立野は普段どおりを装っている。しかし、高倉と話した夜から、バーを落とすことが増えた。

 立野はあのとき確かに怒っていた。でもなぜあんなに怒る必要があったのだろう。

『あたしはあのころと変わってなんかいない! 変わったのはお前たちじゃないか!』

 立野の言葉が甦る。

 変化……。

 そうだ。立野は変化を恐れているようにみえる。跳んで時間を止めようとするのも、女扱いされるのを嫌がるのも、全てはそこから来ているように思えてならなかった。

 不安定な立野。それは、どこにも属していないからなのか? 

 今の立野は見ていて危なっかしい。苦しんでいるのが分かって見ているとつらい。立野を助けたい。俺が、助けたい。とくに、あの高倉ってやつには負けたくない。

 自分になにができるかは分からなかったが、立野の力になることが、自分にとっても大きな意味を持つように思えた。

 俺は自分が立野の前に現れた意味が、そこにあるような気がするのだ。


***


「っ痛っ!」

 今日も立野はバーを落としている。

「大丈夫か?」
「平気よ。こんなことでめげていたら、ハイジャンなんかやってられない」

 立野は苛立たしげに顔を上げると、また助走の場所へ駆けていく。見ていて痛々しかった。

「立野。今の立野は、ハイジャンを楽しんでないよ。何かを振り払おうとしているみたいだ」

 俺の言葉に立野は唇を噛んだ。

「そうかもしれない。でも、あたしは! あたしにはこれしかないんだ!」

 立野が助走に入る。

 跳ぶ。

 そしてまたバーが落ちた。

「っ」

 立野は両腕で顔を隠すようにして、落としたバーの上で泣いていた。

「立野!」
「痛いだけだから! 見ないで! こんなあたし、見ないで!」

 空が紅く滲んでいた。立野の目のよう。もう耐えられなかった。

「立野、今日はもうやめたら? 跳ぶのは気持ちいいものでないと」

 立野はうつむき、頷いた。

「そうだね。空にまで見放されたら、あたしはどこへ行けばいいのか」

 立野は途方にくれたように、大きな空の下で泣いた。

「大丈夫。見放したりなんかしないよ」

「俺は」、とつけたかったが、それはやめた。

 立野は自分の小麦色の腕を一度見て、ふうとため息をついた。そんな立野はいくら日に焼けた肌をしていても、いくら髪が短くても、頼りない一人のか弱い少女でしかなかった。

 俺は立野の後ろからそっと抱きしめるように手を伸ばした。もちろんその手は立野を抱くことは出来なかった。すり抜けてしまうだけだ。 
 立野はそんな俺に気付いていないようで、泣き続けている。

 立野のこんな顔を見るのはつらい。

「どこにも属していない」

 立野は言っていた。

 俺が、自分のいない教室を見たときに感じた、悲しさや、居心地の悪さ、そして疎外感に似たものを、立野も感じているのではないか。居場所がないとはなんと寂しいことだろう。


 でも。

 俺たちはとても似ていても、決定的な違いがある。


 立野は、男女どちらにも属していないと思っているが、俺の目から見ればちゃんと女だし、死んだ俺の時間は止まらなくてはならないが、生きている立野の時間は、これからも進ませないといけないということだ。

 生きている人間と、死んでいる人間の、どちらにも属さない幽霊の俺だからこそ、きっと立野を理解できるんだ。

 立野、泣かないで……。

 自分が幽霊であることを、こんなにもありがたくも切なくも思うなんて。

 立野を抱きしめて安心させたい。 
 安心だけじゃない。思いっきり抱きつぶして、抱きしめることで、俺の立野への想いを伝えたい。

 今まで、女子に特別な感情を持ったことなどなかったが、今の、この少女に対する想いは特別なものであると、俺は確信した。

 まっすぐ過ぎる心で、自分も他人も傷つけてしまう立野。
 空が大好きな立野。
 ハイジャンを誰よりも真剣に、そして楽しむ立野。
 無邪気な笑顔は、本当はすごく可愛い立野。

 俺の知ってるすべての立野が……。
 
 俺は、好きだ。立野蒼が好きなんだ。

 泣かないで、立野……。

 抱きしめることが叶わない俺は、代わりに立野の手を強く握りしめた。あの夜よりも、立野の手は熱い。泣いている人の体温は、こんなに高いのだ。

「青木……?」
「泣かないでくれ、立野。そんな顔の立野を見るのはつらいよ。立野が楽しそうにハイジャンしてるのを見るのが、俺は好きだな」

 俺は、驚いている立野の頬にも手を伸ばす。

 頬も熱い。

 立野の涙を拭ってやりたかったけれど、それは、透けてできなかった。生温かい涙の感触はあるのにな。

「青木、冷たいよ」
「うん。立野は泣いてるから熱い」



 神様は残酷で、優しい。

 恋を知らずに死んだ俺と、恋を拒む立野に、神様は切ないプレゼントをくれた。

 絶対に結ばれない恋。

 友達の恋バナを聞きながら、どこかで思っていた。俺も女子を好きになってみたいと。その願いが、死んでから叶うなんて、思ってもみなかった。

 こんなに苦しくて、切なくて、でもしびれるように甘いものだったんだ。

「あ、青木、もう大丈夫だから、離して?」

 嫌だ。

 頬に触れるだけじゃ足りない。本当は思い切り抱きしめたい。立野を感じたい。

 そう思いながらも手を離した。

「なぐさめてくれたんでしょ? 青木は優しいね。ありがとう」

 立野の儚い笑顔が痛い。

 俺は誰にでも優しいわけじゃないよ。
 立野が好きだからなんだよ。
 どうしようもなく好きなんだよ。

「あお、き?」

 俺を見つめる、立野の黒い瞳が揺れている。

「立野」

 好きだ。

 伝えたい。でも今じゃない気がした。

「なんでもない」





 神様は本当に残酷だ。

 でも、俺は立野を好きになってよかった。

 この感情を知らずに、成仏しなくてよかった。

 もう悔いはない。

 立野と過ごせたひと時は、本当にかけがえのない時間だ。



 それは、眩しい空のような時間。



 今夜、立野を救いに行こう。

 きっと俺にならできることだ。いや、俺にしかできないことだ。

 そして、俺はそのとき役目を終える。

 そんな気がした。