「ねぇねぇ、お父さん!」
これはいつの記憶だろうか。
「どおしたんだ」
私は抱き上げられて宙をあおぐ。庭を一回転した後にもう一度地面へ戻ってきた。
「もう一回!」
そのおねだりに少し疲れていそうな父は快く私を抱き上げた。そんな、私の大切な記憶。決して失いたくない私の過去。

「香帆、大丈夫?」
すでに起きてから十分は経っていたがギリギリまでこうしていたかったから、誰か来るまで横になっていた私の元へ遂に誰か来た。
私は病院のベッドから起き上がって顔を見る。担当の先生だった。
「大丈夫です」
咄嗟に作った笑顔でそう答える。朝から横になっていたから若干の気だるさがあったが、気にしないで立ち上がる。
「どこか行くの?」
先生が心配そうに私を見た。
「大丈夫、すぐそこまでだから」
「そう」
淡白な会話を終えて私は病室から出る。田舎にある病院は小さく、病室は二つしかないため私は先生の仕事部屋で過ごしている。勿論父も母もこの事を了承してくれている。と言うか向こうは私が家に居なくて楽だろう。寒々とした風が私にだけ強く吹いている。
ここの風景はずっと変わらない。毎日こうして歩いているのだが新しい発見なんてものは何一つ無い。近所には人は居ないため見かけるのは猫と船虫くらい。そんな何もないこの町が私は好きだ。空っぽなのが私だけじゃない気がするから。
歩いていると楽しくなっていてきて気が付けばいつもの海にいた。日は暮れかけで海が燃えているように赤く染まっていた。私は手元にカメラが無いことを悔やむようにその景色を目に焼き付けようと必死になった。暫くして日は完全に沈み辺りはもう暗くなった。燃えていた海もいつの間にかいつも通り静かなさざ波の音を浜に響かしていた。
まだ、鮮明に思い出せた。あの色を感情を見たままに思い出せた。その事が怖くて足は動かなくなった。砂に埋まったようにその場から動けなくなった。まただ、動かそうとする度にあの風景を思い出してしまう。忘れろなんて思わなくても忘れてしまうのに。

冬休みは始まったばかりで、クラスメイトとの約束を一つ一つ消化するために今日も勤しんでいる。
だが、どれもとてもつまらない。大抵愚痴を聞くか、異性との惚気を聞かされるかの二択。こんなことなら断っておけば良かったと思った。どうせ忘れてしまうのにこんなことをしてなんてなんになるのだろう。とはいっても私にも心から楽しいと思う時間はあった。
『ここに行きたい』
そんな無愛想な文字のあとに綺麗な風景が載った雑誌の写真。胸の鼓動が一音高くなったのが自分でもわかった。
『わかった』
私も少し無愛想に返した。
私にはやりたいことがあった。それは私のいた証を少しでも多くこの世界に残すこと。そのために私は写真という媒体を通して賞を取る。そうすればその記録は永遠に残る。他にも色々考えていたがこれが一番しっくり来た。けど、別に最初から写真を撮ろうと決めていた訳じゃない。絵を描いていたりもした。けど、一向に上達しないのでやめてしまった。ある時は勉学の天才になろうとした。結局、机と向き合うのが面倒くさくなって辞めた。その点、写真を撮るのは楽しくて自分から進んでやっているから向いていたのだろう。
「久しぶり…ではないか」
敢えてこの前友達が使っていた挨拶を使ってみる。
「そうだね」
彼はこんなつまらない挨拶にも笑顔で返した。
「今日はどこ行くの」
「昨日写真に送ったところに行こうかと」
昨日送られて来た写真をもう一度彼は私に見せた。昨日と変わらずとても綺麗な景色だった。
見ていると電車がホームに着いていた。
「乗ろう」
彼に催促されて電車に乗る。この電車もこれで何回乗っただろうか。
電車に揺られながら私たちは話を弾ませた。今から行くところの詳細やオススメと書かれた場所への行き方。そんなことを彼が楽しそうに話す。私も彼が楽しそうなのを見て嬉しかった。
電車を二本乗り継いで着いた場所は私達のすんでいる所とは打って変わって栄えていた。私はもともと東京に居たこともあってそんなに驚かなかったが彼は違った。
「写真で見るよりもやっぱり違うや」
「そうかな」
私も彼のように新鮮さが欲しかった。
そこからはバスに乗って都心部から少し外れた場所まで行った。辺りはもう私達が居る町と変わりはない。これだけ移動したのにも関わらず太陽の日はこれからのようだった。
「ここら辺は少し暖かいね」
私がそう言うと彼はスマホから一度目を離して私を捉えた。
「やっぱり? こういう気温の変化とかあると少し遠くに来た気がするよね」
「確かに、私もここに来たとき東京より寒くて早く家に入りたかった」
「東京ってどうなの? 街とか」
「街は高いビルに覆われてるところが少し、大抵ビルよりも家が多い所が殆どだよ」
私の話しに彼は興味を持ったのか歩く足を止めてまで私の話を真剣に聞いていた。
「修学旅行とかで行かなかったの?」
「あー、僕達の学校は毎年京都に行くことに決まってるから行ったこと無くて」
「そうなんだ」
「東雲さんは修学旅行とかどこ行ったの?」
「私の所は沖縄だった」
「そこでも写真撮った?」
「いや、全然。写真を撮るどころか皆で撮ってた写真にすら写ってないよ」
「そっか」
彼の良いところはあまり踏み込んでこないところだ。私はいきなり転校ということで学校に入った。当然色んな人から質問攻めにされた。けど、彼は遠くから私を見るだけで話しかけにすら来なかった。今思えば変な話だが、私はそんな君にもう一度興味を持った。だから、私は彼を昔のように写真を撮らないかと誘った。態々《わざわざ》、体育の授業を休んでまで彼に話しかけた。
今だってそうだ「どうして?」と聞けば私は隠さずに答えただろう。ただ作業的に私の事を。でも彼は聞いてこない。大して私に興味が無いのだろう。彼が興味があるのは私ではなく私が撮る写真。
彼には行きたい場所に連れてってとしか言っていないのに彼は綺麗な風景の場所に向かっているのだから間違いない。彼は私の撮る写真に魅せられている。
三十分程歩いて漸く着いたその場所は庭園だった。写真とは全然違う花に驚いたが。よくよく考えればスマホの写真は夏場に撮られているものでその時に鮮やかに咲くものだからこの時期に咲くものとは違って当然だった。それでも綺麗な事には変わり無く私達は道なりに歩いた。
「写真とは少し違ったけどこれはこれで綺麗だね」
彼はくるりと辺りを見渡す。そろそろ写真を撮ろうかと私は鞄からカメラを取り出した。構えたカメラの奥を見ると肉眼で見るよりも色彩が鮮やかに映った。
「前に人は撮らないって言ってたけど何で?」
突然の質問に私はカメラのピントをずらす。
「どうしたのいきなり」
「いや、なんとなく気になったから」
私はずれたピントを合わせながら答える。
「なんとなく、人を撮るのが苦手だから」
曖昧な返答。私は答えられなかった。本当の事を言ってしまうと私は私に負けている。そんな気がしたから。そこからは特に会話もなくただ私が写真を撮ってその場をあとにした。
次に訪れたのは古民家カフェだった。前に私達が訪れた所とは違って人が多く座れる場所も限られていた。
「凄い人の量」
「そりゃあ、こんなに有名な所だもん」
彼が驚いていたところに水を差してまったことに言ってから気がついた。それでも彼は目を輝かせていた。私は悪いことをしたなと思いながら店員に案内された場所に二人で座った。
「見てこれ、凄いよ」
彼がメニューを見ながら指を指す。それは苺がこれでもかと言うほどに贅沢に使われているパンケーキだった。
「そんなに食べれないよ」
「いや、僕が食べる」
「無理でしょ」
「やってみなきゃ解んないよ」
なぜこうも自信満々なのか解らないがそんなに言うなら少し意地悪してやろうと思った。
「じゃあ、本当に食べきれたら何か一つ何でもしてあげるよ」
「え?」
「その代わり食べきれなかったら佐藤くんが私の言うこと一つ聞いてもらうから」
「わかった」
彼は私の突然の挑戦にも有り余る自信を奮って乗っかった。ベルをならして注文を済ませて暫くしてパンケーキは届いた。そのパンケーキは写真よりも大きく明らかに一人で食べるのは困難に見えた。
「やっぱり、私も食べよっか」
「いいや、僕一人で食べきる」
彼は意固地になってパンケーキにナイフを突き立てた。私はオレンジジュースを飲みながらじっとそれを見ていた。初め彼のペースは早くこのまま行けば本当に食べきりそうで胃袋がどうなっているのか気になる程だったが、段々とそのペースは落ちてきた。半分ほど食べた辺りで彼は飲み物を多く飲むようになった。炭酸はお腹が膨れるからとカルピスを飲んでいた。私は絶対に食べきれないと思っていたので何でそこまで頑張るのか解らなかった。そこで一つ私は大きな見落としを見つけた。
「ここまで頑張ってるところ悪いんだけど」
彼が不思議そうに私を見た。
「エッチなのは無しね」
そう言うと彼は飲み物を吹き出しそうになる。
「解ってるよそんなの!」
これでも無いのだとすれば愈々なぜ彼が頑張るのか私には解らなくなった。
「何でそんなに一生懸命なの?」
そう聞くと彼はパンケーキから目線を逸らさずに言った。
「君にさっきはぐらかされたから」
どこの事を言っているのだろう。私には心当たりがありすぎて解らなかった。
「えっと…」
「ん? あぁ、どうして人を撮らないのか、ね」
「気になってたんだ」
「そりぁもうずっと」
意外だった。彼も私の事を知ろうとしていたことが。
「興味無いのかと思ってた」
「何が?」
「私の事」
パンケーキが三分の二程のところでナイフとフォークの動きが止まった。
「何で?」
「だって私の事聞いてこないし、写真にしか興味無いのかとてっきり」
「そんなこと無い!」
大きな声に肩が跳ねる。
「ごめん」
悪気は無さそうだったので私もすぐに彼を許した。
結局彼は全てのパンケーキを食べ終えた。結構苦しそうだったけど。カフェから出た私達は庭園のベンチに座る。
「それじゃあ、約束。何で人を撮らないの?君くらい綺麗な写真が撮れるならきっと写真撮って欲しい人は沢山居るのに」
私は一度自分に対して深呼吸をした。本当に良いのだろうか。私はこの事をまだここにきてから誰にも話したことはない。怖かった。
「本当にただ人を撮るのが苦手なだけだよ」
「嘘だ」
「何で君に解るの」
「なんとなく」
「そんなの根拠にならないよ」
「確かに」
「認めちゃうんだ」
「ごめん」
私は逃げた。何でだろう。私は別に答えようと思えば答えられたはずなのに。何で避けているのだろう。
「泣いてるの?」
言われてはじめて気が付いた、頬に伝う暖かい感触。
「ごめん、何でだろ」
私はその場に居ても立ったも居られなくて逃げるようにその場を後にした。帰りは一人で電車に乗って帰路に着いた。私の体が揺れる度に私の中の羞恥と焦りと恐怖が混ざった。途中海が見えた。いつかもここから見た景色。あの時よりも海は深く青く見えた。

あの日から彼女からの連絡はパタリと途絶えた。LINEに送った謝罪も未読のまま放置されている。冬休みは残りたった四日しかないので学校であったときにちゃんと謝ろうそう思っていた。
「先週よりも寒くなる傾向にありーー」
僕は家で朝のニュースを惰性で見ていた。部活も休みでなにもすることがない。そんな日の朝は特にやる気が無かった。相変わらず彼女のLINEは返信どころか既読すら付いていない。僕はあの時の自分の行動の意味が自分でもハッキリとしていなかった。今までは、踏み込みすぎないように傷つけないようにしていたのに、彼女の事が無性に気になって仕方がなかった。どこか無理をしているようなそんな彼女の表情が頭から離れない。
『興味ないのかと思ってた』
何でそう思われたのかは解っていた。僕はあまりにも知ろうとしなさすぎた。でも、踏み込むとしても解らなかった。だったらそんな危険を犯すまでもなく彼女を近くで見ているだけで良かった。
「なにやってんだろ僕」
ニュースが目眩くように変わっていく。大半は聞いていない。僕は朝御飯を口いっぱいに詰め込んで外に出た。

「お父さん!」
私はこちらを向いた父の顔に水鉄砲に溜めた大量の海水を勢いよく噴射した。
「わっぶっ」
父は咄嗟に手で顔を隠す。そして私の持っていた水鉄砲のタンクの中から海水が減り出なくなった瞬間にその手を海に付けた。
「やったな~」
その瞬間私の顔に冷たい海水がかかった。私は水鉄砲に海水を溜めるのを忘れて必死に目に入らないようにしていた。暫く攻防を続けて私達はお互いに疲れて今度は父が私を浮き輪に乗せてくれた。
私は母よりも父の方が好きだった。勿論、これは優劣を付けるとしたらの話で基本的には母も大好きだった。ただ、父との思いでの方が多く感じるからそう言う風に勝手に思っている。
海から上がった私達はタオルである程度の海水を拭き取り、服を着替えて急いで家に帰った。
疲れきった私は大体車の中で寝ていた。
家について開口一番に「ただいま!」と声をあげた。
「お帰り」
奥から母の声がした。続けて父も「ただいま」と家に入っていった。家の中は美味しそうな匂いで溢れていた。
「早くお風呂入ってね。ご飯できてるから」
「わかった!」
私は走りながらそう答えた。
私はすぐに頭を洗い体を洗って髪を乾かして食卓についた。私の前には温かいご飯がズラリと並んでいた。
「いただきます!」
「ゆっくり食べなさいよ」
私は母の忠告など気にも止めずに箸をつけた。
「おいひい」
口いっぱいに頬張ったせいでうまく言葉を発声できなかったが、それでも母は嬉しそうに微笑んだ。
「香帆はいつも旨そうに食うなあ」
髪の毛がまだ濡れたままの父がタオルで髪の水をとりながら言った。
「ほんとね」
私はこの家族がこの関係が好きだった。壊れることの無い、目に見えない何かで私達は間違いなく繋がっていた。
「お父さんなにやってるの?」
父は何やら黒い塊を布を使って拭いていた。
「これはカメラだよ」
「スマホについてるやつと大分違うね」
「そりゃあね」
「スマホのじゃ駄目なの?」
私が父のスマホを手に取る。
「これはスマホのカメラなんかよりもっと綺麗に写るんだよ」
そう言って父は私にはカメラを向けた。次の瞬間眩しい光が私の顔を照らした。
「ごめん、フラッシュついてた」
私は何が起きたのか解らずにそこで固まっていた。
「眩しかったよねほんとごめん」
「ううん大丈夫、それよりどんな風に撮れたの?」
父はカメラを私に見せてくれた。そこにはフラッシュによってひどい顔をした私がいた。思わず私は吹き出した。
「変なの」
「これはフラッシュついてたから」
父は苦笑いで私はそれが余計に面白くてそこで父の持つカメラに興味を持った。
「お父さんは他にどんな写真を撮ってるの?」
「そうだなあ、お父さんは大学生の時からずっと撮ってるから一杯あるぞ。ほらこれとか」
魅せられた写真は白いワンピースを着た華奢な女の人が振り返っていた。まさに夏といった写真で私は部屋の温度か上がったような気がした。
「これ、お母さんなんだ」
「え!」
私はもう一度カメラを見る。今とは少し違うけどよく見ると面影があった。
「ちょっとまってろ、現像してくるから」
父は立ち上がってどこかに行ってしまった。現像の意味が解らないまま父がまたここに来るのをまっていた。
それにしても写真は綺麗でクーラーを効かせて涼しいこの部屋も写真の中の夏に当てられて心なしか暑くなったような気がした。私は他の写真も見てみたくて行儀良く待っていた。
暫くして父が紙を何枚か持って私のとなりに座った。
「ほら、お父さんのお気に入り幾つか現像してきた」
父は持っていた紙を机の上に重ならないように置いた。そこにはさっき見せてもらった母の写真のほかに幾つか別のものもあった。
「凄いね現像って」
「凄いよな、撮ったものをこうして手にとって残せるなんて」
父は懐かしむように現像した写真を一枚一枚大切そうに眺めていた。それを見て私も写真が撮りたくなった。
「ねぇねぇお父さんこれ貸して!」
「駄目」
私はあまりにキッパリと言われたので意地が張った。
「なんで駄目なの」
「これはお父さんの大切な物だから」
私はあからさまに残念そうにした。すると父は「でも」と付け加えた。
「でも、もし香帆が中学生になっても今と同じように写真が撮りたいならあげるよ」
「ほんと!」
「ほんと」
私はまだ小さい手足を目一杯伸ばして跳ねた。
「それまでは、お父さんのね」
「わかった」
「じゃあ約束だ」
私は父の小指に小さい手を結んでゆびきりをした。私は嬉しさで心が埋まっていた。

「自己変換病の兆候が見られます」
この病気が私の人生を狂わせた。
自己変換病、世界でも発症例の少ない難病。この病気は徐々に自身を消失し新しい人格へと変換されていくというものだった。つまり、今の私は存在しないものとされ新しい私が生まれる。それまでの期間物忘れが多くなったり、自分が誰なのか解らなくなったりする。そして、大体十年程で最初の自己は消えてしまう。現代の医療では治すことは不可能な不治の病。
一番ショックを受けていたのは母だった。
母は泣きつかれて今までの活力はなくなりご飯もコンビニの物が増えた。父はそんな母のために家事をこなして心身共に疲れはてていた。
私は幼かったために自分がどうなるのかまだ理解できていなかった。
「お母さん、本読んで!」
私が駆け寄ると母は顔を歪ませて今にも泣きそうな声で「愛してる」と言って私を抱き寄せた。
「私も!」
私は背中にまわされた腕を優しく撫でた。

「大変お辛いと思いますが、お子さんをこちらに移すのはどうでしょうか」
定期検診で私と父は医師に田舎の町へ行くことを提案された。薄れ行く自己の進行を少しでも送らせるのは豊かな環境で家族との隔離の生活だった。
「一度妻と話をさせてください」
「解りました」
その時の父の顔を未だに鮮明に思い出す。泣きそうな何か決意をしたようなそんな顔。
病院からの帰りに父は沢山の話を聞かせてくれた。私が産まれてからの事やこれから私としてみたいこと行きたいところ。そのどれもが楽しそうで私は「一緒に行こうね!」と運転する父に言った。
「そうだね」
家についてすぐに父は横になっていた母に今日の診察の結果とあの提案を話していた。数分経たないうちに母の咽び泣く声がリビングにいた私に聞こえた。
「お母さん泣いてるの?」
私が部屋にはいっても母は泣くのを止めずにただ私を抱き寄せた。この時私は自分が何か大変なことになっていることを自覚した。
「香帆聞いて欲しいんだ」
隣にいた父が優しい口調で私に言った。
「香帆はこれからお父さん達とは違うところで生活するんだ。勿論、すぐにまたこの家に戻ってこれる」
「どのくらい?」
「そうだな、一ヶ月くらいかな。その間もお父さんが遊びに来るから」
勿論、私は嫌だったが泣いている両親を見て駄々を捏ねるわけにもいかないと思った。父は頬に流れた涙を気にも止めずに私の目を見ていた。
数日後、私はこの町へやって来た。私を泊めてくれたのはこの町の医師だった。年は五十くらいだろうか女の人で髪はくるくるとしていて、目は切れ長の少し怖い人だった。家族のいない生活は苦痛で日々が過ぎるのがとても遅く感じた。
「どう?慣れた?」
そう聞かれたのはこの町に来てから一週間経った時だった。先生と話したのはここで過ごすなかで最初の挨拶以来の事で私はどうしたら良いか解らずに黙ってしまった。
「まぁ、ゆっくりしていけばいいよ」
先生はすぐに業務に戻ってしまった。
ここにきてからもうすぐで一ヶ月経とうとしていた。先生は相変わらず寡黙な人で話すことは殆ど無かった。私もすることがないので病院の中を歩き回ることをしていた。そのお陰で私はこの病院にいつも来るおじさんやおばさんと仲良くなっていた。
「香帆ちゃんは偉いねぇ」
こうして話しているときは楽しくて、私は早く父や母とまたこうして話をする時を楽しみにしていた。とうとう一ヶ月が経って、私は漸く家族のもとへ帰ることになった。それまで父は一度も私のもとへ来なかったがこの日はちゃんと来てくれた。久々に会った父は一ヶ月前とは違って目の下には隈が出来ていた。
父は私を見て苦しそうな表情を浮かべてこちらに駆け寄った。
父の手が私の肩に痛いくらいに乗る。
「お父さん?」
それまで俯いていた父が私を見た。
「香帆」
力のこもった声に私は怖くなる。
「香帆、もう少しここにいてくれないか」
そんな父の苦しそうな声に私は「うん」と返事するしかなくまた私は、一人になった。
その日は一人で泣いた。
「あんた、それでよかったの」
翌日の朝食の時先生に言われた。それまで私に興味すら無さそうだった先生のその一言に私はまた黙ってしまった。良いわけなんてあるわけがなかった。私は父に拒絶されたのだ。苦しくないわけ無かった。そんな感情を押し殺して私は前を向いている振りをしていたのに、先生はお構いなしに踏み込んでくるのだ。
「お父さんとお母さんと一緒に居たいよ」
静かに溢れたそれは止まることはなくて私は袖を濡らした。先生はそんな私を慰めるでもなくただ私を抱き寄せた。久し振りに感じる人の温もりは私を落ち着かせた。
「先生はどうして私を泊めてくれたの?」
「私もあんたくらいの娘が居たんだよ、でも、離婚したときにあの子は旦那の方に行ってしまった。まぁ、私がこんな性格してるから仕方ないんだろうけどね」
優しそうに先生は写真立てに入っていた写真を眺めていた。
「先生は優しいよ」
「そうかい」
先生は写真から目を逸らすと食器を持って台所へ行ってしまった。私は先生の事が気になった。ここにきてから初めて先生も同じように寂しいのではないのかと思った。
「先生も私と同じで寂しい?」
自分で言っておきながらノンデリカシーだったと思う。それでも先生は優しく微笑んで
「そうかもね」
と私の頭を撫でた。
父が来た日から二日が経った時、先生の机の上には父が持っていたようなカメラが置いてあった。私は好奇心に誘われてそのカメラを構えてみた。いくら覗いても真っ暗にしか見えないので壊してしまったのかと不安になる。
「なにやってんの」
私はカメラに夢中で先生に気がつけなかった。
先生は怪訝そうに私を見ていた。そして、私の手元を見てため息を着いた。
「そのカメラ、あんたの父親が持ってきたんだ」
「お父さんが?」
似ているなとは思っていたが本当にあの時のカメラだとは思ってもいなかったので私は手に持っていたカメラを凝視した。そこで私は大変なことを思い出した。
「このカメラいくら覗いても真っ暗でなにも見えないの」
「見せて」
先生は私の手からカメラを取るとケラケラと笑った。
「あんたこれ、取り忘れてるよ」
先生はカメラのレンズに着いていたケースを外しながら苦しそうにお腹を抱えていた。私は初めて見た先生の笑顔に嬉しくなって同じ様に笑った。
「先生も写真の撮り方解りますか」
「それなりにはできると思うけど」
「じゃあ、このカメラの使い方解りますか」
「そりゃあ解るよ」
私は早速先生にカメラの扱い方を教えてもらうことにした。はじめは持ち方すら知らなかったのだが時間をかけて教えてもらうにつれてなんとなくの使い方は解った。でも、まだまだ完璧には程遠く自分で使うのは難しいので先生に毎日教えてもらうことにした。
先生は私のしようとすることには積極的に協力してくれた。
「ここ押したら撮れるよ」
カシャッと音がなったと同じに目映い光が先生を照らした。
「あんた、それフラッシュつけてる」
先生はカメラを手にとってフラッシュを切った。そしてもう一度私は先生にカメラを向けた。
「撮りますね」
先生は姿勢よく座っていてなんだか味気ない。
「先生ほら、ピースして」
「こう?」
先生はぎこちなく右手をチョキにして顔の横に持ってきた。私はそのタイミングでシャッターを切った。
「どう? 上手く撮れてる?」
先生が写真を現像してきたので私はその写真を見てみた。そこに写っていたのは真面目な顔をしたまま手を顔の横でピースした先生だった。
「ふふ」
思わず笑ってしまう。
「どうした?」
「いや、なんか面白くって」
先生は不思議そうに私を見ていた。
「それにしても、初めてにしては結構綺麗に撮れてるな」
先生は現像した写真をまじまじと見ながらその出来に驚嘆していた。
「そうですか?」
私も先生の横に顔を出して写真を見る。お父さんが撮っていた写真よりも明らかに私の写真は見劣りしていて少し残念だったが私は初めて撮った写真を先生に写真立てをもらいそこに入れた。
「やっぱりやめない?」
先生はこの写真を置いておくのに反対のようだったが私はこれが良かった。
「良いんですこれで」
私がそう言うと先生はそれ以上はなにも言わなかった。それからは毎日のように写真を撮った。と言っても、殆どがこの病院の中のものだった。理由は外に持ち出して壊したり失くしたりするのが怖かったからだ。先生からは人は撮らないように言われた。初めは理由が解らないでいたが私の記憶が消える時に見てしまうと辛くなるからだと最近気がついた。
「見てみて!これ凄く綺麗に撮れたの」
私は金魚の入った水槽を撮った写真を先生に自慢げに見せた。
「あんた、学校行きたい?」
先生は私の写真を見るよりも先にそんなことを聞いてきた。別に特別行きたい理由もないので私はその場で断った。どうせ行ったところで私は馴染めないそんな気がしたから。
私が断ると先生は残念そうにまた書類を見始めた。
「まあ、いかない方が良いかもね」
「なんで?」
「別れが辛くなるから」
それにしてもここ最近先生は忙しそうだ。
「先生って忙しいよね」
「皆こんなもんだよ」
「そうなの?」
私が家族を見ていた時はあまりそんな風には思えず、先生が毎日のように難しい顔をしているので忙しいのかと思っていたが父も母も先生同様毎日何かに追われていたのかと少し心配になった。
「私っていつまでここに居るのかな」
特に考えずにそんなことを口にする。
「早く帰りたい?」
先生は書類から目を離さなかった。
「どうだろ?私は先生も好きだからここにも居たいよ」
私は屈託の無い笑顔を先生に向けた。先生は横目でチラリとこちらを見て鼻をならして書類を置いた。
「家族と居れる時間は長ければ長いほど自分が好きになれるだからあたしはあんたが家族と一緒に居られるように色々してみるよ」
真っ直ぐに向けられた言葉は、私の心の曇りを吹き飛ばすには充分だった。
「ありがとう」
私は心の底から先生にそう伝えた。

私はずっと母からの連絡を待っていた。月に二度先生を経由して父と話すことはあったが、母は無かった。家を出る前の母の涙が頭の中をぐるぐるとして夜中に目が覚めた。天井をなにもせずに見つめていた。突然の寂しさに潰されそうになりながら目を瞑るが眠れそうにない。私は体を起こして机に置いてあったカメラを手に取った。そして、中にあった写真を探る。
「あっ…」
いつかに撮った家族の集合写真があった。私は涙を堪えるのがやっとで次々と思い出の欠片を見ていった。
そうしているうちにいつの間にか寝ていた。
「散歩いく?」
先生がそんな提案をしてきたのは私が先生に買って貰った漢字のワークをしているときだった。
「行く!」
私はそんなことは一瞬でどうでもよくなる。海は私にとって特別な場所だった。父や母と何度も行ったことがある。キラキラと輝く水面に何度も足をつけた時は本当に夏が好きになった。
私は急いで支度を済ませて先生の車に乗った。
「先生仕事は?」
「今日は休み。人は辛い思いしてるときは相手に対しての余裕がなくなるからね。定期的にこうしてドライブするのが私のストレス発散」
窓を開けると風と蝉の声が入ってきて夏を感じた。これから海に行くのだ。私は心躍りながら外の景色を見ていた。何処を見ても山しかなかったが普段外にでない私はそれだけでも良かった。
見たことの無い建物があったりすると思わず落ちてしまいそうな程顔を張り付けて見ていた。
「着いたよ」
ほどなくして先生が車を停めた。隣で運転していた先生は外に出たので、私も後を追うように外に出た。
「こっち来て」
先生が手招きてしている方へ駆けていく。風が薫る。それと同じにほんのり潮の香りも風に乗っていた。私は先生の隣からコンクリートの壁に体を乗り出した。
「海だ」
青く輝く海がそこにあった。私は車に戻ってカメラを持ち出した。
「持ってきてたんだ」
私は自慢げに先生に見せる。短い間とは言え私も大分綺麗に撮れるようになっている。私は海にカメラを向けてピントを合わせる画角なんてその時は気にもしていなかった。ただこの綺麗な海を残していたかった。歯切れの良い音と共にその時間は静止した。
「どんなのが撮れた?」
先生がカメラを覗いて写真を見ると嬉しそうに私の頭を撫でた。
「上手く撮れてる」
「よかったぁ」
私は照れ臭くなって駆け足で車にカメラを戻して先生の手を引っ張った。
「写真はもう良いの?」
「私は先生と海で遊びたい!」
先生ははじめは「私は見てるだけでいい」と言って聞かなかったが、私がどうにか入らないかとごねたところ仕方なしに海に足を入れてくれた。
私は先生にパシャパシャと海水を手にすくいかけた。勿論、着替えもないのでほんの少しだが。
「やったなー」
先生は私に向かって両手に溜めた海水を放った。顔に冷たい海水がかかった。蝉は絶え間なく鳴き続け日が暮れるのを遅くする。気が付けば辺りは赤く染まりかけていた。どのくらい海や砂浜で遊んだだろう。二人で作った砂のお城に貝殻を集めるために歩いた浜。今日だけで今まで外に出ていなかった分全てを取り戻したかのような満足感があった。帰りの車中では私は寝ていた。と言っても寝れたのはほんの数分で思ったよりも海は私達の住んで居るところから近かった。車から降りると手で覆えないほどの大きな欠伸をした。
「ベッドで寝なよ」
先生に連れられ私はベッドに横たわる。するとすぐに睡魔が私を呑み込んだ。
翌朝、私は起きてすぐにお風呂に入った。理由は潮風でで髪が軋んでいたからだ。昨日は汗もかいていたので念入りにシャンプーをしてお風呂を上がった。
「おっ起きてきた」
先生が机の上に湯気の立つ珈琲を置いた。
「丁度朝御飯できてるよ」
先生もついさっき起きたようで髪の毛はボサボサだった。
「先生の髪型お化けみたい」
私が椅子に座ると食卓には目玉焼きやらパンやらが並べられた。
先生も席に着き、私は手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
毎日このメニューだが飽きたことはない。それほど私はこの時間が好きなのだ。
一通り食べ終えて私は椅子から立ち上がろうとした。
「香帆」
そこを先生に引き留められた。
「なに?」
先生は濁りなくハッキリ言った。
「あなたは、ここで暫く暮らすことになった。なんでも母親が病気らしくて…あっ別に命に別状は無いそうなんだが…」
なんとなく分かっていた。私は別に構わなかった。勿論、父や母に会えないのは苦しい。だけど、それ以上に私のせいで父や母を不幸にするのが嫌だった。それに先生と居ると私はいつも通りでいられた。それだけで十分すぎる。
「大丈夫だよ」
作り笑いではなく本心から私は笑顔を先生に向ける。先生もそれを見て安堵したようで口角が少し綻びていた。
「よし、片付けるか」
先生は私の分のお皿も持ってシンクに置いた。

それから私は父と連絡を取りながらこの街で暮らしてきた。あれから何年か経った。私はもう十五歳になろうとしていた。といっても勉強は先生が一日五時間ほど教えてくれて、それ以外の時間は写真を撮る練習しかしていなかったように思う。毎日は楽しくて先生は時折ドライブに連れていってくれた。そのせいかこの町の大体の地図を頭のなかに作れるくらいには覚えていた。
「いってきます!」
私は奥で仕事をしている先生に届くように声を張った。
「どこいくの」
すると奥から先程の私くらいの声量の声が聞こえた。
「海の方まで」
私は靴を履いて外に出た。私の趣味は散歩だ。こちらに来たばかりの時は危ないからと外にはあまりだしてもらえなかったが一年経ってこの町にもなれてきた。先生は過保護なところがあって結構説得には時間がかかったけど。何はともあれ私はこの町を自由に歩けるようになった。でも、ただ歩いているだけではつまらないので毎日写真を撮ることをしている。そのお陰で写真を撮る技術は向上していっているはず…
今日は海まで行くつもりで外に出た。今年の夏は例年以上に暑く散歩をする私の体力をみるみるうちに奪っていった。
私は草臥《くたび》れたバス停のベンチに座って休憩を挟んだ。蝉の声がすぐ隣から聞こえて横を向くと時刻板に蝉が止まっていた。
「うわっ!」
前まで平気だった虫がこの一年で苦手になった。部屋の中で何か足がもぞもぞすると思えば変な足の長い虫が這っていた。その一件があってから私は完全に虫が駄目になった。
私は座ったばかりだったが仕方なく立ち上がりまた歩き出した。すると蝉もジジッと、どこかへ飛んでいった。
昼頃に家を出たので暑さもピークに達しようとしていた。そろそろ海につきそうで心なしか潮の香りがする。早く海に足を浸けたかった私は鞄に入ったカメラに気を遣いながら走った。走っているとすぐに波の音が聞こえてきた。階段を見つけ急いで駆け降りていく。その途中ふと私以外に人がいたような気がした。この場所は人も少なくたまに親戚が帰ってきたお祖父ちゃんやお祖母ちゃんが孫を連れてここに来るくらいだったので気のせいだと思うけど。そんな風に思っていたが気のせいではなかった。
砂浜にいた少年は靴と靴下を脱ぐと海へと駆け出した。水飛沫が少年の周りに花のように舞う。私はその光景を美しいと思った。なんだかその少年が海と一つになっているような。私は急いでカメラを取り出して構えた。
少年はこちらを振り向く素振りがない。私は少年を撮ることをやめなかった。
写真を撮るとさすがに少年も私がいることに気が付いたようでこちらを怪訝そうに見ていた。
「君良いね」
私がそう誉めると彼は暑さで赤みがっかた頬を真っ赤にした。彼は何をいうでもなく私を見つめている。確かに私はこうなったときのことをなにも考えていなかった。ほんの数分前の私を叱責する。私は何とかしようと無理矢理言葉を出した。
「もう一枚撮って良い?」
彼は少し間を置いてから「いいよ」と言った。
この時から彼と私の関係は始まった。
私は数枚撮った後逃げるようにその場から走り去った。だって微妙に気まずかった。知らない男の子の写真を撮っているのがそもそもおかしい。彼には申し訳ないことをしたけどあれ以上あの場にいるのは場が持たなかった。
だけど家を出てから一時間程しか経っていなかったのでもう少し歩いてみることにした。額の汗を吹いて自販機に百六十円をカラカラと入れる。今はポカリが飲みたい。ボタンを押すとガコンとペットボトルが落ちた。キャップを開けて勢いよく喉をならす。
「うっま」
先生がお酒を飲んでいる時に言う台詞を口に出す。額に伝う汗が引いていったような気がする。私は半分ほど飲んだポカリを鞄にしまいそこからまた一時間程歩いて家に帰った。
ベッドに寝転がり早速部屋で、今日撮った写真を見ていく。昼寝をしていた猫や十字路いくらでも見てきた景色だが全く違うように見えた。
それでもやはり今日撮った中で一番好きな写真はあの少年の後ろ姿だった。これだけ何故か鮮明にその時の潮の香りすら思い出せた。
そんな写真を眺めていると睡魔が私の意識をどこかへ連れていってしまった。
目が覚めたときにはもう太陽も昇っていた。時計を焦って確認すると十時だった。私はほっと胸を撫で下ろし、シャワーを浴びた。それから朝食と言うのは少し遅いが食パンを一切れ食べて外に出た。少し外に出てすぐに戻る。暑すぎる。コップに牛乳をついで飲み干す。
先生は居ないようでリビングは閑散としていた。もともと物の少ない部屋ではあったがこうしてみると本当になにもなくて寂しい感じがする。今度先生に本棚を買ってもらおう。なんとなくそんなことを思う。
部屋の掃除や先生に渡されている宿題の幾つかをやり終えたところで私は鞄を片手に外に出た。私は少し期待していた。そして今度は彼と話をしてみたい。昨日と同じ時間に家を出た。私は昨日と同じ位の時間に着くように少し遠回りすることにした。どれも見たことあるような景色だった。猫が居て、木々が揺れて、蝉が鳴くそんなありふれた夏の景色。田舎に居ると夏を身近に感じれるためもう慣れてしまった。そんな景色を横目に私は自分がいつもより早く歩いていることに気が付いていなかった。結局待ちきれなかったのだ。もしかしたら居ないかもしれないがそれでも私は海へ向かったそのせいで昨日よりも大分早く着いてしまった。当然誰も居ないようで波が引いていくのを眺めていた。こうしていても暇なので私は砂浜を歩くことにした。靴と靴下も脱いで持つ。ポチャと海が音を立てた。自分で言うのもなんだが今の私は結構様になっていると思う。波が足を覆う度に砂がサラサラと足の隙間を抜けていくのがわかる。ふと、昨日の彼を思い出す。彼は何かを思っていたのだろうか。それとも私と同じでただの暇潰しだったのだろうか。そんなことを考えながら一人海辺を歩く。彼は制服を着ていた。この辺は中学校が一つに在るだけで高校は無い。更に人も少ないためあまり制服を着た人を見たことがなかった私は少し羨ましさを感じた。パッと見た感じ同い年くらいに思ったが実際は違ったりするのだろうか。
気づけば時刻は昨日と同じ位でそろそろ休憩しようと鞄の中からタオルを取り出して軽く足を拭いて靴下と靴を履いた。
そうして木陰に腰を下ろした。
そのまま海を眺めるているとすぐ隣から
「あっまた来てたんだ」と昨日も聞いた声がした。
横を向くと昨日の彼が私のすぐ隣にいた。
心臓が跳ねる音がしたが、私は冷静に淡々と口を開けた。
「ここ良いよね。海が見えて木陰のおかげで多少は涼しいし」
ここからの景色は本当にいつみても美しいと思う。彼も同じようで「そうだね」と頷いていた。漸く本調子に戻ってきた私は少し調子に乗って彼に景色の綺麗な場所はないかと尋ねてみる。彼は顎に手を当てて考える。この様子を見ると幾つかありそうだ。それを見て私は名案を思い付いた。
「君が案内してよ」
「え?」
「私はこの町のことを知りたい」
彼は瞳孔を開いた。そして間を置いて
「わかった」
と言ってくれた。この町に来てから初めての友達だった。彼の年は私と同じでお互いに砕けた風に話すことになった。私はスマホを持っていなかったのでまた明日この場所にこの時間に集合しようという話をした。私は明日が楽しみで仕方がなかった。

今日も朝から先生は出掛けていて家の中は物寂しかった。でも、いつもならこの部屋のように静かな心臓が脈を打つ速度を上げて耳元で音を立てていた。今日はいつにも増して服を選ぶのに時間がかかってしまった。私は鞄の中に水筒タオルそしてカメラを入れて夏の日差しの中へ踏み出した。一瞬にして汗が額を伝う感覚がわかった。それでも早く彼に会いたい一心で足を動かした。海に近づけば近づく程潮風が吹いて涼しくなる。
「あれ?早いね」
砂浜に降りる前に彼が声をかけた。彼は一昨日と同じで制服を着ていた。
「そういう君も早いね」
「確かに。待ちきれなかったのかな?」
「そうかな?」
私は本心を隠してすぐに今日の本題に入った。
「今日はどこへ連れていってくれるの?」
待ってましたと言わんばかりに彼は自信気に指を指した。そこにはもう取り壊されると言われている廃墟があった。
「あの廃墟に行くの?」
彼は私の問いに静かに頷いた。
「それって大丈夫なの?」
私は先生や家族に心配をかけたくないのでこれまで廃墟や山の中の危ない所へ行ったことがなかったので不安になる。
「やめとく?」
一応変える事も出来るようで彼は心配そうに私に投げ掛けた。
「ううん、行くよ」
これまで良い子にしていた私は反動で彼の提案に乗りたくなってしまった。これまでなかった感覚が楽しかった。
「それじゃ決まりね。中に入る訳じゃなくて雰囲気が良いから行けるとこまで行って写真を撮ろう」
「わかった」
なんだか冒険をしているみたいでワクワクしていた。さっそく決まった行き先へは、すぐに着いた。この廃墟は元々は図書館だったらしい。来る途中にあった立て看板に大宮図書と書いてあった。だいぶ前に廃墟になったのか蔦に覆われたその建物はまるで魔女の住処のようで、独特の雰囲気があった。私がその迫力に魅せられているのを他所に彼はドンドン先へ行っていく。
私はその後を追いかけた。
「結構大きいね」
図書館だけあって建物は大きかった。入り口もシックでとても魔女の家のようだった。当たり前に扉は固く閉ざされていた。
「中には入らないよ。危ないし」
「うん」
少し気になっていたけど確かに危ないしやめておこう。私は扉の前から離れるとすぐにカメラを構えた。
「撮るの?」
「この扉かっこいいし」
私がカメラを覗くと彼は静かになった。木々が揺れて擦れる音だけが耳に囁くように聞こえた。暫くポジションやピントを合わせて正確にシャッターを切る。一枚撮る度に彼は私の撮った写真を見せて欲しいとカメラを覗き込んできた。折角撮ったものだしここまで連れてきてくれたのも彼なので見せない理由もない。彼は私の撮った写真を見て彼は「スゲー」と私の写真の出来映えに感嘆していた。
その後も私が写真を撮る度に彼は目を輝かせていた。悪い気はしなくて寧ろ今までやってきた事を誉められて嬉しかった。
「どうやってこんなに綺麗に撮れてるの?」
五枚ほど撮った時、彼が私に聞いてきた。
「やってみる?」
そう聞くと彼は首を大きく縦に振った。私はカメラを彼に手渡すと彼はとても心配そうに私を見た。
「えっと…どう持ったらいい?」
私とカメラに交互に見る彼が面白くて私は吹き出してしまう。
「えっ?えっ?」
私が笑っている理由が分からない彼は戸惑っていた。
「ごめん、君の動きが面白くて」
「そんなに変だったかな」
彼は顔を赤くして俯いた。私は気を取り直して彼にカメラの持ち方を教える。彼は初めてにも関わらず呑み込みが早くすぐにカメラの構え方は様になった。
「次は撮ってみようか」
「そうしようと思ったんだけど…」
彼はカメラを目前から降ろした。
「腕が…」
確かに私の使っているカメラは他の物と比べて少し重たい。初めは私も持つのに苦労した。それでも、辛そうにしながら彼はやる気はあるようでもう一度カメラを構えた。
一通り構えや撮り方を教えた後、彼はシャッターをきった。その写真は私を撮ったようだった。私はこうしてみると意外と無表情ということに気が付いた。
「どうかな」
彼はそんなことは気にしていないようで写真の出来映えを私に聞いてきた。初めてにしては正確に撮れている写真だと思う。ピントもしっかりしていておかしな所はない。
「私が初めて撮った時より上手い」
そう誉めると彼は嬉しそうに微笑んだ。そうして時間を忘れ写真を撮っているうちに日も暮れ始めになった。
「もうこんな時間か」
彼がスマホを見て時間を確認する。私はその言葉で空を見上げた。綺麗に藍色と朱色が混ざりあっていてすかさずカメラを構えて一枚。
「そろそろ帰ろうか」
「そうしよう」
先生の家は近いためその場で解散することになった。帰り道、もう太陽も照っていないのに蒸し暑い夜道を今日撮った写真を見返しながら歩いていた。帰ったら先生に今日の事を話そう。私は心踊る気分で足早に家まで鼻歌混じりに歩いた。

家に着くと今日は先生が帰っているようで明かりが着いていた。
「ただいま」
玄関の扉を開いてすぐ私は自分の脱いだ靴なんて気にかけず先生のいるだろうリビングへ走った。昨日の事と今日あったことを今すぐにでも話したかった。リビングへのスライド式のドアを開いて私は固まった。理由は先生の表情がいつになく険しかったから。これから良くない話がある。直感でそう感じた。
「香帆、座って」
表情とは裏腹に声色は優しいものであった。それが余計に不気味さを掻き立てていた。
私は先生と対になるように椅子に座る。
「あのね、あなたのお母さんの話なんだけど」
先生は私の顔色を窺うようにして話す。
「重度の鬱病でね。治療を受けているのだけれど、ここ最近容態が良くなってきていてこのまま行けば後、二年位で治る見込みらしいの」
いつの日か父と電話で話したときに母が鬱病だということは聞いていた。昔からすぐに落ち込みやすい性格だったため私の自己変性病の事があって母のキャパを越えたのだろうと話していた。
「えっと…つまりどういう…」
「あなたが、高校三年生になる直前には多分帰れるようになる」
二年後と言うと長いように感じるが、もう二度と帰れないことを覚悟していた私は心底嬉しかった。
「あなたのお母さんもあなたの病気に対して理解と気持ちの整理が着き始めたんでしょうね」
「私あんまり自分が病気だって思うような事が無いんだけど」
「あなたが診断されてからまだ三年も経っていないからね。自己変性病は大体八年から十年程の年月をかけて自己が変わっていくからまだそんなに自分に変化はないのよ」
それだけ言うと先生は席を立ち上がって夕食の準備をし始めた。私は帰り道で考えていた先生に話したかったことは全て忘れていた。それよりも私は私の気持ちが分からなくなり始めた。
勿論、家族と一緒に居れるならそれを望むだろう。でも、私が家族の元へ帰った時先生はまた一人になるのではないだろうか。私は先生と居るのも好きだ。私の中で揺らぐ想いが段々鬱陶しく感じ、必死に考えないようにテレビを見た。
『今週は冬のスイーツ特集!!』
こんな田舎に在るわけのないお洒落なスイーツがリポーターの美味しそうな食レポによって情報が補完される。私は夕飯ができたら呼んでと言って自室のベッドに死んだように身を任せた。

翌日、私は昨日の事で頭を抱えながら後二年という歳月を先生とどう過ごすのかを考えていた。結局、これからかもそれまでと変わらずに過ごすということしか私には考えられず自分の想像力の無さに落ち込みながら海へ向かった。
昨日、彼と別れた後約束などはしていないが何となく海に行けばまた彼が居るような気がして前のめりになりながら砂浜への階段を下りる。
私の考えの通り彼はいた。
「やっぱりいた」
「僕も何となくこの場所に行けばまた会えるような気がしてた」
昨日よりも遅い時間に着いていたので彼はさっそく写真を撮りに行こうと言って私が下りてきた階段を上った。私が今日はどこに行くのかと聞くと彼はまた廃墟にと答えた。
「同じところ?」
「いいや、今日行くところは多分昨日よりもいい写真が撮れるよ」
彼は学校帰りなのか背中にはリュックを背負っていた。
「それ、重たくないの?」
「ん? あぁ、殆ど置いたり持って帰ったりしてるから中身はほぼ無いよ」
彼に促されリュックを後ろから押してみたら見た目からは想像出来ない程ベコッとへこんだ。
「ほらね」
彼は自慢気に微笑んだ。
かろうじて道のある山道を進んでいくと今度は道が途中で消えていた。ここからどうするのだろうと思っていると彼は草の生い茂った場所をズンズン進んでいく。
「これ行くの」
「うん、夏だからこんなに草が茂ってるけど秋とか冬になると普通の道だから大丈夫」
私が聞きたかったのはそんなことではないがこれも冒険のようで楽しかった私は彼の後を付いていった。草に隠れてあまり気が付かなかったがこの道は坂になっていて夏場の太陽と草に覆われて風もないため物凄く暑かった。私は鞄に入れていた水筒の中身をこまめに取りながら彼に付いて行く。途中途中彼は後ろに居る私を見ては休憩するかと聞いてくれたがこんないつ虫が出てくるかも分からないところで休憩できるわけもないので断った。水筒の中身が半分をきった頃先を行く彼が着いたと言っていたのを聞いて私も草を掻き分ける。すると、先程とは変わって開けた場所に出た。高い位置に入るから風が強く感じる。汗が引いていくのがわかった。視線を前にやると塔のようなものがあるのが見えた。これもまた昨日行った廃墟の図書館のように蔦に覆われているがこちらの方が新しいのかそんなに廃れているという雰囲気はない。私はカメラを構えたが彼が先に進むので全体像を撮るのは帰りにしようと彼の元へ走った。
「ねぇ、これ上るの?」
昨日は入るのが危ないと廃墟には入れなかったので駄目元で聞いてみる。
「そのつもり」
「え!」
意外な返事が返ってきたので驚きのあまり大きい声が出てしまう。
「昨日の廃墟は駄目だったのにどうして」
「昨日のは古すぎたから、後普通に入っちゃ駄目って言われてたし、あの展望台はそもそも観光スポットだから」
観光スポットと言われ私はもう一度来た道を見返す。おおよそ人が来るかと言われたら、そうとは思えない。
「人は来そうにないけどね」
私が苦笑いでそう言うと彼も「ほんとね」と言った。
ただの塔のように見えたが彼曰く展望台らしい。真下まで来るとその大きさは想像以上で今からこれを上るのかとため息が出そうになる。
中は螺旋状の階段があるだけの質素な作りになっていて上を見るととても壮観だった。
上り始めは暗い印象を受けたが、所々に吹き抜けの窓のように穴が空いており上に行くに連れ印象は百八十度変わった。グルグルと回りながら上って遂に最上階に着いた。
「きもちいいね」
着いた喜びと暑さからの解放で背を伸ばす。次に溢れたのは景色の良さだった。海が一望できるその場所はなぜ今まで知られていないのだろうと不思議に思う。
「元々はここ観光用だったんだけど、あまりにも人が来ないから放置されてるんだ」
彼が寂しそうに言った。確かにこの町は人が少ない。色々試行錯誤しているようだがそれが結果として成功していないのも人口の少なさに起因している。
「あっ」
彼が慌てた様子で声をあげた。
「どうしたの?」
どうやら学校に体操服を忘れたようでどうしても取りに戻らないと行けないらしい。別に写真は一人でも撮れるので私は彼を送り出した。もう一度、あの草むらを通るとなると辛いだろうが取りに戻らない訳にもいかないらしい。
私は彼がこの場を後にした後も写真を撮った。でも、どうしても納得のいくようなものは撮ることが出来ず彼が来るまで待つことにした。が、何時間待っても彼は戻ることはなかった。

翌日、いつものように海へ向かった。何となく分かっていたが彼は居なかった。よく考えれば私は彼に名前を教えたこともなければ、彼の名前も私は知らない。たった二日一緒に居ただけなのにどうしても、もう一度彼に会いたかった。
私は走った。知らない道でもお構いなしに探した。どのくらい走っただろうか。体力には自信のあった私だがもう限界だった。結局彼を見つけることはできないまま私は帰路に着いた。それから私は毎日海へ向かった。いつかまた彼に会えると信じて。毎日、毎日同じ時間に着いては落胆し帰るこれを繰り返した。私の年齢が一つ上がるときにはもう諦めが着いていた。もう会えない会うことは叶わないのだと。もう、忘れてしまおうと決心したのだ。その日もほぼ日課となった海へ向かっていた。
「それでさ、今度の話なんだけど」
どこかの制服を着た。青年が友達と話ながら歩いているのを見た。その声が彼と重なった。いや、そんな気がした。確証はない。ただ、私には懐かしく思えたその声が胸の奥で響いていた。誰かと楽しそうに笑う君を見て胸の辺りが痛くなった。私は話しかけることも出来ないで彼が通りすぎていくのを見ていることしかできなかった。虚しさだけが私と一緒に残った。
家に帰り、私は先生にこの辺りの学校の制服を聞いてみた。その結果特徴が幾つか一致する高校があった。
「先生、私この高校いきたい」
私の突然の言葉に動揺を露にして先生は食べかけのハンバーグを置いた。
「どうしたの?急に」
「前に聞かれた時は馴染めないかもって思ってたからあんなことを言ったけど、本当なら私も学校に行ったりして友達作ったりしててもおかしくないでしょ? そんな日々に憧れてたから先生がいいなら私も学校行ってみたい」
先生は考えた後、「確かにそうね。でも、後一年しかここには居られないのにいいの?」と心配そうに聞く
「いいの、いつか忘れてしまうなら私は今を生きたい」
そんなありきたりな嘘がスッと出てくることが自分でも性格が悪いと思う。
「それで、どこの高校?」
私は彼と同じ制服のところを指差した。

そうして、先生が学校側に私の病気のことそして私の願いを説明し私が二年生の残りの間この学校にいることへの許可が下りた。その際、テストのようなものを受けたがこれまで先生に渡されていたプリントよりもだいぶ簡単だったため三十分も早く終わった。結果はかなり良いもので先生には感謝しかない。
私は久々の学校に高揚していた。クラスは二-二。彼と同じクラスになれば話しかけやすい。私は祈りながら扉を開いた。
教室を隅から隅まで眺めると窓側の席の二列目後ろから二番目に彼は居た。私は先生に言われた通りあまりこの学校の人と仲良くなりすぎないように少し無愛想に挨拶を済ませる。そこからクラスメイトの自己紹介がありそこで初めて彼が佐藤 悠真という名前だと知った。ふと、彼と目があった。すぐに逸らされてしまったけど。私は彼から見て左後ろの席になった。人の少ないこの辺の地域の中で唯一の四クラスもあるこの学校は近年人口減少により定員割れしているらしく運良く私は転校という形で入れた。
彼と席も近くなり彼が私に気づいているのかと期待したが、たった二日一緒に居ただけの私を彼が覚えている様子はなかった。結局その日は私の回りに人だかりができ彼と話すことはなかった。その日は、悔しさと嬉しさが混じった変な気分のまま帰路に着く。学校に久々に行ったせいか、体が重りをもっているかのようだった。それでも日課だけはやめたくなくて家に荷物を置くと制服のままカメラだけ持って外へ出た。外は寒く本格的に冬だなと感じる。あまりにも寒いので疲れていたが走った。冬は日が暮れるのが早く急いで行きたかったのもあった。制服を着た少女が鞄を持って全力で走っているその光景は端から見ればおかしな状況だろう。が、この町にはそもそも人が少ない。人目も気にせず走った。
「はぁ…はぁ…」
海に着く頃には息をあげていた。時刻は五時。家を出てからそんなに時間は経っていなかった。私は深く息を吸って吐いてを繰り返し息を整える。そうして、落ち着いてきた時、目の前に広がる海を見た。運動をした後見ると心なしか色彩が強く見える。なんだか、カメラ越しにこの海を見ているようだった。私は鞄に忍ばせていたカメラで一枚シャッターを切る。その時、後ろから砂が擦れる音がした。階段の上の辺りから私が入った学校の男子の制服が見えている。何で隠れているのか分からないが取り敢えずソッと顔を見る。そこにいたのは、私が待ち続けた人だった。私は彼に会いたくて毎日ここに通った。もう彼は来ないのかもと諦めかけていた。それでも、何度も何度も待っていた。彼が私の事を覚えていないのなら、それでも良かった。私は彼の事も先生の事もこの町で関わった人も覚えていられないのだから。
「それで隠れてるつもり?」
でももし、出来ることなら私は忘れたくない。そう思ってしまった、そう願ってしまった。残酷にも時間は止まることはない。


きっと、これは私の我儘だ。