久と話してから、あたしは絶不調に陥っている。

 うまく跳べないのだ。

 青木は、あたしと久との会話、どう思ったんだろう。

 不安に駆られる。青木はもう、あたしの想いに気づいてしまったんじゃないのかと。

 でも、青木はなにも言ってこないし、普段と変わらない気がする。だからあたしも普通を装う。

「立野〜、ちゃんと集中してる? 跳躍のタイミングがズレてるよ! やる気ないなら跳ぶな! 怪我でもしたら大変!」

 西月先輩の言葉に、

「はい! 分かってます!」

 とは答えるものの、あたしは、また助走の位置まで戻る。

 調子が悪いときに跳び続けても、悪いイメージが残るだけなのは分かっている。けれど、あたしは跳ぶのをやめられない。

 助走に入り、バーを跳ぶ!

 心地良い浮遊感がこない。

 空を楽しむ余裕さえない。

 またバーが落ちた。

「うっ」

 背中に走る痛みに声が漏れる。
 
 だめだ。これじゃダメなんだ。

 時間を止めなきゃいけないのに!

 空に嫌われたら、あたしにはなにもなくなるのに!


「立野。今の立野は、ハイジャンを楽しんでないよ。何かを振り払おうとしているみたいだ」

 何度目かバーを落としたとき、そう青木の声が聞こえた。悲しげな青木。

 青木の言う通りなのは分かってる。けれど。

「そうかもしれない。でも、あたしは! あたしにはこれしかないんだ!」

 あたしはまた助走に入る。

 跳ぶ。
 瞬間にダメだとわかる。

 バーが落ちた。

「っ」

 あたしは両腕で顔を隠すようにして、落としたバーの上で泣いた。泣きたくなんてないのに、涙が止まらない。

「立野!」

 青木の心配そうな声。
 こんなあたし、青木に見られたくない。

「痛いだけだから! 見ないで! こんなあたし、見ないで!」
「立野、今日はもうやめたら? 跳ぶのは気持ちいいものでないと」

 青木の気づかうような瞳があった。

「そうだね。空にまで見放されたら、あたしはどこへ行けばいいのか」
「大丈夫。見放したりなんかしないよ」

 優しい優しい青木の声。

 なのに素直に受け取れない。

 だって、現にみんな変わっていってるもの。

 あたしは自分の小麦色の腕を一度見て、安堵からなのか、残念からなのか、分からないため息をつく。

 あたしは変わってない。あたしだけ変わってない。

 それは本当?

 セーラー服を着て、ブラジャーまでつけるようになったのに?

 青木だけが特別な男子になったのに?

 もうなにもかも分からない。分かりたくない。

 優しい青木だって、いつ離れていくか分からない。

 そう思って、あたしは罪悪感を覚えた。

 青木は幽霊なのだ。いつか成仏しなくてはいけない。

 五感がない状態は辛いって、青木は言ってたじゃないか。あたしは、青木の成仏を手助けしないといけない立場なのに、そんなことを思うなんて。

 女子にも男子にも属せないあたしだから、青木の苦しさが理解できるはずなのに。青木の、生にも死にも属さない、不安定な状態が、わかるはずなのに。

 あたしは我儘で、最悪だ。

 涙が止まらない。

「!?」

 なにか冷たいものに手を掴まれた。これは青木の手?

「青木……?」
「泣かないでくれ、立野。そんな顔の立野を見るのはつらいよ」

 手の冷たさよりも、青木の表情にあたしは驚いた。

 なんて切なそうな顔をしてるの?

 青木の手が頬に伸びてくる。
 青木の冷たい手が、あたしの頬を何度も優しく撫でた。くすぐったい。

 もしかして、涙を拭おうとしているの?

 優しい青木。でもこの優しさはあたしだけに対するものなのかな。

「青木、冷たいよ」
「うん。立野は泣いてるから熱い」

 青木がまっすぐあたしを見つめてくる。その目は、なんだか今までと違う気がした。
 なんて言えばいいんだろう。
 見られるとドキドキして落ち着かない。
 胸が、痛い。

 勘違いしそうになる。青木は、あたしだけにこんなに優しいんだって。あたしだけを、こんな目で見つめるんだって。青木は幽霊で、あたししか見えないからなのに。

「あ、青木、もう大丈夫だから、離して?」

 あたしは、あまりに胸が苦しくなってそう言った。

「なぐさめくれたんでしょ? 青木は優しいね。ありがとう」

 青木を心配させないように笑ってみせた。

 青木はまだあたしをじっと見つめている。

 やだ。そんな瞳で見つめないで。

 そう思うのに視線を外せない。

「あお、き?」
「立野」

 心臓が、壊れそう。

 青木はなにかを言おうとして、ふっと笑った。

「なんでもない」

 青木?

 青木の瞳が脳裏から離れない。