とは出会って三週間ぐらいだ。
 それなのに、なぜか……。彼女がいなくなるなんて絶対に嫌で、心が苦しかった――。
「――風間君には、お願いを受けてもらえるまで隠しておきたかったのになぁ……。なんで、あの病院にいるかなぁ……」 
「……ごめん。君がなんで、そんなに俺へこだわるのか。そうまでする君の秘密はなんなのか。どうしても気になって……。ストーカーみたいに後を付けたんだ」
 責めるなら、責めてくれ。むしろ、そうしてくれた方が楽になる。
「私のことが気になってくれたの?」
「……まるでストーカーみたいに、ね」
「嬉しいなぁ~」
「嬉しくないでしょ。ストーカーみたいにって、言ってるんだよ? 俺を責めないの?」
 なんで、そんな本気で嬉しそうに笑ってるんだ。
 綺麗な顔にえくぼを浮かべて、無邪気にさ……。怒るでしょう、普通は……。
「え? 責めないよ? 本当に好きな人じゃなかったら通報するけど、本当に好きな人だもん。婚約したいぐらいには、ね」
「……君は凄いな。色々と、凄いよ」
「……それに、私も人のことは言えないから」
「え?」
 悲しげな表情で、それでいてどこか遠い目をした彼女の言葉が気にかかる。
「ご、ごめんね。何でもない、何でもないから!」
 どうし俺のストーカーみたいな行為を責めないばかりか――人のことは言えないって話になるんだろう。
 君の抱えてる秘密……。俺には話せないことは、病気以外にもあるのか?
「それより……私が緩和ケア病棟にいたの、バレちゃったんだよね?」
「うん……。見ちゃった」
「見ちゃった、か。そっか……。じゃあ、全部バレてるんだね」
「……本当に、ごめん」
 彼女にとって絶対に知られたくない秘密だったのかもしれない。
 無理やり暴くような真似をしたことに、罪悪感を抱いてしまう。
 俺に何も知られず、楽しい思い出を作りながら最期を迎えたかったかもしれないのに。
「緩和ケア病棟ってさ、苦痛を和らげる……。最期までの憩いを教えてくれる場所なの。薬の調整だったり、死への恐怖とか落ち込みとか……。精神的な苦痛を減らして、自分らしく最期を迎えられるようにってね」
 そう、なのか。俺は詳しい内容を知らない。さっきネットで本当に少し、見ただけだ。
 彼女は……自分らしく最期を迎えられるようにって、あれだけ明るく学校生活をしてたのか。
 悲しさ、苦しみ……。恐怖。
 様々な思いを抱えていても、優れた人間であり続けて。どんな感情があったんだろう。どんな葛藤があったんだろう。
 彼女を羨んで、屈辱感に震えてた自分が……嫌になる。
「君は、さ。どうして、この時期に引越してきたの? 実は、上尾に生まれた家があるとか?」
「ないよ? 叔母さんが大家してるアパートにね、空室があるからって入居させてもらったんだ」
「それなら、どうして上尾に?」
「この間までは神奈川県の川崎市に住んでたんだ。上尾にきたのも、通ってた病院から紹介されたからなの。系列の病院で、申し込んでた入院待ちの順番が来そうだからって」
 上尾は住むには便利だけど……。東京へ通う人が多く住む場所だ。仕事を終えて帰るような街で、観光地でもない。
 少なくとも、美しい山々や海とか、綺麗な景色で最期を迎えるイメージに近い所じゃない。
 病院の空き待ちで、仕方なしに上尾へきたって流れなのか。
「大人の事情ってやつでね、三週間ちょっとだけ入院させてもらえたの。少しは症状が和らいだみたい」
 微笑む彼女の顔が、夕陽で茜色に染められる。
「あとは家で、余命が尽きるのを待つことになるの」
 無理に微笑む彼女の顔が、とても寂しそうで……。悲しげな美しさを醸していた。
「その……。大丈夫なのか? 病気なら生活とか、手伝いが必要なことも多いんじゃない?」
「家とかに訪問してくれる医療サービスを使って、何とか……。何とかしていくしかないよね」
「そんな不安そうに何とかって……。入院は? 病院で最期を迎えたくない、とか?」
「制度とか大人の事情ってやつで、長くは入院させてもらえないんだってさ。……どうしても具合が悪くなったら、また入院させてもらえるらしいんだけどね」
 そんな……。俺は一体、どうしたらいいんだ? どうすれば、彼女のためになれる?
 そもそも、だ。
「あと……どれぐらい、余命は残されてるの?」
「……半年はもたないだろうって、さ」
 信じられない、信じたくなかった。そんなの、あっという間にすぎるだろう。この一瞬だって、貴重。好きに生きたいはずだ。
 目の前の……。謎に包まれた君と出会って、一年も経たずにさよならなんて……心が痛い。
「美人薄命とは聞くけど、さ。受け入れられないよ……」
「……私は、もう受け入れるしかないかな。もう治療の施しようがないって言われてたから」
「まさか……。元気に見えた君が、実は余命宣告をされてたなんてさ……」
 満点な生き方をする彼女の隣に、精々が六十点……。可もなく不可もない人生を歩んでる俺が相応しいとは、思えない。
 それでも、俺なんかとの思い出で君が幸せな半年をすごせるなら……。
「……え?」
「え?」
「……風間君? 勘違い、してない?」
「勘違い? 俺が?」
 何がだろう。元気に見えたのが実は……勘違いとか?
 俺と婚約、親への挨拶と……生き急ぐというか、焦ってたからな。
 周りからは快活で眩しく見えても、本人は元気なつもりがなかったのかもしれない。
「……知ったような口を効いて、ごめん。俺、余命宣告されてる人と話すのなんて初めてでさ。君の抱えた想いとか分からなくて――」
「――余命宣告をされてるのは、私じゃないよ?」
「……は?」
 思考がフリーズした。全く意味が分からない。
「余命宣告をされてるのは……私のお母さんだよ。私を愛してくれた、たった一人のお母さん」
 余命宣告をされてるのは、河村さん本人じゃないのか。
 一気に力が抜けたのと同時に、安心もできない。
 それでも……辛い、よな。大切な親が、あと半年後にはいなくなるってことなんだから。
「そっか……。河村さん。だから、だったのか」
「……ん? 何が、かな?」
「便利で協力してくれそうな俺への不自然な告白……。突然すぎる婚約とか、親への挨拶とか。大好きなお母さんを、安心させたかったからの提案なんだな?」
 そう考えれば、全ての辻褄が合う。
 重い役目に、事情。こういう理由だから協力してくれと伝えられず、それでもお母さんの前にと好きでもない相手に好きなような言動をした全ての想いにだ。
「……大切なところが、ちょっとだけ違うかな。でも、お母さんを安心させたかったのは合ってる。お母さんはダメ男に騙されないで、良い男と結婚してって……。ずっと私に望んでたから」
 大切なところが違う? ここまで話してくれてるのに、まだ彼女の秘密が分からない。
 どう考えても、お人好し……いい人と思われたい俺に協力をしてくれって気持ちにしか感じられない。そうじゃなければ、彼女に相応しくない俺に近付く理由がないだろう。
 あの廊下で河村さんを庇い、いじめのターゲットになりかけた一件。
 あれで彼女は、俺なら協力してくれそうと思ったんじゃないのか?
 都合の良い男として……。いつも俺を利用する人みたいに、俺を見てたんじゃないのか?
 分からない、君のことが……。君の抱える感情が、理解できない。
「こんな私の抱える重い状況を話してから、婚約とか親への挨拶をお願いするなんて……。卑怯だよね。……ごめんね。あの言葉は一時、忘れて――」
「――偽装婚約、なら」
「……え?」
「偽装婚約をして、挨拶をするのでよければ……協力させてほしい」
 彼女の抱える想い、秘密は――また分からなくなった。
 それでも、俺は……。彼女に協力したい。利用されるのも、本望だ。
「いい、の? そんな、同情で私の重い事情に付き合わなくていいんだよ?」
「俺が、そうしたいんだ。……その方が君が自然に笑えて、お母さんも幸せになれるならさ。協力させてくれないか?」
「凛空、くん……」
 胸が跳ねた。震え、心の奥から何かが染み出そうだ。
 感極まったように、涙目で――俺の名前を呼ぶ言葉は、それぐらい強烈だった。
 泣くってことは……。
「やっぱり俺みたいに普通な……。面白くもない人間じゃ、ダメかもと思った?」
「ううん、違うよ! でも、私のことを避けてて……。苦手だったんじゃないの?」
「無視されたときは、苦手だった。でも……一緒にいたくなかったのは、別の理由」
「それって?」
 情けない、我ながら本当に情けない理由だ……。
「君の隣に、俺が相応しくないと思ったから」
「……何、それ?」
「普通に考えて、釣り合わないじゃん。俺から見て満点な君と、その辺に山ほどいるような俺じゃあ」
「そんなことない、違うんだよ! 何度だって言うけど……。そんなに、今の自分が認められないの? 私は、何のために……」
 本当に悲痛なまでに表情を歪めた。
 何でだ。今までも、そう言って告白や提案を断ってきたじゃないか。
 これまでは、彼女の願いを断る理由付けぐらいに思ってたのか?
「……自分でも、歪んでる自覚はある。俺自信が、平凡な俺を認められない……。君のような凄い人の隣に並び立つなんて、認められない」
「そんな……。何で……そんな悲しいことを言うの?」
 悲しいこと、か。自分を認められないのは、確かに悲しいよな。
 分かってても、抜け出せないんだ。
 同級生の中でも劣等感に悩まされ、小学生にも負けててさ……。競争社会の中で頑張っても負けて、歪められ続けて……。自分に自信を持てるわけがない。
「それでも――偽装婚約なら、いい。可もなく不可もなしの大嫌いな自分でも、受けていい提案かなって思う。本気で君のそばにパートナーとしているんじゃなくて、君の利益になる利用のされ方なら……。うん、それなら俺は納得だし、歓迎だ」
「……絶対に、変えてみせるから」
「……何を?」
「全部だよ! 偽装って部分も、凛空君が自分に自信を持てないところも! 絶対に変えてみせるから! だから今は――その条件でも、いい! どうか、お願いします!」
 バッと頭を下げてくる彼女の姿に、困惑が止まらない。
 いつも誰かに利用されてるように、丁度いいと思われたんだと思った。
 それで彼女が笑顔になるなら、喜んで利用されてやろうと思った。
 全て平凡なモブにすぎない俺にとっては、それでも役得だって……。それなのに彼女からは――絶対に俺を変えるという強い意思が感じられられる。
 自分の損得勘定なんて、関係なしにだ。
 そんな姿を見たら、勘違いしそうになる。分不相応な想いを、抱きそうになるだろう……。
「頭を上げて」
 公演の土に片膝をついて、彼女の顔を下から覗き込む。
 ギュッと瞑っていた彼女の目が、少しずつ開いてきた。
「こちらこそ――よろしくな」
「ありがとう……。ありがとう、凛空君!」
 河村さんの肩に手を当て、下げていた頭ごとソッと身体を起こす。
 夕焼けが照らす瞳、涙。どれもが……宝石よりも美しく見えて、俺の感情を揺らしてくる。
「いつの間にか、だけどさ。当たり前のように河村さんは、俺を名前呼びなんだな?」
「当然だよ! だって婚約者同士でしょ!?」
「偽装だけどな」
「今は、ね! それより、私のことも名前で呼んでよ! そんな婚約者いるかって、お母さんも不審に思っちゃうよ!?」
 う……。それは、その通りかもしれない。親へ結婚の挨拶に行くなら、『彩楓』とか呼ぶのか?
 女の子相手だと、ハードルが……。美穂なら、名前呼びも簡単なのに。
 ああ、もう! 覚悟を決めろ!
「あ、彩楓……さん?」
「えぇ~。『さん』付け、かぁ……。ラブラブ度が足りないかなぁ」
「勘弁しろよ……。ドラマとか映画でしか見たことないけど、名前に『さん』付けなら、親への挨拶には自然だろ?」
「ん~……。まぁ、今はそんなもんだよね。分かった! でも私、本当に諦め悪いからね!」
 諦めが悪いのは、知ってるよ。俺がどれだけ告白……。いや、願いを断っても、絶対に諦めなかったもんな。大好きなお母さんのために、譲らなかったから。
 それにしても、俺の凡庸な人生が……おかしなことになったもんだ。
 可もなく不可もなしな六十点がいいとこな俺と、文武ともに満点な彼女。
 本当に、奇妙な感覚だけど……。アンバランスなコンビで、優しい嘘を添えていく日々が始まる――。