街へ戻ると今度は南の地区へ向かった。大通りをしばらく行くと港が見えてきた。港は石造りの城壁に囲まれている。海につながる港の出入り口には両側に塔が立ち、海からの外敵の侵入に備えている。港は石積みの岸壁で作られ、かなりの広さだが、停泊している船は小型の帆船が五、六隻見られるだけで数は少なく、港に活気が感じられない。経済が停滞しているためか、海上交易はあまり盛んでなさそうだ。
海の向こう、南の方角には遠くに山々が連なっている様子がみえる。あれがミックの言っていた王都の南にある山脈だな。確かに東西に長く連なっており、海から流れてくる雨雲は山の向こう側に雨を降らせるだけで、こちらに雨をもたらすことはないのだろう。
雲一つなく晴れた秋の青空を背景に山々が生える雄大な景色を見ていると、久しく感じたことのなかった、すがすがしさが心を満たした。
しかし、そんな爽快な気分は長続きしなかった。海に近づくと嫌なにおいがしてきたからだ。潮の香りというのは強烈なものだが、このにおいはそれだけではない。海面を良く見ると、どこかで見覚えのある茶色っぽい棒状の物体が一面に浮かんで波に揺られている。
「ミック、あの海面に浮かんでいるものは、なんだ?」
「陛下、あれは・・・ウンチでございますな」
「は?」
「ですから、ウンチ・・・」
「やっぱり、あれはウンチなのか。なぜ港がウンチだらけなんだ?」
「なぜと申されましても、汚物を海に捨てるのはあたりまえです。このあたりの住人は汚物を海に捨てるので、まだマシなほうですが、街の北の方へ行くと捨て場がなくて、道端に山積みになっております」
まじかよ。そういえば思い出した。この異世界は中世時代である。中世ヨーロッパの都市ではトイレで用を足すのではなく、おまるや手桶のようなものの中に用を足し、それを川に流したり、そのあたりに無造作に捨てていたという。酷い場合は、窓から投げ捨てることもあったらしい。貴族の集まる華やかな宮殿も、庭は例のモノで溢れていたという。俺も城で何気なく用を足していたが、あれも使用人がどこかに捨てているんだろう。
「城でも汚物は海まで運んで捨てているのか?」
「いえいえ、城の裏庭にある『穴』に捨てております」
「城の裏庭に穴があるのか」
「はい。ちょうどうまい具合に、石で囲まれた深い穴があいておりまして、面倒なので城中の汚物はすべてそこへ捨てております。もう何十年も毎日のように汚物を捨てておりますが、埋まってしまう気配が無いところをみると、相当に深い穴だと思われます」
なんだそりゃ、ん? 古城の裏庭にある石で囲まれた深い穴って・・・。
「もしかして、その穴は地下ダンジョンの入り口じゃないのか?」
「はあ、アルカは数百年も続く古い都市ですから、城の地下に巨大なダンジョンがあっても不思議はありません。ダンジョンの入り口かも知れませんが、誰も穴の中に入って確認したものはおりませんので、なんとも・・・」
そりゃあ、毎日ウンチを捨てている穴に入って確認するほど勇気のある奴なんかいるわけない。それにしても、いくら海まで捨てに行くのが面倒だからって、城中のウンチを毎日ダンジョンに捨てるなんてまずいだろ。
もしそこが、いにしえの地下墓地だったらどうするんだ。間違いなく古代の霊魂に呪われるな。尻が腫れるだろ。いや、近年のアルカナの干ばつは、地下墓地をウンチで冒涜していることが原因かも知れないぞ。それに、ダンジョンを満たす禍々しい霊気の影響で、捨てられた膨大なウンチが一体化して、巨大モンスターに生まれ変わったらどうするんだ。放送禁止モンスター「ウンチ・スライム」の誕生だ。
王都アルカでは食べる方の確保も問題だが、出す方の処理も問題だ。出す方を放置すれば不快なだけではなく、伝染病が流行して大変なことになるかも知れない。気兼ねなく出すことができるようにすることも王国の課題の一つだろう。
ところで汚物問題を中世ファンタジー系のアニメでは決して描かない。そりゃあ、それをリアルな絵にすると視聴者からクレームが殺到すること間違いなしだからな。それにしても、なぜこの異世界だけ「汚物問題が異常にリアル」なんだろう。誰かの趣味か。
驚愕の王都視察を終えた俺は城へ戻って夕食を取った。幸いなことに出された食事にイモムシは入っていなかった。もっとも、ミートボールのような料理になってしまえば、何の肉かわからない。見た目がイモムシそのものでなければ大丈夫だろう。
ようやく一人になって寝室に戻るとソファに座り、スイカのジュースを飲みながら一息ついた。アルカナはきれいな水が確保できないため、飲み水の代わりにスイカのジュースを良く飲む。スイカは乾燥に強いのでたくさん獲れるらしい。
考えてみると怒涛のように数日が過ぎ去った。実に不思議な気分だった。コンビニのバイトで生きながらえてきたワーキングプアの俺が、今やなんとアルカナ国の国王アルフレッドという立場なのである。日頃からロールプレイングゲームに興じてきた俺にとって、誰かの役を演じることは慣れているから大きな違和感はない。ただし「中身が本物の国王じゃない」とバレることが心配である。
ところで、よくある異世界転生アニメでは、まるでゲームよろしく呪文を唱えるだけで自分のレベルやステータスが目の前に現れて確認できたりする。そういう便利機能がこの異世界にはないのだろうか。ダメ元で試してみることにした。
俺は人差し指をゆっくり体の前に突き出すと大声で叫んでみた。
「ステータス オープン」
やっぱり何も表示されなかった。が、その代わり、突き出した指の向こうからキャサリンが現れた。
「お兄様、何をおかしな事を言っているの?まだ頭に毒気が残っているのかしら」
「うわわ、他人の部屋に入るときはノックしろと教わらなかったのか」
「これはサプライズですわ。毎日の生活に適度な刺激は必要だと思うの」
すでにサプライズ過剰だろ。もっと刺激を減らしてほしいんだけど。
転生アニメと言えば、美しい女神さまから特殊能力やチート武器を授かったりするものだが、この異世界では女神様なんか全然出てこない。しかも今のところ授かったものと言えば、目の前にいるS属性の妹だけである。
「ところでキャサリンは何しに来たんだい」
「わたくしはお兄様が心配だから様子を見にきただけですわ。命を狙われたばかりなんですから、用心しなきゃいけないの。それにお部屋に不審者が侵入しないとも限りませんわ」
いや、すでにキャサリンという名前の不審者が俺の目の前にいるんだが。俺はため息をつきながら呆れ顔で言った。
「誰もこの部屋に侵入できるわけないだろ、ここをどこだと思ってるんだ、塔の四階だぞ」
と言うや否や、突然、窓からエルフのルミアナが入ってきた。
「すみません、お邪魔します」
「うわわ・・・なんだなんだ、ルミアナがどうしてここへ」
「都合の良い時に王城へ来るよう陛下から言われましたので、早い方がよろしいかと」
「いくらなんでも早すぎるだろ。それに、なんで窓から入ってくるんだ、しかも夜だし」
「あらすみません、つい、いつもの癖で・・・」
「どういう癖なんだよ」
「私は普段、偵察やスパイの仕事を請け負っています。ですから依頼主のお宅にお邪魔するときも、誰にも姿を見られないよう、いつも夜中に窓から忍び込みますので」
完全に不審者である。まあ偵察やスパイと言えば、そもそも不審な仕事なわけで、そういう人材を雇った俺も悪いのだが。
キャサリンがいきりたった。
「まああ、この女エルフはお兄様の様子を偵察しにきたのですわ、危険ですわ」
そういうキャサリンだって、俺が何をしてるのかを偵察しに来たんだろ。この異世界に国王のプライバシーは無いのか。
「わかったわかった、ルミアナには、城の空き部屋を使ってもらうようにミックにお願いするから、今日はそっちで休んでくれ」
「それと、キャサリンはもう寝なさい。夜更かしすると肌が荒れるぞ」
なんとか二人を部屋から追い出すと、もう疲れたので寝ることにした。
今日は王国農場の視察である。アルカナの喫緊の課題は農業生産だ。農業は国民たちの空腹を満たすために必要なだけではない。王国政府の収入の大部分は王国農場から納められる穀物などを売って得られるからだ。江戸時代の年貢米のようなものだ。だから農業生産は国家収入を増やすためにも最重要だ。
さすがに農場は広いため、ミックの勧めで馬を使って視察することになった。もちろん生まれてこのかた俺は馬に乗ったことなどない。しかし転生前の国王が馬術の訓練をしていたおかげなのか、からだが勝手に反応して無事に馬を操ることが出来た。
農場の視察は俺とミック、それに数名の護衛で向かうことにした。エルフのルミアナも同行する。サプライズなキャサリンも俺の隣にいる。俺の行くところは、どこへでも付いてくるつもりらしい。
「お兄様とピクニックに出かけるのは、久しぶりですわ」
「あのなあ、これはピクニックではなくて農場の視察だよ。仕事なんだ」
「そんなの関係ないわ。料理人にお弁当も用意してもらったし」
「お弁当? そのお弁当に・・・イモムシは入ってないだろうな。イモムシは嫌いなんだ」
「まあ、変ですわね。イモムシはお兄様の大好物のはずでしょ? だから、イモムシの丸焼きをいっぱい入れてもらいましたわ。しかも特大サイズの。ほら、ご覧になります?」
弁当箱にはイモムシの姿焼きがびっしり並んでいる。
おい、なんで丸ごと焼くんだよ。見た目がイモムシのまんまじゃないか。しかも特大サイズだし。せめてミンチにしろよミンチに。くそ、料理人め呪ってやる。
「お兄様、好き嫌いはいけませんわ、そんなことだから痩せているのですよ」
「大きなお世話だ・・・それはそうと、頼むからイモムシはキャサリンが食べてくれないか。なぜかと言うと、それはその・・・あれだ、神の啓示だ。俺が夢で見た神の啓示によると、私がイモムシを食べると、ますます痩せてしまうらしいぞ、これは大変だ」
「はあ? 本当ですの? 神様もおかしな啓示をされるのですね。・・・仕方がないですわ、今回はわたくしが食べてあげます。でも、これはお兄様への貸しですからね」
貸しかよ、これはまずいな。最も借りを作ってはいけない奴に借りを作ってしまった。後からどんな要求をされるか、分かったもんじゃないぞ。
北大通を経て北門から城壁の外へ出た。北に向かって真っすぐ伸びた街道の両側に王国農場が広がっている。このあたりの土地は起伏がほとんど無いため、遠くまで見渡すことができる。畑は植林された防風林によって区割りされており、整備も行き届いているようだ。朝日に照らされて馬が農機具を引く様子がところどころに見られる。俺は日差しが眩しくて、額に手を当てながらミックに尋ねた。
「この畑では何が栽培されているんだ」
「多いのは小麦などの穀物です。豆類も作っています。今は小麦の種まきのための準備をしているところです。小麦はこれから冬にかけて種を撒いて春に収穫します。小麦を収穫した後はスイカ、かぼちゃ、ネギなど乾燥に強い野菜を栽培しています」
「ここには灌漑ができるような大きな川は流れていないのか」
「このあたりに灌漑に使えるほど大きな川はありません。夏になると小さな川が北の方角から湧き出して流れてくるのですが、冬になると枯れてしまいますし、水量もあまり多くありません。ですから収穫はお天気次第なのです」
街道をさらにしばらく行くと、周囲の土地に比べて地面が明らかに窪んでいる場所に行き当たった。このあたりの地形はあまり起伏がない平地なのに、なぜここだけ不自然に地面が窪んでいるのだろう。立ち止まって見渡すと、窪みは谷のように長く南北に伸びており、南は海の方へ向かっている。もしかすると、これは川の跡だろうか。ミックに尋ねてみた。
「この低くなっているところは、川の跡なのか」
「先ほど夏になると水が流れ出すという話をしましたが、それがこのあたりです。しかし冬になると枯れてしまいますし、なにせ細い川なものですからあまり役に立ちません」
夏だけ細い川が現れるのか。細い川にしては谷の幅がずいぶんと広い。向こうの土手までゆうに百メートルはあるだろう。
「ここには昔、もっと大きな川が流れていた、という記録はないのか」
「そうですね、かなり昔にもっと大きな川が流れていたという話はあります。あくまで住民に伝わる話らしいので、真偽はわかりませんが」
もしかすると昔はもっと大きな川が流れていて、王都に十分な量の水が供給されていたのかも知れない。興味が湧いてきたので、この川の跡を北に向かって遡ることにした。川筋に沿ってしばらく行くと王国農場は終わり、明るい林に出た。
林と言っても雨が少ないためか背の高い大きな木はなく、横に枝を広げた低木があちこちに生えている程度である。木々の密度がそれほど高くないため、十分な日差しが地面に降り注ぎ、生い茂った草花が穏やかな風にそよいでいる。馬に揺られて川の跡をどこまでも北へ向かって遡る。空は青く快晴で、のどかな気分である。
昼時になったので馬から降りて食事をすることになった。キャサリンはピクニック気分全開で鼻歌を歌いながら歩き回り、倒れて横になった太い倒木を見つけると腰掛けた。
「お兄様、ここがいいわ。私の横にお座りになって。さあ」
「・・・私はここでいいよ」
「なによ、せっかくいい場所を見つけてあげたのに。はいこれ、燻製肉とパン。いまから飲み物をさしあげますわね。自然の中でお弁当をたべるのはいい気分ですわ」
自然の中で食事をするなど何年ぶりだろうか、確かに気分はいい。小鳥のさえずりがそよ風に乗って聞こえてくる。パンは固くてあまり美味しくないが、粗食に慣れているので気にならない。
キャサリンが突然立ち上がると叫んだ。
「うわ、クモがいるわ、クモ。気持ち悪いわね。あっちへ行きなさいよ」
キャサリンが腰掛けていた太い倒木の上を、足を広げると十センチほどもある大きいクモがゆっくりと這っている。手で追い払っても動じないようだ。
「ははは、イモムシは平気で食べるくせに、クモはだめなのかい」
「なによ、気持ち悪いものは気持ち悪いの。お兄様だってイモムシはだめなんでしょ。変なこと言うと食事にイモムシを入れるわよ」
しばらくは、イモムシで攻められそうだ。
手で追い払ってもクモが一向に逃げ出さないことに苛立ったキャサリンは、ぎこちない手つきで腰から剣を引き抜くと、倒木をバンバン叩き始めた。
「ちょっとどきなさいよ、じゃまなの、気持ち悪いの。潰すわよ」
おそらく倒木は半分腐っていたのであろう。剣で激しく叩くうちに、突然、木の幹が崩れて真ん中にぽっかりと大きな穴が開いた。開いた穴からは、無数の子クモがわらわらと飛び出し、糸を出しながらキャサリンに飛びかかってきた。どうやら子クモたちは、巣を壊されて怒っているようだ。
「きゃあああ、いや、なにこれ、お兄様助けて」
「うわ、こっちに来るんじゃない」
二人とも無数の子クモにまとわりつかれ、頭と言わず顔と言わず、体中にねばねばしたクモの糸がからみつく。大騒ぎの末になんとかクモを追い払ったものの、全身べたべたで気持ちが悪い。
「うええ、ひどいですわ。お兄様のせいよ」
再び馬に乗ると、さらに枯れ川の上流を目指した。すでに日は傾き、あたりが薄暗くなり始めた。ミックの見立てによれば、川の上流に達するまでに数日を要するとのことだ。今日はこのあたりでキャンプを張ることにした。
一行がキャンプの準備を始めると、ルミアナが異変に気が付いた。何者かがこちらへ近づいてくるようだ。ルミアナは素早くポーションを取り出すと、隠密の呪文を念じて姿を消し、少し離れたところからあたりの様子をうかがった。
ややおいて、ゆっくりと林の中から武装した盗賊の一団が姿を現した。三十人は居るだろうか、かなりの人数である。護衛たちが慌てふためいて剣を抜き、身構えた。
ミックがおびえながら言った。
「あ、あなたたちは何者ですか。ここはアルカナ国王、アルフレッド様のキャンプですよ。手を出せばタダでは済まされません。すぐに立ち去りなさい」
盗賊たちにひるむ様子は見られない。ニヤニヤと笑いながら近づいてくる。
「ああそうかい、別に俺たちにとってはあんたらが誰だろうと関係ない。それに、どうせお前らは全員死んじまうんだから、誰かに俺たちの素性がバレる心配もないってわけだ、へへへ」
じりじりと盗賊が間合いを詰めてくる。ルミアナは姿を消したまま素早く盗賊の背後の林に回り込み、彼らの風上に生えている木の陰に隠れた。そして素早くポーションバックから一つの小瓶を取り出すとあたりに振り撒き、<恐怖幻覚(テラー・ビジョン)>の魔法を唱えた。中身はすぐに揮発してガスが発生し、風に乗って盗賊たちの方へと流れていった。
「う、何だ?」
「おかしな臭いがするぞ、何の臭いだ」
「気持ちが悪い」
やがて、夕闇に包まれた林の中から、しわがれた不気味な声が聞こえてきた。ルミアナが声色を変えて藪の中から語りかけているのである。
「・・・血を捧げよ、我に血を捧げよ、お前たちの血を我に捧げるのだ」
盗賊の一人が、周囲を見回しながら青ざめて言った。
「そこに居るのは誰だ、何者だ」
「我は闇の精霊なり。生贄を求めし者なり。我にお前たちの血を捧げよ。さあはやく」
別の盗賊が不安で取り乱し、うろたえながら剣を抜いて叫んだ。
「で、出てこい、姿を見せろ」
「自分のからだを見よ、自分らの手足をよく見よ。お前たちのからだから血が滲みだし、滴り落ちているだろう。生贄のからだから血が出ている。そうだ、その血は止まらない。すべての血がなくなるまで、血が流れ続けるのだ。もはや逃げられん」
恐怖にかられた盗賊が叫ぶ。
「うあああ、血だ、腕から血が出ている」
「足が血まみれだ、ひいい」
盗賊たちの目には、血まみれになった自分の腕や足が見えている。<恐怖幻覚(テラー・ビジョン)>の魔法と周囲の薄暗さが相乗効果となり、実在しないものが見えているのだ。ルミアナの語りかける恐怖の暗示が盗賊たちの意識を完全に支配した。
「さあ、これから一人ずつ順番に死ぬのだ。血を流して死ぬのだ」
「何かがこっちへ来るぞ」
「来るな!こっちへ来るな!」
風を切る音がして一本の矢が藪の中から飛び出し、盗賊の胸を刺し貫いた。叫び声をあげると、盗賊はその場で崩れるように倒れた。その様子をみた盗賊たちが逃げ出した。
「うわああああ、助けてくれ」
一人が逃げ出すと盗賊たちはパニック状態に陥り、総崩れとなった。我も我もと、先を争うように盗賊たちは逃げ出した。盗賊たちが居なくなると、ルミアナが林の中から姿を現した。
俺はルミアナに言った。
「今のは一体、何だったのだ?」
「幻惑魔法の一種、<恐怖幻覚(テラー・ビジョン)>です。魔法を使って彼らに恐ろしい幻覚を見せて追い払ったのです。あれだけの人数を相手にまともに戦っても勝ち目はありませんからね」
ミックが腕を組んで言った。
「いやはや、ルミアナ殿のおかげで助かりました。しかし妙ですね、王都の近くにあれだけ大規模な盗賊団が出没するとは。毒殺未遂の件もありますし、これも陛下のお命を狙っている者の仕業かも知れません。お城に戻られた方がよろしいのでは?」
「いや、この程度のことで怖気づいては何もできない。とりあえず場所を変えよう」
一行はさらに上流へ向かい、場所を変えてキャンプを張りなおした。
夜空を見上げると無数の星が輝いている。星座はまるで見覚えのない姿をしているうえに、月が二つ見えた。やはりここは異世界だ。俺はふと思った。先ほどのルミアナの魔法は見事だった。異世界と言えば、剣と魔法のファンタジーワールドだ。この異世界の魔法はどうなっているのだろう。ルミアナに尋ねてみた。
「ルミアナ、ちょっと教えてほしいのだが」
「何でしょう陛下、私の年齢は教えませんよ」
俺は思わず苦笑した。
「いやいや、ルミアナの年齢じゃなくて魔法のことだ。ルミアナが先ほど見せてくれた魔法には驚かされた。ああいう魔法を私も使ってみたいと思うのだが、魔法とはどんなものか教えてもらえないだろうか」
「魔法とは、魔力を持つエルフ族が使う特殊能力です。魔法を使うには魔力を必要としますが、人間族は魔力を持たないため魔法は使えません。魔力は生まれつきの能力なので、訓練によって身に着けることはできません」
なんだ、人間に魔法は使えないのか。せっかく剣と魔法の世界なのに、エルフにしか魔法が使えないのは不公平だな。
「またこれは非常に重要なことですが、魔法を発動するには魔力を消費すると同時に、魔法の種類に応じた特別な『魔法素材』が必要になります。魔法素材が無ければ魔法を使うことはできないのです」
「その『魔法素材』っていうのは何だい?」
「魔法素材は植物や動物からの抽出物、あるいは地下に埋もれている魔法石という宝石など様々です。いずれにしろ、それらの魔法素材は貴重で手に入りにくいものです。威力の強い魔法素材ほど手に入りにくい傾向があります」
「ということは、気軽にポンポン魔法を使うことはできないわけか」
「そうなりますね」
魔法を発動するには、魔力だけじゃなく魔法素材が必要になるのか。かなり制限が厳しいな。それにしても人間に魔法が使えないのは面白くない。
「ルミアナ、本当に人間には魔法が使えないのか?」
「う~ん、そうですね、これはエルフ族の秘密なのですが、この世界には『魔道具』という古代のアーティファクトが存在するらしいのです。それは遥か昔にエルフ族がこの大陸全土で繁栄していた時代に、エルフの賢者たちによって作られたものです」
「その魔道具と言うのは?」
「魔力を消費せずに魔法を使うことができる道具です。魔道具は魔力を消費する必要が無いので、それを使えば魔力を持たない人間族でも魔法が使えるわけです」
「それはすごいな」
「私が世界中を旅している理由は、その魔道具を探すためでもあります。魔道具は世界のあちらこちらにあるエルフの神聖な古代遺跡などに隠されているそうです。実はアルカナの王都に来た理由もそれです」
「王都のどこかに魔道具が隠されているのか?」
「古い資料によれば、王都の城の地下には古代エルフの神聖なダンジョンがあるらしいのです。まだ、その入口が見つかっていないのですが・・・」
これはヤバいことになって来たぞ。おそらく城の裏庭にあるという穴が、古代エルフのダンジョンの入り口に違いない。ところが、城ではウンチの捨て場に困って、あの穴にウンチを毎日放り込んでいる。エルフの神聖なダンジョンに毎日ウンチを放り込んでいるとバレたらエルフに殺されかねない。おまけにダンジョンにウンチスライムが生まれていたら、王国の責任問題だ。とりあえず、今あそこに行かれると非常にまずい。
「そ、そうか、私もダンジョンを探すために協力を惜しまないが、とりあえず王都で魔道具を探すのは、ずっと後に回してくれ。ほかに頼みたいことがあるし。・・・ところで魔法にはどんな種類があるんだ」
「そうですね、攻撃系と支援系、そして補助系の魔法に分けられます。私は支援系の魔法が得意で、特に幻惑魔法のエキスパートです」
「幻惑魔法とは?」
「幻惑魔法は、先ほど私が使った<恐怖幻覚(テラー・ビジョン)>などです。直接相手にダメージを与えることはできませんが、自分の姿を隠したり、相手に幻覚を見せたり、恐怖を与えたり、眠らせたり、あるいは相手を操ることができます。また姿を隠す隠密魔法も幻惑魔法に含まれます。幻惑魔法で使用する魔法素材は比較的手に入れやすいので、使い勝手が良い魔法です」
「幻惑魔法はかなり役立ちそうだね」
「そうですね、ただ、幻惑魔法は必ず効くわけではないところが弱点です。相手の精神力が強いと効果がない場合もあります。また明るい場所よりも暗い場所が効きやすく、森の中のような複雑な環境ほど有効です」
「ちなみに、魔法で大量の水を生み出すことはできないかな。その水で畑の作物を育てれば、食料問題は楽に解決するんだが」
「それは無理です。魔法で水を作ることはできますが、作物を育てるほど大量の水を生み出すためには大量の魔法素材が必要になってしまいます。ですから現実的には不可能です。魔法素材を使わずに水を出せるなら誰も苦労しません」
確かにそうだ。何もないところから物質やエネルギーを無限に生み出すことができるなら、少ない資源をめぐって戦争をする必要はない。この世界では資源が足りないから奪い合いになる。豊かな土地をめぐって殺し合いになる。悲しいものだ。
それにしても少々納得できない点がある。「人間は魔法が使えない」という点だ。魔道具というアーティファクトが存在することはわかったが、そんな面倒な道具を使わなくとも、異世界転生アニメではたいていの場合、主人公は魔法が使えるじゃないか。俺も魔法が使いたいぞ。
「ルミアナ、私には魔力が無いのだろうか。試してみることはできないかな」
ルミアナは他の人間から同じ質問を何度も聞かされてきたのだろう。またか、というように肩をすくめ、大きくため息をつくと諦めた表情で言った。
「試すことはできますよ。陛下がそれでご納得されるのであれば、いくらでもご協力いたします。ただし魔力を試すには魔力黒板が必要ですので、お城の私の部屋が準備できましたら、試してみましょう」
翌朝、一行は再び馬に乗り、川の上流を目指した。しばらく進むと林が途切れて農地に出た。どこかの村に着いたようである。川の跡はまだ北へと続いているが、せっかくなので、今日はこの村を視察することにした。馬を降りると、村長と数名の男女が出迎えた。
「これはこれは国王様。ここはショーべンの村でございます。こんな、ひなびた村にお立ち寄り下さるとは光栄です。特別な物は何もご用意できませんが、心より歓迎いたします」
しわくちゃの顔をして、頭の半分禿げた背の低い男が村長だった。出迎えた住民の多くはスラムの住民と見まごうほど汚くてボロボロの服をまとっていたが、意外なことに栄養状態は良好で元気そうに見える。むしろ王都の市民より健康的かも知れない。
俺は村の人々を見回しながら言った。
「こちらこそ、突然訪問してすみません。迷惑になるといけないので、あまり気を遣わないでください。それより村の皆さんが元気そうで何よりですね。ところで、王都では食料不足が深刻で、スラムに至っては餓死する人まで出ています。それに比べて、この村は食料事情が良さそうですね。何か理由でもあるのでしょうか」
たちまち村人たちの表情が険しくなり、緊張感が走った。
「も、もしかして、納めている年貢の量を、わしらがごまかしていると疑っておられるのでしょうか。それで村を視察に来られたのですか。とんでもございません、そんな悪いことは神に誓ってしておりません」
「いえ、それは誤解です。この村に立ち寄ったのは、川が流れた痕跡を遡ってたまたま行き着いたからであって、年貢をごまかしているという疑義があって来たのではありません」
村人の顔からは、やや緊張の色が和らいだように感じたが、まだ不安のようだ。
「わしらの村が他の村に比べて食料事情が良い理由は、他の村に比べて作物の生育が良いからです。他の村より収穫量が少しばかり多いのです」
「それは素晴らしいですね、何か秘訣があるのですか」
「はい、実は作物に肥料を与えているのです。もちろん肥料は高価なものですから、わしらのような貧しい村では買えません。ですから自分たちでたい肥を作っているのです」
「なるほど、それは素晴らしい。できればそのたい肥をどのように作っているか見せてもらえませんか」
「承知いたしました、そこまで村の者に案内させましょう」
一行は村の若い男に続いて村のはずれに向かった。
村のはずれにやって来ると、藁ぶきの屋根が多数並んでいるのがみえた。屋根に近づくと、強烈な臭いが漂ってきた。たい肥と言えば馬や牛の糞尿を利用するものだが、この臭いは馬や牛の糞尿とは少し違う気がする。案内してきた村人が臭いに顔をしかめながら、屋根の近くで作業している男に向かって声をかけた。
「やあ、爺さん元気かい」
「おう、なんじゃい」
屋根の下には土と藁がまざった小山があり、一人の年配の男がピッチフォークを使って、それを混ぜていた。それが糞尿と藁と土を混ぜた、たい肥であることはすぐにわかった。男は一行の姿に気付くと、作業の手を止めて不安そうな表情で言った。
「失礼ですが、どちら様でしょうか」
案内してきた村人が言った。
「こちらにおわす方は国王陛下です」
年配の男は目を丸くして驚いた。
「これはこれは、初めてお目にかかります。私はこの村で農家をしております、トミー・ウンと申します。こんな汚らしいところへ、どうしてお越しになられたのでしょうか。年貢はしっかり納めておりますが」
誰も彼もが年貢のことを口にする。よほど厳しく年貢の取り立てが行われているのか。
「いや、年貢のことで来たのではありません。お願いがあって来たのです。あなたがたい肥の作り方について詳しいと聞いたので、ぜひ王都に来て作り方を指導して欲しいと思ったのです。王国農場でも、たい肥を使いたいのです」
男の目が光った。姿勢を正して俺にまっすぐ向き直ると、崩れんばかりの笑顔で言った。
「わっはっはー、ついにわしの仕事が国王様のお耳にはいったのですな。わしのたい肥を見学するため、わざわざ王都よりご足労いただけるとは身に余る光栄」
いや、たまたま通りかかっただけなんだが、まあいいか。
トミーは藁と土とそれらしき物体の小山を指さして言った。
「さあ、国王様、これをご覧くだされ」
「それがたい肥なのか」
「いかにも、たい肥でございます。ですが普通のたい肥ではございませんぞ。人間のウンチのたい肥です。人間は数が多いですから材料は大量にありますぞ、わっはっはー」
キャサリンが叫んだ。
「ぎゃー、ウンチの山ですわ。ウンチの山。お兄様の行く先々でウンチがいっぱい」
「やかましい」
総務大臣のミックが心配そうに言った。
「人間の糞尿を肥料として使うと、伝染病になったり、お腹の中に虫が湧くと聞いたことがございます。この村で病気が発生したことはないのですか」
男はピッチフォークの柄を地面に突き立てると額の汗をぬぐい、いかにも自信ありげに胸を張って言った。
「わっはっは、大丈夫ですぞ。伝染病や寄生虫が発生するのは、たい肥の作り方をよく知らないからです。熟練した職人の手にかかれば、たい肥が高熱を発し、その熱で伝染病や寄生虫の元になる毒素が分解されてしまう。だからわしの作ったたい肥を使うこの村では、それが元で伝染病や寄生虫に侵された者は誰一人おらんのです」
「それはすばらしいですね。後日使者を迎えに使わせますので、それまでに王国農場で仕事をするための準備をしておいて下さい」
これはまさしく渡りに船だ。王都から出る糞尿の処理をしなきゃならないところだったから、それでたい肥を作れるなら一石二鳥だ。街がきれいになるし農作物を育てるための肥料もできる。
俺たちがたい肥小屋から村に戻ると村長が広場で待っていた。
「陛下、今日は村の集会所へお泊りくだされ。汚いところですが、村の者に掃除をさせました。それとお食事でございますが、申し訳ございませんがパンはありません。麦かゆと豆のスープをご用意いたしました」
「ありがとう、十分すぎるくらいです」
すでに日は暮れかかっており、あたりは暗くなりつつある。木陰はすでに真っ黒だ。この時代はろくな照明がなかったため、夜は暗くてよく見えない。幸い暖炉には薪がたくさん燃えており、その明かりで部屋はそこそこの明るさが確保されていた。俺たちは暖炉の前にあるテーブルに向かって座り、護衛たちは床のベンチに腰掛け、村人たちが用意してくれた質素な食事を味わった。
キャサリンが暖炉の前の椅子に座って言った。
「お兄様、こうして暗い部屋で暖炉を見ていると、子供の頃を思い出しますわね。よくお兄様のお部屋で、寝る前に暖炉の明かりの下で一緒に本を読みましたわ」
「いかにも仲の良い兄妹じゃないか。そういう微笑ましいこともあったんだな。ところで、二人でどんな本を読んでいたんだ」
「幽霊とか吸血鬼の出てくる怖い本ですわ」
なんで幼い兄妹が仲良く『怪奇本』を読むんだよ。幼い兄妹が仲良く読むと言えば、普通は童話だろ童話。三匹の子豚とかシンデレラとか、ああいうやつだ。
「お兄様ったら、ものすごく怖がりで、本を読んだ夜は一人でトイレにいけなくなりますの。それで、朝になったら大きなおねしょをして、いつも侍女の前で赤くなっていましたわ。それが可愛くて、寝る前にお兄様の部屋に行っては、怖い本を読んでいましたの。もちろん、スイカジュースもいっぱい飲ませましたわ」
そういうことかよ。おまけに、わざわざジュースまで飲ませてたのか。まあ、キャサリンは特に悪気があって意地悪しているわけではなく「愛情表現が普通じゃない」だけなのだろう。普通に愛情表現してくれれば何の問題もないのだが、お姫様だからなのか、なにせやることが過激である。
翌日も朝から良い天気で、雲一つない快晴だった。村人が世話をしてくれたおかげで、馬も元気そうだった。再び枯れ川の上流を目指した。
キャサリンが何やら朝から騒いでいる。
「お兄様、わたくし虫に刺されましたわ。もう痒くて痒くて。あのボロ小屋のベットを見て嫌な予感がしましたの。三箇所も刺されましたわ。お兄様は刺されませんでしたの?」
「刺されなかった」
「何よ、わたくしだけ刺されるなんて不公平ですわ。お兄様も刺されなさい」
「むちゃくちゃだな。いったい、どこを刺されたんだ」
「なぜか、おしりばかり刺されましたわ」
「尻を丸出しにして寝ていたんじゃないのか」
「まあ、酷い言い方ですわお兄様、昔はそんな人じゃありませんでしたの。毒で記憶喪失になる前のお兄様は、もっと優しくしてくれましたわ・・・今はまるで別人になったようです。そう、まるで別人のように冷たいわ・・・」
何やら話の雲行きがあやしくなってきたぞ。おれが転生者だとバレたら一大事だ。この場は何とか取り繕わねば。
「そ、そうなのか。昔の俺はキャサリンが虫に刺されたときは、どうしていたんだ」
「虫刺されの跡を、お兄様がやさしく舐めてくれましたの」
どこの変態兄妹だよ。傷をなめて治すとか犬かよ。というか、これは絶対ヤバいシチュエーションだ。虫刺されのおしりだよ、おしり、しかも妹の。文字で書くのも危険なレベルだ。いやいや、そんなの絶対に何かの罠だろ。
そのやり取りを見て、ルミアナがポーションバックを手元に引き寄せながら言った。
「お嬢様、虫刺されの治療ポーションがございます。つけて差し上げましょうか」
「あら、ルミアナは意外と気が利くわね」
「お褒めいただき、ありがとうございます。他にもいろいろなポーションがありますので、困ったことがありましたら、何でもご相談ください」
「そうですわね、わたくし、お兄様を調教するポーションが欲しいですわ」
「お兄様を調教するポーションですね、作れますよ」
マジ? 作れるのかよ、つか、絶対に作るなよ。キャサリンの目が期待に輝いているし。そんなポーションを渡されたら、アルカナ王国が立派な国に生まれ変わる前に、こっちが別の何かに生まれ変わっちまうだろ。
「・・・作れますが、竜の耳垢が必要になりますので、今は無理です」
「あらそう、とても残念ですわ」
とても残念じゃねえだろ、永久に作れなくて結構だ。
王都を出てから四日目になった。川の跡は不明瞭となり、すでにわからなくなっていたが、とりあえず川が流れてきた方向、つまり北に向かって進んでいた。この辺りは見るからに荒地である。樹木が少なく、枯れた草が石の間から生えているだけだ。地面には丸い石が無数に転がっている。丸い石は川が運んで堆積したものだろう。このあたりを川が流れていたことは確かだ。
川をこれ以上遡るのは無理かもしれないと諦めかけていたころ、わずかに高くなった丘を登りきると視界が開け、眼下に大きな川が見えてきた。馬を止めると、ゆっくり周囲を見渡した。川は俺がいる丘から斜面を下ったところを、東へ向かって流れている。その川上に目をやると、東西に大きく広がる丘陵地帯が見え、丘陵と丘陵の間から川が流れだしているようだ。ミックが俺の横に馬を進めると、額に手をあてて彼方を眺めながら言った。
「これはおそらく『エニマ川』でしょう。東のエニマ国へ流れる大河です」
エニマ川はとても大きな川だった。俺が住んでいた日本では見られないほどの大きさだ。東へ悠々と流れる大河を見ているうちに、突然すべてが理解できた。俺は興奮してミックに言った。
「わかったぞ。昔、エニマ川は東ではなく、南のアルカナ王国の王都へ向かって流れていたんだ。だから昔のアルカナは水が豊富で今より豊かだった。いつしか川が流れを変えて東に流れるようになり、王都に水が来なくなった。ということは人工的に川の流れを一部だけ南に戻してやれば、再び王都へ向かって川が流れるはず。それなら長大な灌漑用水路を王都まで建設する必要はないから、工事を短期間で終わらせることができる」
「エニマ川の流れを変えてしまうのですか」
「いやいや、エニマ川の流れを変えるのではなく、エニマ川の水を二割ほど取水して、その水で王都へ流れる川を復活させるだけだ。だからエニマ川が枯れてしまう心配はない。取水するのは、ここからもっと上流の、エニマ川が丘陵地帯から出たあたりだ。そこに水門を設置して川の水を引き込み、古い川筋に水を流す。建設しなきゃならない用水路は、水門から古い川筋までだから、水路は短期間で完成できる」
「すばらしい、それは良い考えです。王都に川が復活すれば食料問題は一挙に解決できます。間違いなくアルカナに大きな繁栄をもたらすでしょう。陛下、これは興奮しますね。さっそく技師を派遣して詳しく調査させましょう」
キャサリンが驚いて俺の顔を見た。
「王都に川を復活させるですって?お兄様すごいですわ。よくそんなことが思いつきますわね、さすがは一度、死にそうになっただけのことはありますわ」
どういう褒め方だよ。
「どうだい、見直したかい?」
「見直しませんわ、だって、お兄様がすごいことは前からわかってましたの。だから、わたくしは事あるごとにお兄様のお世話をしてきたのですわ。全身クモの糸だらけになっても、虫にお尻を刺されても、お兄様に付いて来た甲斐がありましたわ」
お世話してくれるのはありがたいのだが、キャサリンの場合は「お世話」と「いじめ」と「ストーキング」の区別が無いのが困るんだよね。
俺はミックに言った。
「そうだ、復活させる太古の川を『アルカナ川』と命名しよう。アルカナ川を復活させ、アルカナ国を他国に負けない大国に押し上げるんだ」
これは大きなチャンスである。とはいえ一つ気掛かりな事がある。エニマ川から水を取水すれば、下流にあるエニマ国が黙っているとは思えない。しかし王都に川を復活させる以外にアルカナが生き残る道はない。城に戻って準備をすすめよう。
俺は早々に貴族会議を招集することにした。一刻も早くアルカナ川を復活させるため、貴族たちの了解と協力を得る必要があるからだ。
農業はアルカナの人々の空腹を満たすだけではなく、国家収入を増やすためにも極めて重要だ。だがそれだけではない。農業は国力に直結するのだ。なぜなら、食料生産量が大きければ大きいほど、養える人口が多くなるからである。
俺が転生する前の世界では、国力は必ずしも人口と直結していなかった。なぜなら、農産物に限らずさまざまな工業製品やサービスは、人力ではなく「工作機械や電子機器によって作られている」からだ。ある意味で人間がいなくとも製品を生産できる。しかし中世時代はテクノロジーが発達していないため、経済はすべて人間の労働力によって支えられている。だから人口が多ければ多いほど国力は強くなる。
もちろん軍事力もそうだ。兵器が未発達な時代の戦争は人海戦術がモノを言う。人口が多ければ多いほど兵力も大きくなり、軍事力は強くなる。まさにアルカナ川の復活が我が国の命運を左右する。
ということで、すぐに貴族会議召集の書状をすべての貴族に送ったのだが、何しろ時代は中世である。遠方の貴族に書状が届くまでに一週間、出発の準備をして貴族たちがこちらに到着するまでさらに二週間は必要というありさまである。電話が無理でも、せめて伝書鳩が欲しいところだ。
アルカナ川の探索から戻って一週間ほど経った。ルミアナは自分の部屋の準備を完了したようだ。俺は自分に魔力が備わっているかどうかを調べてもらうために、ルミアナの部屋を訪ねることにした。
「お兄様、どちらへ行かれるのですか?」
「ちょっとルミアナの部屋へ行くつもりだ」
キャサリンは、たちまちご機嫌斜めになった。
「あのエルフの女に何の御用ですの。あたくしも付いていきますからね」
「いいよ、魔法について話をするだけだから、何も後ろめたいことはないよ」
「あ・・・ちょっと待って、お洋服を着替えてきますわ。先に行ったらだめですからね」
なんでルミアナの部屋に行くためにわざわざ着替えるんだ。対抗意識なのか。えらい待たされたあげくに、キャサリンがリボンだらけのド派手なピンクの服を着て来た。
ルミアナの部屋のドアを開けると強い薬草のにおいが漂ってきた。部屋にはどこから持ってきたのか、山のような機材が溢れている。最も目立つのはフラスコや試験管、そして蒸留器が並べられた大きな机である。机の上には見慣れない草花や球根、木の実、木の葉、小動物の干物、昆虫などが置かれている。棚にはエルフ文字のラベルが貼られた容器やポーションがずらりと並んでいる。
机の上には大きなガラスの容器が置かれ、親指ほどもある太くて茶色いナメクジが、うじゃうじゃ入っていた。透明な容器の壁面には多数のナメクジが張り付き、ぬめぬめと這いまわっている腹部の様子が良く見える。キャサリンがそれを見つけると絶叫した。
「ナメクジよ、ナメクジ! うわあー、気持ち悪いですわ、何なのこれ。ルミアナはナメクジを飼っているのかしら。どういう趣味をしてるの? まったく理解できませんわ」
ルミアナは澄ました顔で言った。
「あら、お嬢様。そのナメクジは老化した古い皮膚を舐めとったり、皮膚病でカサカサになった皮膚を粘液で覆ってくれる特殊なナメクジです。いわば益虫ですね。キャサリン様も十匹ほど体を這わせてあげれば、お肌が輝く様に美しくなりますよ。美肌効果絶大です」
「わたくしが、もっと美しくなるの? そ、そうかしら・・・」
キャサリンは自分の全身を這いまわるナメクジを想像してみた。しかし、恥ずかしい情景を連想して、すぐさま脳が拒絶反応を示した。
「ううう・・・そういうルミアナは、このナメクジを使って肌を美しくしているのかしら」
「あら、私はナメクジなんか使わなくても、輝くような肌ですから」
キャサリンが真っ赤になった。
「な、なによ! わたくしだって、こんなナメクジなんか使わなくても十分に美しい肌なんですからね! わたくしの肌は、つるつるのすべすべで、光ってるんですからね」
つるつるのすべすべで光ると言えば、おやじのハゲ頭ではないか。あれも美肌の一種なのか。二人の会話にあきれている俺に向かってルミアナが言った。
「私の部屋へようこそいらっしゃいませ、陛下。魔力を試したいのですね」
「そうなんだ、迷惑をかけるね」
「いえ、そんなことはございません。魔力を試すには、あの魔力黒板を使います。魔力黒板は、エルフが魔法の練習をする時に使用する道具です」
そう言うと、ルミアナは壁に掛けられている五十センチ四方の黒板を指さした。一見すると何の変哲もない普通の黒板である。
「そもそも魔法を発動するには、魔法石やポーションなどの魔法素材に思念すなわちイメージを与えるところから始まります。このイメージは特殊な魔法の絵文字と関係があります。魔法の絵文字を見たときに脳裏に生まれるイメージを念じるのです」
「う~ん、なんだか良くわからないな」
「では、実際に簡単な例でお示しします」
ルミアナは一枚の紙を取り出して見せた。そこには普通の丸い円が描かれていた。
「この図形を見たときのイメージをあちらの魔力黒板に向かって念じます」
ルミアナが念じると、魔力黒板に丸い円が白く浮かび上がった。
「これはエルフが最初に魔法を練習するための図形です。単なる円なので実際の魔法に使うものではありません。しかしこれができなければ魔力を持たないため、そもそも魔法は使えないわけです」
キャサリンが言った。
「なによ、そんなのできるわけないじゃないの」
確かにできそうに思えない。もし失敗すればそれまでか。いや、魔力が無くても魔道具を手に入れれば魔法は使える。とにかくダメ元で試してみることにした。俺は目を閉じて円形のイメージを魔力黒板に向かって念じてみた。二人の驚く声が聞こえてきた。
「きゃーなにこれ、お兄様に魔力があるの?」
「すごいわ、魔力が使える人間を見たのは初めてだわ」
目を開けると魔力黒板には丸い円がくっきりと白く浮かび上がっていた。なんと俺には魔法の能力が備わっていたのである。これは転生の特典なのか。俺は喜んだ。
「やった、これで私も自由に魔法が使えるんだな」
「いえ、これは基礎能力の確認にすぎません。実際の魔法を使うにはそれぞれの魔法に応じた複雑な絵文字が必要で、それを記憶して魔法の対象にイメージを飛ばす必要があります。強力な魔法になるほど絵文字は複雑で難しくなります」
「絵文字が描かれた紙を見ながら魔法を発動することはできないのかい?」
「それはできません。まずは絵文字のイメージを正確に記憶する必要があります。魔法を練習するには、まず紙に書かれた絵文字を暗記して、そのイメージを魔力黒板に念じることで確認するのです。黒板に浮き上がった絵文字が完全に正しければ、魔法素材を使った本番でも魔法は発動します」
「なるほど。高価な魔法素材を使って練習しなくても、魔力黒板で十分に練習を積めば魔法が使えるようになるわけだ。ぜひ私も練習してみたい」
「承知いたしました。こちらに初級魔法の絵文字が書かれた本がございますので、まずはこれを練習されると良いでしょう」
「魔法には、人によって得意分野や不得意分野はあるのか?」
「ええ、得意分野であるほど上達は早くなりますし、より強力な魔法が使えます。逆に不得意分野はまったく魔法が使えない場合もあります。これはその人の持つ魔力の種類によると考えられています。しかし補助魔法であれば、得意分野にかかわらず、努力すればすべての魔法が使えるはずです」
二人の会話を聞いていたキャサリンが大声で言った。
「お兄様に魔力があるなんてすごいですわ。よーし、こうなったら『お兄様が魔法を使える』って、町の人みんなに自慢して回るのですわ」
それはまずい。中世と言えば魔女狩りの時代である。「アルカナの国王は魔法使いだ」という噂が立つと、やれ国王は悪魔を崇拝しているだの、処女の生き血を飲んでいるだのと言われかねない。しまいには異端審問とか称しておかしな連中が城に押しかけてきて、ややこしいことになる。
「キャサリン、お願いだからまだ秘密にしておいてくれ。騒ぎになると厄介だ。然るべき時に俺の口から公表するから、それまで絶対にしゃべらないでくれ」
「なあんだ、つまらないですわね。わたくし秘密をみんなに言いふらすのが大好きですの」
うわ、キャサリンは歩くスピーカーだったのか。さもありなん。
「そういえば、子供の頃、お兄様の恥ずかしい秘密をみんなに言いふらすのが楽しみでしたわ。お兄様ったら顔を真赤にして、やめてくれってわたくしに泣きついてくるのですわ。可愛いですわね。今でもわたくしに泣きついてくるかどうか、試してみようかしら」
「おいおい、やめてくれよ」
「大丈夫、それは子供の頃の話ですわ。それにしても、お兄様ばかり特別な能力があるなんてずるいですわ・・・わたくしも特別な能力が欲しいですわ・・・」
冗談ではない。キャサリンが特別な能力なんか持ったら、何をしでかすかわかったものではない。キャサリンがおかしな能力に目覚めないことを祈るばかりだ。
俺はルミアナに言った。
「時々この部屋に来て魔法の練習をしてもいいかな。ここなら魔法の練習をしても誰にも見られる心配がないので」
「ええ、結構ですわ。陛下が魔法を使えるようになれば、私も心強いですから」
こうして俺は魔法の訓練を始めることになった。だが魔法にばかりかまけてはいられない。アルカナにはもっと重要な課題があるからだ。
突然の招集だったが、貴族会議には多くの貴族が出席した。会議が始まる前の待ち時間を利用して、多くの貴族たちが、病から回復したアルフレッド国王のもとへ挨拶に訪れた。俺はほとんどの出席者と初対面だったから、そばにいるミックに小声で名前を教えてもらいながら対応した。
一人の女性が近づいてきた。顔立ちがキャサリンに似ているところから、姉のルーシー・コナーと思われた。ルーシーは王国南部の有力な貴族コナー家に嫁いでいる。夫のアンディーを伴っての出席である。
「お元気そうですねアルフレッド。急病で倒れたとのことで心配しておりましたが、大事なく嬉しい限りです。キャサリンに聞きましたが、領土のあちこちを精力的に視察しているとか。徐々に統治者としての自覚も深まり、亡き父も喜んでおられるでしょう」
「ありがとうございます、姉上。おかげさまで体の方はすこぶる元気です。しかし病の後遺症か、病気になる前の記憶をほとんど失くしておりまして、難儀しております」
「それは不便ですね。しかし時間と共に徐々に良くなるでしょう。焦らないことです」
傍に来て二人の会話を聞いていた、いとこのレスター・グレンが言った。
「陛下、ご無事でなによりです。病気の後遺症で記憶を無くされたのですか、それはさぞご不自由でしょうね。お困りごとがあればご相談ください。いとこ同士なのですから遠慮はいりません」
「ありがとうございます。やはり頼りになるのは親戚兄弟ですね」
レスターはアルフレッドより五つ歳上である。レスターの父親は先王ウルフガルの弟にあたる。王都に大きな邸宅を持ち、叔父夫婦と住んでいる。噂では短気で荒っぽい性格らしく、周囲の評判はあまり良くないという。
そこへ現れたのは貴族会議の議長を務め、アルカナの貴族の中で最も力があると言われるジェイソン・ブラックストーンである。ジェイソンは王都の東側にある町と村を治め、王国政府に次ぐ兵力も有している。物静かでありながら気の許せない雰囲気がある。
「陛下、おからだの調子はいかがですか。もし国政を行うことが、おからだにご負担でしたら、しばらくの間、私がお手伝いいたしますが」
「お気遣い感謝申し上げます。しかし国政に関しては私たちだけで大丈夫です。それより、アルカナを発展させるためには貴族の皆様のご協力がますます必要になります。ジェイソン殿のような有力な方が、率先して手本をお示しいただければ心強い限りです」
「それでしたら、お任せください。先王ウルフガル様には生前に並々ならぬご恩義を賜りましたので、王国へ恩返しをさせていただくのは当然でございます。今後もこのジェイソンめを頼りにしてください」
「ありがとうございます。頼りにしています」
ジェイソンが去ると、それを待っていたかのようにキャサリンが小走りで近寄って来て小声で俺に耳打ちした。
「お兄様、わたくしはあのジェイソンとかいう貴族が大嫌いですわ。絶対に良からぬことを企んでいるに決まってますの。あの人は悪いうわさしか聞きません。信用してはダメですわ」
「根も葉もないうわさを気にしちゃだめだよキャサリン。ジェイソン殿はアルカナで最も力のある貴族なんだから、たとえ個人的に嫌いな人でも好意的に接しないと」
「お兄様にはわからないのよ、これは女の勘よ。だいたいあの目つきが良くないわ。わたくしは目を見れば何でもわかりますの。もちろん、お兄様の目を見れば、お兄様が何を考えているかわかりますの」
「そんなの、わかるわけないだろ。本当かよ」
「本当ですわ。ルミアナの部屋に大きくて気持ち悪いナメクジがいましたわね」
「ああ、いたな。百匹くらいいた」
「あれを、わたくしの体に這わせたいと考えていたでしょう」
「考えてねえよ、妹のからだにナメクジを百匹這わすとか、どんな変態なんだ」
「目を見ればわかるの」
「わかんねえよ、それはキャサリンの変な妄想だろ」
「とにかく、ジェイソンの目は爬虫類の目と同じよ。トカゲ族と同じ。絶対に気を許しちゃだめ」
「キャサリンは、トカゲ族を見たことがあるのかい?」
「そんなのあるわけないじゃない。でも目を見ればわかるの」
「ああ、わかったよ。心配してくれてありがとう」
しばらくして会議が始まった。最初に俺が計画の説明をした。
「皆様に集まってもらったのは、私がこれから始めようと考えております重要な政策をご説明し、皆様のご理解とご協力を得るためです。
我が国の最優先課題は食料の増産です。現在、食料の生産量が不足しているため食料の価格が高止まりしており、国民の生活を圧迫しています。そのうえ、王都のスラムに集まる貧民の中には飢えで死ぬ者も数多くおります。この状況を改善しなければなりません。また近年、トカゲ族のジャビ帝国が再び勢力を拡大しつつあり、我が国としても国力を高め、軍備を増強することでジャビ帝国の侵略に備える必要があります。
ところで先日、国内視察を行ったところ、王都の周辺には昔、大きな川が流れていたことがわかりました。現在、我が国の北部を流れるエニマ川は、我が国の北から東へ流れてエニマ国にいたります。しかし昔はエニマ川が東の方角ではなく南の王都に向かって流れていたのです。いわばアルカナ川です。幸いなことに昔の川筋は今も残っています。
ですから、はるか北方の、エニマ川が丘陵地帯から平野に流れ出す出口の近くで取水し、昔の川筋にその水を流せば王都に川が復活します。そうすれば王都の水不足は解消し、農産物の収穫量が大きく増えるでしょう。ですから、私は古代の王都に流れていたアルカナ川を復活させる土木工事を計画しています。工事名称はアルカナ川工事とします」
集まった貴族たちの間から驚きの声があがった。俺はつづけた。
「また、先に訪れた村では人間の糞尿を利用してたい肥を作っていました。その村では、作物を育てる際に、たい肥を使用することで他の村に比べてより多くの収穫を得ていました。一方、王都から毎日排出される糞尿の量はかなりのものです。しかし現在、それらの糞尿は周辺の土地や海に捨てられ環境を汚染しています。そこで毎日排出される糞尿を利用してたい肥を作れば、大量の肥料を作ることができます。肥料によって作物の増産が見込めると同時に、町も衛生的になりますので一石二鳥です。ですから、たい肥の生産事業を行う計画です。このように、アルカナ川工事計画とたい肥の生産事業計画の二つの政策を進める予定です」
年老いた貴族の一人が、不満そうに言った。
「陛下の計画は誠に壮大ですばらしいですな。しかしアルカナ川が復活しても、それによって潤うのは王都やアルカナ川の流域にある町や村だけではないですか。他の地域の貴族にどんな恩恵があるというのですか?」
俺は大きく頷いてから自信をもって言い切った。
「確かにアルカナ川によって直接の利益を得るのは、王都やアルカナ川の流域にある町や村だけです。しかし間接的には他の地域の貴族の皆様にも恩恵があります。まず軍事的な面です。アルカナ国の兵力の六十パーセントは王国政府が担っております。アルカナ川によって食料が増産され、人口や収入が増加すれば王国政府の兵力が増強され、敵国からみなさまの領土をより強固に守ることができるのです。
もう一つは王都のスラムに集まる貧民への対処です。貧民の多くがどこから流れてくるかと言えば、それは貴族の皆様の領地である町や村から流れてくるのです。いわば皆様の領地で行き場がなくなった貧民を、皆様の代わりに王国政府が受け入れているのです。こうした人々の面倒を見るためにも、アルカナ川の復活が必要なのです」
ジェイソンが穏やかに言い聞かせるような口調で言った。
「陛下は心がお優しすぎます。王都のスラムに集まる貧民にお情けをかけるのは素晴らしいことですが、そのために王国政府が苦労されるのはいかがなものでしょうか。スラムの人間は働きもせず一日中ぶらぶらしております。そんな連中が陛下の慈悲深いことに付け込んで王都のスラムに集まり、タダで食事にありつこうなどとは、実にあさましいことです。働きもせずにぶらぶらしているだけの怠け者に手を差し伸べる必要はございません。働かざる者食うべからずです」
「ジェイソン殿の気持ちもわかります。しかしスラムに住む人々は怠けものだから働かないのではなく、仕事がないから働けないのです。仕事が無ければおカネが貰えず、食料を買うこともできません。また土地を持たない彼らは、土地を耕して自分たちの食べ物を栽培することもできません。ですから、彼らは浮浪者として物乞いせざるを得ないのです」
そこへ財務大臣のヘンリー・ゲイルが、眉間にしわを寄せながら口を挟んだ。
「しかし陛下、働かない人間は何の役にも立ちません。何の役にも立たない浮浪者を養うゆとりは、我が国にはありません。役に立たない人間は国外へ追放いたしましょう。その方が王国の負担が減ります。慈悲の心だけで政治を行うことはできません」
転生前の世界にもこういう連中がたくさんいたことを思い出した。俺は言った。
「スラムの人々が役に立たないという考え方が、そもそもの間違いです。役に立つ方法を考えないから、役に立てることができないのです。人間は富を生み出す原動力になる。私はスラムの浮浪者に仕事を与えて、彼らに働いて貰おうと考えている。例えばアルカナ川の工事や王国農場に張り巡らせる用水路の建設、あるいは糞尿の回収やたい肥の生産などです。まだまだ王国政府が成すべき仕事はこれから出てくるでしょう。
それらの事業を行えば、浮浪者が働いて食料やおカネを得るだけでなく、国が豊かになり、他の人々も豊かになる。だからスラムの浮浪者は厄介者どころか、王国を復興させるための潜在的な力なのです。彼らを見殺しにするのではなく、活かさねばならないと考えているのです」
ヘンリーが渋い顔をして引き下がった。
「わかりました、陛下」
それ以上の異論がなさそうなので、俺は話を先に進めることにした。
「問題は、アルカナ川の工事を進めるために莫大な費用が必要になることです。河川工事そのものに費用がかかることは当然ですが、他にも、スラムの住民に与えるための食料を買うおカネが必要になります。アルカナ川の完成までには一年から二年を要すると思われます。ですから、その間に不足する食料を他国から買い付ける必要があるのです」
俺は大臣席に向き直るとヘンリーにたずねた。
「ところで財務長官、国庫の状況はどうですか?」
ヘンリーは淡々と言った。
「王国の国庫に余分なおカネはまったくございません。それに、今あるおカネの使い道はすべて決まっております。ゆえに、陛下の仰るような大工事は不可能です」
「なんとかおカネの都合を付けることはできないのか」
「財源がございません」
財源がない・・・これは転生前に俺が暮らしていた日本でも、さんざん聞かされてきた。この異世界でも「カネが無い」「財源がない」といって、国家の興廃を左右する重要な事業を簡単に否定する財務大臣がいる。しかしカネが無いからと言って何もしなければ状況は悪化するばかりではないか。
国家におカネが無い場合、昔の国家、つまりローマ帝国や江戸幕府はどうしていただろうか。もちろん税金を集めるのも一つの方法だ。しかしそれだけではない。おカネが必要な場合は、国家がおカネを作っていたのである。
そもそも、おカネはすべて国家が発行したものだった。おカネは自然に湧いてくるものではないので、国家が発行しなければおカネはこの世に存在しない。そうしたこともあって、昔の国家は鉱山で金や銀を採掘し、それで貨幣を鋳造し、そのおカネを支出して橋や道路を建設した。だから財源が無くても、国家がおカネを発行すれば、それが立派な財源になるのである。そこで俺は言った。
「国庫におカネが無いのであれば、新たにおカネを発行してはどうだろう。金貨や銀貨を発行して、それを財源にするのです」
「それもできません。おカネを発行するには金や銀が必要になります。しかし王国の鉱山から採掘できる金銀は量が少なく、現在王国で保管している金銀をすべて利用しておカネを鋳造しても、さほどの量は期待できません」
この時代のおカネは金貨や銀貨である。だから金や銀のような貴金属がなければおカネを発行することはできない。その点、転生前の世界のように、紙で紙幣を作ればおカネを無限に発行することができる。アルカナ国でも紙幣が発行できれば良いのだが、この時代に銀行や銀行券という概念は存在しない。いきなり紙のおカネを発行すると言えば大騒ぎになってしまうだろう。いまは借り入れるしか方法はなさそうである。仕方なく俺は言った。
「やむを得ない、金貸し商からおカネを借りる手配をしてください」
ヘンリーは軽くため息を吐くと、呆れたような口調で言った。
「しかし、我が国はすでに膨大な額の借金を抱えております。これ以上に借金を増やしますと国家の信用が損なわれてしまいます。アルカナの信用を無くすおつもりですか」
これだ・・・二言目には「国の信用」という。まるで家庭と同じように、国の信用が借金の有無で決まると思っているのである。
「それは違う。食料を生産できずにアルカナが衰退すれば、借金を返すことすらできなくなる。それこそ信用を失ってしまうだろう。逆に借金が増えたとしても、アルカナ川を復活させることができれば農産物の生産量が増加し、国家収入が増えることで借金を返済できるようになる。つまり『国家の経済力が国家の信用を高める』のだ。単純に借金が多いとか少ないとか、そういうカネの話だけで国家の信用を判断することは大きな間違いだ」
「・・・承知いたしました、陛下」
表情を見れば、ヘンリーがまったく納得していないことは明らかだった。いつの時代であっても、財務の役人はおカネの収支が最優先である。その結果として国家の経済がどうなろうと、国民の生活がどうなろうと関係ない。収支さえ合えば自分の立場は安泰なのだ。
俺は貴族たちに向かって頭を下げた。
「お見苦しいところをお見せいたしましたが、これが王国政府の現状です。誠に心苦しいのですが、お願いがあります。もうお分かりのように王国にはおカネがありません。おカネを貸していただきたいのです。もちろん利息を一割付けてお返しいたします。計画通りにアルカナ川が完成すれば、必ず王国農場の生産量が増加しますから、間違いなくお返しできます。もちろん、今ここでお貸しいただける金額をお約束いただく必要はありませんので、領地にお戻りになってからご検討くだされば結構です」
会場にはしばらく沈黙が続いた。ため息も聞こえてくる。懐事情にゆとりがないのは、どこも同じである。姉の嫁ぎ先であるコナー家の当主アンディ・コナーが言った。
「わかりました、協力いたしましょう。王国の利益は我々の利益です」
ジェイソンは横目でちらっとアンディーを見てから言った。
「もちろん、私も喜んで協力させていただきます、陛下」
その様子を見て他の貴族たちも次々に協力を申し出た。どの程度のおカネを調達できるかわからないが、高利貸しから借りることを思えば、本当にありがたい。
俺はゆっくりと貴族達を見渡しながら言った。
「皆様、本当にありがとうございます。工事の費用につきましては、皆様からの借り入れと、金貸し商からの借り入れで賄うこととします。それでは、特に反対が無ければアルカナ川工事計画およびたい肥の製造計画を推進したいと思いますが、いかがでしょうか」
貴族会議議長のジェイソンが言った。
「どなたか、陛下の政策に反対の方はおられますかな?」
反対意見は出されず、貴族会議は無事に終了した。帰り際に多くの貴族が俺のもとに来てアルカナ川の復活事業を口々に褒め称えた。もちろん、どこまでが彼らの本心なのかわからない。一人の貴族が発言したように、アルカナ川が復活して直接の恩恵を受けるのは王国政府だけであり、他の貴族の懐が肥えるわけではないからだ。彼らにとって国家とは私利私欲のために存在する。
キャサリンも同席していたが、今回はおとなしく聞いているだけだった。
「むずかしくて話がわからないですわ。おカネが無くて困っているということだけはわかりましたの。なんでおカネなんかにアルカナ王国が振り回わされなきゃならないのかしらね」
まさにそのとおりである。なぜおカネを発行できるはずの国家が、おカネが足りないと言って振り回されなきゃならないのか。いずれ王立銀行を設立して、国家が自由におカネを発行できる仕組みを整えよう。兎にも角にも一つのヤマ場は越えた。疲れ切った俺は会議室を後にした。
ーーー
数時間後、ここは王都にあるジェイソンの別邸である。部屋にはレスター、ジェイソン、そして財務大臣のヘンリーの三人が居る。
「毒殺に失敗するとは何たるざまだ、ジェイソン」
レスターが苛立ちを露にしてテーブルに拳を打ち付けた。ジェイソンはレスターの言葉に眉をひそめたが、怒りの感情を押し殺して冷静に答えた。
「アルフレッド陛下毒殺の件は入念に準備したのですが、結果として失敗してしまい誠に申し訳ございません。料理人が毒の使い方を誤ったようです」
「失敗しただけではない。これまで優柔不断で無能だったアルフレッドが、毒から回復したとたん、まるで人が変わったように精力的に活動しているというではないか。毒薬ではなく、能力向上のポーションでも与えたのか」
ヘンリーが両手を広げながら言った。
「まあまあ・・・、レスター様のお気持ちもわかりますが、そう焦りなさいますな。急いては事を仕損じると申します。暗殺のチャンスは、まだまだこれから幾度もございます」
「そうかも知れないが、私は一刻も早く王位に就きたいのだ。私は待たされるのが大嫌いだ。こんなことでは、ジェイソンの望みも到底叶わないぞ」
レスターは興奮して部屋の中を歩き回り、気が収まらない表情でしばらく言葉を探していたが、やがて諦めると立ち止まり、大きく深呼吸してから言った。
「そのとおりだ、言いすぎて悪かった。次こそは吉報を待っている、頼んだぞ」
ジェイソンが深くお辞儀をするとレスターは振り返ることなく急ぎ足で部屋から出て行った。レスターの足音が聞こえなくなったことを確認すると、ヘンリーがジェイソンの傍に来て小声で言った。
「いやはや、ジェイソン様、苦労させられますな」
「なに、たいしたことはない。私としてもアルフレッドを亡き者にして、アルカナ川の工事とやらを中止に追い込まねばならないからな。」
「それはまた、どうしてですか」
「簡単な理由だ。いま王都では穀物が不足している。だから我が領地で収穫される穀物が王都で高く売れているのだ。そのおかげで莫大な利益が生まれている。もしアルカナ川が復活して王都の食料が潤沢になれば、穀物価格は下落してしまう。そうなれば私の利益が大きく損なわれてしまうのだ。アルカナ川が完成されては困るのだよ」
「なるほど。穀物が不足しているからこそ我々が儲かる。貧しい社会だからこそ我々が得をするというわけですな」
「そのとおりだ。昔から商人は買い占めによってモノ不足の状態を作り出し、価格を吊り上げて大儲けしてきた。金貸しだってカネのない連中が多いほど高い金利を要求できる。すなわち、持つものは権力を握り、持たざる者を支配できる。貧しい者はカネのために何でも言うことを聞くようになる。たとえそれが人を殺す仕事でもだ。これほど素晴らしい社会があるだろうか。民は生かさぬよう殺さぬよう、それが支配の王道だ」
「あの青臭い国王にはそれがわからないと」
「そう、まるでわかっていない。理想主義に頭がのぼせている。だから危険なのだ。なに、次はもっと直接的な方法を考えてある。次こそは必ず亡き者にしてやろう。ヘンリーはこれまで通りアルフレッド国王の動きを常に監視して私に報告してくれ」
「もちろんでございますとも。ジェイソン様こそ、この国の影の支配者にふさわしいお方です」
アルカナの国王が突然の病から復帰し、まるで生まれ変わったように意欲的に内政に取り組んでいるとの噂は、王国の貴族のみならず、すでに周辺諸国にも届いていた。そのため周辺の国々が次々に使者を派遣してきた。快気のお祝いという名目だが、実際はこちらの内情を探るためである。国王が何を考えているのか、危険はないか、それを知りたいのは当然である。
「イシル公国を代表して国王陛下の快気を心からお祝い申し上げます。ところで陛下は病から復帰されるとすぐに、これまでにない新しい政策に取り掛かっておられると聞きます。何をされようとしておられるのでしょうか」
「よくぞ聞いて下さいました。まず、遥か昔の時代、アルカナの王都に流れていたであろう大河『アルカナ川』を復活させます。そのためにエニマ川から水を引き入れます」
使者は驚いた顔で言った。
「なんと、太古の大河を王都に復活させるのですか・・・」
「そうです。昔のアルカナはその大河の恵みによって今よりも栄えておりました。その大河を復活させ、農地を潤し、収穫量を大幅に増加させる計画です」
「・・・それはまた、途方もない計画ですな。ご成功をお祈りいたします。ところで聞いたところによりますと、陛下は王都中の糞尿を熱心に集めていらっしゃるとのお話でしたが」
「いかにも。王都中から糞尿を集めて農場の一角でたい肥を作り、糞尿を利用して作物を育てる計画です」
使者は怪訝な顔をして言った。
「人間の糞尿で作物を育てるのですか・・・」
「そうです。今は行き場のない糞尿が王都に溢れておりますが、それらを肥料として利用すれば農作物の育ちが良くなるだけでなく、街が衛生的になります。ぜひ、イシル国にもおすすめしたいと思います。もしよろしければ、たい肥を作っている現場を、これからご案内いたしましょうか」
使者はひきつった愛想笑いを浮かべながら首を振った。
「・・・いえいえ、大変ありがたいお話ですが、なにぶん忙しいもので」
「そうですか、それは残念です。ご要望があれば、すぐに仰ってください」
「わかりました。本日は陛下から貴重なお話を伺うことができ、誠にありがとうございました。それではご機嫌うるわしゅう陛下、失礼いたします」
使者は妙な顔をして、そそくさと帰って行った。
それまでのアルフレッド国王の評判と言えば、頼りないお坊ちゃまというものだったが、最近は「ほら吹き大王」「糞尿殿下」というあだ名で呼ばれているらしい。言いたい放題である。それはそうと、これからは内政だけではなく外交にも力を入れなければならないだろう。そこで、アルカナが対処すべき周辺諸国についてミックに話を聞いてみることにした。
「アルカナの周辺諸国について教えてくれないか」
「承知いたしました。アルカナ王国の周辺には多数の国が存在しており、東にはエニマ川が流れるエニマ王国、北方には森の都イシル公国、北東にはネムル王国があります。アルカナ王国を含むこの四か国一帯はメグマール地方と呼ばれております。歴史的に申しますと、この地域に住む人々は、ほぼ同時期に北から南下して定住した文化的に近い存在と言われており、昔から互いに関係が深いのです」
「なるほど。それらの諸国との関係は良好なのか」
「おおむね良好と申せましょう。先王ウルフガル様の時代に、メグマール地方が南方のジャビ帝国に侵略されたことがございます。その際には、それらの諸国が団結してジャビ帝国を退けた歴史がございます。ただ時代が変わりましたので、昔ほどの関係はございません」
「そのジャビ帝国というのは、どんな国なんだ」
「ジャビ帝国というのはトカゲ族の帝国です。遥か南の地にあります。ここからのルートで申しますと、まずアルカナの西の高原地帯にありますロマラン王国へ行き、そこから南西に山岳地帯を通り、ナンタル国を超え、さらにジャビ砂漠を抜けた先にジャビ帝国がございます。非常に好戦的な国家で、周辺の人間族の国々を属国として従えております」
「それは厄介だな。その国の軍事力はアルカナより強いのか」
「それはもう、アルカナの五倍以上の兵力を有しております。ですから我が国が単独で戦えば勝ち目はありません」
「そうなると周辺諸国との協力関係が不可欠というわけだ」
「左様です。しかしその協力関係が盤石とは言えません。我々の協力関係が弱まれば、そこをジャビ帝国に突かれることになりかねません」
「いろいろ教えてくれてありがとう。これからは外交政策にもっと力を入れることにするよ。まず手始めに、エニマ王国を訪問したいと思う。なぜなら、エニマ川の河川工事の件で、ハロルド・ランス国王に直接面会して承諾を得る必要があるからだ」
「しかし陛下、わざわざ出向くまでもなく使節を派遣して交渉すれば済む話では」
「そうかも知れないが、一刻も早く工事を始めなければならないので、あまり時間をかけていられない。こちらから出向くことで誠意を見せ、確実に工事の了解を得る必要がある」
「承知いたしました。それではエニマ王国に使節を送って、陛下の訪問を申し入れます」
ーーー
十日後にエニマから使者が戻り、ハロルド国王との面会の承諾が得られた。キャサリンも行きたいと言って騒いでいたが、今回は失敗の許されない交渉なので、さすがに外してもらった。同行者は総務大臣のミック、ルミアナ、そして護衛の近衛騎士である。
エニマへ向かう馬車には、レイラ・クレイという名の女性近衛騎士が同席していた。レイラは国王のお付きである。お付きとは、常に国王のすぐそばに控える役割の兵である。レイラの装備は、銀色に光る近衛騎士専用の特注プレートアーマーである。鎧のフォルムは女性らしい体形を反映して丸みを帯びているが、二メートルの長身である上に、どっしりした体格をしており、すさまじい威圧感がある。
体格がすごい割には、顔はどことなく幼さも残る可愛らしい顔立ちだった。しかし表情は緊張感で引きつっている。膝の上に板金の羽飾りが付いたヘルメットをのせている。
レイラは、盾による固い防御術と並外れた剣術を持つ近衛騎士の若手実力者で、仲間内からは『鋼鉄の女騎士』と呼ばれているらしい。その男勝りな立ち回りから、先王ウルフガルに大変可愛がられていたらしい。先王は武芸で鳴らした達人であり、レイラはそんな王をまた大変尊敬していたという。なんと理想的な主従関係ではないか。
それに比べて新しい国王、すなわちアルフレッドは軟弱な性格で、武芸も人並以下だったらしい。おまけに転生前の俺も剣や盾など触ったことすらない。・・・これはまずい予感がする。「部下との相性が最悪のパターン」ではないか。
にもかかわらず、まさに今、エニマへ向かう馬車の中では、俺の向かい合わせの席に女近衛騎士のレイラが不動の姿勢で座っている。体の前で立てた長剣の柄を両手で押さえながら、背筋を真っすぐ伸ばして前方、つまり俺の方を向いている。
・・・気まずい。馬車の同乗者はレイラと総務大臣のミック、エルフのルミアナの合計四人である。ここは女性同士でルミアナとレイラが仲良く話をしてほしいところなのだが、ルミアナは地蔵のように黙り込んでいる。ルミアナはマイペースな性格なので、空気は全然読んでくれない。さすがにたまりかねたミックが口を開いた。
「レイラ様、王室にはスイーツを作る有名な料理人がおりまして、それはもう、城内のご婦人方に大変な人気がございます。一度でも食べれば、その気品にあふれた豊かな味わいに、誰もが魅了されてしまいます。
それで、その調理人が近いうちに城内のご婦人方を集めて、ティーパーティーを催されるとのことです。もしご興味があれば、パーティーのお席をご用意いたしましょう。ところでレイラ様は、どのようなスイーツがお好きですか?」
「スイーツのごとき軟弱な食べ物は食べません」
「そ、それは失礼いたしました。スイーツが軟弱な食べ物とは・・・では、レイラ様はどのような食べ物がお好みなのですか」
「骨付き肉です。骨付き肉にまるごと噛みつくのが最高の瞬間です」
「ほ、骨付き肉のまるかじりですか、・・・ははは、それはまた野性的ですな」
「大臣殿、私は日々鍛錬して全身の筋肉を鍛えております。筋肉を作るためには肉、ひたすら肉あるのみです。もし骨付き肉を食えるティーパーティーがあれば、喜んで出席させていただいきます」
「それは、もはやティーパーティーではございません。野蛮人の宴会です。それにしても、スイーツより骨付き肉の方がよろしいと、肉を食って鍛錬すると・・・まさしく近衛騎士の鏡のような、ストイックな方でございますな。ご立派です、あははは」
話し終えると、たちまち二人は黙り込んだ。・・・か、会話が続かない。またしても車輪の転がる音だけが車中に響く。ルミアナは寝ている。懲りずにミックが再び口を開いた。
「あー、そういえば、もうじきレイラ様のお誕生日でございましたな。お誕生日には陛下からプレゼントを頂けると思いますよ。欲しいものがあれば、陛下にお願いしてみてはいかがですか。そうですね、お履き物などいかがでしょう。レイラ様は普段、どのようなお履き物をお召しになられますか?」
「鉄下駄(てつげた)です」
「てっ、鉄下駄ですか。それはまた、すごいものをお召しですね」
「お褒め頂きありがとうございます。鉄下駄を普段から履くことで、足腰を鍛えることができます。より体を鍛えたい気分の時には、さらに鋼鉄の鎖を全身に巻いています」
「こ、鋼鉄の鎖を全身に・・・」
「それと、外出時のアクセサリーとして足に鉄球を付けることもあります」
鉄球ってアクセサリーだったのか。それにしても全身に鎖を巻き付けて、鉄球を引きずって歩いてるとはすごいな。どう見ても凶悪犯罪者にしか見えないだろ。
レイラは話を続けた。
「また、鉄下駄や鉄球は、いざとなれば凶器としても使えますので、外出の際には護身用に重宝しております。おかげで痴漢のたぐいもまったく近寄ってきません」
そりゃあ、全身に鎖を巻いて鉄下駄を履いている凶悪犯罪者みたいな女に近づく痴漢なんかいるわけないだろ。ほとんど自殺行為だ。
さすがにレイラは『鋼鉄の女騎士』と呼ばれるだけあって、性格の方も鋼鉄並みにガチガチに固い。真面目の上に馬鹿が付くほどだ。国王の手前、極度に緊張しているのかもしれないが、このままだとちょっと心配だな。
馬車はやがてエニマ川の渡し場に到着した。ここで渡し舟の待ち合わせをするのである。エニマ川は大河であり、下流での川幅は乾季でも五百メートル以上あるため、川は船で渡ることになる。渡し場はエニマ国の王都エニマライズへ向かう商人や旅人でごった返している。やがて船着き場の近くから、男たちの言い争う声が聞こえてきた。
どうやら桟橋でトラブルが発生しているようだ。