土曜日と日曜日は久しぶりにお天気が回復するでしょう、との予報だった。そのとおりになった。気象予報士は湿度の高い晴天になるでしょうともいっていた。そのとおりになった。長くつづいた雨のせいで空気がじっとりと湿っぽい。
 雨の日と変わらないほど重たく、体じゅうにまとわりつく空気を、自転車をこぎながら浴びた。こいでもこいでもべったりとした空気が離れない。
 書店の駐輪スペースは半分ほどが埋まっていた。空いていた隅に自転車をおいて、押しても引いても開くドアを押し開けてエントランスに入り、店内につづく自動ドアをくぐる。図書館のとは違う、静かに開閉する自動ドア。
 店内は外に比べて空気がからりとしていた。
 左手前に広がる文房具売り場に入る。シャープペンシルやボールペンや修正ペンなんかと一緒にずらりと並んだ消しゴムを眺めて、手にとったのはピンク色のカバーがついたもの。もっと有名な商品も並んでいるけれど、これが気に入っている。今使っている、ずいぶん前に裸になってしまった消しゴムは、これとおなじオレンジ色のカバーがついていた。今回ピンク色を選んだのは、……図書館の傘たてでよく目が合う、あのくまのキャラクターのせいかもしれない。あの傘は友だちのものだった。
 「あ!」と声がして、どきりとした。声の聞こえたほうを見てみるけれど、その先にいたのはわたしの知らないひとで、わたしの知らないひととの遭遇をよろこんでいた。きょうは晴れている。——きょう、わたしは書店にきている。友だちとは雨の降る図書館でしか会ったことがない。友だちが、雨の日にだけあの図書館に現れる、不思議な美しい妖精かなにかででもあるように。

 日曜日が過ぎれば、雨はまた降りだした。いつもどおりに見える月曜日、ふと、ちいさな変化に気がついた。
 雨降りの昼休み。教室の真ん中のあたりで、おおきな笑い声が弾けた。本のページから顔をあげて、声のしたほうを見る。なにも思わないままページに視線を戻して、それから気がついた。ああ、うらやましいと思わなかった。あのなかに入りたいと、わたしはみんなのようにはなれないと、思わなかった。ああ、そうか、わたしは満ち足りている。
 放課後、図書館に向かった。土曜日、文房具売り場から知らないひとと知らないひとの遭遇をよろこぶ場面を見たときとは違う、安定した心持ちで。だって雨が降っているから、図書館にいけばきっと友だちに会える。雨降りの図書館に、あの美しい友だちは現れる。雨天がわたしにその姿を見ることを許す、妖精のように。
 傘を閉じて、エントランスに入る。休憩スペースにはだれもいなかった。わたしはすっかり定位置になった机に向かい、長椅子に座った。傘の持ち手を指先で撫でながら、友だちの現れるのを待つ。
 ずいぶん長く感じる間、閉じたドア越しに雨の音を聞いた。館内から本を抱えたひとがでてきて、両開きのドアからひとが入ってきて、それからようやく、両開きのドアから友だちが入ってきた。やわらかく微笑んで手を振る友だちに、手を振り返す。
 何気ない話をした。何時間目かの授業の感想とか、ある時間に先生が突然怒りだしたとか、廊下で滑って転びそうになったとか。
 そんななかで、友だちがふっと目を伏せた。
 「どうしたの?」
 「わたしが、噓をついてたっていったら、どうする?」
 「噓? さっきまでの話に噓があったの?」
 「さっきまで……といえば、まあ、そうなるのかな」
 「ええ?」といってわたしは笑った。「なんだろう……」
 「ねえ」
 弱々しい声に、へらへらとした笑いが引っ込んだ。「うん」
 「わたしの耳が、聞こえるんだっていったら、……どうする?」
 「え?……」
 「わたしの聴力に、問題がないっていったら」
 「……べ、べつに、どうもしないけど……」これは、わたしがおかしいのだろうか。ひとと接するのがあんまりにへたくそで、なにもわからない。どういうときにどんな反応をするのが普通なのか、正しいのか、わからない。……まるでわからない。
 「でも、……だってべつに、耳が聞こえないとか、聞こえにくいとか、そのためにこういう時間を楽しいって思ってるわけじゃないし……聞こえるなら、それよりいいことはないだろうし……」
 でもひとつ、気になることができた。「耳につけてるのは?」
 友だちは自分の耳に指先をあてた。「雑音を、聞こえなくするもの」
 「雑音?」
 「耳は、……聞こえる。相手がしゃべってるんだってことはわかる。……でも、なにをいってるのかがわからないの」
 それは、どんな感覚なんだろう。
 「日本語によく似た、不思議な言葉を聞いてるみたいなの」
 「そうなんだ」つづきが喉の奥からでてこない。頭から喉まで、つづきがおりてこない。
 「怒らないの?」
 「どうして怒るの?」
 「わたしは噓をついてたんだよ。聞こえるくせに、よく聞こえないなんていった」
 「……怒らないよ。わたしは、……うん、怒らないよ」怒るのが普通なのかな。どうして噓をついたの、といって怒るのが、普通なのかな。じゃあ、どうして噓をついたのと怒ったら、それから次になんていうのが普通なんだろう。わたしを騙すつもりだったのというの? そんなに怒ることなんだろうか。友だちに噓をつかれたら、それだけ傷ついて怒るものなのかな。
 「友だちって、今までいたことがないからさ」友だちが苦々しく笑った。「怒られるのが普通なのか、こんなふうに許されるのが普通なのか、わかんないや」
 「わたしも、わからない。友だちが噓をついたのとき、どんなふうに感じて、なんていって、どんな顔をするのが普通なのか」
 今まで読んできた本のなかのひとはみんな、どうしていたっけ。友だちに噓をつかれたひとだってたくさんいたはずなのに、そのひとがなにを感じてどんな顔をしてどんなことをいっていたのか、ひとつも思い出せない。
 「ほんとうに耳が聞こえないひとだっているのにね」と友だちがつぶやいた。「そのひとたちを利用して、友だちに噓までついた」
 友だちのいう噓はそんなに罪深いものなのだろうか。はっきり話してもらうには、耳が聞こえづらいというほうが簡単なはず。好きな音楽の話になったとして、名前をいっても伝わりにくい音楽アーティストが好きだったら、わたしはきっと、そのひとやグループの名前をいうより、そのアーティストの音楽をジャンルをまず答えると思う。それとおなじようなものじゃないだろうか。音はちゃんと聞こえるんだけど言葉が聞きとりにくいから、というより、耳が聞こえにくいから、というほうが、話す側も聞く側も必要以上の時間と力を使わずに済む。
 「日本語が、日本語に似た不思議な言葉に聞こえるのだって、つらいはずだよ。こんなにスムーズに話ができるのだって、すごくがんばってる結果でしょう?」唇の動きを読んでいるのか、わたしの声に強く集中すれば声を言葉として拾いあげられるのか、あるいは話すひとつひとつの音を頭のなかでつなぎ合わせて言葉にしているのかわからないけれど、どちらにしたって簡単なことじゃないはず。
 「わたしは、耳が聞こえにくいっていったのを噓だとは思わないし、そういったことに怒りもしないよ」
 自動ドアが開いて、館内からひとがでてきた。そのひとはくすんだ緑色の傘を持ってエントランスをでていった。
 友だちがそっと唇を開いた。「ありがとう」