空に。
「堕ちる」
ふと隣からこぼれた言葉に、あたしは青木のほうを向いた。あたしの頭にも浮かんだ言葉だった。
空に堕ちる。
それは不思議な感覚だ。
でも、マットに落ちた衝撃を感じながら、視界に空だけが映っているこの感覚は、まさに空に堕ちるという表現が、ぴったりだと思った。
青木は、すっかりハイジャンの感覚にハマったらしい。
青木の笑顔が眩しい。先程見た空より勝る。つられるようにあたしも笑顔になってしまう。
ああ、やっぱり青木の笑顔は最高だ……!
***
空と書いて、「から」なんて読み仮名をふったやつは誰だろう。
空は空っぽなんかじゃない。こんなにもいろんな表情をみせるのに。
あたしの一番好きな空は快晴の空で、それは青木の笑顔を思い起こさせるからでもあり、ハイジャンを跳んでいて、一番気持ちいい空だからだ。一日の変化が、一番わかる空だからでもある。
けれど、あたしは雨や曇りが嫌いというわけではない。垂れてきそうな曇り空、雨が降る前の独特の匂いや、音もなく降る小雨、ざあざあ振りの雨。他にも挙げると切りのない表情をもつ空。そんな空には、地球の営みを感じる。
営み……。
思い至って、ふと思考が止まった。
何だか、心がちくんと痛んだ。
それを振り払うように空を見上げる。今日のような、曇りなのに、どこか明るい空のときは、空が鳴くのを知っている。
予想通り、ほどなく神鳴りとともに、スコールのような雨が降り出した。
赤と青の竜神が、空を這っている。ああ、綺麗だ。
あたしは、一瞬、全てを忘れたように空を見上げて、その大粒の雫を体いっぱいに浴びた。
気持ちよかった。
「ほら、立野! 早く片付けないと!」
西月先輩の声に我に返って、バーやらマットやらの片づけを手伝う。そのとき気づいた。
あれ? 青木?
青木がさっきから黙ってる。そっとその表情を伺うと、青木はあたしから目を逸らすようにしていた。
「どうしたの?」
小声で話しかける。
「ジャージ着てくれ!」
低くて強い青木の声。こんな青木の声は初めて聞いた。
なんだか、怖い。
「え? なにか怒ってる? 青木?」
あたし、なにかしたんだろうか。
不安になって、青木に近づいた。
「いいからジャージをっ!」
青木がますます声を荒げた。その顔が赤い。
「でも、まだ片付け残ってるから……」
あたしの言葉を遮るように青木は、
「あ、雨でぬれて……む、胸が透けてるんだっ! お願いだからジャージを着てくれ!」
と叫んだ。
胸?!
あたしはははっと自分の胸を見た。
雨に濡れてぴったりと張り付いた体操着が、あたしの胸をいつもより目立たせて、乳首もうっすら透けていた。
あたしの体が熱を帯びる。
や、やだっ!
あたしはあわててジャージを取りに行くと羽織った。
「前も閉めてくれ」
ピシャリと青木に言われて、あたしはジャージのファスナーを上まで上げた。
「なんで下着つけてないんだよ!」
怒ったような青木の声。
なんでこんなに怒ってるの?
「だ、だって、あたし胸小さいし、ブラつけるほどじゃ……」
消え入りそうな声が出た。
「青木。そんなに怒らないで? 下着、買うから。ごめん、変なもの見せて」
あたしはなんだか怖くて、青木にそう言った。あたしの胸なんか見るはめになった青木に、申し訳なかった。
「変なものなんかじゃない! 立野は無防備すぎる。俺だって男なんだ! 少しは警戒してくれ」
青木は苦しげにそう言った。
無防備? 警戒?
青木に対して? どうして?
よく分からない。
でも、青木に胸を見られたのは恥ずかしいと思った。パジャマなんか比でないくらい、恥ずかしい。
どうして、こんなに恥ずかしいと思うんだろう。
あたしは女子で、青木は男だから?
青木は、あたしを女として見ている?
思いついた理由を頭から払う。
他の男子に見られても、平気な自信がある。でも、こんなに恥ずかしいのは、青木に見られたからなのだろうか。
分からない。
この感情をなんというのだろう。
あたしは、この感情を本当に知らないのだろうか? 知らないふりをしているだけなのではないか?
眩しい笑顔を見せる青木。
一人ひとりを意外によく見ている青木。
何事も楽しみに変える青木。
いつも一生懸命な青木。
近くにいると、青木のいろいろな面が見えてくる。
でもなぜだろう。
今までは純粋に、青木と一緒にいられることが嬉しかった。
でも今は。
自分の知らなかった青木を見つけると、なんだかつらいと思うときがある。これまで、他人と、こんなに深く関わったことがなかったからだろうか。
違う、気がする。
青木に対する感情が変化していっている。
どのように?
自問して、本当は、自分でも分かっているような気がして怖くなる。
もし、青木が、あたしじゃない女子と、一日中一緒にいるとしたら? あたしは平然としていられるだろうか? あたしは……。
あたしは大きく頭を振った。
別に、なんともっ!
嘘。そんなはずはない。なんともなくなんかない。嫌だと思ってしまう。
この感情は。この感情こそを、好きというのではないだろうか。
思考停止。そんな感情知らないし、胸を見られても恥ずかしくなんかない。別に青木に見られても、他の男子に見られても平気だ。
あたしは、なんだか泣きそうになった。
ううん。違う。実際めちゃくちゃ恥ずかしかった。
駄目だ、思考が停止できない。
なにもかも、どうして進んでいくのだろう。あたしだけ。あたしだけ取り残されている。そう感じるのは、たぶん気のせいでは、ない。
認めればいいのだろうか。あたしも女で、青木が好きなんだと。そうすれば、取り残されないだろうか。
でもそしたらきっと、何かが変わる。
変化は怖い。
あたしは、まだ変わりたくない。
本当に?
跳んでいるとき。そのときだけは、時間に支配されない。あたしは取り残されたのではなく、自由だ! 全てから解放される。跳んでいるときだけは!
あたしががむしゃらに跳ぶ理由は、そこにあるのかもしれない、とふと思った。
この日、青木は帰り道、無言だった。
あたしもなんだか怖くて、青木に話しかけられなかった。
雨の音が、痛い。
「堕ちる」
ふと隣からこぼれた言葉に、あたしは青木のほうを向いた。あたしの頭にも浮かんだ言葉だった。
空に堕ちる。
それは不思議な感覚だ。
でも、マットに落ちた衝撃を感じながら、視界に空だけが映っているこの感覚は、まさに空に堕ちるという表現が、ぴったりだと思った。
青木は、すっかりハイジャンの感覚にハマったらしい。
青木の笑顔が眩しい。先程見た空より勝る。つられるようにあたしも笑顔になってしまう。
ああ、やっぱり青木の笑顔は最高だ……!
***
空と書いて、「から」なんて読み仮名をふったやつは誰だろう。
空は空っぽなんかじゃない。こんなにもいろんな表情をみせるのに。
あたしの一番好きな空は快晴の空で、それは青木の笑顔を思い起こさせるからでもあり、ハイジャンを跳んでいて、一番気持ちいい空だからだ。一日の変化が、一番わかる空だからでもある。
けれど、あたしは雨や曇りが嫌いというわけではない。垂れてきそうな曇り空、雨が降る前の独特の匂いや、音もなく降る小雨、ざあざあ振りの雨。他にも挙げると切りのない表情をもつ空。そんな空には、地球の営みを感じる。
営み……。
思い至って、ふと思考が止まった。
何だか、心がちくんと痛んだ。
それを振り払うように空を見上げる。今日のような、曇りなのに、どこか明るい空のときは、空が鳴くのを知っている。
予想通り、ほどなく神鳴りとともに、スコールのような雨が降り出した。
赤と青の竜神が、空を這っている。ああ、綺麗だ。
あたしは、一瞬、全てを忘れたように空を見上げて、その大粒の雫を体いっぱいに浴びた。
気持ちよかった。
「ほら、立野! 早く片付けないと!」
西月先輩の声に我に返って、バーやらマットやらの片づけを手伝う。そのとき気づいた。
あれ? 青木?
青木がさっきから黙ってる。そっとその表情を伺うと、青木はあたしから目を逸らすようにしていた。
「どうしたの?」
小声で話しかける。
「ジャージ着てくれ!」
低くて強い青木の声。こんな青木の声は初めて聞いた。
なんだか、怖い。
「え? なにか怒ってる? 青木?」
あたし、なにかしたんだろうか。
不安になって、青木に近づいた。
「いいからジャージをっ!」
青木がますます声を荒げた。その顔が赤い。
「でも、まだ片付け残ってるから……」
あたしの言葉を遮るように青木は、
「あ、雨でぬれて……む、胸が透けてるんだっ! お願いだからジャージを着てくれ!」
と叫んだ。
胸?!
あたしはははっと自分の胸を見た。
雨に濡れてぴったりと張り付いた体操着が、あたしの胸をいつもより目立たせて、乳首もうっすら透けていた。
あたしの体が熱を帯びる。
や、やだっ!
あたしはあわててジャージを取りに行くと羽織った。
「前も閉めてくれ」
ピシャリと青木に言われて、あたしはジャージのファスナーを上まで上げた。
「なんで下着つけてないんだよ!」
怒ったような青木の声。
なんでこんなに怒ってるの?
「だ、だって、あたし胸小さいし、ブラつけるほどじゃ……」
消え入りそうな声が出た。
「青木。そんなに怒らないで? 下着、買うから。ごめん、変なもの見せて」
あたしはなんだか怖くて、青木にそう言った。あたしの胸なんか見るはめになった青木に、申し訳なかった。
「変なものなんかじゃない! 立野は無防備すぎる。俺だって男なんだ! 少しは警戒してくれ」
青木は苦しげにそう言った。
無防備? 警戒?
青木に対して? どうして?
よく分からない。
でも、青木に胸を見られたのは恥ずかしいと思った。パジャマなんか比でないくらい、恥ずかしい。
どうして、こんなに恥ずかしいと思うんだろう。
あたしは女子で、青木は男だから?
青木は、あたしを女として見ている?
思いついた理由を頭から払う。
他の男子に見られても、平気な自信がある。でも、こんなに恥ずかしいのは、青木に見られたからなのだろうか。
分からない。
この感情をなんというのだろう。
あたしは、この感情を本当に知らないのだろうか? 知らないふりをしているだけなのではないか?
眩しい笑顔を見せる青木。
一人ひとりを意外によく見ている青木。
何事も楽しみに変える青木。
いつも一生懸命な青木。
近くにいると、青木のいろいろな面が見えてくる。
でもなぜだろう。
今までは純粋に、青木と一緒にいられることが嬉しかった。
でも今は。
自分の知らなかった青木を見つけると、なんだかつらいと思うときがある。これまで、他人と、こんなに深く関わったことがなかったからだろうか。
違う、気がする。
青木に対する感情が変化していっている。
どのように?
自問して、本当は、自分でも分かっているような気がして怖くなる。
もし、青木が、あたしじゃない女子と、一日中一緒にいるとしたら? あたしは平然としていられるだろうか? あたしは……。
あたしは大きく頭を振った。
別に、なんともっ!
嘘。そんなはずはない。なんともなくなんかない。嫌だと思ってしまう。
この感情は。この感情こそを、好きというのではないだろうか。
思考停止。そんな感情知らないし、胸を見られても恥ずかしくなんかない。別に青木に見られても、他の男子に見られても平気だ。
あたしは、なんだか泣きそうになった。
ううん。違う。実際めちゃくちゃ恥ずかしかった。
駄目だ、思考が停止できない。
なにもかも、どうして進んでいくのだろう。あたしだけ。あたしだけ取り残されている。そう感じるのは、たぶん気のせいでは、ない。
認めればいいのだろうか。あたしも女で、青木が好きなんだと。そうすれば、取り残されないだろうか。
でもそしたらきっと、何かが変わる。
変化は怖い。
あたしは、まだ変わりたくない。
本当に?
跳んでいるとき。そのときだけは、時間に支配されない。あたしは取り残されたのではなく、自由だ! 全てから解放される。跳んでいるときだけは!
あたしががむしゃらに跳ぶ理由は、そこにあるのかもしれない、とふと思った。
この日、青木は帰り道、無言だった。
あたしもなんだか怖くて、青木に話しかけられなかった。
雨の音が、痛い。