「透夏、どこか行かない?」
納戸のドアの向こうから、日向の声が聞こえた。
「...いいや。ここに居ても良い?」
「良いよ、分かった。ちょっと出掛けてくるね」
「...ん」
口の中で答えながら、地縛霊みたいだな、と自嘲の籠った薄ら笑いが洩れる。
まぁ、地縛霊は何か特別な理由があってその場に留まっているわけだから、僕は地縛霊にもなり切れていない中途半端な存在と言えるが。こんな中途半端な存在に居座られて、日向にとっては良い迷惑だろう。
出て行こうか。出ていくべきだ。
でも、怖い。
薄暗闇の淀んだ空気の中で、膝を抱えて、小さくなって俯いて何も見ないようにして。
結局、なんにも変わっていない。
新しい場所に来て、新しい人に出会って、新しい名前を貰って。それでも尚、僕の心は逃げたいと願ったあの場所に縛り付けられたままだ。殺されて、幽霊になっても、ずっと。

煌々としたLEDの明かりを瞼の裏に感じて、僕はふっと目を開けた。
「ただいま」
「...おかえり」
どれくらいの間眠っていたんだろうか。もう、窓の外の陽はとっぷりと暮れている。ちょっと外出ようか、と言う日向に頷いて、2人で狭いベランダに出た。
「ねぇ、聞いても良い?」
煌めく夜景を眺めながら、日向が口を開いた。
「なに?」
「柚月はさ、なんで都会に来たいと思ったの?」
日向が僕を生きていた時の名前で呼んだのは、初めてのことだった。
「...たぶん、だけど」
ゆっくりと口を開く。吐く息が微かに揺れていた。
「都会じゃなくても良かったんだ。人がいるところなら、どこでも。どこでも良いから、心の底から信頼して、安心できる人が、」
馬鹿げた願いだ。
両親に見捨てられて、家族と思いたくもない家族に疎まれて蔑まれて、ただ逃げることもできなくて、挙げ句の果てに殺された人間の、愚かな希望。
「血の繋がりとかどうでも良いから、...本当の家族が、欲しかった」
「そう。...叶いそう?」
「どうかな」
嗤いながら呟く僕の目を見て、日向は優しげに笑った。
「少なくとも俺は、透夏の、...柚月のこと、本当の家族みたいに思ってるよ」
僕の目が大きく広がった。
そのまままっすぐ夜景に目を戻して、唇を噛み締める。
「...ありがとう」
僕の口から、言葉が零れ出た。
必死に堪えても、どうしても涙が溢れて止まらなかった。
「...泣いてるの?」
日向の柔らかい声が聞こえて、僕は慌てて目を擦った。
「ううん。...ただ、街が眩しいだけだよ」
あの生き地獄では想像したこともなかった、きらきらと輝く街の景色を、今では不思議と怖いと思わなかった。
「あぁ、気持ちよく成仏できそう」
誰に言うわけでもなくそう呟くと、日向が「え」と僕を見て声を洩らした。
「成仏しちゃうの?」
「しちゃうのって。まず幽霊になって現世を彷徨ってること自体異常でしょ」
はは、と笑いながら僕が言うと、日向も少しだけ寂しそうに笑った。
「...俺さ。バイトしながら曲作ってるって言ったよね」
「...うん、言ってたね」
唐突な話の転換に驚きつつも、頷きながら日向を見る。
「でも、俺がやってる仕事なんていくらでも代わりが効く仕事で、曲作っても聞いてくれる人なんて居なかったから、俺がこの街で生きてる意味あるのかなぁ、居ても居なくても同じじゃないかなぁなんて、ぼんやり思ってたんだ」
驚く僕を横目に見ながら、日向が続ける。
「きっとそのうち報われるでしょって思いながら頑張ってたんだけどさ。頑張れば頑張るほど自分の気持ちが重たくなって、そのうちするっと落っことして全部失くしちゃうんじゃないかって、怖かった」
「...日向も、怖いことあるんだ」
「そりゃあるよ。明るく振舞って大丈夫って言ってても、実は自分を麻痺させてるだけだったりね。透夏、鏡に自分が映らなくて幽霊になったと思ったって言ってたじゃん?」
「うん」
「俺は映らなかった訳じゃないけどさ。自分で思っていたよりも、自分がずっと情けない、泣きそうな子供みたいな顔しててビビったことはあるよ」
日向の話を聞きながら、僕は彼の真意を掴みきれずに少し戸惑っていた。
「それが、透夏と会って、見るからに迷子だったから家に招いちゃって。思い立って自分の曲聞いてもらったら、目キラキラさせながら褒めてくれたから。あぁ俺、人のこういう顔見たくて音楽作ってたんだったなって、そん時思い出した」
「...そう、だったんだ」
「うん。だからね、ありがとう、透夏」
僕の目を真っ直ぐに見て、日向が笑った。それを見て、僕は気恥ずかしくなって目を逸らす。逸らした目線の先で、僕が爪先から少しずつ消えていっているのが見えた。
「なに急に、改まって」
ぼそぼそと呟いた僕の耳に、頬杖をついた日向の柔らかい声が届いた。
「もし成仏しちゃうんだったら、ちゃんとその前に伝えておかなきゃと思って」
ふわふわと掴みどころがないと思っていた日向にも、意外と律儀なところがあるようだ。
「そう。...僕も、家に入れてくれて、沢山話してくれて、僕が荒れた時も優しく接してくれて、嬉しかった。ちゃんとお礼言ってなかったよね、ありがとう」
そう言って、そう言えて、何だか少しだけ身体が軽くなったような気がする。おかしいな、既に実体ないはずなのに。
「...透夏」
「なに?」
「...少しずつ、見えなくなってるの。気のせいだよね?...これ」
「うーん、どうだろう」
僕が微笑みながら日向に目を向けると、彼は微かに震えながら僕を見ていた。
「ねぇ日向。もしかしたら最後になるかもしれないからさ、お願い、聞いてくれる?」
日向が頷いたのを見て、僕はにこりと笑って続けた。
「僕が幽霊になって、まだ此処に居たいって思えたのは日向のお陰だからさ。僕が居た証を、残しておいてほしいんだ。できれば、日向の、一番好きな方法で」
一番好きな方法。
ほんの僅かな時間しか一緒に居られなかった僕だけど、日向にあるはずの、あってほしい確固とした答えを心の中で求めた。
日向の視線が、居場所を求めるようにふらふらと彷徨う。それがぴたりと止まって、彼の瞳に光が灯ったのが見えた。
「...音、楽?」
その言葉が、日向の口から零れ出て。
僕の心にも、暖かな光が灯ったような気がした。
「じゃ、日向がいつか、こっちに来た時に聴かせてよ。のんびりこっち側で待ってるからさ」
既に、僕の胸から下は街の夜景に溶けている。
「...うん、分かった。作るよ、俺頑張るからさ、だから」
双眸を微かに濡らして、日向が捲し立てるように僕に手を伸ばす。
それは虚しく空を掴んで、日向の目から雫が一粒、零れるのが見えた。
「でも頑張りすぎはダメだよ、身体壊すから。あ、そうそう、それからね」
僕が立てた人差し指が、さらさらと崩れてゆく。
「僕がこの街に存在してるって思えたのは、日向がいたからだから。日向は居ても居なくても同じなんて、そんなことはないよ。日向は、幽霊なんかじゃないから」
どうしてだろう、もう未練なんてないと思っていたのに。いつ消えても良いって思っていたはずなのに。
何故だか目の前にいる日向は、煌めく夜景は、僕の視界の中で滲んで見えた。
「ゆづき」
「...なぁに?」
「ありがとう」
日向の、何かを必死に堪えているような声が聞こえて、僕は思わずふっと笑った。
「此方こそ。どうもありがと」
ありがとうと言い終わらないうちに、僕は虚しく夜に溶けていった。