青木はなんであたしのもとに現れたのだろう……。

 青木が、青木らしくない悲痛な表情で訴えてきてから数週間。青木との毎日は、意外と順調に進んでいった。

 もちろん、いつもそばに青木がいるというのが、恥ずかしくないわけがない。毎日遠くから眺めていた青木が、今度は逆にあたしの日常を見ているのだ。
 最初は、気が抜けないままに、一日を過ごしていたのだが、そんなことをしていたら、心身がもたないと悟ったのでやめた。青木が、あたしの生活に対してどう感じているかなんて、一生解らないことだろう。
 ただ、あたしのそばにいる青木は、いつも楽しげで、それがあたしは嬉しかった。

 青木には笑っていてほしい。
 笑っていてほしいのだけれど。 

 ぽっと自分の頬が熱を持つのが分かった。

 いつも遠くから眺めていた、青木の眩しい笑顔。それが今は、自分だけに向けられている。
 当たり前と言えば当たり前だ。青木は他の人には見えないのだから。
 さらに、笑顔だけでなく、青木の様々な素の表情を見る機会も増えた。
 遠い遠い空のような存在だった青木。でも今はなんだか近すぎて戸惑ってしまう。

 自分が青木に抱いていた感情が、少しずつ形を変えていっている気がして、あたしは不安にかられる。 

 だってこれじゃまるで。

 そんなとき、あたしは、自分の日に焼けた肌を確認するように見て、「まだ大丈夫」と勝手に納得するのだった。



***


 そんなある日。

「なあ、一度立野と一緒に跳んでみたいな。どんな感覚なのか。霊体だからできそうじゃないか?」

 毎日食い入るように、あたしが部活する様子を見ていた青木が、言ってきた言葉だった。

 驚いた。
 青木は、陸上のハイジャンに、興味を抱いて見ていたんじゃないのだろうか? 

 理由は分からない。けれど。

 どんな感覚なのか?

 その感覚は、あたしが、憑かれたように跳ぶ理由。それを青木は味わいたいと言っている?

 不思議だった。青木にはどうでもいいことのはず。

 だいたい、ハンドボールとは全く違う、陸上競技を見ているだけでも、毎日飽きないのが不思議なのに。

 でも、正直嬉しかった。自分が味わってるあの感覚を、青木と共有したいと思っていたからだ。

 きっと青木も気に入ってくれるはず。
 

***


「青木、一緒に跳んでみたいって言ってたじゃん。今からやってみない?」

 中体連が終わり、普段の練習に戻った頃、あたしは青木に声をかけた。

 助走の位置に青木と並び、あたしは一度、青木と頷き合った。

 あたしの動きに青木がついてくる。
 バーが目に入る。
 青木と同時に、跳ぶ!

 いつもより、さらに近くに、青木を感じた。
 青木は、あたしより少し背が高いぐらいだ。マッチョではないけれど、部活をしていたからそこそこ筋肉のあるけれど、男子にしてはスリムだと思っていた。でも、隣で跳んだ青木は、あたしよりも筋肉質で、女子とは違うんだと今更気づいた。

 すこし変な感じだ。

 青木は一緒に跳んで、どんなことを思ったのだろう。

 あたしのハイジャンの感覚、わかってくれたかな。

「跳べたね。どうだった?」

 青木は跳躍後、感想を一言で述べた。

「空」

 と。


 嬉しかった。あたしの、最も好きな瞬間が、青木にも、伝わったのだと分かった。

 その後も、青木は、あたしと一緒に跳ぶことが増えた。マットに落ちたときの(正確に言えば青木はマットの上からわずかに浮いているけれど)、惚けたような青木の表情が、とても可愛いと思った。

 青木と一緒に過ごす時間が、あたしは楽しくて嬉しかった。
 あたしの知らなかった、たくさんの青木の情報。表情。青木は、ますますあたしにとって特別になっていく。

 こんな時間がずっと続けばいいのに。

 それは思ってはいけないことだ。青木は、幽霊の状態を苦痛と言っていたのだから。天国に行かせてあげないといけないのだから。

「ハンドボールは見なくていいの?」

 ハイジャンばかり、熱心に見つめる青木に、訊いたことがあった。そのときの青木の顔が忘れられない。

「見ても、もう、俺にはできないから」

 青木は泣きそうに笑ったんだ。

 青木は好きで幽霊になったわけではない。そして、ずっと幽霊でいたいわけでもない。

 勘違いしちゃいけない。青木はもう死んでいるんだ。

 毎晩、寝る前にあたしは自分に言い聞かせる。

 あたしと青木じゃ、住んでる世界が、本当に違うのだ。

 そう思うと胸がズキリと痛む。

 いつまで一緒にいられるだろう。明日突然青木が成仏したら?

 ゾッとする。怖い。青木のいない日常になんて、もう戻れない。それじゃ、ダメなのに。

 あたしは、恐怖から逃れるように布団を被った。