バラの香りがするな、と思って目が覚めた。バラなんか俺の部屋にはないはずだ。いや、それだけじゃない。目を開くと、いつもの薄汚れた石膏ボードの天井ではなく、絹のベールのような美しい生地で作られた蚊帳が見える。

 なんだこりゃ?ここはいつも見慣れた、ぼろアパートの部屋じゃないぞ。これはまるで映画に出てくるような、王侯貴族の豪華な部屋じゃないか! 驚いて思わずがばっと上半身を起こすと部屋中を見回した。そんな俺の姿にハッと気づいたのか、メイド服を着た侍女と思しき女性が、緊張で引きつった顔のまま、慌てたように部屋を飛び出して行った。誰かを呼びに行ったに違いない。

 それにしても、何が起きたのだろうか。転生。すぐにその言葉が頭をよぎった。アニメ好きの俺は、最近やたらに流行している「異世界転生アニメ」というのをよく見ていたから、もしかしたら、転生なのかも知れないと思った。転生のよくあるパターンとしては、主人公が何らかの事故にあって死亡してしまい、別の世界で新たな生を授かる、というストーリーだ。

 しかし自分は昨日の晩、普通に眠っただけだ。トラックに轢かれたこともなければ、通り魔に刺されたこともない。眠っているうちに突然心臓でも止まったのか?仮に転生したとして、いったい俺は何になったのだろう。この部屋の絢爛豪華な装飾品の数々から言えば、中世の、どこかの貴族にでも生まれ変わったのだろうか?

 ベッドの横に鏡があった。俺は鏡を覗き込んで驚いた。そこに映っていたのは、いつも見慣れた中年男の俺じゃない。若くて、しかも、そこそこ美形の男だった。誰だこいつは?

 ・・・とはいえ、確かに俺はここにいる。俺が頭を掻けば、鏡の中の男も頭を掻く・・・ということは、俺は異世界の人物と意識が入れ替わってしまったのか! 意識が入れ替わるというのは転生なのか、転移なのか。よくわからんが、とにかくそういうことだ。

 しばらくすると、石造りの廊下を響き渡る喧騒とともに、数人の男と女が部屋に駆け込んできた。その中の、最も身分の高そうな身なりをした若者が話しかけてきた。

「おお、これはこれは国王陛下。意識を取り戻されたのですか? いやまあ、心配しました。ご気分はいかがですか、お体はどんな具合ですか、痛いところはございませんか」

 驚いたことに、俺はどこかの国の国王に転生したらしい。

「お兄様、大丈夫ですの? 言葉は話せますかしら」

 どうやら妹のようだ。年は十六、七歳といったところか。かなりの美少女である。それにしても困った状況になった。まさか「私は本物の国王ではなく、異世界から意識だけ転生してきた別の人物です」などとは口が裂けても言えない。頭が混乱した俺は思わずマヌケな発言をしてしまった。

「ここはどこだ? ・・・わたしは誰なんだ?」

 相手の表情を確認するまでもなく、その場の空気が一瞬で凍り付いたことを肌で感じ取った。それはそうだろう、一国の国王が記憶をなくしたとなると、一大事である。医者らしい男が俺の脈を取りながら言った。

「う~む、これは毒の影響による記憶喪失かも知れませんな」

 それを聞いた若い男と妹らしき人物は、すっかり取り乱している。

「こ、国王陛下、しっかりなさってください」

「お兄様、わたくしの顔がわかりませんの?」

 二人を落ち着かせるために、医者が冷静な口調でゆっくりと言った。

「記憶喪失と言っても一時的なものかも知れません。まだ意識が戻られたばかりなのですから、あまり心配されない方がよろしいかと。今は、陛下の命が助かったことを素直に喜ぶべきでしょう」

 若い男が大きく頷いて言った。

「お医者様の言う通りです。毒に侵されて五日間も意識がなかったのです。生きておられるだけでも奇跡と言えましょう。きっと記憶は数日もすれば元に戻ります」

「そうですわ、見たところ元気そうに見えますから、すぐ元に戻りますとも」

 俺は思った。そうだ、このまま記憶喪失ということにしておけば、この場を何とか切り抜けられるに違いない。記憶喪失なら今後の俺の言動に違和感があったとしても、納得してくれるだろう。

 若い男が俺に言った。

「ところで、五日間も何も口にしておられないのですから、空腹ではございませんか。もしよろしければ、お腹に差しさわりのない軽い食事をお持ちしましょう」

「それはありがとうございます、よろしくお願いします・・・」

 俺の言葉を聞いたその若い男は少し戸惑いの表情を見せたが、すぐに侍女たちに命じて食事の準備をはじめた。

 侍女たちがベッドの横に急ごしらえで用意してくれた食卓で朝食を食べながら考えた。ここがどこなのか、俺は誰なのか、さっぱりわからない。このまま俺は記憶喪失の国王だということにして、若い男からこの世界について話を聞いてみよう。

「いろいろとお話を聞かせて頂けませんか・・・。もしかすると、お話を伺っているうちに何か思い出すかも知れません。申し訳ありませんが、まず、その・・・私が誰なのかをお教えいただけますか」

 若い男は俺を見ながら、病人をいたわるような優しい口調で言った。

「陛下、もっとリラックスなさってください。何も覚えておられなくとも、私ども家臣に気を使うことはございません。あなた様は国王です。もっと国王らしい口調でお話しくださって結構です」

 そうか、どんな事情があるにせよ、自分は国王になったのだから、それなりの口調で話さないと、かえって不自然になってしまう。偉そうに喋る必要があるな。ここは国王になりきるしかない。

「・・・そうか、それなら、まずは私が何者なのか教えて欲しい」

「あなたはアルカナ王国の国王、アルフレッド・グレン様でいらっしゃいます。そして、私はミック・エルマンと申します。総務大臣をしております。また陛下の秘書やアドバイザーとしての役割を担っております」

 俺は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。俺はミックという男にたずねた。

「私は・・・病気だったのか?五日間も意識が無かった、と医者が言っていたようだが、かなりの重病なのか」

 ミックは警戒するようにあたりを見回すと、顔を近づけて小声で答えた。

「病気ではないと思います。おそらく毒を盛られたのです。陛下は五日前の朝食を召し上がられている最中に、腰掛けておられた椅子から突然崩れ落ちました。そのまま意識を失いました。毒殺を疑い、すぐに厨房を探しましたが、疑わしい料理人はすでに逃走しておりました。その後、料理人の捜索を行ったのですが、翌日、港で溺死体となって発見されました。そのため真相はわからないままで、毒も見つかっていません」

「毒殺か、・・・恐ろしいな」

「恐ろしいことです。ですが、毒殺未遂の確たる証拠はありませんし、無用な騒ぎを起こすことは得策ではありませんので、対外的にはご病気であるとしております」

 俺は少し不安になった。命を狙われているらしいからだ。

「毒殺されるような理由があるのだろうか」

「アルカナ国は、まだ政治的に不安定な状況にあります。と申しますのも、二年前に先王であらせられたウルフガル様がご病気で急逝され、アルフレッド様が後を継いでご即位されてから、まだ一年ほどしか経っていないからです。そのため、国内にアルフレッド様のご即位を歓迎しない貴族や、この機会に王国の転覆を図ろうとする輩がおる可能性も排除しきれないのです」

「気の抜けない状況だな。王国と貴族はどんな関係にあるんだ?」

「アルカナ国の貴族は、それぞれに町や村を支配しております。貴族は王国に忠誠を誓う代わりに、王国は貴族たちに庇護を与えております。貴族は兵を有しており、なかには王国に匹敵するほどの力を持つ者もおりますので、頼りにはなりますが、逆に言えば油断はなりません」

「ところで、アルカナ国は繁栄しているのか」

 ミックは少し考え込んだ。本当の事を言うべきか悩んでいたようだ。

「正直に申し上げますと、近年の我が国の国力は低下しております。他国に比べて弱体化しつつあります。財政的にも多くの負債を抱えております。しかも、長年の宿敵であるトカゲ族の覇権国家が近年勢力を増しており、戦争のリスクも高まりつつあります。とはいえ国力を回復するための根本的な解決策も見つからず、アルカナはかなり厳しい状況に追い込まれていると言えます」

 これはまずいぞ。国内外がそんなに酷い状況なら、クーデターが発生して国王が処刑されたり、外国との戦争に負けて国王が戦死する事態も十分にあり得る。せっかく国王に転生したってのに、酒池肉林の甘い生活どころか、いきなりミンチにされちまいそうだ。