「中学の時に通っていた塾で、いちばん仲が良かった晃太ってやつがいたんだ。隣の学区だったから学校は違ったんだけど、毎週水曜と土曜に通っていた塾の時間が一緒でさ。俺が入塾する前から通ってて先生のこととかも詳しくて、すぐ仲良くなったんだ。でも、疑問に思ってることが当時あってさ」
「疑問? その、晃太くんのことで?」
「そう。晃太の学区のほうにはもっとたくさん学習塾の選択肢があってさ。俺が通ってたところよりも評判がいい大手のところもあるのに、なんでわざわざ遠くの――しかも小さいところに通ってるんだろうって思ったんだ。入ったばっかの頃に、お前のところからこっちまで来ると大変だろって言ってみたことがあるんだけど、この塾の雰囲気が好きだから、って返事で終わっちゃって。自転車でも20分くらいはかかるから、雨の日とか大変だったはずだし、何よりその塾に通ってたのは俺の中学のやつばっかだったんだ」

渡部くんはそこで言葉を切って、深呼吸した。話の核心に迫るのだと、わたしも思わず身構える。

「――いじめに遭ってたんだ、晃太のやつ。学校にもほとんど行ってなかったらしい」
「え……」

晃太くんへのいじめは、聞くに堪えないものだった。

暴言やものを隠されるのは当たり前。机に彫刻刀で落書きを刻まれたり、教科書やノートを破かれたり、着替えをトイレの便器の中に捨てられたり。でたらめな噂を流されたせいで他のクラスや他学年にも広まり、入っていた部活からも半ば追い出されるかたちで退部することになり、所属していた委員会でも当番を飛ばされるようになったのだという。

そのきっかけがなんだったのかはわからない。誰かが始めた些細ないたずらが徐々に大きくなって、いつしか晃太くんは“いじめていい対象”になった。一度決まったその立場は、コミュニティが変わらない限り抜け出すことのできないものだ。

「無視されるのも手を出されるのも、どっちもつらいって初めて話してくれたのが、中学3年の春だった。あと1年耐えたら高校に進学して、きっと新しい環境で再出発できるからそれまで頑張るって、その時はまだにこにこ笑ってた」

わたしと同じようなことを、晃太くんも考えていた。……だけど、過去形だ。
嫌な予感がした。

「夏になる頃には、あいつはほとんど笑わなくなった。たまに保健室登校をしたり、職員室で面談をしたりしていたらしいんだけど、毎回クラスメイトがそれを嗅ぎつけてちょっかいを出しにくるんだって言ってた。顔見知りの後輩や他のクラスのやつと会うと気まずく目を逸らされるから、本当は学校に行くことすらやめたいって言ってたんだ」
「それでも、時々は行っていたんだ」
「あいつなりのプライドだったんだと思う。それと、教師に対する抗議の気持ちもあったんじゃないかな。いじめがあることも、それが原因で不登校になっていることも知っているのに、解決する気がなさそうだって嘆いていたから。担任と面談するたびに、いじめてくるやつらをどうにかしてくれって懇願したけど、何ひとつ変わらなかったらしい」

秋が深まり、そろそろ寒くなって冬のコートに変えようか悩み始めた頃だった。

「どんなに学校でつらい目に遭っても、晃太は塾を休まなかったんだ。それなのにある日、来なくて。塾にも連絡が入っていなくて、本人にも家にも連絡がつかないって話だったんだ。それで、塾が終わった後に自転車を飛ばして、あいつの家があるあたりに向かったんだ。――土曜日の夜だった。気持ち悪いほど綺麗な星空だった」

死んだんだ、と、渡部くんは声を震わせた。

「スーパーの近くだって言ってたからそのあたりまで行ったら、すぐわかった。異様な家がひとつ見えたんだ。警察がいて、物々しい雰囲気で。なんとか近寄って見えた表札には、晃太の家の苗字が書いてあった。思わず名前を呼んだんだ。そしたら、晃太のお父さんらしい人が出てきた」

――晃太のお友達かい。
――晃太はね、亡くなったんだ。

「塾の友達ですって言ったら、そう教えてくれた。なくなった、ってどういう意味か最初はわからなくて。しばらくして理解して、嘘だ、って叫んでしまった。大人が顔をぐちゃぐちゃにして泣いているところを初めて見た。俺も、視界に何にも見えなくなるくらい泣いた。まだ慌ただしかったから、晃太のお父さんと連絡先を交換してひとまずその場を離れて、後からに連絡をもらって葬式に行って、改めてご両親と顔を合わせた」
「……なんて、言ってたの」
「来てくれてありがとうって。晃太はひとりぼっちじゃなかったんだとわかってよかったって。でも俺じゃ、晃太を生かすことはできなかったのにって言ったんだけど……晃太がSOSを出していたことに気づかなかったのかもしれないって、思った」
「SOS?」
「晃太は、あれだけつらい目に遭っていたのに、塾で他のやつと話す時にはそんな様子は一切見せていなくてさ。俺以外のやつは、晃太がいじめられていたことも知らなかった。俺の前ではしんどそうにしていたけど、最後まで教室では笑顔を見せていたんだ。だけど、亡くなるちょっと前に塾のトイレで独り言を言っていたのを聞いてしまってさ」

――死にたい。

「距離があったし、聞き間違いかと思った。普段話す時とは違う、低く濁った声だった。ちらっと見えた横顔が見たことないくらいの憎悪と絶望に満ちていて、晃太が言ったのか、って理解した。でも怖くて、俺は――見ないふりをしたんだ」

あの時声をかけていればって後悔してる、と声を詰まらせた渡部くんの膝に、ぼたぼたと水滴が落ちた。

「今もずっと心に引っかかっているんだ。俺は本当にあいつを助けてやれなかったのかって。どこかで一歩踏み出せていたら……話を聞くだけじゃなくてもっと何かできていたんじゃないかって、今も晃太と一緒に笑っていられたんじゃないかって思うんだ。数ヶ月前に希望として語っていた高校受験だって目の前だったのに」
「……」

聞くだけで胸が痛くなるような話だった。何を言っても中身が空虚になってしまいそうで、結局ひとつの言葉も紡げずに俯いた。楽しくない話をしてごめんと言って、渡部くんはずずっと鼻をすすった。

「いつだったかな。たぶん夏休みだけど、柳井さんを見かけた時に似たようなことがあって」
「似たようなこと?」
「うん。玄関で、靴を履き替えながら、……ふざけんな、って呟いていたのを見かけた」
「あ……」

独り言は一度や二度じゃない。周りに誰もいないとわかっている時は、ふと口をついて掃き溜めを濃縮したような言葉を吐いてしまう。
まさか見られていたなんて。

「それは、その」
「ご存じの通り、それで嫌いになったり軽蔑したりっていうわけじゃないから安心して。ただ、俺のほうがフラッシュバックしたんだ。晃太のことが。それで、怖くなった。この子がいなくなったらどうしよう、って」
「……そんなふうに思ってたの」
「毎日たくさんの人に囲まれているのも、その裏側で苦しい思いをしているのも知ってた。そんな君に惹かれて、今度こそ失いたくないって思った。根深い事情があるのだろうなって予想はついてたし、それを簡単に話してくれるような人じゃないって覚悟はしてた。それでもよかったんだ。柳井さんがいなくなってしまわなければ、それで」

渡部くんの声は、いつもの明るさと自信に満ちたものではなかった。震えて、少し触れたら壊れて散ってしまいそうなほど脆く弱い。告白の言葉を、好きという想いを信じられないと言ってわたしが曖昧な態度をとる間も、ずっとこうしてわたしのことを気にかけてくれていたのだろう。

信じたい、と強く思った。どうしたらこの人の言葉を、ちゃんと信じて自分の心の糧にできるだろう。

「俺の都合なのに、聞いてくれてありがとう。せっかくの修学旅行なのに、嫌な気持ちにさせちゃったかもしれないけど」
「ううん。そんなことない。……その、むしろ渡部くんのことをちゃんと知ることができてよかったと思ってて」
「そう?」
「わたしがずっと告白の答えを保留にし続けていたのに待ってくれていたことも、そもそもわたしのことを好きになってくれたことも、ずっと懐疑的だったの。好きになってくれた理由は前に教えてもらったけど……ごめん、わたしの癖で、素直に信じることができてなくて。でも、今の話を聞いて思ったの」

信じたい。
渡部くんの言葉を、ありのまま受け止められるようになりたい。

「疑ってばかりいる自分を変えたいの。こんなにも真摯にわたしのことを好きって言ってくれている人に、このままじゃわたし、何も返せないどころか嫌な態度しかとれない」
「そんなの、最初からわかってたよ。文化祭の後にも話してくれたじゃん。わかったうえで、それでも俺は柳井さんのことを好きでいるんだから」
「わたしが、それじゃ嫌なの。ちゃんと、渡部くんの想いに応えられる人になりたいから」

こんなふうに考えるようになるなんて、自分でも不思議だ。そして、今放つ言葉が偽りやごまかしなんかじゃない本心からのものであるという自信もある。
偽りたくない。都合のいい言葉やその場しのぎの笑顔でごまかしたくない。
なによりわたしが強くそう思うのだ。

信じることのハードルは、今のわたしにとってはまだ高いものだけど。
どうやって信じたらいいのか、また意味もなく疑ってしまうかもしれないけど。

「わたしのことを大事に思ってくれる人を、わたしも大事にしたい」
「……そっか。わかった」

こつん、と額が触れ合った。
秋の風が、さっきまでよりも優しく、軽やかに吹き抜けていく。

疑わず、真っ直ぐ、素直に、わたしも生きていきたい。