「あの上司ムカつく」
「まぁまぁ、落ち着きなって」
東京のこじんまりとした居酒屋で友達と一緒にお酒をのみながら日頃の鬱憤を晴らしていた。
「確かにあいつムカつけどさ悪い人じゃないし、それよりさあんた病気の後遺症はどうなったのよ」
「あー、未だに残ってる」
「自己変性病だっけ?そんなに重症だったわけ?」
「いや?後遺症って言っても夢見るぐらいだけどね」
「まぁ、今日みたいに鬱憤晴らしたい時は頼ってくれていいから」
「ありがとう」
私は自己変性病という現代の奇病に罹っていたらしく、今の私の知らない私が生きていた所に私が入れ替わるようにして突然意識を乗っ取ってしまったと、知らない医者に言われた。当然、私は意味が解らなかったが両親を名乗る人が私の名前を呼んだときに何となく私はこの世界に一人ぼっちのような気がした。
「良いのよ、果歩《かほ》がそれで元気なら」
私とこうして飲みに行ってくれる会社の同僚には頭が上がらない。
「ごめん、これから予定あるの忘れてた。お金払っておくから、じゃ」
「うん、またよろしく」
私もそろそろ帰ろうと席を立つ。
「悠哉!元気か?」
近くの席で男の人が電話越しに友達かあるいは家族の名前を呼んでいた。
『香帆』
刹那途轍もない頭痛が私を襲う。私はその場にしゃがみこんだ。またか、私は時々こうして誰かの声を聞きその度に鈍痛を感じている。大抵、三十秒程で痛みは消え声も聞こえなくなる。私は頭痛が止むと私は代金を支払い足早に帰路に着いた。

翌日、今日は仕事も休みなので部屋の掃除をしようと押し入れを開けた。ここは、両親から覚悟が決まったら開けなさいと言われていたところだった。何でも、前の私がどうしても残してほしいと懇願したものが残っているそうで、そういうものは大体の場合だと変化したあとの人格が見ると自責の念にかられたりパニックに陥ったりするため処分するらしいのだが、どれほど前の私はそれを大切にしていたのだろうか。
私は深く息を吸う。
「よし」
母から渡されていた鍵を鍵穴に入れた。錆びているのかなかなか開かない。私は鍵が壊れるのを覚悟でおもいっきり捻った。
ガチャと音がして傾いていた扉が鋭い音をたてて開いた。
想像していたよりも物は少なく何だか拍子抜けしてしまう。私はもう一度深く息を吸って中の物を物色し始めた。中には私が当時使っていたであろう教科書やノートがあった。なぜか高校の物しかなく他には漢字ドリルや数学の参考書等があった。
その中でも気になったのがカメラが入った小さな箱だった。隣にはアルバムと太字で書かれたノートが一冊。何だか、他人の物を見ているような感覚なので一瞬間躊躇ったが。どうせここまで来たならと一ページ捲ってみることにした。
そこには、どこか解らない写真と日記がつけてあった。
「一日目…」
そこには、"彼"と一緒にこの場所に来るのは二度目。またここからはじめていこう。と書かれていた。写真は高いところから撮ったのが見てとれる海の写真だった。とても精巧に撮られているように思う。まぁ、私はこんな風に写真なんて今まで撮ったことはないのだが。
ふと、最後のページに何か挟まっていることに気が付いた。それは封筒で表には「未来の私へ」とあった。私は封筒を開けて中を取り出す。そこには一枚の写真があった。写真は男の子が海に足をつけている後ろ姿だった。私は胸騒ぎがした。私は何となく写真を裏返す。写真の裏に「もう一度会いたい」と薄く何度も書き直した後があった。
私はすぐに会社に電話をして有給を二日目とっても良いかと連絡した。そうして、荷物をまとめた。どうしてか、この場所にもう一度行かないといけない気がした。これはあくまでも直感で確証なんか無い。でも、私は彼女の願いを叶える義務がある。もう一人の君として。
「お父さん!」
「おお、どうした」
「この写真の場所に私行きたいんだけど、住所教えて」
父は眉間に皺を寄せたが私がどうしても言うのならと教えてくれた。私はすぐに家を出た。
東京からたいぶ遠い場所にあったその場所に検索をかける一番近くだったのはアルバムの最後の方にあった庭園だった。

今日は彼に申し訳ないことをした。勝手に私は彼に嫉妬して八つ当たりをしてしまった。仲直りできるだろうか。

庭園に着いてからの感想は思っていたよりも広いだった。想像していたのはコンパクトに花が植えてあるだけかのものだったが、花はあちこちに咲き乱れており、人も多かった。私は早速写真が撮られたであろう場所へ行き"彼"を探した。ここは私がいた町から遠いので期待はしていなかったがやはりこの後ろ姿に近しい人は見当たらなかった。
それにしても、この庭園は季節によって花が違うらしく写真に納めてある花とは大きく違った。今は春で赤や紫などの目立つ色が多いが写真には黄色や青が多い。庭園に入るときに貰ったパンフレットに季節ごとの花が紹介されていたのを見ると写真の時季は冬頃のものだろう。私は一通り歩いて疲れてきたのでベンチに座った。前の私もこの場所に来ていたことを考えると何だか感慨深いもの感じる。私はもう一度庭園の写真を見る。案外こういった技術は体が覚えていたりする。私はスマホのカメラを構えて一枚撮ってみる。
「駄目か…」
私の撮った写真とアルバムの写真を見比べてみたが言うまでもなく私の撮った写真は見劣りしていた。
そろそろ次の場所に行く気になったので庭園から出て電車に乗った。
電車に揺られながらまたアルバムを眺める。

今日は彼と一緒に写真を撮るついでに古民家カフェに寄った。カラフル外装に反して中はクラシックな感じで良かった。お目当ての写真も本当に綺麗だった。星が本当に湖に反射していてもう一つの世界が湖の中にあるようだった。

「よし、着いた」
電車に揺られること一時間。漸く、駅に着いた。おもいっきり背伸びをしてから歩きだした。暫くして一際目立つ建物を見つけた。その建物はもう使われていないのか蔦に覆われていた。立て看板には感謝のメッセージか書かれており、何年か前につぶれたらしかった。そこからまた少し歩いていくと住宅街に出た。
「あれ?」
私はもう一度ネットの地図を見る。この辺りの写真だと思うのだが。湖どころか池の一つもない。
「あんた、どうしたの?」
私が何度もアルバムとスマホを交互に見比べていると手押し車を止めたお婆さんが困っていた私に声をかけた。
「あの、この写真の場所に生きたいんですけど」
お婆さんは写真を見るとすぐに「あー」と納得したように言った。
「ここであってるよ。昔はその写真みたいに綺麗な所だったんだけどねぇ。だぁーれも知らんかったからこんな風に埋め立てられてねぇ」
「……そうですか」
私はもう一度、写真を見る。こんなにも美しい景色を一度見てみたかったがどうしようもない。そんな私を見てお婆さんは一つ話をし始めた。
「いつだったかね。その日は私も散歩がてらこの辺まで歩いてたらね。この湖の畔に男の子と女の子が一緒に写真を撮っているところを見てねぇ。とても楽しそうなその子達を見て私はこの風景を守っていかんと思っとったんやけどねぇ」
「そうですよね。こうやって、何かが消えて風化していくのって寂しいですもんね」
「でも、あんたのその写真のお陰ですこし昔を思い出せたよ。ありがとう」
それだけ言うとお婆さんはまた手押し車を押しながら民家の方へ帰っていった。私は、もしかしたらこの住宅街に写真の"彼"がいるかもと思い。住んでいる人に聞いてみたりしたが、空回りに終わった。
次の電車まで三十分もあるので自販機でコーラを買って駅のホームで時間を潰した。

この場所は、"彼"と初めて写真を撮りに行った場所。私の大切な思い出。

多分、この町が最後になるだろうと思う。海の綺麗なこの町は前の私が育った町だと父から聞いた。写真の場所に行く前に行きたいところがあったので少し寄り道することにした。
春の生暖かい風が私の髪を靡かせる。
「ここか」
その場所は私の帰る場所だったところ。私は扉を押す。キィと音を立てながら扉を開いた。中に人気はなく電気だけがついていた。
「すいませーん」
誰かを呼んでみたが人が出てくる気配はない。諦めて帰ろうとした時だった。
「あれ?今日って予約入ってたっけ?」
私と同い年くらいに見える女の人が奥の部屋から慌てながら出てきた。
「すいません。お名前確認しても良いでしょうか」
「あの、予約とかしてなくて」
「お客様、申し訳ありませんがうちは完全予約制でやっておりまして」
「いや違くて、ここで昔暮らしてたものです」
「え?」
私の目の前にいる彼女は目を丸くした。
「もしかして、東雲 《《香帆》》さん?」
「そうですけど……」
「少し待っててください」
彼女は表情を変えてまた奥の部屋に戻ったかと思うとなにやら封筒を持ってきた。
「これ、私のお母さんがあなたがきっと来るからって…」
その封筒の中には恐らく小さい頃の私が撮ったであろう写真が詰まっていた。
「母は、一昨年に亡くなりました。私はそれを聞いてこの町に戻って来たんです。母は最後にもう一度あなたに会いたがっていたと思います」
「そう…ですか」
「私は母と父が離婚したときに父の方へついていったんです。母には寂しい思いをさせたと。でも違った。あなたのお陰で母は幸せだったと思います。私は母を一人にした贖罪として母の居たこの病院を無くしたくなくて今は旅館をやっています。ここで、お礼をさせてください。母をありがとうございました」
私は彼女と話をして外に出た。私は前の私を育てくれた人を知らない。それなのに、なぜか胸が締め付けられるようだった。
「先生…」
私ははっとした
「先生って呼んでたんだね」
私は暫くの間、顔も知らない誰かのために黙祷した。

山道を登り続けること十分。漸く開けた場所に出た。
「この辺のはず…」
そこには平原が広がっていた。
草をかき分けてここまで来たのにどこかで道を間違えただろうか。私はもう一度写真をよく見る。確かにここであっているはずだあの木、この写真と完全に一致する。でも、この写真は今私がいる位置よりも高いところから撮られているようだった。
「おかしいな…」
私はアルバムの写真に写っている木の角度を調整していくと丁度ピッタリの角度の場所に看板があった。その看板の周りは雑草だらけで一見するだけだと見えない程だ。
『建設予定地』
その看板には赤い太字でそうかいてあった。何を建設するのだろう。よく見るとその文字の下に小さく
『建設中止』
と書かれていた。要するにここには何か高い建物があった。それが、何かを建設するために取り壊された。が、何かしらの原因でそれが中止になったのだろう。
アルバムの写真からは海が見えていたが今は山しか見ることはできなくなっていた。残念に思いながらこのままここにいても意味がないので山道を下ることにした。また、あの叢を通るのは気が引けたがそれしか下る方法がないのだから仕方ない。太陽も暮れはじめそろそろ最後にしなければならない。ここまで、"彼"らしき人は見かけていない。私の中にはもう会えないという諦めも出てきていた。そもそも、私は何をしているのだろう。何の為にこんなにも必死になっているのだろう。次で会えなかったら潔く帰ろう。
最後は海辺だった。"彼"が写っている唯一の写真。海はまだ見えないが漣の音がして期待する。目の前の階段を下る。海は写真と何一つ変わらずに凪いでいた。ただ、そこに"彼"は居なかった。
「……駄目…か」
解っていた。"彼"だって私と同い年ならもう社会人だ。この町に居なくてもおかしくない。何やってるんだろ私。
諦めて帰ろうとした時だった。
私の後ろからシャッターの音がした。
私は咄嗟に振り返る。
「あっ、これはその…」
私は数秒の間、何も言えずに固まってしまう。
「えっと、まずは自己紹介かな…」
彼は気まずそうに頭の後ろを掻いた。
「これって、盗撮…ですよね」
私が訝しげにそう言うと彼は驚いたように目を開いた。
「君は変わらないね」
何となくこのやり取りを前にもしたような気がした。
「さっき撮った写真は消しておくよ」
この世界の時間は止まってくれない。私の知らないところで色々なものが風化して忘れられていく。それはとても寂しいことで前の私もそれに当てはまるのだろう。
「また、会ったね」
それでも、この世界のどこかにきっと生きた証が残ってる。だから、私は――

また、新しい日々を残していく。この、写真という二人だけの世界から。








「そう言えばこの写真、君にあげるね」
「これがお楽しみ?」
「何のこと?」
「ううん、なんでもない」
「気になる」
「そう?じゃあ、これは前の君が渡した日記の最後に書いてあったんだけどね――」