俺は雪見家が寄越してくれたバイクの後ろに乗せて貰っていた。
 運転操作をするのは、播磨透(はりまとおる)
 俺達は、先に行ってしまった護衛対象(雪見時雨)を追っている。
 行き先はどうやら今は使われていない廃墟と化した工場。
 工場への到着と同時に播磨にスマホを渡し、伝える。

「ここから逃げ出す奴が居たら、雪見に電話を掛けろ」

 雪見家に繋いだ通信に従って工場の敷地内で時雨が意図的に落とした片方のイヤリングを拾い、自身の耳に装着する。
 そのまま急いで工場の扉を開け、護衛対象を見付けた時には既に遅く全てが終わっていた。

 時雨!!

 そう叫びそうになって思考が一瞬止まる。

「お嬢様!!」

 時雨によって首を刺された男が倒れた後、腹に大振りのナイフが刺さったまま倒れそうになる小さな体を抱き止めるのが精一杯で。
 時雨が血を吐いた後に続いた言葉に思わず固まった。

「いっっ……良かっ……今度、こそ……助け…………」

 俺の腕の中で、只でさえ軽かった体がより軽くなっていく感覚と白かった肌がより白く冷たくなっていく小さな子供。
 制服が血で濡れるのなんて気にしていられなかった。

 痛い。良かった。今度こそ、助けられた。

 途切れ途切れに小さく(ささや)かれた言葉は俺の脳内でそう整理された。
 だからこそ、意味がわからない。
 今度こそってなんだ。
 俺の腕の中の子供が命を捨ててまで守る対象は赤井家の命令と、赤井蛍だと雪見家当主(兄さん)に聞いて数日しない内に起きた事だった。
 通信越しに播磨の電話を掛ける声と、救急車と警察を呼ぶ電話が掛けられる声が聞こえる。
 それから十五分しない内に救急車が来て運ばれる腕の中の子供と俺。
 時雨が子供に託したイヤリングと俺のイヤリング越しに殆ど同じ光景を見たらしい雪見家当主と一部の使用人は呆然と顔を白くしつつも最後まで見届けた。

 この時、雪見家と俺と使用人含む一同の中で時雨は「か弱く儚く、無茶をしがち」な存在になった。

 その後、一ヶ月と少し。
 一面真っ白な物だけが配置された無菌室で二週間。
 時雨は意識不明のままで面会謝絶の重体だった。
 それでも一度だけ、ほんの瞬きの間だったが窓越しに時雨と目が合った。
 だけど、それも一瞬の事で。
 その一瞬が幻覚だったのでは、と感じる程には時雨の意識は回復していなかった。

 途中、浅葱家の者が病院に、と言うより時雨に会いに来ていたが、生憎と時雨はまだ目覚めていない。

「申し訳ありませんがお嬢様の容態が悪く、まだ目覚めておりません。
 どうか、お引き取りくださいますよう願います」

 時雨が命懸けで助けた浅葱家のお嬢様であろうが俺には殆ど関係無かった。
 俺は冷たく、慇懃無礼(いんぎんぶれい)な対応で浅葱家の使用人ごと追い払った。

 それから数日後、朝方と言える時間帯に時雨の容態が急変した。
 医者と看護士が付きっきりとなり、「今日が山場の様です。
 この子が今日を乗り越えられなければ…………」と言われた俺は急いで兄さんに連絡を入れ、時雨の傍に控える様になった。
 それから数時間後、昼間。
 雪見家当主(兄さん)が時雨の病室に来た。

「柊、少し休むかい」
「兄さん…………」

 俺の肩に手を置く、やけに落ち着き払った態度の兄さんにほんの少し苛立ちが滲んでしまう。

「随分遅かったな、兄さん」

 力無く呟いた俺の言いたい事は存分に通じたらしく、頭上から溜息が聞こえた。

「柊、何日寝てない」
「3日以降は数えてない」
「…………柊、今すぐ寝なさい。
 柊が寝ている間くらいは時雨の事は私が見ていよう」
「…………」

 返事を返す余裕はもう無かった。
 兄さんの言葉を合図に、俺の意識は簡単に落ちた。

 いくな。いかないで。どうか、まだ!…………

 ふと、誰かの声で意識が浮上する。
 今にも消えそうな者を必死に留めようとする声。
 声に(つら)れる様に重たい腕を伸ばす。
 その腕を誰かに取られ導かれた先で、力無い誰かの手を掴んだ気がした。




「……ん」

 はっ。
 意識が一気に浮上する。
 視界が何かに遮られていることに気付き、目元に手を伸ばす。
 触れたのはどうやら兄さんの掌。

「おはよう、柊。
 丁度良かった」

 退かした掌越しに兄さんと、目が合う。
 兄さんに膝枕をされていたらしい。
 兄さんのもう片方の手は、時雨の手を握っていた。

「時雨はもう大丈夫だよ。でも念のため時雨の手を握っていてくれないかな」
「もうって…………」
「うん、一度心臓が完全に止まってしまってね。
 でも奇跡的に吹き返したんだ」
「何で起こしてくれなかったんですか」
「何でって。
 時雨の心臓が止まった時、急に時雨の手を掴んで離さなかったじゃないか」

 兄さんの言葉に一瞬思考が飛んだ。
 は?
 急にって。
 声に連れて腕を伸ばしたのは確かだが、誰かに腕を取られてそのまま手を掴んだのであって……。

 俺の驚いた表情に兄さんの方も驚いたらしい。
「え、無自覚?」そう言って俺をまじまじと見詰められた。


 と、そんな事があってから一週間と数日後。
 一度、一番忙しい時に来ていたらしい。
 来たのは二度目だと言う警察の人間を慇懃無礼に追い払う。
 浅葱家の次は警察か。
 時雨の容態は意識の目覚めこそ無いものの安定し、個室に移されていた。
 俺の目の前で時雨は目を覚ました。

「うぅ……」

 時雨の呻き声に俺は時雨に視線を動かした。
 このまま目覚めてくれ。
 そう願って声を掛ける。

「…………お目覚めですか、時雨様」

 ゆっくりとした動きで俺を見詰め、起き上がろうとしたのか、顔を一瞬歪める時雨。
 早々に起き上がる事を諦めたらしい時雨を見下ろしていると実感が湧いて、視界が滲んだ。

「…………」

 薄らと滲む視界に見えた伸ばされた細腕。

「時雨様」

 俺は時雨を抱き締めていた。
 時雨の怪我に配慮して、首と頭を支える様にして。

「み……ず」

 耳元で(かす)れた声が聞こえた。
 痛む喉を無視して無理矢理出したかの様な声だった。
 俺はその声を聞いた瞬間に動いた。
 背中に腕を伸ばして、後頭部も支えながら硝子(ガラス)吸口(すいくち)を口元に当て、ゆっくり傾ける。
 時雨は数口飲んで、やっと声が出るようになったらしい。

「おはよう、蓮見」
「はい、おはようございます時雨様」
「心配、掛けたね」
「…………もう二度とあんな事はごめんです」


 医者に告げられたのは全治三ヶ月。
 それを時雨に伝えると、一瞬顔が強ばっていた。
 その後、冷静になった俺はナースコールを押す。
 時雨の目覚めを伝え、医者が来るのを待った。
 診察後、もう一度二人になった俺は時雨と話を進める。

「…………それで、父様は何と?
 恐らく僕は警察からの事情聴取がある筈なのだけど」
「はい、まずは時雨様が目を覚まさしたら連絡をするようにと。
 それから事情聴取についてはあちらで対処するとも。
 しかし、何度か刑事の方もこちらに来ています」
「あぁ、それならば今度来たときにでも少し話すとしようかな。
 父様と蓮見以外の異性はまだ怖いし、出来れば女性が良いなぁ」

 警察の一人や二人ぐらい、追い返す事も出来るのに。
 掠れたままの声でそう呟かれては俺はもう何も言えないじゃないか。
 あぁ、そういえば――――――

「時雨様」
「ん?」
「時雨様が生かした協力者と浅葱様方はどうなさいますか」
「父様が許してくれるなら、名前知らないけどあの男は監視ついでに僕の部下か侍従あたりにでもすれば良いと思うよ。
 浅葱家には一部の情報をのぞいて曖昧に情報を流すと良いんじゃ無いかな。
 後は父様に任せる」
「…………伝えておきます」

 時雨が眠る前に「父様に電話を掛ける」と言うので、俺は病室を出た。

 微かに聞こえる時雨の声。

「傷痕が残る事で父様や母様、蓮見に嫌われるなら困るけど、そうならないなら別に良い。」

 微かなのにやけにはっきり聞こえたその言葉に一瞬思考が止まった。

 その程度で俺が時雨を嫌う筈がねぇだろ。

 俺は悔しさのあまり、顔を歪める。
 直ぐに、してはならない表情であったと気付いて周囲に視線を走らせる。
 すると、時雨に用があったらしい二人組の男と目が合った。
 何度か追い返している刑事だ。
 表情管理の為に笑顔を貼り付ける。

「こんにちは、蓮見柊君。
 雪見時雨さんはお目覚めですか」

 げ、名前覚えられてる。
 一瞬、口角がピクリ、と動いたのを自覚する。
 俺もまだまだだなぁ。

「こんにちは、刑事さん。
 えぇ、事情聴取には応えると本人が言いました」
「おぉ、それでは早速……」

 俺がにこやかに伝えると、病室の扉に手を掛けようとする刑事。
 俺はその手を静止する。

「ですが申し訳ありません。
 今日はお引き取り願います。
 時雨は先程目覚めたばかりな上、異性を見ると恐怖で喋れなくなる様で。
 人員を替えて(・・・・・・)後日改めて来て下さいますよう願います」

 仕事熱心なのは分かるが、気が早ぇんだよ。

「そ、それは……配慮が足りませんでしたね。
 ではまた後日」
「えぇ、お待ちしております」

 数歩離れる刑事。
 さっさと消えろ。
 そう思いつつ、ゆるりと頭を下げる。

 それから数日後、二人組の刑事が時雨の病室までやってきた。
 時雨の要望通り、片方は女性の様だ。
 気の強そうな感じも無い事から、俺は女性のみ入室を許可した。
「お待ちしておりました。
 しかし、入室は女性の方のみとさせて頂きます。
 どうぞ付き添いの方(・・・・・・)は俺と此方でお待ち頂くか、病院の外でお待ち頂く事をご理解くださいますよう」


 それから数日間。
 数回に別けて事情聴取は行われ、最終日にUSBチップを渡して貰った。



 そして残り一ヶ月で時雨が退院出来るというタイミングで、兄さんが限界を迎えた。
 いつだって忙しいと言って家に帰る時間は遅い癖に、時雨の寝顔が見れないだけでこうも(やつ)れるとは。
 まぁ、俺としてもそろそろ交代制で仮眠やシャワーを浴びているとは言え、そろそろ蓮見家に帰りたい。
 そう思いつつ、眠る時雨を抱き上げる。
 こうして時雨を抱き上げるのは何度目だろうか。
 そうしてゆっくりと運び始める。
 車に着いた時も慎重に乗せたと言うのに。
 扉を閉める音が聞こえた瞬間。
 時雨は膝の上で大量の汗と息切れ、心臓をバクバクと鳴らして俺の服と首に震えながら(すが)り付いていた。

「大丈夫、何も起きない。
 時雨、大丈夫だから」

 胸がキュッと締め付けられる程に痛々しい時雨に俺は暫く宥める様に頭と背中を撫で、落ち着かせる事しか出来なかった。
 雪見家に着いて、部屋のソファーで一息。
 時雨は俺の膝の上で降りたそうにソワソワしている。
 あんまり動かれると時雨の腹の傷口に響くからおとなしくしていて欲しい。
 自宅療養万歳。
 これで俺は心配する事無く、高等部に通える。
 三ヶ月分の単位に遅れが出てるからな。
 大学への進学の為にも、巻き返しをしなければならないんだ。

「そういえば蓮見」

 腕の中から掛かる幼い声。

「はい」
「生き証人、もう一人居なかった?」

 居たか?

「…………誰の事でしょう」
「あれ、僕の手から逃れたのが一人居た気がするんだけどな」

 いや、そういえば播磨に逃げる奴が居れば雪見に連絡を入れるよう言っていて。
 あの騒動の中で俺は時雨の事に掛かりきりだったけど…………居たのかもな。
 それでも、確証は無いのだから今言う事では無い。

「気のせいでは無いですか?」
「蓮見は見掛けなかったのか」
「えぇ、きっと気のせいでしょう」

 今必要なのは、時雨の心の安定なのだから。

「蓮見」
「はい」
「降ろして」
「…………御嫌ですか?」
「嫌と言うか、うぅ……」

 恥ずかしそうに俺のの耳に触れる時雨。
 その耳はつい最近空けたばかりで若干痛むんだが。
 その少し痛む耳に時雨が落としたイヤリングをピアスにしてはめてる俺も俺だけど。
 そうして俺は時雨に恨めしげに見つめられながら、頭を撫でるのだった。