「ごめんね、待たせちゃって」
「大丈夫だよ。こっちならあんまり人が通らなさそうかなと思ったけど、女子の部屋があるほうからだとちょっと遠かったよね。ごめん」
「ううん。……ありがとう」

花壇には秋の花が咲き乱れていた。その端にあるベンチに並んで座る。ちょうど目の前で、鮮やかな色のガーベラがいくつもこちらを見ていた。

「会いたいって言ってくれて嬉しかった。メッセージ来た時、ちょっとにやけたよ。柳井さんから言ってくれるのは珍しいから」
「あらたまって言われると恥ずかしいな。修学旅行の間はバタバタであんまり自由時間が取れなさそうだったけど、今日なら少し動けるかなと思って。班別散策の話もしたかったし」

理由をつけないと、会いたいと言ってはいけなかったような気がして、それっぽい理屈を並べてみた。渡部くんは茶化さず、そうだねとひと言だけ相槌を打った。
みっともなくて情けない。優しさを向けられるほど、痛い。

「見て、これ。すごくいい写真じゃない?」

撮った写真を次々に見せてくれながら、渡部くんは今日のことをたくさん話してくれた。北野天満宮の宝物殿を見ることができたとか、車折神社へ行ったついでに嵐山まで足をのばして散策したこととか。楽しげな写真も何十枚と見せてくれて、渡部くんが京都をめいっぱい満喫していることが伝わってきた。

「柳井さんは? 下鴨神社とか行ってたんでしょ。俺も行ってみたかったんだよね、ルートの都合上はずしちゃったけど」
「あ……うん。楽しかったよ。たくさんお社があって、……おみくじ、も、引いて」

さっきの出来事がまた蘇る。思い出したくない横顔で脳内がフリーズする。どうかした? と焦ったような渡部くんの声が遠くに聞こえた。

「大丈夫? 具合悪い? 戻る?」
「……ううん、そばにいて」

引き攣れた声で懇願すると、彼は戸惑ったようにしばらく黙り込んで、それからそっとわたしの手を握ってくれた。血の気が引いた指先に温度が戻る。ゆっくりと、マッサージをするように撫でられるそのリズムに、フラッシュバックした不愉快な記憶が薄れていく。

「いるよ、ここに。大丈夫」

静かに、子どもに言い聞かせるようにそう呟きながら、渡部くんはわたしをじっと待ってくれた。
うまく吸えなかった酸素をなんとか肺の中に迎え入れて、もう一度口を開く。舌と唇が震えたけれどなんとか言葉にはなった。

「ごめん、なさい」
「謝らないで。何も悪いことはしてないでしょ」
「でも、迷惑かけて……」
「迷惑だとは思ってない。だから、気にしなくていい。自分のペースでいいから、ゆっくり息して」

彼の手が指先から背中に移動した。あやすように一定のリズムをとってくれるので、自然とそてに合わせて呼吸をするようになった。吹き抜けた風に花々が揺れる。秋のひんやりとした空気の中で、遠くに人びとの喧騒が聞こえた。

「落ち着いた?」
「……うん。ありがとう」
「それなら良かった。具合が悪いなら無理しなくていいから、ちゃんと言ってね」

そう言って、渡部くんは真正面からわたしに視線を合わせて微笑んでくれた。きっといろんな疑問や苛立ちがあるだろうに、それをおくびにも出さずに優しさだけを向けてくれる彼が不思議でならない。

「どうして何も訊かないの?」
「え?」
「わたし、こんなに面倒をかけているのに、どうして何も訊かずに優しくしてくれるの」
「無理に訊く必要はないと思ってるだけだよ。言いたくないことを言わせてまで、自分の知りたい欲を優先させる気はないから」

それは、間違いなく優しさなのだと思う。迷いのない表情でそう言い切った彼の中では筋の通った理屈で、わたしだって根掘り葉掘り訊かれたら嫌だ。
なのに、聞いてほしくてたまらない自分がいる。知りたいと思ってほしいというむちゃくちゃな欲求が芽生えていることに気がついて、頭で整理する前に衝動的に言葉が飛び出していた。

「ずるいよ。渡部くんから告白された時にも言ったでしょ。わたし、周りの人のことをずっと疑って生きてるの。理屈ではわかっていても、心から信じることができない。それをわかってて、いっつも無駄ににこにこ笑っているくせに今みたいに急にスイッチが入っておかしくなるわたしのことを、どうして知りたいって思わないの?」

おかしなことを叫んだのは自覚している。こんな八つ当たりをされたって、なんて答えたらいいかわからないはずだ。なのに、口が勝手に動くのを止められない。

「聞いてほしいの。知ってほしいの。わたしのこと、渡部くんに本当は全部話してしまいたい。でも自分がおかしいのはわかってるし、渡部くんの優しさに甘えたくないから、言えないの。めんどくさいこと言ってるのはわかってる、自分でもどうやってこの感情を片付けたらいいかわからないの」
「――俺だって本当は知りたくてたまらなかったよ」

思うままに叫ぶわたしの声を遮って、渡部くんが口を挟んだ。今まで聞いていた穏やかな声とは違う、まるで心の奥底から飛び出したような鋭い声で。

その勢いに口をつぐむしかなかった。おそるおそる視線を彼のほうに向けると、さっきまでのわたしを宥めるような優しい目ではなく、怒りとも悲しみともつかない暗い色の瞳がこちらを見ていた。

「本当はずっと疑問だったよ。でも、そう簡単に話せないことだってたくさんあるだろうし、いつか聞かせてくれる時が来たらいいなって思うことにしてた。けど、知りたくてたまらなかったよ。他人を疑ってばかりいるって、それって俺のことも? って感じだし、仲のいい井上さんたちはどうなの? って思ったりしてさ」
「それ、は」
「だけど、最初に言ったようにそんなに簡単に話せないことだろうと思ったから。そのことでいちばん苦しんでるのは柳井さん自身なんだし、俺が知ったところで何かできるのかっていう疑問もあったし。だったら、とにかく今、柳井さんの心が休まる居場所に慣れればいいって考えることにした。それで疑念ばかりの心が少しでも晴れて、楽になってくれたらいいって」

ひと息にそこまで話してから、渡部くんは大きく息を吸い込んだ。その呼吸が震えている。風はあるけどまだ寒いというほどじゃない。――渡部くんにも、こんなに精神的な負担をかけてしまっている。

やっぱりわたしなんかが、誰かの特別になったらいけなかったのだろう。

「……ごめ、」
「だから、謝らなくていいって」

反射で謝罪を述べようとしたら静止された。暗く沈んでいた彼の瞳に、少しだけ光が戻る。

「柳井さんが謝るなら、俺も謝らないといけなくなる」
「どうして? 渡部くんは何も悪いこと……」
「それは柳井さんもでしょ。なんでもかんでも謝ったらいいわけじゃない。謝罪は、増えるほど価値が薄れるものだよ」
「でも」
「恋愛って、……ううん、人付き合いってお互いのものでしょ。明らかに片方に非があるわけでもないのに、ごめんなさいは必要ないよ。君のことを知りたい気持ちに理屈をつけて訊かなかったのは俺の判断だし、言いたい気持ちに蓋をして訊いてもらうのを待っていたのは柳井さんの選択。結果的にすれ違ったけど、別に悪いことしてたわけじゃない。面倒くささでいったら同等でしょ」
「そんなことはないと思うけど……」
「それなら、教えてよ。柳井さんの昔のこと。話せる範囲でいいから。結果的に今ここで、知りたいと話したいっていうお互いの欲求が合致していることがわかったんだし」

どく、と心臓が嫌なふうに跳ねた。聞いてほしいと思っていたのに、いざこうして質問されると怖くなる。
くだらないと一蹴されるんじゃないか。わたしが悪いと責め立てられるのではないか。そんなことくらい許してやれよと笑われるんじゃないか。

渡部くんのことを信じているはずなのに、悪い可能性ばかり先に浮かんでは頭の中を埋め尽くす。

「聞いてほしいならいくらでも聞くよ。どんな話だって、馬鹿にしない。信じて」

低く響く、信じて、の言葉。
他人に対してどうやって抱いていたのかもう思い出せない、信じる気持ち。渡部くんのこの言葉に賭けてもいいのだろうか。

胸の奥で渋滞した言葉が、我先にと喉元に迫り上がってくる。

「……中学の時なんだけど、嘘の告白をされたことがあって」

一度話し始めたら、あとはジェットコースターと同じだ。勢いに任せて、封印していた暗い過去を紐解いていく。後戻りはできない。

「当時、好きだった人からもからかわれてね。騙されたわたしを庇ってくれるようなふりをして近づいて、そんなわけないじゃん、って」
「……ひどい話」
「だけど、それだけじゃ終わらなかった。わたしにいたずらで告白をした男子を好きだった女子からは疎まれて嫌がらせをされたし、友達だと思っていた子は、……わたしが好きだった人と、その後付き合い始めて」

ひゅ、と息を吸い込む不安定な音がした。わたしと渡部くん、どっちの喉からでたものなのかはわからない。

「わたしが彼のことを好きだっていう話はもともと仲のいい子には話していたことだったから、その友達も前から知ってたはずだし、わたしが彼からどんな扱いをされたかだって話したのにね。そのことと自分の恋心は関係ないって切り捨てられて。そうかもしれないけど、……だったら、落ち込んでいた時に優しいふりをして声なんかかけないでほしかった。嘘告白でからかわれて、女子たちからも嫌われて、そんな中で毎日話せる数少ない味方だと思ってたんだけど。そう思っていたのはわたしだけだったみたい。……気がついたら、他の友達のことも信じられなくなって、この子もあの子も優しくしてくれるけど、内心嘲笑ってるんだろうなとか、鬱陶しいって思ってるんだろうなって考え出したら、もうとまらなかった」
「それで、誰のことも信じないって……」
「うん。わたしの中学からこの高校に進学した人はいなかったから、二度と他人に心なんか許すもんかって決めたんだ。でも誰とも話さなければかえって浮いちゃうでしょ。そういう過ごし方を望むわけじゃないから、それならずっと笑顔で優しくしていれば波風立てずに、誰にもわたしの裏側を知られずに過ごせるかなって思ったの」

馬鹿みたいな話でしょ、と笑ってみせる。渡部くんは同調して笑うことはせずに、真剣な表情で地面をじっと見つめていた。

「いつまでもこのままでいられるわけじゃないのはわかってる。いつかはきちんと他人に向き合わないといけない、それはわかってるんだけど……今は、まだ、そこまで頑張れない。普通のふりをするので精いっぱいなの。みんなに紛れて生きていくには普通の人間の仮面をかぶっていなくちゃいけないでしょ。ましてや、人のことを疑って生きてる、信じてくれてないなんて、相手からしたら不愉快極まりない話なわけで」

普通じゃない生き方にもたくさんある。そうは言っても、人付き合いにおいての基本ルールは変わらないはずだ。尊敬、信頼、そういったものが根底にあるからこそ、お互いの個性を尊重しあえるわけで、その大前提を共有できないわたしは、本当はきっと存在していてはいけないのかもしれない。

けれど、死んでしまいたいわけではない。生きていたいのかと言われたらわからないけれど、いつか心から周りの人のことを信じられるようになる日がくるのなら、その日まで生きていたい――他人を信じる安心をまた感じたい。

そこまで話す間、渡部くんはひとつとして言葉を挟まずにずっと黙ったままだった。

「……こんな酷い人間だけど、それでも渡部くんの隣にいてもいい、かな」
「いてくれなくちゃ困る」

スイッチを勢いよく切り替えたように、渡部くんは大きな声を出した。しばらくぶりに見えた彼の顔――目も鼻も、真っ赤になっている。

「どこにも行くなよ。ちゃんと俺のそばにいて。もう、大事な人がいなくなるのは嫌だ」
「――え」
「死にたいと思わないでいてくれてよかった。どんな生き方だって、生きていてくれてよかった。……話してくれて、ありがとう」

俺も話したいことがあるんだ。
渡部くんは鼻をすすって目尻をわずかに濡らしながら、わたしの目を真っ直ぐに見てきた。視線を動かせないまま頷く。

酸素を求める金魚のように何度か口を小さく動かしてから、絞り出すように彼は話し始めた。