あの時からだ、僕が笑わなくなったのは。
 笑うという行為が、無意味なものに感じたのだ。

 キラキラした笑顔で人と接することができる人は、少なからず将来に可能性がある人たちであって、僕はそのカテゴリーには入れない。いや、入れないことはないのだろうが、将来というものを諦めた方が自分のためだと思う。

 今日も看護師が僕の右腕の突き出た肉の塊に、大きな針を刺した。僕の両腕にはこれまでに刺し込んだ針の跡がびっしり残っている。

 もう激痛なんかには慣れっ子だ。
 僕の横たわるベッドの隣では大きな機械がピッ、ピィ、と冷酷な音を病室に響かせる。そしてパイプを伝って僕の体内の汚れた血が、この機械に取り込まれ、洗浄されて僕の体に戻ってくる。
 このまま約4時間、僕はじっと時間が過ぎ行くのを待つだけだ。

 3年前、医者から告げられた人工透析という処置の宣告は、僕にとって絶望以外の何ものでもなかった。当時診察室で僕の隣に座って医師の宣告を聞いていた母さんは、自分の息子に降りかかった災難に泣き崩れた。

 腎炎という病気が進行し、遂には僕の腎臓が機能しなくなったのだ。僕は同じ病気の患者から人工透析の悲惨さを事前に聞いていたため、恐怖で震えた。

 当時僕は14歳。あの時、僕は将来とか、未来の輝きを失った。

 あれから、僕は笑う感情を失っている。これまで自殺したいと真剣に考えた回数は数え切れない。

 今、僕は17歳だ。
 健康な人だったら高校に通い、彼女をつくったり、遊びや部活に夢中になったりする年頃なんだろう。人工透析をするようになって普通の人のように生活ができないから、僕は自発的に高校へ進学するのを止めた。

 病院で透析を受ける日以外は、家に引きこもる生活を送っている。何かをしようと思っても、結局この病んだ体がついていかない。
 希望を見出そうとすればするほど、その度不可能だと悟ってむなしくなるから、変に希望は持たないようにしている。
 始めから諦めの境地でいたら、後で惨めな思いをしなくても済む。

 僕がいるせいで、家族は随分振り回されているように思う。

 それはまずお金。人工透析をする以前は腎炎で2年も入院していたし、それ以後にかかっている費用もきっと膨大だ。母さんに聞いたら、いろんな補助や助成があるから乗り切れるとは言うが、それでも、大変なのは間違いない。
 父さんは平のサラリーマンだからそんなに収入は高くないはずだ。僕が家族の生活を圧迫しているのか、と思うといたたまれない。

 そして母さんを拘束する時間も深刻だ。
 人工透析患者は週3回、各4、5時間は処置で時間を費やす。僕には電車に乗り、歩いて病院まで行く体力がないから、毎回母さんが車で僕を病院に送り迎えをしてくれる。
 だから母さんは家計を助けるために定職に就くこともできない。

 また食事という面から見ても家族に大きく迷惑をかけている。
 人工透析患者は腎臓が悪いので、塩分や辛子、コーヒー、胡椒などの刺激物を極力摂取しないようにする。だから水っぽい味噌汁や、塩気の全然ない焼き魚などの料理を母さんが作り、父さんやおじいさん、おばあさんまで僕の味に合わせてくれている。

 食は人が生きていく上で最も大切なものだからこそ、その味付けというものは、家族の生活を左右するといってもいい。
 それまでどんな料理にも醤油をたっぷりかけ、濃い味付けに慣れてきた家族は、きっと今の僕に合わせた薄味がつらいと思う。

 要するに、僕がこの世にいなかったら、家族全員が色んな苦痛から解放されるんだ。

 だから僕は、笑わない。
 こんな引け目を常に感じて、運命を呪う自分が、どうして笑えようか? 笑う感情を排除すれば、誰も僕に気軽に話し掛けようとしなくなる。これでいい。
 家族以外の健康的な人と会話がしたくない。健康的な人と僕とでは生活があまりにも違いすぎていて共感できないし、ただ羨ましく思うだけだ。

 考えてみれば、人工透析をするようになって諦めることを自分の美徳として受け入れるようになった。
 冷静にみても、この先僕は社会に出て活躍することもなければ、恋愛や結婚をするのも無理だ。一生家に引き篭もったまま進歩することなく年を老いていくだけなのだ。

 しかも、人工透析患者の寿命は短い。人工透析を始めて30年以上生きている人は少ないらしいから、僕の人生は、ひょっとしたら、あと20年くらいかもしれない。

 病院の処置室には、僕と同じ人工透析患者が4人いる。みんな男性で、高齢者の人もいれば、中年、20代の人など年齢もさまざまだ。

 顔馴染のメンバーではあるが、誰も会話をしない。誰もが伏せ目がちで重々しく、ただ処置が終わるのを待っている。
 僕だけでなく、他の人工透析患者にも笑顔などないのだ。人工透析患者には、健康な人たちには到底理解できないような独特の閉塞感があり、同じ苦しみを共有する人たちが集っても、お互いに前向きにはならない。

 最初の頃、処置をするこの病室の雰囲気が異様に思えたけど、今はこれが当然だと思う。看護師もこの雰囲気を察して一切笑顔を見せない。

 不気味な沈黙を引き裂くかのように、人工透析の機械がピッ、ピッと音を部屋に響かせている。恐らく健康な人だったら、ここに数分間いることすら耐えられないんじゃないだろうか。

 こうやって生涯の大半の時間を人工透析と共に過ごさなければならない。本当は人工透析などすぐにでも止めて自由に羽ばたきたいが、止めたら、僕は死んでしまう。

 僕は生きているんじゃない。この機械に生かされているのだ。

 夜の8時。やっと人工透析を終え、体重計に乗ったら体重が3キロ減っていた。ベッドから急に立ち上がったものだから、目まいがする。

 人工透析をする機械は人間の腎臓のように精密ではないので、貧血などの症状が起こりやすい。ぐったりした体をむち打って、僕は病院の裏出口へと向かった。

 診察時間を過ぎているから病院内はもう真っ暗で、緊急避難経路を示す緑色の電光掲示板が薄暗い光を廊下に投げ掛けている。

 病院を出ると、車で僕を迎えに来てくれた母さんがクラクションを鳴らした。
「体は平気?」
 車の助手席に座ると、いつも母さんはお決まりの言葉を言う。
「うん」
 そして僕もお決まりの言葉で返す。

 本当は目まいがしているのだが。
 例え体の調子が悪くても、本当に具合が悪い、などと言ってしまったら母さんは車の運転がおぼつかなくなるまでに動揺してしまう。ただでさえ感情的で精神的にもろい母さんには、元気なフリをするのが一番いい。

「お母さんね、今度カラオケに挑戦しようと思うのよ」
 ふと、母さんが口にした言葉に僕は驚いた。
「え?」
「お隣の水谷さんに誘われてね。来月、地元の北勢市民会館で市民文化祭があるから、そこで唄うつもり」
「そうなんだ」
「出てもいいかしら?」
「別に僕の許可なんかいらないよ。いいと思うよ」

 僕の住む三重県いなべ市には、毎年秋に地元のこどもから大人までいろんな人たちの絵画や書道、生け花などを展示し、またステージでは詩吟や合唱などを発表する文化祭が開かれる。
 僕が母さんの提案に反対する訳がない。今まで母さんは自分のことに見向きもせず、僕の体のことだけを心配して暮らしてきたから、カラオケを通して自分だけの時間を楽しめるのならいいことだと思った。

「それでね、……」
 母は何かを言おうとしてためらった。僕は母さんが何か企んでいる、と感じ、警戒する。
「何だよ」
「それで、……克成も出ない?」

 どうやら母さんは、僕も表舞台へと連れ出したいみたいだ。冗談じゃない。僕は身の毛がよだつ気分になる。

「嫌だよ。それにカラオケってしたことがないし」
「別にカラオケじゃなくてもいいのよ。克成はギターが得意だから弾き語りすればカッコいいじゃない?」
「嫌だ。僕が人前に出たがらないのを知ってるだろ」

 むちゃくちゃな提案をする母さんに僕は反抗した。
 母さんが自分のためにやってみるのなら応援するが、それで僕を引き合いに出すやり方が卑怯だ。
 人前には出たくない。僕の住む町は田舎だから、僕が人工透析をしているのを誰もが知っている。憐れみと同情の目で見られ、さらし者にされるのは真っ平だ。

「そう」
 僕の怒りに気落ちした母さんは、沈んだ表情で前を見て運転を続ける。そして一言も話さなくなった。

 実は母さんがこんな突拍子もない提案をして僕を困惑させるのは初めてではない。以前にも詩を書くサークルに入ってみないか、だとか絵画教室に通ってみないか、だとか言って何かをやらせようとしてきた。
 きっと社会福祉推進員とかカウンセラーが母さんに入れ知恵をしているのだ。

 僕は願わくば、静かに誰とも関わらずに時間を過ごしたい。人と関われば関わるほど車での送り迎えなどが増えて、僕は更に家族に迷惑を掛けるからだ。
 母さんはどうして、家族を思う僕の気持ちが分かってくれないのか? ただ強い憤りを感じる。
 家に着くと、珍しく先に父さんが帰っていた。居間に寝転がり、地元のケーブルテレビのコミュニティチャンネルを見ている。
 この「いなべ10」という番組は、近所の人たちや知り合いなどがたくさん出演するから楽しいらしい。

 見ている途中で、夕食の準備をしている母さんか不機嫌気味になっているのを見て、マズいと思ったのか、父さんは急に母さんを手伝い出した。
 減塩ケチャップだけをソースとしてかけたハンバーグに、ドレッシングなしのサラダ、酢の味しかしないサーモンのマリネ、薄味の味噌など、腎臓に負担をかけない料理が食卓に並ぶ。
 同居するおじいさん、おばあさんと両親、一人息子の僕は、揃って夕食を食べた。

「なあ、克成。母さんから聞いたと思うけど、文化祭に出る気ないか?」
 父さんは今日、会社でいいことがあったのか、上機嫌でビールを飲んで、僕に言う。
「無理だよ」
 僕はそうとしか答えようがない。

「やっぱりつらいか?」
「うん」
 父さんは母さんと違って回りくどい言い方はせず、ストレートに言うから幾分気持ちが和らぐ。父さんとは男同士腹を割って話ができるからいい。
 母さんは心配そうに僕の表情を見つめている。おじいさんとおばあさんは、むにゃむにゃ言いながら、のん気にほうれん草のおひたしを食べていた。

「僕は静かに暮らしたいんだ。今更社会に出て働くこともできないし、人と関わって普通に生きるのも無理だ。こういう運命なんだから、僕は納得してる。だから、僕は健康な一般の人たちと関わらない方がいいと思う」
「そうか」
 父さんは納得した顔をすると、サーモンのマリネを箸で挟み、口に運んだ。このマリネは酸味ばかりで、一般的なものも比べると食べごたえがない。酒の肴にもならないんじゃないだろうか。
 しかし、父さんは愚痴を一度も言ったことがない。

「克成ちゃんは偉いねえ。我が家の誇りだ」
 おばあさんがいつも僕を褒めてくれる。
「そうだ、そうだ」
 おじいさんは相槌を打ったが、耳が遠いから恐らく僕の言ったことが分かっていないと思う。

 僕はまるですまし汁のように透き通った味噌汁を啜った。塩分が沢山含まれる味噌が少量しか入っていないから、ダシの味しかしない。こんな風に腎臓の悪い人が家族に一人でもいると、一家の食事が激変してしまう。

 母さんは突然、涙を流した。
「そういう克成を見てると私もつらいのよ。あなたはまだ17歳でしょ? いろんなことに挑戦して生き生きとしてほしいのよ。病気だからって諦めなくってもいいじゃない」
 母さんの涙の訴えに、家族全員が黙りこくる。

 母さんに泣かれると、僕はまた迷惑をかけてしまったようでいたたまれないが、僕の主張はそれなりに正当性があると思う。

「おい、克成には克成なりの強い覚悟があるんだから」
 父さんは母さんをなだめようとする。

「どうして男は男同士だけで分かり合おうとするのよ。不公平よ。克成に押し付けるだけじゃなくて、母さんもカラオケで出演するって決めたの。これでフェアでしょ?」
 これをフェアだというのなら、母さんはものすごく身勝手だ。僕にだって普通の17歳らしくできるものならやってみたい。でもできないのだ。

「そんなことしたら、また送り迎えや何やらで母さんに負担が掛かるんだよ。分かるだろ? もうできるだけ迷惑かけたくないって思う僕の気持ちが」
「別に迷惑を掛けてもいいじゃない。家族なんだから」
 母さんは僕の主張を一歩も譲らない。もはや意地になって自分の意見を通そうとしている。
 また始まった、と言わんばかりにおじいさんとおばあさんは知らん顔をして黙って箸を進める。

「父さんはな、克成の意思を尊重したい。でもな、母さんの言い分も分かる」
 突然、父さんが中立宣言をした。これで僕は家庭内の論争で分が悪くなる。

「昔、克成がギターを弾き語りするのが好きだったんだけどなあ」
 それとなく父さんは僕に折れるように促す。ギターの弾き語りでステージに出ろ、ということだろう。
 さすが仕事で営業をしてるだけあって、巧みな交渉術だ。
 そうよ、と急に母さんも勢いを取り戻した。

 確かに僕は中学生の頃バンドを組み、地域のイベントに出てはギターを弾いて唄っていた。腎臓病をする前は目立ちたがり屋で、何事にも積極的だったのは認める。
 でも腎臓病と人工透析という逃げられない状況を受け入れて、僕は変わってしまったのだ。もう3年以上、まったくギターに触れていない。触りたくないし、弾きたくない、というのが本音だ。
 ギターを弾くと元気だった昔を思い出しそうで嫌なのだ。

「ベートル何とか、克成ちゃんお上手だったねえ」
 ついにおばあさんまでも、同調してしまった。おばあさんの言う「ベートル何とか」とは、多分昔僕がよくコピーをして唄っていたビートルズのことだと思う。
 中学生の頃、僕はませていて、洋楽のオールディーズが好きだった。

「それとね、その発表会には聖奈ちゃんもピアノ演奏で出るんだって」
 父さんの後ろ盾を得て強気になった母さんは、懐かしい名前を出した。僕からすれば思い出したくない名前だ。

「ほお、聖奈ちゃんも。可愛くなっただろうな」
 父さんは嬉しい顔をした。
 聖奈さんは僕が健康だった頃付き合った、最初で最後の彼女だ。当時は中学生だから、付き合っていた、なんて言うのは大げさかも知れない。ただ二人で一緒に通学し、電話で長話をした程度のものだ。

 昔は聖奈が僕の家によく遊びに来たから、両親もよく知っている。病気をしてから、僕はここ数年、聖奈への想いを胸の奥に無理矢理しまい込んでいた。
 聖奈に今でも会いたいと思う気持ちはある。でも僕は今、こんな体だ。だから僕は諦めるしかないと思う。
 それに聖奈は、今、違う男と付き合っているのを母さんから聞いて知っている。

「聖奈が出るんなら、ますますステージに出たくないよ」
 今の僕の惨めな姿を、昔好きだった聖奈には見せたくないから僕は必死になって言った。
 聖奈にはもう違うカレシがいる。僕には人工透析をしているという劣等感がある。
 それに会場で会い、一度は諦めた恋心が蘇ってしまったら、本当に僕は生きていけなくなる。
 こんな状況なのに、どうして家族が僕を苦しめるのか理解できない。

「何言ってんのよ。あんた、男でしょ?」
「男だからとか女だからって言うの、母さんの頃は問題なかったかもしれないけど、今は、ちょっとマズいって」
「それが何よ。私からすれば他の男に走る女なんか最低よ。カッコよくステージで決めて、見返してやりなさいよ」
 感情的になった母さんには手がつけられない。かなり私的な感情が入っている。
 どうも母さんは他の男と付き合っている聖奈に復讐心を持っているみたいだ。

「そんなことしても意味ないだろ」
「あるわよ。女は一途であるべきよ」
「いや、だから男とか女って言っちゃダメだって。それに一途なんて、そんなの演歌の世界だけにしかないってば」
 僕と母さんの押し問答を、父さんは笑った。そんな悠長な事態ではないのだが。

 かくして家庭内の夕食国会で繰り広げられた市民文化祭出演是非論争は強硬派の母さんの意見に押し切られることとなってしまった。
 もう人前に出たくない、という人工透析患者としての僕の切なる願いは聖奈に再会したくない想いへと摩り替わり、その人間としての未熟な部分を突いた母さんが僕を論破したのだ。
 聖奈にどんな顔をして会えというのだろうか?
 もう僕は昔とは違う。聖奈とは住む世界が違うのだ。僕の唄う姿を見て、かわいそうに、なんて聖奈に思われたら本当に死んでしまいたくなる。
 僕のナイーブな心境はやっぱり親でも分からない。きっと、人工透析患者という立場を経験したことがないからだ。
 この日から僕は、市民文化祭に備えて、恐怖で震える毎日を送るはめになった。

 人工透析をしないで家にいる時間、僕は何かをする訳ではない。だいたい何時も自分の部屋で本を読んだり、テレビを見たりして家の中でだらだらとしている。何もする事がないという苦しみにも慣れていたから、逆に今は何かをしなければいけないというのが苦痛だ。

 市民文化祭でステージに立つため、僕は数年ぶりに押入れにしまってあったギターを取り出し、弦を張り替えた。ギターを手に持つ感触が懐かしい。
 これは、僕が12歳の時に買ってもらったギブソンというメーカーのアコースティック・ギターだ。昔のようにすいすいとチューニングができない。
 ようやく六本の弦が正しい音を出すようになると、コードCをピックで軽くストロークしてみた。

 ド、ミ、ソの純正な音が重なり合って美しい。ギターにのめり込み、聖奈を愛した当時が頭に蘇ってきて、僕は悔し涙が止まらなかった。

 どうしてこんな体になってしまったのだろう?
 どうしてこんな考え方がネガティブになってしまったんだ?

 昔は負けるのが嫌いで何事にも必死だった。しかし今は全てを諦めようとしている。諦めることに納得している。こんな人生に意味があるのだろうか?
僕は悔しくてたまらなかった。

 泣きながら、僕はビートルズの「オウ・ダーリン」のコードを弾いて唄ってみた。中学生の時、聖奈に聴かせた思い出の曲だ。
 あの聖奈は僕の歌を聞いて、カッコいい、と言ってくれた。
 でも今は、泣いているから上手く唄えない。昔みたいに高い声も出ない。もうあの頃に戻れないのだ。

 やっぱり僕が馬鹿だった。健康だった昔の気分に戻れたらいい、などとわずかな期待をしてしまった僕が馬鹿なんだ。

 ギターが急に憎く思えて、部屋の端へ放り投げる。壁にぶつかった弦が痛々しい不協和音を奏で、僕の心を切り裂いていった。

「どうしたの?」
 僕の部屋から響いたギターの悲鳴を聞いて、心配した母さんが僕の部屋に入ってきた。僕が泣いているから、母さんは驚いている。

「無理だよ。できないよ」
「まだ何もやってないじゃないの。やってないのに無理って決め付けるのはおかしいでしょ?」
「母さんには分からないよ。僕はこれで精一杯なんだ。ギターを弾くと思い出したくないことばかりが頭に浮かぶ。元気だった頃は、毎日が輝いてたよ。でも病気になって僕は全部失った。聖奈も僕を見捨てた。それでいいんだ。人工透析している僕みたいな人間は、叶わない願いなんて持つもんじゃないよ。期待した分だけ後で虚しくなるだけだ。僕は負け犬だ。負け犬で結構だ」

 泣きわめく僕を見て、母さんは黙り込んだ。自分が息子を苦しめていることを自覚して、苦悶の表情を浮かべる。しかしすぐに僕を厳しい目で睨みつけた。

「ギターを弾きなさい」
 母さんは容赦なく僕を追い詰めて言った。
 僕には母さんの考えていることがさっぱり理解できない。まるて弱い者いじめを楽しんでいる鬼のようだ。

「できないって」
 僕はかたくなに断る。どうしても僕の気持ちを母さんに分かって欲しかった。

「あなたは生きているのよ! なのにあなたの目は死んでいるじゃない。人は生きている以上、社会と関わって生きていく必要があるのよ。どんなにつらくても逃げちゃダメ」
 母さんが大声で僕を叱った。でも僕も譲れない。
「生きているんじゃない! 人工透析の機械に生かされているだけだ」
 僕が大声で叫んだ途端、今度は母さんが泣き出した。
 母さんに泣かれると、つらい。

「私を恨みたいのなら恨みなさい。こんな母親でもやっぱり克成を大切に思うから、厳しくせざるを得ないの。克成はきっと私の想像を絶する苦しみを抱えているんだと思う。17歳でそんな苦しみにじっと耐えている克成は立派よ。でもね、どんなにハンディを背負った人でも激痛を感じながらそれでも乗り越えなきゃいけない社会の壁があるのよ。だって生きているんだから。生きるということは社会と関わることだよ。引きこもっている克成には分からないだろうけど、世間は本当に広くて色んな考えを持った人がいるんだって。人と交わらなきゃ自分の本質だって分からない。あなたにはいろんなものを見てさまざまな人と接し、視野を広げてほしい。逃げちゃダメなのよ。克成は私の大事な大事な一人息子なんだから、絶対、逃げちゃダメなのよ」

 母さんの説得に僕は言葉を失った。
 母さんは母さんなりに僕のことを一生懸命に考えてくれているのは、もちろんよく分かっているし、言っている意味も分かる。
 しかし、今回、ステージでちゃんとパフォーマンスをできるだろうか?

「昔みたいに上手く弾けないし、唄えないんだ。それでもいいの?」
 僕は改めて、不甲斐ない結果になることを想定して母さんに聞いた。
「テクニックじゃないよ、音楽は。男も女も芸事も皆、大切なのはハートでしょ?」
 また母さんは演歌歌手みたいなことを言う。人生は浪花節のようにはいかないと思うのだが。

「いきなり聖奈と再会するなんて刺激が強すぎるよ。普通はまずリハビリからスタートするもんだろ?」
 母さんは笑った。さっきまで泣いていたかと思うと今度は急に笑う。
 母さんは感情の起伏が激しいから、ついて行くのに一苦労だ。

「他のことにチャレンジして人と接しようとするのなら、別に今回の市民文化祭は出なくてもいいのよ。断るのなんて簡単なんだから」
「へ? そうなの」
 どうも母さんの真意を理解しかねる。だって先日の夕食で、聖奈を見返してやれ、と私的感情を込めて言ってたくせに。

「出てほしいのは出てほしい」
「どっちなの?」
「だって家族で私一人だけがカラオケに出るって恥かしいじゃない。ご近所さんの付き合いがあるから断れないし」
 悪い顔をして母さんが言う。さっき僕を説教した勢いはどこへいったのだろうか?

「何か僕を騙してない?」
「克成は私の子どもなんだから、親に騙されて当然なの」
 とうとう母さんは開き直った。そしてまた大声で母さんは笑う。
「嘘よ。私が一番言いたいのは、社会と関わってほしいってこと。何か別のことに挑戦するんだったら、今回の市民文化祭は出なくてもいいのよ」
「そうなんだ」
 でも母さんはきっと市民文化祭に僕が出てほしいと思っている。

「たった一つだけ忘れないで。克成は生きていんだし、生きるために人工透析をしているの。絶対に生かされているなんて思っちゃダメ」
「うん」
 そして母さんはすっきりとした顔をして部屋を出て行った。

 母さんが言うように僕は今まで、体は生きていたが魂は死んでいたような気がする。僕は新たに一歩踏み出し、成長しなければいけない時期に来ているのだろうか?

 とにかく、聖奈と鉢合わせになる市民文化祭に出なくてもいいと言われたから、僕の肩の荷が下りた。
 でも自分が今後どう外に出て、人と関わって生きていくかを模索していかなければならない。いずれにしてもこの苦しみはずっと続くのだ。
 今日もギターの練習を終えてから、僕は人工透析をするために母さんに病院へ送ってもらった。
 今日は体調がいい。病院内の処置室まで歩く足取りが軽く感じた。体調が悪い日だったら朝起き上がるのもつらいし、少し歩いただけですぐに足に疲れが溜まるから、座って休憩しなければいけなくなる。
 今、僕は若くて体力があるからいい。この先時間が経っていくと、その症状がだんだんひどくなって体がついていかなくなるのを想像すると、ぞっとする。

 病院内の皮膚科外来の奥にある処置室のドアを開けると、重い絶望の雰囲気が漂ってきた。僕はこの雰囲気に呑まれないにしようと自分を奮い立たせた。

「じゃあ、体重計に乗ってください」
 受付を済ませると若い女性の看護師が小声で僕に話しかけ、問診表に体重を記入する。
 会話をしたことがない、顔馴染の患者は奥でもう人工透析を始めている。手前のベッドに行くと、隣に初めて見るおねえさんの患者がいた。20代後半くらいだろうか。長い髪は薄く茶色に染まり、痩せていて、……キレイなおねえさんだ。

 そのおねえさんはパイプを伝って出て行く自分の血液を見て怯えている。顔色も悪い。人工透析を受けるのがきっと初めてなのだ。
 人工透析をしなければならない自分の運命をまだ受け入れられないで、普通の生活に戻りたくてしかたないのだろう。人工透析をし始めたばかりの当初、僕がそうであったように。

 若い男性の看護師がやってきて、僕の左の二の腕に大きな針を刺した。最近ずっとこの左腕の同じ場所ばかりを刺し続けてきたから、もうすぐこのポイントは使えなくなる。
 人間の体は同じ場所に針を刺し続けると、肉が盛り上がり、肌がかさかさに乾燥して使いものにならなくなるのだ。そうなると両腕の何処かに新しいポイントを探し、またそこが潰れるまで針を刺し続ける。
 僕の汚れた血が機械へと取り込まれていった。これから4時間の長丁場だ。隣にいるおねえさんが気になった。
 こんな綺麗な人が人工透析をするなんて世の中は不公平だ。僕は腕に幾ら傷があろうとも平気だけど、おねえさんはきっと、そうはいかない。心の中で相当、落ち込んでいることだろう。

「あの、初めてですか?」
 僕は隣にいるおねえさんに思い切って話し掛けてみた。
 僕が通う病院の人工透析を行う部屋で患者同士が会話をするというのは、かなり珍しい。別にしゃべっちゃいけない訳ではないが、なぜかタブーめいたものがある。
 僕が積極的に隣のおねえさんに話しかけるのを見て、看護師が驚いていた。

「はい。今日からです」
 おねえさんは強張った顔を僕の方に向けて答える。細い目が印象的だ。
「世古克成と言います」
 おねえさんの名前が聞きたかったから、僕は先に自分の名前を言った。
「多田香織です」

「あの、……人工透析って、そんな悪いことばかりじゃないですよ」
 僕は何とか多田さんに元気を出してもらいたかったから、口からでまかせを言う。

「そうですか?」
 多田さんは沈んだ表情で答えた。
「そうですよ」
「前向きに生きたいと思うんですけど、やっぱり私は弱くて。人工透析をしていて何かいいことって本当にありますか?」
「ありますよ」

「例えば?」
 僕は返事に詰まった。正直なところ、ないのだ。でも大見得を切った手前、多田さんにないとは言えない。

「例えば、例えば、……」
 多田さんは僕がこれから出す言葉にすがるように凝視している。

 動揺した僕は、もうどうにでもなれ、と思って口を開いた。
「例えばこれから週に3回も、僕という、若い10代の男と長い時間、一緒にいられるんです」
 言っている自分が恥かしくなって顔が赤くなった。僕にできる精一杯のユーモアだ。

 しかし奇跡は起こった。

 さっきまで気力を失っていたかのように見えた多田さんが笑った。笑う多田さんはまた美しい。
 そしてこの会話を聞いていた数人の看護師たちもくすくすと皆笑った。いつも沈黙と絶望だけに支配されてきた暗闇の処置室から笑い声が響いたのだから、これは天変地異が起こったとしか言いようがない。

 しかし僕は笑うという表現方法を忘れてしまっているから、状況をすぐに理解できないでいた。
 たった一人、笑うという感情を失った僕だけが真面目な顔をしている。そしてそれが更に多田さんと看護師たちを笑わせていた。

 何となくではあるが、僕は自分の発言が人の心を動かしているのを実感した。これは不思議な感触だ。
 自分ではなく、人が喜ぶ姿を見るとなぜか自分まで幸せに感じてしまう。こんな風に感じるのは、人工透析を始めて以来、初めてだ。

 母さんの言う「社会と関わって生きる」というのは、ひょっとしてこういうことを指すのだろうか?

 例え数人かもしれないけど、今、僕が人に元気を与えたとするならば、僕はここにいる意味があるように思う。
 この目の前にある機械が僕を生かしているんじゃなくて、僕は自らの力で生きるために人工透析をしている気持ちになれた。

 多田さんに勇気を出して話しかけたことで、僕は大きな発見をした。例え傷ついてでも人と接するのは、確かに母さんの言う通り必要なんだ。

 人工透析を終えると、病院の裏出口を通って、母さんが待つ車へと乗り込んだ。
「何かいいことあったでしょ?」
 助手席のドアを開けてすぐ、母さんはお決まりの「体は平気?」と聞いてこなかったから僕は驚く。

「ねえ、何かいいことあったでしょ? 例えば看護師さんに美人がいたとか?」
 僕は母さんに全てを見透かされているみたいで、怖くなる。
「別に」
 僕は、何もなかったように言う。
 今日病院で出会った年上の多田さんについては、大切に僕の胸の内だけにこっそりしまっておきたかった。いくら親といえど子どものプライベートな部分まで土足で踏み込むのはずるい。

「嘘おっしゃい。顔が生き生きしている。こんな克成の顔を見るのは久しぶりよ」
「何でもないよ」
「克成が何でもない、って言うのは何かあるの」
「まあ、人工透析も悪くないかなって、思えただけだよ」

「女ね」
 母さんの洞察力はすごすぎて怖い。
「それよりさ、やっぱり市民文化祭に出るよ」
 僕は生きて輝くために、苦しみを受け入れる覚悟を決めて母さんに言った。
 僕は今日、少しだけ強くなれた。
 単純なものだ。これから人工透析の度に多田さんに会えると思うだけで勇気と元気が沸いてくる。

「え? 聖奈ちゃんに会うのがつらいんじゃなかったの?」
「逃げていたって始まらないよ。まだ僕の人生は始まったばかりなんだから」

 僕は、いい意味で聖奈に魅せつけてやろうと思えた。それは憎しみや妬みといったネガティブな感情からではなく、聖奈への感謝の気持ちからだ。
 母さんは僕の急激な変わりように納得がいかないようだ。

「新しい女ね。どんな人なの?」
「関係ないだろ。生きている実感をステージで得たいんだよ」
「克成は若い時のお父さんと似ているから、すぐ分かるのよ」
 なるほど、母さんの言い分はもっともだ。僕は母さんとまた押し問答をしながら、車は賑やかな家に向かって突き進んだ。
 体調の悪い日があってギターの練習はすんなりとはいかなかったが、それでも少しずつ練習を重ね、徐々にギターを弾き語りをする感覚が蘇ってきた。
 市民文化祭で僕に割り当てられたステージの持ち時間は8分だ。唄えても2曲となる。

 どの曲を唄うか吟味した結果、ジョン・レノンの『ウーマン』と『イマジン』に決定した。『ウーマン』は、僕に献身的に尽くしてくれる母さんに感謝の気持ちを込めて選曲した。女の子に感謝する詩とメロディーが美しくて僕は好きだ。
 そして『イマジン』を選曲した理由はウクライナの戦争が痛々しいからだ。僕のような社会的弱者だからこそ、平和を訴えかける必要性を感じる。

 唄い続けるにつれ、声が出るようになってきた。
 ギターを弾く度、健康だった頃の追憶が僕を苦しめはしたが、僕は負けない。
 ステージに立つことでかわいそうだと一方的に同情され、さらし者になったとしても僕は構わない。家族だけは、きっと僕のこういう生き方を評価してくれるから。それだけで十分じゃないか。

 市民文化祭の前日、人工透析の処置室に入ると多田さんが先に人工透析を始めていた。わざわざ僕は多田さんの隣のベッドに横たわる。僕は多田さんと何回か会ううちにすっかり打ち解け、仲のいい友だちになっていた。

「あの、体は大丈夫ですか?」
 まだそれだけしか僕は話しかけていないのに、多田さんはくすくすと笑っている。そして僕はまた顔が赤くなる。

「同じ症状でここに通院しているのに、自分よりも私を心配するなんて、克成くんは優しいね」
「そう、ですか?」
 また多田さんは笑う。僕は精神的な障害も影響して、まだ笑うことができない。
 奥で人工透析をしている顔馴染の患者は、いつも通り伏せ目がちにしていた。
 この暗い現場で笑うのは、多田さんだけだ。

「あの、よかったら明日って時間あります?」
 緊張するが、男ならば人生の中でどうしても勝負をしなければいけない時が何度かある、かな? 経験が少ないからはっきり言えないけど、あると思う、多分。

「何? デートに誘ってくれるの?」
 多田さんは大人だから、うまく茶化す。だが僕はひるんではいられない。

「明日僕、地元の北勢市民会館で開かれる市民文化祭でステージ発表をするんです。もしよかったら、来ていただけたら、なんて……」
「何をするの?」
「それは来るまで秘密です」
 また多田さんが笑った。僕もこんな顔をして自然と笑えたらいいな、と思った。

「何時から?」
「予定は午後1時15分頃。たった8分間の戦いです」
「じゃあ、体の具合が良くて車の運転ができそうだったら行くわ」
 勝負あった。僕は見事に多田さんを誘うのに成功した。ただ、体調がいい、という条件付きではあるが。

 人工透析をしていると、体調まで配慮して予定を立てなければいけないから不便だ。でも同じ苦しみを味わっている多田さんが見守っていてくれるなら、ステージで僕は無敵のヒーローになれるような気がする。
 僕はステージに上がる自分の体よりも、多田さんの体が良好であることを願った。
 聖奈と再会する市民文化祭の当日がやってきた。
 会場の北勢市民会館には近所のおばちゃんやおじちゃんなどの顔が目につく。前日まで高いモチベーションをキープしてきた僕だったが、会場に足を踏み入れてすぐに健常者の人々の喧騒に圧倒され、恐怖心を覚えた。

 気分の問題かも知れないが、どうも体調がよくない。この会場のどこかに聖奈がいるのだ。

「おい、克成。大丈夫か?」
 車で会場に送ってくれた父さんが僕の顔色を見て心配する。
「大丈夫だよ」
 強がって僕は返事し、父さんと一緒に会館内に特設されたステージへと向かった。

 北勢市民会館は立派な建物で、施設の中は美しいけれど、かなり老朽化もしている。この中にあるさくらホールが会場だ。
 僕よりも出番が早い母さんは、先に会場に入り心の準備をしているらしい。施設内では地元の人たちの絵画や書道、生け花などが展示されているが、僕には歩き回って眺めるだけの体力がない。だから、ステージ前に置かれた観客用のパイプ椅子に座って出番を待った。

 もうステージでは老人クラブの剣舞や地元小学生の合唱などが始まっている。観客席には全部で50人位の近所の人たちが集っていた。

「克成くん!」
 聞き覚えのある声が背後から聞こえた。

 振り返ると、そこに聖奈が立っている。

 僕が最も恐れていた場面に早くも遭遇してしまった。聖奈はまるで変わっていない。いや、少しだけ大人っぽくなったか? ショートヘアーに、日焼けした顔は昔のままだ。

「久しぶり」
 返事する僕は動揺して手が震えた。聖奈は泣いている。

「聖奈ちゃん、懐かしいな。かわいくなったなあ」
 父さんは聖奈がお気に入りだったから、嬉しそうな顔をして僕の隣に聖奈を座らせた。

「元気だった? 体は平気なの?」
 聖奈は泣きながら、話しかけてくた。
「ああ。まあ、元気にやっているよ」
「私のこと、恨んでいるでしょう?」
 隣で聖奈が泣くものだから、観客席に座る周りの人たちが僕をジロジロと見る。
「恨んでないよ。聖奈は間違ってないよ。だから気にしないで」

 聖奈をなだめようと言ったこの言葉は、まぎれもなく僕の本心だ。僕が健康なままだったら、今頃僕は聖奈と一緒にここへ来ていたのだろう。
 しかし、今はこれが現実だ。僕は聖奈を責めたくなかった。

「本当? 本当?」
 僕の言葉でやっと長年の罪の意識から少しずつ解放されたのか、聖奈は落ち着いてきた。そしてお互い近況を簡単に報告すると聖奈は自分の発表する出番が近いから、とステージ脇へとスタンバイに行く。

 僕は聖奈との再会を乗り越えたので、安心した。これで僕自身も何か一つ前に進んだような気持ちになる。

 先にステージで繰り広げられた母さんのカラオケは、お世辞にもうまいとは言えなかった。出番を待つ僕よりも緊張し、メロディー・ラインが外れている。
 母さんの唄う演歌は、誰の何という曲かすら分からない。きっと僕が歌を得意とするのは父さん譲りなんだ。
 唄い終わると父さんは温かい拍手を母さんに送った。つられて僕や周りの観客も拍手した。

「克成の出番はまだかい?」
 おじいさんとおばあさんが自転車で会場に駆けつけ、僕と父さんのいる後ろの席に座って言った。足腰が悪いのに、僕の演奏と歌を聞くために来てくれたのだ。
「まだだよ。あと3組終わってから僕の出番だ」

 ステージのプログラムを見ながら、おばあさんに説明する。おじいさんは耳が遠いから、全然状況が理解できていないとみた。母さんがステージから戻って僕の隣に座る。

「どうだった? 母さんのステージはどうだった?」
 興奮気味に話す母さんは、きっとうまくできたと勘違いしている。僕は返事に困った。

「なんかこう、枠にとらわれないで、伸び伸びした感じが良かったよ」
 僕は、今日初めて嘘をついた。

 ステージには聖奈が登場し、ピアノで坂本龍一の『戦場のメリークリスマス』を弾いている。見事だ。聖奈は僕よりも音楽の才能がある。
 鍵盤を叩く聖奈は才色兼備のお嬢様そのものだ。会場の人たちは聖奈の奏でるしっとりとしたメロディに酔いしれ、静まりかえっている。

「負けちゃダメよ。克成はこの街で一番歌が上手いんだから。叩きのめしてらっしゃい。実力で蹴散らしてきなさい」

 出番が迫る僕に、母さんは元気付けようと声をかける。でもちょっと言葉が過激で乱暴だ。ステージでカラオケをした興奮が、まだ母さんから抜けきれていない。

「未練も慕情も全部、流してしまえばいいのよ」
「母さんの言う言葉は、演歌でしか通用しないって」

 もうそろそろ、僕はステージの脇にスタンバイしなきゃいけない。
 僕には気がかりがあった。多田さんの姿が見えないからだ。ひょっとして体を悪くしたのだろうか? 周りを見渡している僕を見て、母さんは不審に感じ始めた。

「どうしたの?そわそわして」
 まずい、また見透かされてしまう。
 こういう時、家族は厄介だ。僕は多田さんという存在を家族に話していなかった。

「誰か来るのを待っているの?」
 だんだん母さんが核心を突いてくるので、僕は焦って額から汗が流れた。震える手でギター・ケースからギブソンのアコースティック・ギターを出して抱きかかえる。

「ははーん」
 ついに母さんに感づかれた。そして僕は観念する。
「そうだよ、人工透析の処置室で知り合った友だちが来るかもしれないんだよ」
「女でしょ?」
 本番直前のこの期に及んで、母さんは意地悪な態度を取る。あなたの息子だよ、僕は。
 本番前で僕に余裕がないことくらい分かっているくせに。

「え? 克成の彼女が来るのか?」
 父さんは聖奈に見せたような嬉しい顔をして僕に聞いた。父さんは若い女の人に関する話だとすぐに反応する。

「え? 克成ちゃんの……。あらら」
 おばあさんまで僕の話に興味を持ってしまった。
「おじいさん、克成ちゃんのね……」
 しかもおばあさんはおじいさんに分かるように耳元で説明をしている。

 ほのぼのとした田舎の平和な家族内においては、噂は急速に伝わってしまう。しかも悲しいかな、情報はどんどんねじ曲げられていく。

「女には心意気を見せるんじゃ!」
 おじいさんはもごもごとした口調で訳の分からないことを言う。僕は出演する前にどっと疲れた。

「もう行くから」
 僕はステージの脇へ移動しようとギターを持って立ち上がった。
「頑張ってね。別に失敗したっていいのよ。克成が自分らしくいてくれたら」
 母さんは最後にやっと僕を心配してくれた。しかもステージに向かう僕を、自分のことのように喜んで涙を流している。

「続いては、エントリー・ナンバー20番。世古克成さん」
 司会者がコールして、僕はステージのマイクの前に立った。

 人前で唄うのは久しぶりで、足が震える。会場がザワついているのを感じ取った。

 ──人工透析をしている世古さん家の子じゃないの
 ──あの子、体は大丈夫なの?

 ひそひそ話がステージにいる僕にまで聞こえて、更に動揺する。
 ステージから見ると、観客は見慣れた近所の人たちばかりだ。父さんはビデオカメラを構えて、ステージの直ぐ下で撮影しようとしている。
 聖奈は観客席の端から両親と見ている。

 やりづらい状況だ。
 会場の雰囲気に呑み込まれた僕は、記憶しておいた歌詞とコードが吹っ飛んでしまった。なかなか演奏を始めないから、ますます会場はザワついた。

 また劣等感に悩まされて、弱い自分の殻に閉じ篭ってしまいそうで怖い。目まいがして、肩で抱えるギターの重さに押し潰されそうになる。

 もう無理だ、と思ったその時、勝利の女神が僕に微笑んだ。

 会場の一番後ろに、多田さんの姿が見えた。

「克成君、頑張って」

 多田さんがかけてくれたこの言葉が、僕を強くさせる。

 家族は皆ステージの僕ではなく、後方にいる多田さんを見ている。

 人工透析をする以前、僕はギターを持って人前で唄ったら無敵だった。その昔の自信が蘇る。

 僕はギターの弦を引きちぎる勢いで、激しくピックでコードを掻き鳴らした。僕のギターの迫力に圧倒されて、会場の人たちは急に黙り込む。
 そして、僕特有のしゃがれた声で唄い出した。

 母さんへの感謝の気持ちを込めた『ウーマン』という曲。ちゃんと母さんに届いているのだろうか?
 家族は目を閉じて聞いている。父さんはビデオカメラで色んなアングルから撮ろうと必死だ。

 多田さんは優しい微笑みを僕にくれる。

『ウーマン』を唄い終えると、会場は一瞬の沈黙を置いてから拍手が鳴り響いた。手応えを感じた僕はどんどん自信が沸いてくる。

 僕はすぐに次の曲を演奏せずに、一呼吸置いてマイクで曲紹介をした。

「続いてはジョン・レノンの『イマジン』を唄いたいと思います。僕は人工透析をしてもう3年になりますが……」

 これまでの引きこもっていた日々を思い返して、言葉に詰まる。

「……気に入らないんです」
 押しつぶしていた感情が湧き上がってきた。

「腹が立ちます、東ヨーロッパの今の戦争が。僕と違って体力がある大人たちが、その体力をムダに戦争で使ってしまって、それでたくさんの人が死んでいる。そんな体力をムダにするくらいなら、正直、僕にほしい! こんなムダな戦争がなくなって、早く平和になることを願って唄います」

 会場は割れんばかりの拍手が響きわたった。

 僕はピックを上着のポケットに仕舞い、右手の指で弦を弾いて静かに演奏する。アルペジオ奏法と言われるものだ。
 バラードにはこの奏法が上手くマッチする。

 どうか誰もが劣等感に悩むことなく、しっかりと自分を見つめ、幸せに生きてほしい。
 唄いながら僕は、心の中で祈り続けた。

 『イマジン』を唄い終えた直後、会場はまた一瞬、静まり返る。

 しばらくして、多田さんが拍手してくれた。多田さんが泣いている。

 そして遅れて僕の家族が拍手をした。

 するとその拍手に先導されてやっと会場の人たちが立ち上がって割れんばかりの拍手をしてくれる。

 僕は、ステージ発表をやっと終えた。

 多田さんが涙を流しながら、僕にまた笑顔をくれる。僕は生きている嬉しさに、体が震えた。

 僕は、ここにいる。
 ここで唄い、ちゃんと自分が生きている証を残せた。

 健常者たちにも負けないくらい、今の僕の人生は充実している。

「ありがとうございました! やった、できた!」

 ステージで僕は大きな雄たけびをあげると、ふと、僕の固い顔の表情が緩む。

 ……ん?

 手で自分の顔を触って、表情を確認してみた。

 笑っている!

 笑うことを失っていた僕が、笑っている。

 僕は「機械に生かされている」という呪縛から、ついに解放されたのだ。

 みんな、ありがとう。
 多田さん、僕にも笑うことができたよ。

 僕はステージ上で、いつまでも雄たけびをあげ続けた。(了)

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