***
部活からの帰り道。隣には浮遊する青木。
「退屈じゃなかった?」
「いや、全然。気持ちよさそうでいいなと思った。もう俺にはボール、掴めないからな……」
ひぐらしが鳴いている。どこからともなく漂ってきた夕飯の匂いが鼻をくすぐり、急にお腹が空いてきた。
満月にはまだ満たない月が、グラデーションを描いて全天を照らしている。
こんな夜は……。
「跳んでるときに見る月も綺麗だろうね」
ふと青木が呟いた。あたしも同じことを考えていたから驚いた。
「ハイジャンって、身近で初めて見たけど、とても綺麗だな。背中の反りがしなやかで。あの棒を越える瞬間、立野にはどんな景色が見えているのかな。凄くいい表情をしてたよ、立野」
「そう? ありがとう。景色はね、空だよ。空だけに支配されて、その中で浮いてる感じなんだよ。そのときは時間が止まったみたいなんだ」
「本当に飛んでる感じなんだね。気持ちよさそうだ」
青木は笑顔であたしに言った。でもそれは全開の青木の笑顔とどこか違っていた。
「青木?」
「ん?」
「どうかしたの? 何か、あった? ……午前中はどこに行ってたの?」
どこまで踏み込んで訊いていいのか分からず、躊躇いがちに問いかける。
「実家に行ってみたんだ。母さんがいつもと同じように掃除してたよ。でも、俺の仏壇に手を合わせるときは、泣いてた」
思い出すように遠くを見つめながら、青木は言った。
「そっか……」
残された者はつらい。幽霊になった青木はそれを見てしまった。それはどんなに苦しいことだろう。
「立野」
青木が真剣な声であたしを呼んだ。隣を見上げると、珍しく真顔の青木がいた。あたしもじっと青木を見つめ返した。
「なに?」
「今日、いろいろ回って判ったことがあるんだ」
「うん」
「俺には五感がなくなっている。幽霊だから当たり前かもしれないけれど。いや、視覚は少しあるかな。でも遠くから見ているように、ぼやっとしか見えないんだ。現実感がない」
「そう、なんだね」
「でも唯一例外があるんだ。立野のそばにいるとき。そのときは視界もはっきりするし、風の感触や、夕飯の匂いも分かるんだ。教室のざわめきも、空の色も……」
「え?!」
「なぜかはわからない。でも俺は幽霊だから、五感がないほうが、正しいあり方なのかもしれない」
青木は何を考えて、どうしたいんだろう。
あたしは緊張しながら青木の次の言葉を待つ。
青木は言うのを躊躇うような、そして苦しさと哀しさが混じったような顔をした。青木のこんな表情を見るなんて。
「青木! 先を続けて。青木はどう思ったの? これからどうしたいの?」
「五感がないのはとても苦しい。そのまま空気に溶けてしまうようで怖くなるんだ。でもこのままじゃ成仏もできない。それが苦しいんだ。なんで俺は幽霊になんてなっちゃったんだと思う。こんな中途半端な残り方は嫌だ。耐えられない」
苦しげな言葉が青木の口から放たれた。
こんな青木、見たくない。青木は笑顔が似合うのに。
どうすれば、青木を助けられるんだろう。こんな顔をさせずに済むんだろう。
「青木……」
あたしは青木に手を伸ばそうとしてやめた。きっとすり抜けてしまうし、あたしが肩をさすったところで、青木を癒すことはできない気がした。
「立野」
青木はあたしにすがるような目を向けてきた。そして深く頭を下げた。
「な、何? どうして頭なんか下げるの?」
「立野。頼みがあるんだ。迷惑なのは解っている。一日中観察されてるようなもんだもんな。でも、もし立野が許してくれるなら、立野のそばにいさせてほしい。いつまでも幽霊のままなんてありえないと思う。だから、せめて、成仏するまでの間、感覚だけは保っていたい。生きているときは当たり前すぎて解らなかったけれど、五感のない無の世界に、自分の意思だけが存在する状態はきつすぎるんだ。頼む!」
あたしには理解することのできない感覚。青木はそれに苦しんでいる。
あたしのそばにいるということは、今日のようにあたしの全てを見られるということで……。
青木から見られるのは死ぬほど恥ずかしい。今日だけでそれはよく判った。でも、あたしは青木にこんな苦しい顔をさせるのは嫌だった。青木には笑っていてほしい。
もともと青木を見ることがあたしの楽しみだったのだ。今度はいわば逆の立場になるだけだ。昨夜青木を助けたいと思ったことは嘘じゃない。
あたしは腹を括った。
「青木」
あたしの声に青木の肩がぴくりと震えた。青木は恐る恐る頭を上げてあたしを見た。その表情は強張っている。
「そんな顔、青木には似合わないよ。もともとそのつもりだったから気にしなくていいよ。昨日も話したじゃん。青木が幽霊になった理由を探そうって。青木が天国に行けるよう、あたしはできることをする。だから大丈夫だよ」
青木は安心したような笑顔をやっと見せた。
「すまん。恩に着る。本当にありがとう、立野」
「そんな、大袈裟だな。ま、青木が成仏するまでの間、よろしく、青木」
笑顔を正面から向けられて、思わず赤面したあたしは、ちょっと下をむいて誤魔化すようにそう言った。
「ああ。よろしく、立野」
部活からの帰り道。隣には浮遊する青木。
「退屈じゃなかった?」
「いや、全然。気持ちよさそうでいいなと思った。もう俺にはボール、掴めないからな……」
ひぐらしが鳴いている。どこからともなく漂ってきた夕飯の匂いが鼻をくすぐり、急にお腹が空いてきた。
満月にはまだ満たない月が、グラデーションを描いて全天を照らしている。
こんな夜は……。
「跳んでるときに見る月も綺麗だろうね」
ふと青木が呟いた。あたしも同じことを考えていたから驚いた。
「ハイジャンって、身近で初めて見たけど、とても綺麗だな。背中の反りがしなやかで。あの棒を越える瞬間、立野にはどんな景色が見えているのかな。凄くいい表情をしてたよ、立野」
「そう? ありがとう。景色はね、空だよ。空だけに支配されて、その中で浮いてる感じなんだよ。そのときは時間が止まったみたいなんだ」
「本当に飛んでる感じなんだね。気持ちよさそうだ」
青木は笑顔であたしに言った。でもそれは全開の青木の笑顔とどこか違っていた。
「青木?」
「ん?」
「どうかしたの? 何か、あった? ……午前中はどこに行ってたの?」
どこまで踏み込んで訊いていいのか分からず、躊躇いがちに問いかける。
「実家に行ってみたんだ。母さんがいつもと同じように掃除してたよ。でも、俺の仏壇に手を合わせるときは、泣いてた」
思い出すように遠くを見つめながら、青木は言った。
「そっか……」
残された者はつらい。幽霊になった青木はそれを見てしまった。それはどんなに苦しいことだろう。
「立野」
青木が真剣な声であたしを呼んだ。隣を見上げると、珍しく真顔の青木がいた。あたしもじっと青木を見つめ返した。
「なに?」
「今日、いろいろ回って判ったことがあるんだ」
「うん」
「俺には五感がなくなっている。幽霊だから当たり前かもしれないけれど。いや、視覚は少しあるかな。でも遠くから見ているように、ぼやっとしか見えないんだ。現実感がない」
「そう、なんだね」
「でも唯一例外があるんだ。立野のそばにいるとき。そのときは視界もはっきりするし、風の感触や、夕飯の匂いも分かるんだ。教室のざわめきも、空の色も……」
「え?!」
「なぜかはわからない。でも俺は幽霊だから、五感がないほうが、正しいあり方なのかもしれない」
青木は何を考えて、どうしたいんだろう。
あたしは緊張しながら青木の次の言葉を待つ。
青木は言うのを躊躇うような、そして苦しさと哀しさが混じったような顔をした。青木のこんな表情を見るなんて。
「青木! 先を続けて。青木はどう思ったの? これからどうしたいの?」
「五感がないのはとても苦しい。そのまま空気に溶けてしまうようで怖くなるんだ。でもこのままじゃ成仏もできない。それが苦しいんだ。なんで俺は幽霊になんてなっちゃったんだと思う。こんな中途半端な残り方は嫌だ。耐えられない」
苦しげな言葉が青木の口から放たれた。
こんな青木、見たくない。青木は笑顔が似合うのに。
どうすれば、青木を助けられるんだろう。こんな顔をさせずに済むんだろう。
「青木……」
あたしは青木に手を伸ばそうとしてやめた。きっとすり抜けてしまうし、あたしが肩をさすったところで、青木を癒すことはできない気がした。
「立野」
青木はあたしにすがるような目を向けてきた。そして深く頭を下げた。
「な、何? どうして頭なんか下げるの?」
「立野。頼みがあるんだ。迷惑なのは解っている。一日中観察されてるようなもんだもんな。でも、もし立野が許してくれるなら、立野のそばにいさせてほしい。いつまでも幽霊のままなんてありえないと思う。だから、せめて、成仏するまでの間、感覚だけは保っていたい。生きているときは当たり前すぎて解らなかったけれど、五感のない無の世界に、自分の意思だけが存在する状態はきつすぎるんだ。頼む!」
あたしには理解することのできない感覚。青木はそれに苦しんでいる。
あたしのそばにいるということは、今日のようにあたしの全てを見られるということで……。
青木から見られるのは死ぬほど恥ずかしい。今日だけでそれはよく判った。でも、あたしは青木にこんな苦しい顔をさせるのは嫌だった。青木には笑っていてほしい。
もともと青木を見ることがあたしの楽しみだったのだ。今度はいわば逆の立場になるだけだ。昨夜青木を助けたいと思ったことは嘘じゃない。
あたしは腹を括った。
「青木」
あたしの声に青木の肩がぴくりと震えた。青木は恐る恐る頭を上げてあたしを見た。その表情は強張っている。
「そんな顔、青木には似合わないよ。もともとそのつもりだったから気にしなくていいよ。昨日も話したじゃん。青木が幽霊になった理由を探そうって。青木が天国に行けるよう、あたしはできることをする。だから大丈夫だよ」
青木は安心したような笑顔をやっと見せた。
「すまん。恩に着る。本当にありがとう、立野」
「そんな、大袈裟だな。ま、青木が成仏するまでの間、よろしく、青木」
笑顔を正面から向けられて、思わず赤面したあたしは、ちょっと下をむいて誤魔化すようにそう言った。
「ああ。よろしく、立野」