「立野。部屋、入ってもいい?」
お風呂からあがって、自分の部屋に入ろうとしている立野に、俺は声をかけてみた。
夜に立野の部屋に入るのは、幽霊になった日以来だ。
「……いいけど、どうしたの?」
立野は俺をじっと見つめて言った。
「話があるんだ」
「ふうん? じゃあ、どうぞ?」
立野は部屋のドアを開けると、俺を招き入れた。
立野と俺は、立野のベッドの上に座って、向かい合った。
立野はバスタオルで髪を大雑把に拭いている。そんな立野の頬は、上気してほんのり赤く、濡れっぱなしの髪、体から漂う石鹸のほのかな香りは、俺の心をざわつかせた。
あの雨の日の立野の姿が、くっきりと思い出されてしまう。
止まっている心臓が、早鐘を打つのを感じる。
きっと立野と会うのはこれが最後になる。
そんな予感があるのに、こんな立野を見られなくなる、立野と会えなくなる、話せなくなる、と思うと決意が揺らぎそうになる。
「青木?」
自覚がない立野は、俺を見上げてくるのだが、その上目遣いがまた可愛い。可愛い。なにをしても立野が可愛く見える。
好きってすごいな。
俺はぶんぶんと頭を振った。
こらこら、今日は立野を救うんだろ!? しっかりしろ、俺!
「髪、ちゃんと乾かさないと、風邪ひくぞ」
「大丈夫だよ。ショートだし、すぐ乾く。そんなことより用事があったんでしょ?」
俺は覚悟を決めて頷いた。
「立野、今日は満月らしい。夜空の下、跳びたいって立野、前、言ってたろ? 行ってみないか?」
立野は訝しむような目で俺を見た。
「今から学校に? もう10時過ぎてるよ?」
「うん。だからこっそり、さ」
俺の心を見透かすような黒曜石の瞳が、俺をじっと見つめてくる。立野の目はどこか悲しげだった。
「なんだか青木らしくない気もするけど、行くよ。お母さんたちに見つからないように家を出よう」
俺が先に部屋を出ると、立野は長袖シャツにパーカーを羽織り、下はジャージに着替えて出てきた。
静かに部屋のドアを閉めて、足音が極力しないように階段を下りる。そうっと玄関へ行き、慎重にドアを開けて、出てから閉めた。
「ふふっ。なんかドキドキしちゃった。気づかなかったかな? お母さんたち」
「たぶん、大丈夫」
夜遅いのでひそひそ声で話す。
立野と二人きりの夜の散歩だ。
立野は伸びをして、空を見上げた。
「ああ。本当。満月だ。青木、月が綺麗だね」
月光に照らされて振り返った立野が、きらきら輝いて見える。
俺は眩しくて、目を細めた。
「ああ。綺麗だろ? 立野、でも、その言葉、ほかの男子に言うの禁止な」
「その言葉って?」
「月が綺麗だねってやつ」
「なんで?」
「知らないの? その言葉は……。やっぱナイショ」
「なんだよ、もう。変な青木」
中学校の門は、やはり閉まっていた。
「こういうの、ワクワクするね」
立野は楽しくなってきたらしく、身軽に校門を上って、敷地内に着地した。
夜の学校は静かで、昼とは違う顔をしていた。
「夜の学校って少し怖いかも。でも、青木と一緒なら平気だね」
今日の立野はなんだか素直だ。
立野と校庭のほうに行く。
立野にだけ、月明かりで影ができていた。
体育倉庫にもやはり鍵がかかっていた。
「うーん。これは開きそうにないね。ハイジャンはやっぱり無理かあ」
残念そうに言った立野に、俺は思いついた。
「俺が跳ばせてあげるよ。立野は俺を信じられる?」
「青木が?」
立野は驚いたように言った。
「俺の手を握って、そこに体重を少しかけるようにして、背中をそらして、宙返りをするんだ。ハイジャンに似た感覚が味わえそうじゃないか? どうかな?」
立野は顔を輝かせた。
「面白そう! やってみる!」
立野が俺の手を握ってくる。温かくて、柔らかくて、小さな手だ。感覚はある。けれど、立野を支えられるかな。いや、支えるんだ。
立野を見ると、全く心配していないようだった。俺を信じてくれてるんだ。
「それじゃ、いくよ?」
立野が、
「よっ!」
とかけ声をかけながら、地面を蹴った。
立野の背中がしなる。宙で一度、回転して。トッと地面に着地した。
ほとんど立野は自力で宙返り出来たようで、俺の手にはわずかな重みしか感じなかった。
「青木! 月が、視界いっぱいだったよ! 眩しくて、綺麗! 青木もやってみなよ!」
興奮したように立野がまくし立てる。無邪気な笑顔が俺だけに向けられていた。
俺は幽霊なので、宙返りは自在にできた。
「本当だ。月が綺麗だ、立野」
俺は、自分の想いをこめるようにそう答えた。
そして、立野も誰より綺麗だ。
「青木。ありがとう」
立野は泣きそうな笑顔をした。
もしかして、なにか察しているのかもしれない。
俺たち二人は、地面に体育座りになって、月を見上げた。そうやって、しばらく月光浴をしていた。
こんな時間がずっと続けばいいのに。
そう思うと、なかなか立野に言い出せなかった。
でも、今日は立野を救うために来たのだから。本題に入らないと。
思った俺を立野が見上げていた。
「青木、なにか話があるんでしょう?」
月光に照らされて、神秘的な光を宿した立野の目が、俺をとらえる。
こんな目、本当に敵わないなと思う。
「ああ。最近の立野、見てられなくて。ハイジャン、調子悪いよな。立野には楽しく跳ぶ感覚を思い出して欲しくて、今日、連れ出そうと思ったんだよ」
「心配、させてるんだね。ごめん。ありがとう。今日、夜の宙返り、すごく楽しかったよ。久しぶりに空を味わった。それも夜空。初めてで、嬉しかった」
「そっか。それなら、よかった」
立野と俺は見つめ合って微笑んだ。
うん。きっと今なら大丈夫だ。
立野も素直に聞いてくれそうな気がする。
「立野。話したくなかったら話さなくていいんだけれど……。調子悪いのは、高倉ってやつと話してからだよな?」
立野は頬に緊張を走らせて俺を見た。
黒目がうろうろしている。
けれど、意を決したように立野は口を開いた。
「……うん。青木は気づいてるよね。毎日練習見てるんだもん。久と話したから、だね」
「その、あいつとはどんな関係なわけ?」
「小学生のとき、あたし、女子のグループ闘争とかが嫌で、男子の中に入って遊んでたんだ。久もそのときよく遊んでた男子の一人。幼なじみって言ったらいいのかな」
立野は淡々と言った。
「男子の仲間の一人、か。親しそうだったな」
俺は自分で切り出しといて、なんだかもやもやした。高倉と立野が話していたときの、親しげな空気を思い出す。
「まあ、小学校の六年間付き合いがあったやつだからね」
「ふうん。……蒼って呼んでたな、あいつ」
「ああ、うん。つるんでたやつ、みんな呼んでたよ」
「じゃあ、俺も蒼って呼んでもいい?」
俺は自分の口から出た言葉に驚いた。
「えっ?」
立野も驚いたように俺を見つめている。
「俺のことも澄広って呼んでほしい」
立野は頬を赤くして、視線をうろうろさせている。
「い、いいけど……。その、す、澄広の用ってそれなの?」
立野に初めて澄広と呼ばれて、俺は恥ずかしさと嬉しさに、顔が熱くなるのを感じた。
自分の名前が特別になった気がした。
「あ、いや。違う。悪い、脱線した」
俺は自分がなにをやってるのか情けなくなる。もう立野とは会えなくなるだろうに、今更、お互い名前で呼び合うなんてことを望むなんて。でも、羨ましかった。立野と高倉の親密さが。
立野は俺の言葉を待つように俺を見ている。
俺は咳払いを一つした。
話を戻さなければ。
「じゃあ、蒼は女子のことを小学生のときから嫌ってたのか?」
蒼と呼ぶとき、俺はなんだか気恥ずかしかったけれど、嬉しさが優った。
立野はというと、やはり名前を呼ばれたとき、恥ずかしげな顔をした。けれど、俺問いかけを最後まで聞いて、「は?」という顔をした。
「嫌ってるって、なんで?」
「蒼、女子とすれ違うとき、眉間に皺が寄るんだよ。だから、嫌いなのかなと思って。西月先輩とは別だけど、他の女子とはあまり仲良くしてないしさ」
立野はギクリとしたようだった。
「嫌いというわけでは、ないんだよ? でも、苦手、かな。その、あたしには、女子はなんだか得体が知れなくて、理解できない、と思う。最近は特に。なんか急に見かけに気を使い出して、そういうのが、悪いけど男子に媚びているような感じがするんだ。だいたい、中学生になって男子も女子もお互いを意識しすぎているっていうか。なんかそういうの気持ち悪いんだ。セーラー服を着なきゃいけなくなってから、男子はあたしを仲間に入れてくれなくなって、でも女子の仲間にも入れないあたしは、一人はみだしちゃった。前、言ったでしょ? あたしはどっちにも属せない。自分だけ取り残されてるって」
立野は懸命に言葉を紡いで、悲しげに目を伏せた。
「どうしてみんな変わっていくんだろう」
途方にくれたような立野の声。
立野の口から、やっと立野の思ってることを、ちゃんと聞けた気がした。
「そっか」
やっぱり立野は取り残されてると、居場所がないと、感じているんだ。
「蒼。俺も今、生きても死んでもない幽霊で、どこにも属してない」
俺の言葉に立野は俺を凝視した。
「俺も居場所がないんだよ。それはとても心許なくて、苦しい。だから蒼の気持ちよく分かるよ」
「青木……。うん。それは、なんとなくあたしも感じてた。青木は同じような気持ちなんだろうなって」
俺の気持ちが理解できるのだろう。立野はひどく悲しい顔をした。
「でも、今はいろんな生き方があるよな? 蒼が、女子にも男子にも属さなくても、苦しくないなら、俺はそれでもいいと思うんだよ。ただ、俺には、今の蒼は苦しんでるようにしか見えない。違うか?」
「ううん。違わない。本当は苦しい。心許ない。どうしたらいいかわからなくて、困る」
立野は辛そうに頷いた。
「蒼は男子として生きたいのか?」
「前はそう思うこともあった」
「前は? じゃあ、今は?」
「今は……。あたしはもう男子にはなれないと思う」
立野は目を瞑り、苦しげに言葉を吐いた。
「そうか。じゃあ、女子には? 蒼は女子になれそうか?」
「あたしは。男子を変に意識し過ぎてるような女子にはなりたくない。けれど、私の体は女として変わっていってるし、心も、本当は……」
立野は苦しげに言って黙った。
心も? どう言う意味なんだろう。
でも突っ込むのは躊躇われた。
「その、蒼。さっき、女子が媚びてるって言ったけれど、それはどうなんだろう? 好きな人に好きになってもらいたい。きっとそんな気持ちが、行動に出ているだけだと俺は思うけど」
立野はびくりと肩を震わせ、傷ついた表情をした。
「青木も、やっぱり「好き」とかって言うの? 前、言ったよね? あたしには理解できないって。男子も女子も、やたら簡単に誰々が好きだのなんだのって言ってるけど、好きなんて本当は簡単に言えないと思うの。それなのになんでみんな軽く使うの?」
立野にとって、「好き」という言葉は、軽々しく使えない、重いものなんだな。
でも、好きというのは感情であって、理論で説明する、堅苦しいものじゃないのではないか。
俺も生きているときは好きという感情がよくわからなかった。でも、好きな人の話をする友人の顔を思い出すと、あれが嘘の感情だとは思えないし、軽い気持ちとも思えない。
それに。今なら分かる。
自然と視線がいってしまうこと。その人を知りたくて、理解したくて、その人で頭がいっぱいになること。誰よりもそばにいて力になりたいと思うこと。独り占めしたいとまで思うこと。
言い尽くせないそんな想いがある。それが好きという気持ちなんじゃないか。
「軽く使ってる、かな?」
俺の言葉に、立野はさらに苦しげに表情を歪ませた。
「わからない。最近、わからないんだ。西月先輩には彼氏が、早田には好きな人がいる。彼女たちの想いが軽いなんて、言っていいのかわからなくなって」
「そうか。蒼は好きな人がいないんだもんな。余計にわからないよな? 高倉にもいないって、言ってたもんな」
立野は視線をうろうろさせ、明らかに落ち着きがなくなってきた。涙が浮かんでいるのか、先ほどより、目が潤んで光っている。
「そう、だよ。あたしには、好きな人はいない。そう思ってたんだよ。あたしの想いをその一言で片付けるなんて、違うと思うって」
立野は泣き出しそうに、そう言った。
俺はどきりとした。「あたしの想い」。立野が高倉にも言っていたことだ。
「『あたしの想い』? それは……」
高倉が言ってた、ハンドボール部のやつに対してのものなのか?
俺は胸にちりちりと焦げるような痛みを感じた。
立野の想い人。いるんじゃないか、やっぱり。立野は頑なに否定してるが、想い人とは好きな人のことなんだと俺は思った。
それだけでこんなにも胸が苦しい。猛烈な嫉妬を覚える。
「……もう、本当は青木、気づいているんでしょ?」
立野はいつもとは違う、か細い声でそう言ってきた。自信なさげな上目遣いが可愛すぎて、どきりとする。
だが。
気づいて? 俺が? なにを?
「いや、全然分からないけど」
俺がわけがが分からずにそう言うと、立野は涙にぬれた瞳で俺をじっと見つめてきた。
ドキン。
や、やばい。こんな艶っぽい立野は初めて見る。
心臓の鼓動が早まり、息苦しさを覚えた。
誰なんだ! こんな立野の想い人って!
胸に黒いしみのようなものが広がっていく。
俺の部活仲間の、同級生? 先輩?
「嘘!」
立野は切羽詰まった様子で叫んだ。
「え?」
甲高い立野の声に、俺は驚く。
「あたしは……! 笑顔が眩しいと思ったの! 快晴の空みたいって! その笑顔を見れば幸せになれた。眩しい光のような存在だった。大切で、特別で、たった一人の……。大事な大事な想いなんだから。これが、「好き」なの? これは恋なの?」
立野の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
月光で立野の濡れた頬が光り輝いている。
俺はズキズキと胸や頭が痛むのを感じた。
こんなに強く想っているなんて。
これ以上は聞きたくないと思ってしまい、俺は立野から思わず目を逸らした。
「届かないからこそ神々しく、綺麗な……。そんな想いなんだよ? ……だから青木、あたしを気持ち悪いと思わないで!」
立野は悲痛な叫び声をあげた。
「……え?」
最後の一言はいったいどういう意味なのか。
聞いていて、苦しくなるほど純粋な好意と賛美。それは誰に向けられたものなのか。
俺の頬が熱を持つ。
いや、まさか。そんな。自分に都合よく考えたらダメだ。けれど。
高倉の言葉が蘇る。
――「空、まさにあいつの名前だよな」――。
空の好きな親父がつけた空を表す名前。ハンドボール部。
もしかして。それは……。それは?
「そ、そいつって、違ったらごめん。もしかして、俺のことなのか? 立野のその想いって、俺に対する想い、なのか?」
呆然と声にする。立野は耳まで真っ赤にして、俯き、しっかりと頷いた。
胸が先ほどとは違う甘い痛みに襲われた。
や、やばい。気が遠くなるほど嬉しい。立野が俺を! 俺を想ってくれてた!
だが。同時に覚えた違和感を、俺は放っておくわけにはいかない気がした。
俺は立野の手にそっと触れる。立野の手は、今までで一番熱い。
立野は恐る恐る顔を上げた。潤んだ立野の目。赤く熟れたような頬。
可愛い。愛おしい。心から思う。猛烈に抱きしめたい。
けれど、訊かないと。
「蒼。蒼は俺を想ってくれていたんだな?」
立野は黙ってもう一度首を縦に振った。
「それがどうして気持ち悪いという結論になるんだ?」
「え?」
立野は捨てられた仔犬のような瞳で俺を見上げた。
「だ、だって。青木はあたしのことを知らないし、あたしに対して特別な感情もなにも持っていないんだよ? それなのにあたしは、毎日空見ては青木の笑顔を思い出して、幸せな気持ちになってたんだよ? 青木のことばかりずっと想ってたんだよ? 気持ち悪くないの?」
立野は、自分の想いは崇高だと思う一方で、その想いを否定している? これはきついだろう。
「想うことは自由だろ? そんなふうに思わなくていいんじゃないか? 俺は蒼の想いが言葉にできないほどに嬉しいけど」
立野は珍しいものでも見るように、俺を見た。俺の言葉は、完全に予想外だったようだ。
俺は立野が好きだから、こんなにも立野の気持ちが嬉しいと思うのだろう。けれど、たとえ好きな人からじゃなくても、こんな純粋な好意をもたれたら、嬉しいと思うに違いない。俺はそう思う。
「ただ。訊きたい。蒼は俺のことを男子として、異性として好きなのか? それとも、人間として好きなのか?」
憧れや友情ではないのか。そうだとしたら、俺の立野に対する想いとは違う。それが気になった。
立野は頭を左右に振る。混乱しているようだった。
「そ、そんな……。わからないよ。え、笑顔だけでよかったんだよ? それで満足しなければいけなかったんだ。でも、幽霊になった青木は、毎日あたしのはそばにいたから。たくさん話して、一緒に跳んで。色んな青木が見えてきてしまったから。青木は予想以上に優しいし、予想以上に可愛いし、だから」
立野は自分の想いを震えながら言葉にしている。
「だから?」
俺はじれたように先を促す。
早く、言ってほしい。俺が好きなんだと言ってほしい。
「だから、幽霊の青木はあたしだけの者のようで」
涙でぐしゃぐしゃの立野の顔。
「嬉しくて、ずっと一緒にいたい! あたしだけの青木でいて欲しい! 独り占めしたいって!! こんなこと、他の男子に思ったことなんてなかった! なによりも綺麗な想いだと思っていたのに、こんな自分勝手な気持ちになるなんて!」
俺の誘導のままに、体を震わせ叫ぶように立野は言葉を放った。
ああ、立野!!
立野を抱きしめたいのにそれができない。
幽霊であることが悔しくて苦しい。
代わりに立野の手を握る力を強めた。
「違うよ、蒼。自分勝手じゃないよ。好きになったら誰だって思うことなんじゃないか? 俺も今までは、よく分からなかったけれど。好きというのは、難しいことじゃなくて、もっと単純な感情なんだと思う。笑顔にさせたい。独り占めしたい。ずっと一緒にいたい。抱きしめたい。触れていたい……」
キスしたい。
最後の言葉を俺は心に秘めた。
「じゃああたしのこの想いは、やっぱり「好き」? なの? あたしも「かっこいい」とか「好き」とか言ってる女子たちと一緒……。あたしは、男子みたいな容姿してるのに。変わらないのに? 女子みたいじゃないのに? ううん、分からない。よく分からない!」
立野は混乱するように頭を振るだけだ。
なんで頑なな。きっと立野のコンプレックスでもあるんだろう。
「蒼、そんなに女子と自分が違うと思う必要あるのか? 蒼は自分が女子に属してないと思いたいから属してないと思っているだけだ。俺から見たら蒼は女だよ」
「あたしが、女? 嘘だよ!?」
「嘘じゃない。手首だってこんなに細い。男の俺とは明らかに違うだろ?」
立野は、おずおずと俺の手首と自分の手首を見比べている。
俺はずっと考えていたことを言うことにした。
「本当は少し羨ましいんじゃないか? 変わっていく、女性らしくなっていく女子たちが」
「?!」
同じセーラー服の少女たち。でも立野とは変わってきた。それを立野は見ていた。自分は変わっていないと思いながら。どこかで軽蔑して。どこかで羨ましく。
「そんな! そんなはずは……! あたしの体は変わっていっちゃったけど、あたしは他の女子のように変わりたいとは思ってないし、彼女たちとは違う。う、羨ましくなんか……」
「うん。変化に戸惑い、さらに変化の仕方も、蒼は受け入れられなかったんだな?」
俺の言葉に、やっと立野は素直に頷いた。
「でも、西月先輩は素敵だと思う。先輩はかっこいいけど女性だと感じる。あんな風にならなりたいと思ったことはある。でも、あたしはいつまでたっても男子みたいなまま。なのに男子にも属せなくなってあたしはどうすればいいか分からなくて」
途方に暮れたように立野は言う。
この少女は自分もすでに変化していることが、分かっていないんだ。
こんなにいじらしくて可愛らしいのに。時々ぞくりとするほど綺麗で艶っぽいのに。
俺は立野の頬を両手で挟んだ。熱く燃えるような立野の頬。
「あ、青木? 冷たいよ?」
「蒼。男子に属せなくなった蒼は、それを悲しく思うかもしれない。でもそれは仕方ないことなんだ。変化を止めることはできない。蒼は間違いなく女性として変化しているよ」
「え?」
「分かってないのは自分だけだ。ショートカットがなんだ。日焼けがなんだ。蒼の、授業中、考え事をしてるときの横顔。凄く綺麗だぞ」
俺の言葉に、かあっと立野は頬を染めた。
俺だって言ってて恥ずかしい。でももうたぶん最後なんだ。全て告白してしまおう。
「うん。そんな顔もすごく可愛いよ。バーを見つめる蒼の瞳も、吸い込まれそうなほど綺麗だよ。蒼はいつだって一生懸命だ。それは蒼の魅力だし、それに、正直俺は、ハイジャンで蒼と一緒に跳んでるとき、蒼の体に目が行くのを止められなかった」
「か、体?」
立野はさらに赤くなり、俯いた。
「空を見上げている蒼も好きだ。そして、今日、話してますます思ったよ。蒼は純粋すぎる女子なんだって」
自分がこんなことを言うキャラだとは思わなかった。けれど立野に分からせるためには仕方ない。
「もっと蒼が知りたいし、独り占めしたいし、俺だけを見てほしいし、他のやつらには見せたくない。俺が生身の人間なら触りたいとか、抱きしめたいとか、思ったよ。蒼は俺が気持ち悪いか?」
立野は、真っ赤な顔をふるふると左右に振った。
「は、恥ずかしいけど、青木からなら、気持ち悪くない……」
俺はほっとして、思わず笑顔になった。
「あー、本当残念。幽霊で。でも、蒼が眩しいと思ってた人間は、こんなごく普通の男だったんだよ? 幻滅してない?」
俺を眩しそうに立野は見た。
俺の心臓がトクンと鳴る。そんな顔、反則だ。
これ以上立野に触れていると……。
俺は立野から手を離した。
「普通? そんなことない。やっぱり青木は特別。あたしにとって青木は空より眩しい」
立野は頬を朱に染めて、夢見るような目で俺を見ている。
空より眩しい。立野の最大級の賛辞を受けて、俺は喜びに胸がいっぱいになった。
なんて顔するんだろう。立野は。きっと俺の知らないところで、立野は俺をこんなふうに見ていてくれてたんだな。
心残りなんてなかったはずなのに。
生きているときに立野と仲良くなりたかった。そしたら今ごろ両想いだったのにな。
立野の魅力に気づいてるのは自分だけではない。
現に、立野は陸上部の先輩から告白されてたし、高倉久。あいつは立野が好きだから、あんなに立野のことを知っていたのに違いない。立野のそばにこれからいる男が、自分でないことがかなり癪だが、こればかりは仕方ない。
俺は幽霊なんだから。
思って、人生で一番切なくなった。
お風呂からあがって、自分の部屋に入ろうとしている立野に、俺は声をかけてみた。
夜に立野の部屋に入るのは、幽霊になった日以来だ。
「……いいけど、どうしたの?」
立野は俺をじっと見つめて言った。
「話があるんだ」
「ふうん? じゃあ、どうぞ?」
立野は部屋のドアを開けると、俺を招き入れた。
立野と俺は、立野のベッドの上に座って、向かい合った。
立野はバスタオルで髪を大雑把に拭いている。そんな立野の頬は、上気してほんのり赤く、濡れっぱなしの髪、体から漂う石鹸のほのかな香りは、俺の心をざわつかせた。
あの雨の日の立野の姿が、くっきりと思い出されてしまう。
止まっている心臓が、早鐘を打つのを感じる。
きっと立野と会うのはこれが最後になる。
そんな予感があるのに、こんな立野を見られなくなる、立野と会えなくなる、話せなくなる、と思うと決意が揺らぎそうになる。
「青木?」
自覚がない立野は、俺を見上げてくるのだが、その上目遣いがまた可愛い。可愛い。なにをしても立野が可愛く見える。
好きってすごいな。
俺はぶんぶんと頭を振った。
こらこら、今日は立野を救うんだろ!? しっかりしろ、俺!
「髪、ちゃんと乾かさないと、風邪ひくぞ」
「大丈夫だよ。ショートだし、すぐ乾く。そんなことより用事があったんでしょ?」
俺は覚悟を決めて頷いた。
「立野、今日は満月らしい。夜空の下、跳びたいって立野、前、言ってたろ? 行ってみないか?」
立野は訝しむような目で俺を見た。
「今から学校に? もう10時過ぎてるよ?」
「うん。だからこっそり、さ」
俺の心を見透かすような黒曜石の瞳が、俺をじっと見つめてくる。立野の目はどこか悲しげだった。
「なんだか青木らしくない気もするけど、行くよ。お母さんたちに見つからないように家を出よう」
俺が先に部屋を出ると、立野は長袖シャツにパーカーを羽織り、下はジャージに着替えて出てきた。
静かに部屋のドアを閉めて、足音が極力しないように階段を下りる。そうっと玄関へ行き、慎重にドアを開けて、出てから閉めた。
「ふふっ。なんかドキドキしちゃった。気づかなかったかな? お母さんたち」
「たぶん、大丈夫」
夜遅いのでひそひそ声で話す。
立野と二人きりの夜の散歩だ。
立野は伸びをして、空を見上げた。
「ああ。本当。満月だ。青木、月が綺麗だね」
月光に照らされて振り返った立野が、きらきら輝いて見える。
俺は眩しくて、目を細めた。
「ああ。綺麗だろ? 立野、でも、その言葉、ほかの男子に言うの禁止な」
「その言葉って?」
「月が綺麗だねってやつ」
「なんで?」
「知らないの? その言葉は……。やっぱナイショ」
「なんだよ、もう。変な青木」
中学校の門は、やはり閉まっていた。
「こういうの、ワクワクするね」
立野は楽しくなってきたらしく、身軽に校門を上って、敷地内に着地した。
夜の学校は静かで、昼とは違う顔をしていた。
「夜の学校って少し怖いかも。でも、青木と一緒なら平気だね」
今日の立野はなんだか素直だ。
立野と校庭のほうに行く。
立野にだけ、月明かりで影ができていた。
体育倉庫にもやはり鍵がかかっていた。
「うーん。これは開きそうにないね。ハイジャンはやっぱり無理かあ」
残念そうに言った立野に、俺は思いついた。
「俺が跳ばせてあげるよ。立野は俺を信じられる?」
「青木が?」
立野は驚いたように言った。
「俺の手を握って、そこに体重を少しかけるようにして、背中をそらして、宙返りをするんだ。ハイジャンに似た感覚が味わえそうじゃないか? どうかな?」
立野は顔を輝かせた。
「面白そう! やってみる!」
立野が俺の手を握ってくる。温かくて、柔らかくて、小さな手だ。感覚はある。けれど、立野を支えられるかな。いや、支えるんだ。
立野を見ると、全く心配していないようだった。俺を信じてくれてるんだ。
「それじゃ、いくよ?」
立野が、
「よっ!」
とかけ声をかけながら、地面を蹴った。
立野の背中がしなる。宙で一度、回転して。トッと地面に着地した。
ほとんど立野は自力で宙返り出来たようで、俺の手にはわずかな重みしか感じなかった。
「青木! 月が、視界いっぱいだったよ! 眩しくて、綺麗! 青木もやってみなよ!」
興奮したように立野がまくし立てる。無邪気な笑顔が俺だけに向けられていた。
俺は幽霊なので、宙返りは自在にできた。
「本当だ。月が綺麗だ、立野」
俺は、自分の想いをこめるようにそう答えた。
そして、立野も誰より綺麗だ。
「青木。ありがとう」
立野は泣きそうな笑顔をした。
もしかして、なにか察しているのかもしれない。
俺たち二人は、地面に体育座りになって、月を見上げた。そうやって、しばらく月光浴をしていた。
こんな時間がずっと続けばいいのに。
そう思うと、なかなか立野に言い出せなかった。
でも、今日は立野を救うために来たのだから。本題に入らないと。
思った俺を立野が見上げていた。
「青木、なにか話があるんでしょう?」
月光に照らされて、神秘的な光を宿した立野の目が、俺をとらえる。
こんな目、本当に敵わないなと思う。
「ああ。最近の立野、見てられなくて。ハイジャン、調子悪いよな。立野には楽しく跳ぶ感覚を思い出して欲しくて、今日、連れ出そうと思ったんだよ」
「心配、させてるんだね。ごめん。ありがとう。今日、夜の宙返り、すごく楽しかったよ。久しぶりに空を味わった。それも夜空。初めてで、嬉しかった」
「そっか。それなら、よかった」
立野と俺は見つめ合って微笑んだ。
うん。きっと今なら大丈夫だ。
立野も素直に聞いてくれそうな気がする。
「立野。話したくなかったら話さなくていいんだけれど……。調子悪いのは、高倉ってやつと話してからだよな?」
立野は頬に緊張を走らせて俺を見た。
黒目がうろうろしている。
けれど、意を決したように立野は口を開いた。
「……うん。青木は気づいてるよね。毎日練習見てるんだもん。久と話したから、だね」
「その、あいつとはどんな関係なわけ?」
「小学生のとき、あたし、女子のグループ闘争とかが嫌で、男子の中に入って遊んでたんだ。久もそのときよく遊んでた男子の一人。幼なじみって言ったらいいのかな」
立野は淡々と言った。
「男子の仲間の一人、か。親しそうだったな」
俺は自分で切り出しといて、なんだかもやもやした。高倉と立野が話していたときの、親しげな空気を思い出す。
「まあ、小学校の六年間付き合いがあったやつだからね」
「ふうん。……蒼って呼んでたな、あいつ」
「ああ、うん。つるんでたやつ、みんな呼んでたよ」
「じゃあ、俺も蒼って呼んでもいい?」
俺は自分の口から出た言葉に驚いた。
「えっ?」
立野も驚いたように俺を見つめている。
「俺のことも澄広って呼んでほしい」
立野は頬を赤くして、視線をうろうろさせている。
「い、いいけど……。その、す、澄広の用ってそれなの?」
立野に初めて澄広と呼ばれて、俺は恥ずかしさと嬉しさに、顔が熱くなるのを感じた。
自分の名前が特別になった気がした。
「あ、いや。違う。悪い、脱線した」
俺は自分がなにをやってるのか情けなくなる。もう立野とは会えなくなるだろうに、今更、お互い名前で呼び合うなんてことを望むなんて。でも、羨ましかった。立野と高倉の親密さが。
立野は俺の言葉を待つように俺を見ている。
俺は咳払いを一つした。
話を戻さなければ。
「じゃあ、蒼は女子のことを小学生のときから嫌ってたのか?」
蒼と呼ぶとき、俺はなんだか気恥ずかしかったけれど、嬉しさが優った。
立野はというと、やはり名前を呼ばれたとき、恥ずかしげな顔をした。けれど、俺問いかけを最後まで聞いて、「は?」という顔をした。
「嫌ってるって、なんで?」
「蒼、女子とすれ違うとき、眉間に皺が寄るんだよ。だから、嫌いなのかなと思って。西月先輩とは別だけど、他の女子とはあまり仲良くしてないしさ」
立野はギクリとしたようだった。
「嫌いというわけでは、ないんだよ? でも、苦手、かな。その、あたしには、女子はなんだか得体が知れなくて、理解できない、と思う。最近は特に。なんか急に見かけに気を使い出して、そういうのが、悪いけど男子に媚びているような感じがするんだ。だいたい、中学生になって男子も女子もお互いを意識しすぎているっていうか。なんかそういうの気持ち悪いんだ。セーラー服を着なきゃいけなくなってから、男子はあたしを仲間に入れてくれなくなって、でも女子の仲間にも入れないあたしは、一人はみだしちゃった。前、言ったでしょ? あたしはどっちにも属せない。自分だけ取り残されてるって」
立野は懸命に言葉を紡いで、悲しげに目を伏せた。
「どうしてみんな変わっていくんだろう」
途方にくれたような立野の声。
立野の口から、やっと立野の思ってることを、ちゃんと聞けた気がした。
「そっか」
やっぱり立野は取り残されてると、居場所がないと、感じているんだ。
「蒼。俺も今、生きても死んでもない幽霊で、どこにも属してない」
俺の言葉に立野は俺を凝視した。
「俺も居場所がないんだよ。それはとても心許なくて、苦しい。だから蒼の気持ちよく分かるよ」
「青木……。うん。それは、なんとなくあたしも感じてた。青木は同じような気持ちなんだろうなって」
俺の気持ちが理解できるのだろう。立野はひどく悲しい顔をした。
「でも、今はいろんな生き方があるよな? 蒼が、女子にも男子にも属さなくても、苦しくないなら、俺はそれでもいいと思うんだよ。ただ、俺には、今の蒼は苦しんでるようにしか見えない。違うか?」
「ううん。違わない。本当は苦しい。心許ない。どうしたらいいかわからなくて、困る」
立野は辛そうに頷いた。
「蒼は男子として生きたいのか?」
「前はそう思うこともあった」
「前は? じゃあ、今は?」
「今は……。あたしはもう男子にはなれないと思う」
立野は目を瞑り、苦しげに言葉を吐いた。
「そうか。じゃあ、女子には? 蒼は女子になれそうか?」
「あたしは。男子を変に意識し過ぎてるような女子にはなりたくない。けれど、私の体は女として変わっていってるし、心も、本当は……」
立野は苦しげに言って黙った。
心も? どう言う意味なんだろう。
でも突っ込むのは躊躇われた。
「その、蒼。さっき、女子が媚びてるって言ったけれど、それはどうなんだろう? 好きな人に好きになってもらいたい。きっとそんな気持ちが、行動に出ているだけだと俺は思うけど」
立野はびくりと肩を震わせ、傷ついた表情をした。
「青木も、やっぱり「好き」とかって言うの? 前、言ったよね? あたしには理解できないって。男子も女子も、やたら簡単に誰々が好きだのなんだのって言ってるけど、好きなんて本当は簡単に言えないと思うの。それなのになんでみんな軽く使うの?」
立野にとって、「好き」という言葉は、軽々しく使えない、重いものなんだな。
でも、好きというのは感情であって、理論で説明する、堅苦しいものじゃないのではないか。
俺も生きているときは好きという感情がよくわからなかった。でも、好きな人の話をする友人の顔を思い出すと、あれが嘘の感情だとは思えないし、軽い気持ちとも思えない。
それに。今なら分かる。
自然と視線がいってしまうこと。その人を知りたくて、理解したくて、その人で頭がいっぱいになること。誰よりもそばにいて力になりたいと思うこと。独り占めしたいとまで思うこと。
言い尽くせないそんな想いがある。それが好きという気持ちなんじゃないか。
「軽く使ってる、かな?」
俺の言葉に、立野はさらに苦しげに表情を歪ませた。
「わからない。最近、わからないんだ。西月先輩には彼氏が、早田には好きな人がいる。彼女たちの想いが軽いなんて、言っていいのかわからなくなって」
「そうか。蒼は好きな人がいないんだもんな。余計にわからないよな? 高倉にもいないって、言ってたもんな」
立野は視線をうろうろさせ、明らかに落ち着きがなくなってきた。涙が浮かんでいるのか、先ほどより、目が潤んで光っている。
「そう、だよ。あたしには、好きな人はいない。そう思ってたんだよ。あたしの想いをその一言で片付けるなんて、違うと思うって」
立野は泣き出しそうに、そう言った。
俺はどきりとした。「あたしの想い」。立野が高倉にも言っていたことだ。
「『あたしの想い』? それは……」
高倉が言ってた、ハンドボール部のやつに対してのものなのか?
俺は胸にちりちりと焦げるような痛みを感じた。
立野の想い人。いるんじゃないか、やっぱり。立野は頑なに否定してるが、想い人とは好きな人のことなんだと俺は思った。
それだけでこんなにも胸が苦しい。猛烈な嫉妬を覚える。
「……もう、本当は青木、気づいているんでしょ?」
立野はいつもとは違う、か細い声でそう言ってきた。自信なさげな上目遣いが可愛すぎて、どきりとする。
だが。
気づいて? 俺が? なにを?
「いや、全然分からないけど」
俺がわけがが分からずにそう言うと、立野は涙にぬれた瞳で俺をじっと見つめてきた。
ドキン。
や、やばい。こんな艶っぽい立野は初めて見る。
心臓の鼓動が早まり、息苦しさを覚えた。
誰なんだ! こんな立野の想い人って!
胸に黒いしみのようなものが広がっていく。
俺の部活仲間の、同級生? 先輩?
「嘘!」
立野は切羽詰まった様子で叫んだ。
「え?」
甲高い立野の声に、俺は驚く。
「あたしは……! 笑顔が眩しいと思ったの! 快晴の空みたいって! その笑顔を見れば幸せになれた。眩しい光のような存在だった。大切で、特別で、たった一人の……。大事な大事な想いなんだから。これが、「好き」なの? これは恋なの?」
立野の瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
月光で立野の濡れた頬が光り輝いている。
俺はズキズキと胸や頭が痛むのを感じた。
こんなに強く想っているなんて。
これ以上は聞きたくないと思ってしまい、俺は立野から思わず目を逸らした。
「届かないからこそ神々しく、綺麗な……。そんな想いなんだよ? ……だから青木、あたしを気持ち悪いと思わないで!」
立野は悲痛な叫び声をあげた。
「……え?」
最後の一言はいったいどういう意味なのか。
聞いていて、苦しくなるほど純粋な好意と賛美。それは誰に向けられたものなのか。
俺の頬が熱を持つ。
いや、まさか。そんな。自分に都合よく考えたらダメだ。けれど。
高倉の言葉が蘇る。
――「空、まさにあいつの名前だよな」――。
空の好きな親父がつけた空を表す名前。ハンドボール部。
もしかして。それは……。それは?
「そ、そいつって、違ったらごめん。もしかして、俺のことなのか? 立野のその想いって、俺に対する想い、なのか?」
呆然と声にする。立野は耳まで真っ赤にして、俯き、しっかりと頷いた。
胸が先ほどとは違う甘い痛みに襲われた。
や、やばい。気が遠くなるほど嬉しい。立野が俺を! 俺を想ってくれてた!
だが。同時に覚えた違和感を、俺は放っておくわけにはいかない気がした。
俺は立野の手にそっと触れる。立野の手は、今までで一番熱い。
立野は恐る恐る顔を上げた。潤んだ立野の目。赤く熟れたような頬。
可愛い。愛おしい。心から思う。猛烈に抱きしめたい。
けれど、訊かないと。
「蒼。蒼は俺を想ってくれていたんだな?」
立野は黙ってもう一度首を縦に振った。
「それがどうして気持ち悪いという結論になるんだ?」
「え?」
立野は捨てられた仔犬のような瞳で俺を見上げた。
「だ、だって。青木はあたしのことを知らないし、あたしに対して特別な感情もなにも持っていないんだよ? それなのにあたしは、毎日空見ては青木の笑顔を思い出して、幸せな気持ちになってたんだよ? 青木のことばかりずっと想ってたんだよ? 気持ち悪くないの?」
立野は、自分の想いは崇高だと思う一方で、その想いを否定している? これはきついだろう。
「想うことは自由だろ? そんなふうに思わなくていいんじゃないか? 俺は蒼の想いが言葉にできないほどに嬉しいけど」
立野は珍しいものでも見るように、俺を見た。俺の言葉は、完全に予想外だったようだ。
俺は立野が好きだから、こんなにも立野の気持ちが嬉しいと思うのだろう。けれど、たとえ好きな人からじゃなくても、こんな純粋な好意をもたれたら、嬉しいと思うに違いない。俺はそう思う。
「ただ。訊きたい。蒼は俺のことを男子として、異性として好きなのか? それとも、人間として好きなのか?」
憧れや友情ではないのか。そうだとしたら、俺の立野に対する想いとは違う。それが気になった。
立野は頭を左右に振る。混乱しているようだった。
「そ、そんな……。わからないよ。え、笑顔だけでよかったんだよ? それで満足しなければいけなかったんだ。でも、幽霊になった青木は、毎日あたしのはそばにいたから。たくさん話して、一緒に跳んで。色んな青木が見えてきてしまったから。青木は予想以上に優しいし、予想以上に可愛いし、だから」
立野は自分の想いを震えながら言葉にしている。
「だから?」
俺はじれたように先を促す。
早く、言ってほしい。俺が好きなんだと言ってほしい。
「だから、幽霊の青木はあたしだけの者のようで」
涙でぐしゃぐしゃの立野の顔。
「嬉しくて、ずっと一緒にいたい! あたしだけの青木でいて欲しい! 独り占めしたいって!! こんなこと、他の男子に思ったことなんてなかった! なによりも綺麗な想いだと思っていたのに、こんな自分勝手な気持ちになるなんて!」
俺の誘導のままに、体を震わせ叫ぶように立野は言葉を放った。
ああ、立野!!
立野を抱きしめたいのにそれができない。
幽霊であることが悔しくて苦しい。
代わりに立野の手を握る力を強めた。
「違うよ、蒼。自分勝手じゃないよ。好きになったら誰だって思うことなんじゃないか? 俺も今までは、よく分からなかったけれど。好きというのは、難しいことじゃなくて、もっと単純な感情なんだと思う。笑顔にさせたい。独り占めしたい。ずっと一緒にいたい。抱きしめたい。触れていたい……」
キスしたい。
最後の言葉を俺は心に秘めた。
「じゃああたしのこの想いは、やっぱり「好き」? なの? あたしも「かっこいい」とか「好き」とか言ってる女子たちと一緒……。あたしは、男子みたいな容姿してるのに。変わらないのに? 女子みたいじゃないのに? ううん、分からない。よく分からない!」
立野は混乱するように頭を振るだけだ。
なんで頑なな。きっと立野のコンプレックスでもあるんだろう。
「蒼、そんなに女子と自分が違うと思う必要あるのか? 蒼は自分が女子に属してないと思いたいから属してないと思っているだけだ。俺から見たら蒼は女だよ」
「あたしが、女? 嘘だよ!?」
「嘘じゃない。手首だってこんなに細い。男の俺とは明らかに違うだろ?」
立野は、おずおずと俺の手首と自分の手首を見比べている。
俺はずっと考えていたことを言うことにした。
「本当は少し羨ましいんじゃないか? 変わっていく、女性らしくなっていく女子たちが」
「?!」
同じセーラー服の少女たち。でも立野とは変わってきた。それを立野は見ていた。自分は変わっていないと思いながら。どこかで軽蔑して。どこかで羨ましく。
「そんな! そんなはずは……! あたしの体は変わっていっちゃったけど、あたしは他の女子のように変わりたいとは思ってないし、彼女たちとは違う。う、羨ましくなんか……」
「うん。変化に戸惑い、さらに変化の仕方も、蒼は受け入れられなかったんだな?」
俺の言葉に、やっと立野は素直に頷いた。
「でも、西月先輩は素敵だと思う。先輩はかっこいいけど女性だと感じる。あんな風にならなりたいと思ったことはある。でも、あたしはいつまでたっても男子みたいなまま。なのに男子にも属せなくなってあたしはどうすればいいか分からなくて」
途方に暮れたように立野は言う。
この少女は自分もすでに変化していることが、分かっていないんだ。
こんなにいじらしくて可愛らしいのに。時々ぞくりとするほど綺麗で艶っぽいのに。
俺は立野の頬を両手で挟んだ。熱く燃えるような立野の頬。
「あ、青木? 冷たいよ?」
「蒼。男子に属せなくなった蒼は、それを悲しく思うかもしれない。でもそれは仕方ないことなんだ。変化を止めることはできない。蒼は間違いなく女性として変化しているよ」
「え?」
「分かってないのは自分だけだ。ショートカットがなんだ。日焼けがなんだ。蒼の、授業中、考え事をしてるときの横顔。凄く綺麗だぞ」
俺の言葉に、かあっと立野は頬を染めた。
俺だって言ってて恥ずかしい。でももうたぶん最後なんだ。全て告白してしまおう。
「うん。そんな顔もすごく可愛いよ。バーを見つめる蒼の瞳も、吸い込まれそうなほど綺麗だよ。蒼はいつだって一生懸命だ。それは蒼の魅力だし、それに、正直俺は、ハイジャンで蒼と一緒に跳んでるとき、蒼の体に目が行くのを止められなかった」
「か、体?」
立野はさらに赤くなり、俯いた。
「空を見上げている蒼も好きだ。そして、今日、話してますます思ったよ。蒼は純粋すぎる女子なんだって」
自分がこんなことを言うキャラだとは思わなかった。けれど立野に分からせるためには仕方ない。
「もっと蒼が知りたいし、独り占めしたいし、俺だけを見てほしいし、他のやつらには見せたくない。俺が生身の人間なら触りたいとか、抱きしめたいとか、思ったよ。蒼は俺が気持ち悪いか?」
立野は、真っ赤な顔をふるふると左右に振った。
「は、恥ずかしいけど、青木からなら、気持ち悪くない……」
俺はほっとして、思わず笑顔になった。
「あー、本当残念。幽霊で。でも、蒼が眩しいと思ってた人間は、こんなごく普通の男だったんだよ? 幻滅してない?」
俺を眩しそうに立野は見た。
俺の心臓がトクンと鳴る。そんな顔、反則だ。
これ以上立野に触れていると……。
俺は立野から手を離した。
「普通? そんなことない。やっぱり青木は特別。あたしにとって青木は空より眩しい」
立野は頬を朱に染めて、夢見るような目で俺を見ている。
空より眩しい。立野の最大級の賛辞を受けて、俺は喜びに胸がいっぱいになった。
なんて顔するんだろう。立野は。きっと俺の知らないところで、立野は俺をこんなふうに見ていてくれてたんだな。
心残りなんてなかったはずなのに。
生きているときに立野と仲良くなりたかった。そしたら今ごろ両想いだったのにな。
立野の魅力に気づいてるのは自分だけではない。
現に、立野は陸上部の先輩から告白されてたし、高倉久。あいつは立野が好きだから、あんなに立野のことを知っていたのに違いない。立野のそばにこれからいる男が、自分でないことがかなり癪だが、こればかりは仕方ない。
俺は幽霊なんだから。
思って、人生で一番切なくなった。