青木の体は光の煙のようになり、次の瞬間、その光がぱあっとはじけて辺りを明るく照らした。そして消えた。

「澄広!」

 誰もいない校庭に、あたしだけが残った。

「澄広……!」

 そっと口元に手をやる。唇に残るのは冷たくて柔らかな感触。

 初キス。全然気持ち悪くなんかなかった。むしろ青木を感じられて嬉しかった。

「しょっぱい」

 初めてのキスは涙の味がした。


 青木は成仏しちゃったんだ。もう、この世のどこにもいないんだ。

 青木は、置いてけぼりのあたしの存在を救うためにきてくれたんだね。そして役目を終えて天国に行ったんだ。だから、青木が一緒にいてくれた時間に感謝しないといけないんだ。神様がくれた、プレゼントみたいなものなのだから。

「澄広……。あたし、澄広のこと、大好きだよ。自分が女であることも少しずつ受け入れていくよ。澄広の分まで精一杯生きる。それから、これからも毎日空を見るよ。だって澄広は天国にいるんだもんね」

 ポタポタと零れ落ちる涙は、終わりを知らないようで。

 あたしはしばらく校庭で泣いていた。

 満月が場所を変えていく。さすがに肌寒い。

 明日も学校がある。流石に帰らないと。

 あたしは、こっそり部屋に戻ってからも、布団をかぶって泣いた。
 泣いて、泣いて、青木がすでに死んでしまっていたことを、成仏したことを、受け入れたのだった。



 ***




 いつもと同じ朝が来た。

 変わったのは、青木がそばにいないということと、今までとは少し違う自分がいるということ。

「蒼、目が腫れてるけど大丈夫なの? 学校行ける?」
「……うん。大丈夫」

 母の言葉に、あたしはちゃんと笑って言えた。
 悲しんでばかりいちゃ、青木が心配しちゃう。

 やはり黙々と朝ご飯を食べて、あたしは家を出た。

「いってきまーす」

 今日は十二月にしては珍しく、雲のない快晴だ。きっと青木の機嫌がいいのだろう。


 澄広、見てる? あたしはまたいつもの毎日を繰り返すよ。でも、昨日のあたしと今日のあたしは、ちょっと違う。澄広が変えてくれたから。ありがとう。澄広に出会えたこと、一緒に過ごせたこと、あたしの一番の宝物だよ。



 校門をくぐろうとすると後ろから声をかけられた。

「あ、蒼!」

 久だった。

「おはよ、久」

「お、おう。あの……、こないだはごめんな。あんなに怒るとは思わなくて……」

 本当にすまなそうに久が謝ってくる。

「いや、こっちこそ、取り乱してごめん。置いて帰って悪かった」

 なんだか、あのときの自分が妙に子供じみていた気がして、あたしは素直に謝罪した。

「そんな……。俺こそ、触れられたくない領域に踏み込んじまって、悪かったと思ってるよ」

 久はやっぱりいいやつなんだ。
 男子とか女子とか関係なく。

 あたしはにっと笑って、

「じゃあ、こないだのことはお互い忘れよう」

 と言った。

「そう、だな」

 久は戸惑いながらも頷く。まだ何か言いたげだった。

「ん? どうかしたの、久?」

 あたしが不審に思って問いかけると、久は明らかに動揺した様子を見せた。坊主頭を何度も何度もかいて、そして、息を吸い、決心したように口を開いた。

「あ、あのさ。実はほんとはあのとき言いたいことがあって」

 久の様子に不思議に思いながら、あたしは、

「うん?」

 と先を促す。

 すると、久は困ったようにもじもじとまた坊主頭を掻いた。そして、もう一度大きく息を吸い込んだ。

「どうしたの? なんか緊張してるみたいだけど……」
「そ、そりゃするだろう、普通に。告白しようとしてんだから」
「告白?!」

 あたしは驚きに目を見張る。

「ちくしょう! 言っちまったじゃねえか! ちゃんと告白したかったのに。お、俺、蒼が好きなんだわ。でも、蒼が好きだった奴、知ってるし、気長に待つつもりだから」

 叫ぶように言って、久は口を閉ざした。

「?!」

 あたしは、真っ赤になっている久をまじまじと見た。

 ――あたしを好き? 好き……。

 確かに、久を見ていると、自分がいかに「好き」ということに対して偏見を抱いていたかが、分かる気がした。久は大きな体を縮こまらせて、震えていたのだ。告白するのにとても勇気がいたし、緊張したのだろう。

 そうか。

 ーーむしろ単純だからこそ、尊く美しいものだと俺は思うーー

 青木の言葉が蘇る。本当にその通りだ。

 純粋に、久の好意を嬉しいと思える自分が、今はいた。

「久って、変な趣味だな」

 くすりと笑って言うと、

「っ! なんなんだよ、蒼。いーだろ個人の趣味の問題なんだからよ」

 久は顔を真っ赤にして怒っている。あたしはにやりと笑いかけた。

「なんか企んでるだろ。蒼」
「うん。あたしの好きな人を知っているなら話は早い。あたしが青木を思い出にできるか、久がそれまであたしを想い続けられるか。根競べね、久。どう?」

 むうと高倉は顔をしかめた。

「死んだ男がライバルってーのは、ちと辛いな。あいつは、かっこいいまま蒼の心に残ってるんだろ?」
「もちろん! 青木は、あたしにとってヒーローだよ。でもそんなんでびびるぐらいなら、告白なんかしないことね」

 そう。青木はあたしのヒーロー。あたしを救ってくれたかけがえのない人。

 でも、あたしには未来がある。今後、新しく好きな人ができることだって、あるかもしれない。

 あたしは意地悪く笑ってみせた。すると久はあからさまに怒った顔をした。

「なにおう? 誰がびびってるって? こっちはガキのころからの付き合いなんだぜ? 負けてたまるかってーの! のってやるぜ、その根競べ! 俺に惚れて、結婚して! って言う羽目になってもしらねーからな!」

 勢いよく久は言葉にした。そんな久に、あたしはくすりと笑う。

「青木と過ごした時間より、これからは久と過ごす時間が長くなるんだ。逆に有利かもね。ま、せいぜい頑張ることね」

 事実、いろんな面が見えれば見えるほど、好きになる場合がある。青木がそうだった。

 でも、その青木はもういない。あたしはあたしの世界で生きていかなければならない。

 そうだよね、澄広。

 晴れた朝の空を仰ぎ、あたしは心でつぶやく。

 青木が悔いを残さず生きたように、自分も自分らしく精一杯生きなければならない。

 それが残された者にできることだ。

「なるほど、ようし、今日から早速実行だ。帰りは俺が送るからな! 部活後、校門前で待ち合わせだ!」

 久は納得したように笑って、言ってきた。

「いつ終わるか分からない部活の間、待つ根気があるなら頑張りな! っと、朝錬に遅れるよ! 走れ走れ!」

 あたしは部室に駆け出した。



***



 朝練後、あたしは真っ先に早田を探した。

「早田!」
「ん、立野、おはよ」

 早田が挨拶してくる。

「早田、あたし、ごめん! あたしこそ失礼なこと言ってごめん!」

 あたしは深々と頭を下げた。

「な、なに? なんのこと? 広田先輩のことなら、こないだお互い謝ったじゃん」

 早田は困ったように言う。
 
「うん。そうなんだけど。でも。あたし、ちゃんと早田の気持ち、理解しようとしてなかった気がして。ほんとごめん!」
「よく分かんないけど。ちょっ、なに泣いてんの? やめてよね〜、私が泣かしたみたいじゃん」

 早田はため息をついて、あたしの頭をポンポンと叩いた。

「あはは〜、朝から仲いい〜!」

 大塚が言ってきた。

「そうだ! 立野〜、あの本読んでる?」
「ま、まだ最初だけ……」

 青木との初キスを思い出して、頬が熱くなる。 

 あたし、あの小説のように、キス、したんだ。

「赤くなってる立野。いやらし〜」
「立野にはちょっと刺激が強いか〜」
「じっくり読んで恋の勉強するんだよ〜」
「もう、なにそれ!」

 あたしは赤い顔のまま女子部員に言い返す。

 相変わらずやかましいなとは思う。けれど、少しずつ理解できるようになりたいと思う自分がいた。  

 酷い断り方してしまった広田先輩にも、ちゃんと謝ろう。あたしを好きになってくれてありがとうって。



***

 
 あたしはいつもの場所でハイジャンをする。

 昨日は全く跳べなかったあたし。

 月明かりのもとで、青木の手をとって、宙返りした感覚を思い出す。

 バーが迫る。
 左脚で地面を蹴る。

 きた、跳べる時の浮遊感。

 トサッ。マットに落ちた。
 バーを見上げる。
 落ちてない。ちゃんとある。
 跳べた。

「立野、復活か?! 今のフォームよかったよ! その調子!」

 西月先輩の言葉。
 この西月先輩も三月には卒業する。
 西月先輩は県大会で二位の成績を残して、スポーツ特待が決まっている。受験のない先輩は、ギリギリまで部活に出て、指導してくれていた。
 時は止まってくれない。

「ところで立野、あの本読んだ?」

 西月先輩にも言われてあたしは、またか、と苦笑した。

「まだ最初だけ。でも、読んでみようと思います」

 とあたしは答える。

「そう? よかった。いい話なのよ。悲恋ものだけど」

 西月先輩は笑いながらそう言った。

 悲恋……。

 青木との恋は悲恋になるのかな。

 青木と過ごした濃密な時間が、走馬灯のように思い出される。

 ううん。悲恋じゃない。あたしは青木を好きになってよかったし、青木もあたしを好きだと言ってくれた。あたしたちの時間は、もう進まない。けれど想いは通じ合った。

 あたしはもう一度思う。悲しい恋ではなくて、かけがえのない時間だったと。

「西月先輩。バーを上げてみてもいいですか?」
「そうだね。立野の調子も戻ってきたことだし、百四十ニセンチ、いってみようか!」

 初めて挑む高さ。緊張と期待で胸が高鳴る。

「はい!」



 未来があたしにはある。

 まずはこのバーから。

「立野、跳びます」

 一言自分に告げるように言った。

 助走にも力が入る。バーが近づいてくる。大丈夫。きっと跳べる。

 トッ! 地面を蹴る。背中を反らす。

 視界が空だけに染まる。

 ああ、綺麗な空だ!


 最後に足がバーに引っかからないように上げて……。

 トスッ。

 かすかに揺れるバーが頭上に見えた。

 ひんやりしたマットの感覚。



 澄広! 初めて百四十ニセンチ跳べた! 見てる? 澄広!

 

 喜びが沸き起こってくる。しばらくマットに背を預けたまま、あたしは空を見た。

 どこまでも広がる青い空と白い雲。でも。

 空は止まってなどいない。雲は流れ、日々は移ろい、未来へと続いているのだ。

「跳べたじゃん! 立野お!!」

 西月先輩の嬉しげな叫び声。

 こうやって、日々、空に近づいていく。やっぱりこの感覚はやめられない。

「感覚残ってるうちに、もう一度跳びます!」

 あたしは笑顔になって西月先輩に向かって言った。

 あたしは跳ぶ。時間を止めるためではなく、未来に向かって。

「頑張りな!」

 西月先輩の声を背に、助走に入る。

 ……「空」……

 初めてのハイジャンの感想を述べた青木の言葉が蘇る。

 そして。

 あたしは跳躍した。

 視界には青木の全開の笑顔のような……空!





             おしまい