踊る少女の姿を見た。
薄氷の上で。寒空の下で。だがその表情は優しく、儚く、哀らしい。
この世界に起こる不条理を全て忘れて、ただ踊ることにのみ全集中力を注いでいるかのような、そんな美しい姿。背後にある景色に溶けていってそのまま消えてしまいそうなほど、少女は世界と一体化している。
少女が突如、その場に倒れ込んだ。僕は駆け寄ろうとするが、そこで初めて自分が観測者であることに気づく。夢という曖昧な非現実世界の観測者。
僕は、その少女に触れられなかった。もどかしく思いながら様子を見ていると、不意に薄氷にヒビが入る。危ない、そう思っても声が出ない。彼女は倒れ込んだまま、動かない。ヒビがどんどん広がっていって、やがて薄氷はパリンッと残酷な音をたてて割れた。
少女は声すら出せずに、奈落へ落ちる。
僕はただ、見つめている。
美しきものが、音を立てて壊れていく姿を静かに観測している。
「なんだっけ、これ……ら、らぁ……、ら・かんぱにー?」
彼女の声で僕は我に帰った。ピアノを弾いている間だけ訪れる、覚醒しながら見る夢の世界。僕はその世界に浸っていた。
外で蝉がジリジリと鳴いている。どうして僕は、夏休みが始まってすぐ学校の音楽室でピアノを弾いているんだろうか。
「『ラ・カンパネラ』だわ、なんだよ『らかんぱにー』って」
指を止めて、彼女の方を見る。彼女は顎に手をやって何か解決したような顔をした。
「あ、そうそれそれ。『ラ・カンパネラ』か、素敵な曲名」
「ならせめて今日覚えて帰るんだな」
彼女は小さなメモ帳に何か書いていた。本当に曲名を覚えて帰るらしい。僕は冗談のつもりで言ったのだが。
「ね、聞いていい?」
「……手短にな」
「『ラ・カンパにラ』のカンパにラって、どういう意味?」
僕は思わず眉間に力を込め、軽く彼女を睨む。
「おい、さっきメモしてただろうが。『カンパネラ』だ! カ・ン・パ・ネ・ラ!」
「わああぁごめんって、そんな怒んなくたっていいのにー」
彼女はきまり悪いような申し訳ないような顔で背中を丸める。
「……で。何を聞きたいんだっけ、君は」
「あ、そうだった。カンパネラ? が、どういう意味なのか知りたくて。これも取材のうち」
彼女は表情を一変させてにっこり笑う。
「私、知りたいなぁ。教えてよ」
「……鐘だ」
僕が言うと、彼女は少し固まってから首を傾げた。
「カナダ?」
「鐘だよ鐘! 耳遠すぎるだろ! 取材する気あんのか!?」
さすがに怒ると、彼女は「ええっ」と後ずさる。
「なんでそんな怒るのさー!? 知らないんだからしょうがないじゃんよおお」
今にも泣きそうな顔で、彼女は座る僕の背中をぽかぽか殴ってきた。
「ちょ、いたっ、そっちこそなんで逆ギレしてんだよ!」
「君が怒るからでしょー!? 優しくないなぁまったく」
「言葉の通じない相手にキレるのは当然だろ!」
言い返すと、彼女は膨れっ面で僕を睨む。
「へー、じゃあ君は外国人に日本語が通じなかったらキレるんだー。やっぱ優しくなーい」
「お前は日本人じゃねぇか!」
調子を狂わされることこの上ない。僕は長々とため息をつき、はっきりと口にする。
「カンパネラはイタリア語で鐘! か、ね! ベル!」
「ああ、なるほどー! イタリア語で鐘、と。ふむふむ」
彼女はようやく理解した様子で熱心にメモをとる。
「なぁ、だいたいなんで僕なんだよ。ピアノ弾ける奴くらい他にもいるんじゃないのか? なんでわざわざ、違うクラスの初対面の男のところに来た」
「んー、一目惚れかな?」
「えっ……?」
彼女がそっけなく吐いた言葉に、鼓動が速くなるのを感じた。いや、どうして。彼女のことなんてなんとも——。
「あ、目じゃないか。一《耳》惚れ。ピアノ弾いてたよね? この間の放課後、ここで」
早とちりしたことを、僕は悔やむ。
「……あ」
一学期が終わる頃だったか。放課後、音楽室が空いていたので勉強の息抜きにピアノを弾いたことを思い出す。
「あの時もこの曲、弾いてたよね。私すっごく惹かれたの。それでどうしても取材したいなって」
たしかに僕はあの日も、ラ・カンパネラを弾いていた。ところで少し、気になることがあった。
「あのさ、聞いてもいい?」
「お、逆取材? いいよいいよ、スリーサイズ以外ならなんでも答える」
「バカか」
「ひどくない!?」
彼女が僕の顔を覗き込む。なんて暑苦しい奴なんだろうか。
「君、取材取材ってさっきから言ってるけど。僕は新聞か何かに載るの? でもカメラとか持ってないみたいだし……なんの取材? もしかして、取材とかいう名目で僕の身辺調査して、ストーカーになるとか」
「バカじゃないの?」
「ひどいだろ!」
すっかり彼女のペースにのせられ、僕は疲れてしまった。
「はぁ……答えてくれ。そうじゃないと、僕も快く質問に答える気になれない」
言うと、彼女は両手を腰に当てて僕をじっと見る。
「な、なに」
「確かに、それもそうだね。あんまり人に言わないようにはしてるんだけど、君にはトクベツに教えてあげる」
開けた窓から、風が吹き込んできた。彼女の肩口で切り揃えた髪がゆらゆらと流れる。
「私、小説書いてるの。次の題材は、君が弾く『ラ・カンパネラ』にしたいと思ってる」
薄氷の上で。寒空の下で。だがその表情は優しく、儚く、哀らしい。
この世界に起こる不条理を全て忘れて、ただ踊ることにのみ全集中力を注いでいるかのような、そんな美しい姿。背後にある景色に溶けていってそのまま消えてしまいそうなほど、少女は世界と一体化している。
少女が突如、その場に倒れ込んだ。僕は駆け寄ろうとするが、そこで初めて自分が観測者であることに気づく。夢という曖昧な非現実世界の観測者。
僕は、その少女に触れられなかった。もどかしく思いながら様子を見ていると、不意に薄氷にヒビが入る。危ない、そう思っても声が出ない。彼女は倒れ込んだまま、動かない。ヒビがどんどん広がっていって、やがて薄氷はパリンッと残酷な音をたてて割れた。
少女は声すら出せずに、奈落へ落ちる。
僕はただ、見つめている。
美しきものが、音を立てて壊れていく姿を静かに観測している。
「なんだっけ、これ……ら、らぁ……、ら・かんぱにー?」
彼女の声で僕は我に帰った。ピアノを弾いている間だけ訪れる、覚醒しながら見る夢の世界。僕はその世界に浸っていた。
外で蝉がジリジリと鳴いている。どうして僕は、夏休みが始まってすぐ学校の音楽室でピアノを弾いているんだろうか。
「『ラ・カンパネラ』だわ、なんだよ『らかんぱにー』って」
指を止めて、彼女の方を見る。彼女は顎に手をやって何か解決したような顔をした。
「あ、そうそれそれ。『ラ・カンパネラ』か、素敵な曲名」
「ならせめて今日覚えて帰るんだな」
彼女は小さなメモ帳に何か書いていた。本当に曲名を覚えて帰るらしい。僕は冗談のつもりで言ったのだが。
「ね、聞いていい?」
「……手短にな」
「『ラ・カンパにラ』のカンパにラって、どういう意味?」
僕は思わず眉間に力を込め、軽く彼女を睨む。
「おい、さっきメモしてただろうが。『カンパネラ』だ! カ・ン・パ・ネ・ラ!」
「わああぁごめんって、そんな怒んなくたっていいのにー」
彼女はきまり悪いような申し訳ないような顔で背中を丸める。
「……で。何を聞きたいんだっけ、君は」
「あ、そうだった。カンパネラ? が、どういう意味なのか知りたくて。これも取材のうち」
彼女は表情を一変させてにっこり笑う。
「私、知りたいなぁ。教えてよ」
「……鐘だ」
僕が言うと、彼女は少し固まってから首を傾げた。
「カナダ?」
「鐘だよ鐘! 耳遠すぎるだろ! 取材する気あんのか!?」
さすがに怒ると、彼女は「ええっ」と後ずさる。
「なんでそんな怒るのさー!? 知らないんだからしょうがないじゃんよおお」
今にも泣きそうな顔で、彼女は座る僕の背中をぽかぽか殴ってきた。
「ちょ、いたっ、そっちこそなんで逆ギレしてんだよ!」
「君が怒るからでしょー!? 優しくないなぁまったく」
「言葉の通じない相手にキレるのは当然だろ!」
言い返すと、彼女は膨れっ面で僕を睨む。
「へー、じゃあ君は外国人に日本語が通じなかったらキレるんだー。やっぱ優しくなーい」
「お前は日本人じゃねぇか!」
調子を狂わされることこの上ない。僕は長々とため息をつき、はっきりと口にする。
「カンパネラはイタリア語で鐘! か、ね! ベル!」
「ああ、なるほどー! イタリア語で鐘、と。ふむふむ」
彼女はようやく理解した様子で熱心にメモをとる。
「なぁ、だいたいなんで僕なんだよ。ピアノ弾ける奴くらい他にもいるんじゃないのか? なんでわざわざ、違うクラスの初対面の男のところに来た」
「んー、一目惚れかな?」
「えっ……?」
彼女がそっけなく吐いた言葉に、鼓動が速くなるのを感じた。いや、どうして。彼女のことなんてなんとも——。
「あ、目じゃないか。一《耳》惚れ。ピアノ弾いてたよね? この間の放課後、ここで」
早とちりしたことを、僕は悔やむ。
「……あ」
一学期が終わる頃だったか。放課後、音楽室が空いていたので勉強の息抜きにピアノを弾いたことを思い出す。
「あの時もこの曲、弾いてたよね。私すっごく惹かれたの。それでどうしても取材したいなって」
たしかに僕はあの日も、ラ・カンパネラを弾いていた。ところで少し、気になることがあった。
「あのさ、聞いてもいい?」
「お、逆取材? いいよいいよ、スリーサイズ以外ならなんでも答える」
「バカか」
「ひどくない!?」
彼女が僕の顔を覗き込む。なんて暑苦しい奴なんだろうか。
「君、取材取材ってさっきから言ってるけど。僕は新聞か何かに載るの? でもカメラとか持ってないみたいだし……なんの取材? もしかして、取材とかいう名目で僕の身辺調査して、ストーカーになるとか」
「バカじゃないの?」
「ひどいだろ!」
すっかり彼女のペースにのせられ、僕は疲れてしまった。
「はぁ……答えてくれ。そうじゃないと、僕も快く質問に答える気になれない」
言うと、彼女は両手を腰に当てて僕をじっと見る。
「な、なに」
「確かに、それもそうだね。あんまり人に言わないようにはしてるんだけど、君にはトクベツに教えてあげる」
開けた窓から、風が吹き込んできた。彼女の肩口で切り揃えた髪がゆらゆらと流れる。
「私、小説書いてるの。次の題材は、君が弾く『ラ・カンパネラ』にしたいと思ってる」