エニマ国の王都に近づくと、一面に広がる小麦畑が現れた。エニマ川の下流域に広がる大穀倉地帯である。この地域で生産される豊かな農産物により、エニマ国の人口は順調に増加しており、近年はアルカナを凌ぐ国力をもっている。ただし夏になるとエニマ川はしばしば氾濫を起こし、付近の畑や家屋を押し流してしまうことが悩みの種である。
ミックはレイラのご機嫌を取ることを諦めたようだ。しばらく無言のまま馬車に揺られていたが、ふと思い出したように俺に言った。
「国王様、エニマ国内で我が国に対する不信の声が広がっているそうでございます。なんでも、エニマ川から水を引き入れる工事の影響でエニマ川の水が枯れ、農地が干上がってしまうとの噂があるとか。酷い話になりますと、アルカナ国がエニマ国を弱体化するために、エニマ川の水を奪うことを目論んでいるとの陰謀論まであるそうです」
「それは困ったものだ。エニマ川の水の一部分を分けてもらうだけなのだから、エニマ側に深刻な影響はないはずなんだがな。しかし、そのような間違った噂をこのまま放置すれば、両国関係が危機的な状況に陥る危険性もあるな」
「それにしても、そもそもエニマ川の上流域はアルカナの領地なのですから、我々にもエニマ川の水を利用する権利はあるはずです。とはいえ、彼らにとってエニマ川の水を取られるのは心情的に良くないのでしょう」
エニマ国の王都エニマライズは、エニマ川の氾濫を避けるために河口の平野を見下ろす丘陵に作られている。馬車は石畳のゆるやかな坂道をのぼり、王都に入った。エニマ国はアルカナと違って木材資源が豊かなため、木造の建物が多い。いかにも中世ヨーロッパ風の街並みが続く。
街のところどころに、赤地に獅子の姿をあしらった旗が見られる。
「ミック、あの赤い旗はエニマ国の国旗なのか?」
「いえ、そうではありません。メグマール帝国を意味する旗です」
「メグマール帝国?そんな国があるのか」
「ございません。しかしエニマ国内では近年、エニマ国を宗主国とする、メグマール地方の四か国を統一した大帝国の建国を希求する者たちが増えているとのことでございます。おそらく、それらの支持者が勝手に旗を作り、掲げているのではないかと思われます」
「ハロルド国王は黙って見過ごしているのか」
「わかりません。しかし近年エニマ国が力を増すにつれて、メグマール地方の統一国家樹立に賛同する貴族や民衆は着実に増えており、そうした声を強権的に封じれば、国内情勢が不安定化する恐れもあるのでしょう」
力を増せば他者を支配しようとする欲望が生まれる。そして侵略戦争。今も昔も人間の行動パターンは何も変わらないのだ。
馬車は王都エニマライズの大通りを北へ進み、まもなく城に到着した。
一行は謁見の間に入った。ハロルド国王が玉座に座り、家臣達がその左右に控えて待っている。マルコム皇太子も同席しているようだ。アルカナ国に関する良からぬ噂が流れているせいか、大臣たちの目には疑念の色が見て取れる。俺はゆっくりハロルド国王の前に進み出ると、うやうやしくお辞儀をした。
「これはハロルド国王陛下、お初にお目にかかります。わたくしはアルカナ国の国王、アルフレッド・グレンでございます。亡き父、ウルフガルには懇意にしていただいたと聞いております。父に代わり厚く御礼申し上げます。この度は拝謁を賜り、恐悦至極に存じます。よろしくお見知りおきください」
ハロルド国王は、にこやかな表情で言った。
「アルフレッド殿、どうぞ面を上げられよ。わがエニマとアルカナは長年にわたり親密な関係にあり、アルカナは我が国の最も大切な友人である。先王のウルフガルが他界されたことは、まことに悲しい出来事であった。しかしアルフレッド殿のような若くて聡明な王が即位され、アルカナも安泰であろう。それにしても、アルフレッド殿が病で倒れられたとの噂を聞き心配しておったのだが、もうお身体は大丈夫なのか」
「はい、お陰様で以前にもまして力がみなぎっております。ところで本日は、国王様にお願いがあって参りました」
ハロルド国王の表情が厳しくなった。家臣たちも耳を澄ませている。ハロルド国王が低いトーンでゆっくりと言った。
「家臣からすでに話は聞いておるが、エニマ川の河川工事の件であろう」
「左様でございます。我が国は食料が不足しており、国民の生活が苦しいばかりでなく、食べるもののない貧民が王都のスラムに大勢おります。王国の農場は広大ですが、水が不足しているために十分な収穫が確保できないのです。そこで我が国の北部を流れるエニマ川から水を引き、食料を増産する計画を立案いたしました。
とはいえ、エニマ川はアルカナ国とエニマ国にまたがって流れておりますので、我々の一存ですべてを決めるのはいささか乱暴だと思いました。そこで河川工事の承諾をハロルド国王からいただきたいと考えております」
「国民を救いたいとのアルフレッド殿のお考えはよく理解できる。しかし貴国がエニマ川から取水することにより我が国が損害を受けるようでは困るのだ。本当にその心配はないのだろうか」
「ご安心ください。エニマ川の水量は膨大です。そのうち二割程度の水を頂くだけですから大きな問題が生じることはないはずです。またこの計画はエニマ国にも利益をもたらします。それはエニマ川の氾濫を防ぐことです。夏になるとエニマ川の水位が大きく上昇しますが、その際に、アルカナ側へ水を流すことで氾濫を防ぐことができるのです」
ハロルド国王は腕を組んだ。
「なるほど、我が国もエニマ川の氾濫には手を焼いているからな」
「もちろんこの計画を了承いただけるのであれば、我が国はその恩を末代まで忘れることはございません。貴国が困難に直面した際には、必ずや、我がアルカナ国が万難を排して駆け付けます。なにとぞお願い申し上げます」
その場の雰囲気が了承に傾いてきたと感じられたその時、皇太子のマルコム王子が言った。
「お待ちください父上。アルカナ国王のたっての願いとはいえ、エニマ川は我が国の生命線ともいえる重要な河川です。エニマ川の上流に水門を作られてしまえば、アルカナ国に我が国の命運を握られてしまうようなもの。失礼ながらアルフレッド殿が国王に成られてから日も浅く、そこまで信用して良いのでしょうか」
その場がざわつき始めた。多くの家臣たちに迷いがあるようだ。ハロルド国王はしばらく黙って広間を見渡していたが、ふとルミアナに目が留まったようだ。
「おお、そこの者。そなたは、もしやエルフではないか。エルフ族の話を聞いたことはあるが、これまで本物のエルフに会ったことはない。もう少し近くに来てはくれぬか」
ルミアナが目で俺に了解を求めてきたので頷いた。ルミアナは俺の隣に進み出ると、ハロルド国王にひざまずいた。
「お目にかかり光栄に存じます。いかにも、わたくしはエルフ族の女、名前をルミアナと申します。縁あってアルフレッド国王にお仕えしております」
ハロルド国王は玉座から身を乗り出し興奮気味に言った。
「おお、やはりエルフであったか。すばらしい、伝説の話ではなく本当に実在していたのだな。なるほど噂にたがわぬ美しい容姿だ。エルフの国というのはあるのか」
「はい。ここからはるか西にございます。アルカナ王国の西にはロマラン王国があり、その北西にはザルトバイン帝国がございます。そのザルトバイン帝国からさらに西に幾つか国を超えたところにございます」
「なんと遠い所よのう。ところでエルフ族は弓の名手であり、人間にはない様々な特殊能力や知識を持つという。そして人格的にも高貴であり、プライドが高く、人間に仕えるようなことはないと聞く。そのエルフがなぜアルフレッド殿に仕えておるのだ」
「ある出来事がきっかけでございます。私は長いこと冒険者として世界各地を旅しておりました。そして最近アルカナ国に立ち寄ったのでございます。その折、アルカナ国のスラムの人々が飢えに苦しむ様を見かねて、市場で食料を盗んではスラムの子供たちに配っていたのでございます。それがある時、ついに王国の兵士にばれてしまい、取り押さえられたのです。偶然そこを通りかかったアルフレッド王は、そうした私の行いを許して下さいました。お前が悪いのではなく、貧しい我が国が悪いのだと頭を下げられたのです。
このような王を見たのは、私の長い人生において初めてのことでした。そしてアルフレッド王から、この国を誰も飢えで苦しむことのない幸福な国に変えたいのだと聞かされ、力を貸してほしいと頼まれたのです。その時に私は誓ったのです、この王を支え、誰も飢えることのない幸福な国を実現すると」
確かに事実かも知れないが、ここまで歯が浮くような美談として語られると、俺は内心かなり恥ずかしくなった。つい反射的に頭を掻きそうになったが必死にこらえた。
「そうか、アルフレッド殿はそこまで決心されておられるのか」
しばらく間をおいて、ハロルド国王が俺に言った。
「分かった、エルフの心をここまで掴んだそなたに、嘘偽りはあるまい。エニマ川からの取水を許そう。ただしエニマ川の水量が減って我が国に損害が生じないよう、十分に配慮していただきたい。それと、氾濫対策も頼みますぞ」
「ありがとうございます。この命に代えて、お約束いたします」
俺はハロルド国王に丁重にお礼の言葉を述べると城を後にした。
ミックはレイラのご機嫌を取ることを諦めたようだ。しばらく無言のまま馬車に揺られていたが、ふと思い出したように俺に言った。
「国王様、エニマ国内で我が国に対する不信の声が広がっているそうでございます。なんでも、エニマ川から水を引き入れる工事の影響でエニマ川の水が枯れ、農地が干上がってしまうとの噂があるとか。酷い話になりますと、アルカナ国がエニマ国を弱体化するために、エニマ川の水を奪うことを目論んでいるとの陰謀論まであるそうです」
「それは困ったものだ。エニマ川の水の一部分を分けてもらうだけなのだから、エニマ側に深刻な影響はないはずなんだがな。しかし、そのような間違った噂をこのまま放置すれば、両国関係が危機的な状況に陥る危険性もあるな」
「それにしても、そもそもエニマ川の上流域はアルカナの領地なのですから、我々にもエニマ川の水を利用する権利はあるはずです。とはいえ、彼らにとってエニマ川の水を取られるのは心情的に良くないのでしょう」
エニマ国の王都エニマライズは、エニマ川の氾濫を避けるために河口の平野を見下ろす丘陵に作られている。馬車は石畳のゆるやかな坂道をのぼり、王都に入った。エニマ国はアルカナと違って木材資源が豊かなため、木造の建物が多い。いかにも中世ヨーロッパ風の街並みが続く。
街のところどころに、赤地に獅子の姿をあしらった旗が見られる。
「ミック、あの赤い旗はエニマ国の国旗なのか?」
「いえ、そうではありません。メグマール帝国を意味する旗です」
「メグマール帝国?そんな国があるのか」
「ございません。しかしエニマ国内では近年、エニマ国を宗主国とする、メグマール地方の四か国を統一した大帝国の建国を希求する者たちが増えているとのことでございます。おそらく、それらの支持者が勝手に旗を作り、掲げているのではないかと思われます」
「ハロルド国王は黙って見過ごしているのか」
「わかりません。しかし近年エニマ国が力を増すにつれて、メグマール地方の統一国家樹立に賛同する貴族や民衆は着実に増えており、そうした声を強権的に封じれば、国内情勢が不安定化する恐れもあるのでしょう」
力を増せば他者を支配しようとする欲望が生まれる。そして侵略戦争。今も昔も人間の行動パターンは何も変わらないのだ。
馬車は王都エニマライズの大通りを北へ進み、まもなく城に到着した。
一行は謁見の間に入った。ハロルド国王が玉座に座り、家臣達がその左右に控えて待っている。マルコム皇太子も同席しているようだ。アルカナ国に関する良からぬ噂が流れているせいか、大臣たちの目には疑念の色が見て取れる。俺はゆっくりハロルド国王の前に進み出ると、うやうやしくお辞儀をした。
「これはハロルド国王陛下、お初にお目にかかります。わたくしはアルカナ国の国王、アルフレッド・グレンでございます。亡き父、ウルフガルには懇意にしていただいたと聞いております。父に代わり厚く御礼申し上げます。この度は拝謁を賜り、恐悦至極に存じます。よろしくお見知りおきください」
ハロルド国王は、にこやかな表情で言った。
「アルフレッド殿、どうぞ面を上げられよ。わがエニマとアルカナは長年にわたり親密な関係にあり、アルカナは我が国の最も大切な友人である。先王のウルフガルが他界されたことは、まことに悲しい出来事であった。しかしアルフレッド殿のような若くて聡明な王が即位され、アルカナも安泰であろう。それにしても、アルフレッド殿が病で倒れられたとの噂を聞き心配しておったのだが、もうお身体は大丈夫なのか」
「はい、お陰様で以前にもまして力がみなぎっております。ところで本日は、国王様にお願いがあって参りました」
ハロルド国王の表情が厳しくなった。家臣たちも耳を澄ませている。ハロルド国王が低いトーンでゆっくりと言った。
「家臣からすでに話は聞いておるが、エニマ川の河川工事の件であろう」
「左様でございます。我が国は食料が不足しており、国民の生活が苦しいばかりでなく、食べるもののない貧民が王都のスラムに大勢おります。王国の農場は広大ですが、水が不足しているために十分な収穫が確保できないのです。そこで我が国の北部を流れるエニマ川から水を引き、食料を増産する計画を立案いたしました。
とはいえ、エニマ川はアルカナ国とエニマ国にまたがって流れておりますので、我々の一存ですべてを決めるのはいささか乱暴だと思いました。そこで河川工事の承諾をハロルド国王からいただきたいと考えております」
「国民を救いたいとのアルフレッド殿のお考えはよく理解できる。しかし貴国がエニマ川から取水することにより我が国が損害を受けるようでは困るのだ。本当にその心配はないのだろうか」
「ご安心ください。エニマ川の水量は膨大です。そのうち二割程度の水を頂くだけですから大きな問題が生じることはないはずです。またこの計画はエニマ国にも利益をもたらします。それはエニマ川の氾濫を防ぐことです。夏になるとエニマ川の水位が大きく上昇しますが、その際に、アルカナ側へ水を流すことで氾濫を防ぐことができるのです」
ハロルド国王は腕を組んだ。
「なるほど、我が国もエニマ川の氾濫には手を焼いているからな」
「もちろんこの計画を了承いただけるのであれば、我が国はその恩を末代まで忘れることはございません。貴国が困難に直面した際には、必ずや、我がアルカナ国が万難を排して駆け付けます。なにとぞお願い申し上げます」
その場の雰囲気が了承に傾いてきたと感じられたその時、皇太子のマルコム王子が言った。
「お待ちください父上。アルカナ国王のたっての願いとはいえ、エニマ川は我が国の生命線ともいえる重要な河川です。エニマ川の上流に水門を作られてしまえば、アルカナ国に我が国の命運を握られてしまうようなもの。失礼ながらアルフレッド殿が国王に成られてから日も浅く、そこまで信用して良いのでしょうか」
その場がざわつき始めた。多くの家臣たちに迷いがあるようだ。ハロルド国王はしばらく黙って広間を見渡していたが、ふとルミアナに目が留まったようだ。
「おお、そこの者。そなたは、もしやエルフではないか。エルフ族の話を聞いたことはあるが、これまで本物のエルフに会ったことはない。もう少し近くに来てはくれぬか」
ルミアナが目で俺に了解を求めてきたので頷いた。ルミアナは俺の隣に進み出ると、ハロルド国王にひざまずいた。
「お目にかかり光栄に存じます。いかにも、わたくしはエルフ族の女、名前をルミアナと申します。縁あってアルフレッド国王にお仕えしております」
ハロルド国王は玉座から身を乗り出し興奮気味に言った。
「おお、やはりエルフであったか。すばらしい、伝説の話ではなく本当に実在していたのだな。なるほど噂にたがわぬ美しい容姿だ。エルフの国というのはあるのか」
「はい。ここからはるか西にございます。アルカナ王国の西にはロマラン王国があり、その北西にはザルトバイン帝国がございます。そのザルトバイン帝国からさらに西に幾つか国を超えたところにございます」
「なんと遠い所よのう。ところでエルフ族は弓の名手であり、人間にはない様々な特殊能力や知識を持つという。そして人格的にも高貴であり、プライドが高く、人間に仕えるようなことはないと聞く。そのエルフがなぜアルフレッド殿に仕えておるのだ」
「ある出来事がきっかけでございます。私は長いこと冒険者として世界各地を旅しておりました。そして最近アルカナ国に立ち寄ったのでございます。その折、アルカナ国のスラムの人々が飢えに苦しむ様を見かねて、市場で食料を盗んではスラムの子供たちに配っていたのでございます。それがある時、ついに王国の兵士にばれてしまい、取り押さえられたのです。偶然そこを通りかかったアルフレッド王は、そうした私の行いを許して下さいました。お前が悪いのではなく、貧しい我が国が悪いのだと頭を下げられたのです。
このような王を見たのは、私の長い人生において初めてのことでした。そしてアルフレッド王から、この国を誰も飢えで苦しむことのない幸福な国に変えたいのだと聞かされ、力を貸してほしいと頼まれたのです。その時に私は誓ったのです、この王を支え、誰も飢えることのない幸福な国を実現すると」
確かに事実かも知れないが、ここまで歯が浮くような美談として語られると、俺は内心かなり恥ずかしくなった。つい反射的に頭を掻きそうになったが必死にこらえた。
「そうか、アルフレッド殿はそこまで決心されておられるのか」
しばらく間をおいて、ハロルド国王が俺に言った。
「分かった、エルフの心をここまで掴んだそなたに、嘘偽りはあるまい。エニマ川からの取水を許そう。ただしエニマ川の水量が減って我が国に損害が生じないよう、十分に配慮していただきたい。それと、氾濫対策も頼みますぞ」
「ありがとうございます。この命に代えて、お約束いたします」
俺はハロルド国王に丁重にお礼の言葉を述べると城を後にした。